自虐が人生の癖になっている人に提案したい、「ストーリーにならない生き方」
「私、モテないし、」と彼女はいう。「大学の時もぼっちだったし、本当に男受け悪いんですよー」。眉毛を下げてちょっと困ったような微笑み、髪を指に巻き付けながら上目使いにギラりチラリとこちらを見つめる。
彼女の自虐はいつものパターンだった。見た目はとってもかわいらしく、服装も流行に乗ったオシャレなものだ。爪はいつも薄ピンクに染められ、角にはちょこんとラインストーンまであしらわれている。手先まで手抜かりなし。でも、口先にのぼる言葉の端には、いつもいかに自分がモテないかイケていないかの話だった。
彼女は、私の前職である広告会社の同期だった。ここでは仮にAと呼ぼう。同期のみんなは、最初はそんなAに対して「そんなことないよ」や「モテそうじゃん」というフォローをしていた。しかし、どんな返しをしてもAは繰り返し、話の所々で自分はまったくモテないという話をしていた。いや、よく話を聞けば男性に言い寄られることもある、ということをほのめかすのだが、「モテない」「(ひとり)ぼっち」であるという前提条件が常であった。
Aの口ぶりに乗せられたのか、はたまた彼女が抱いている「ある感情」を見抜いてなのか、やがて同期はAを「モテないキャラ」として扱い始めた。
「お前には聞いてねーよ」
「お前みたいなやつにはわかんないと思うけどさ」
そんな言葉を言うやつもいた。彼女を当て馬として会話のネタに使ったり、見下げたような言動する人が徐々に増えてくる。そんな扱いではあるが、「ネタキャラ」として会話の一員にはなれる。時はイジられキャラとして話題の中心にもなった。Aは同期の中でそういったポジションでいることに対して、半ば嬉しそうに「そんなことないでしょー」と応じ、その扱いを受け入れていた。
私は、Aはそういう処世術の中でやって行くことを決心しているのだと思っていた。そういうポジションを意図的に取ることもあるだろうし、いじられキャラにはそれなりにメリットがある。話題にされやすくなることで、孤立することは避けられるだろう。それは広告業界にくるようなアクの強い人間の中でのポジショニングとして、ありかもしれないとさえ思っていた。
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ある時のこと、会社から離れて同期で集まって研修をする機会があった。日中は課題をこなしプレゼンをし、夜には宴会やら出し物をして親睦を深める。どういう話の流れでそうなったのか分からないが、いつしかこの中で誰ならイケるかという話題になった。気の置けない間柄の同期は「私、Cならイケるよー」「えーじゃあ、Bがいいかな」とじゃれあっている。半分本気、半分冗談みたいな会話である。ふざけ合いのキャッチボールが延々と続く。「よし、じゃあ二人で住むための家買おうよ。吉祥寺がいいな」と空想が展開されていく。この調子でずっと続くのかと思っていたが、ある時ひとりが切り込んできた。
「でも俺、Aは絶対に嫌だな」
周囲に軽くふんわり漂っていた空気が、ストンと地に落ちてくる。空を舞っていた楽しげな空論は終わり、食い散らかされた残飯があるこの円卓に戻ってきた。みんなの焦点は一気にAに集まる。
「え、やだ、そんな、ひどーい」Aはいつも通りの「キャラクター」としての役割を引き受けようとした。楽しいじゃれ合いの続きを作ろうと、目が無くなるまで笑って隣の女の子にしなだれかかる。しかし、空気を止めた彼はじゃれ合いにはしなかった。
「いや、マジでさ。俺お前みたいなのは嫌だわ」周囲の空気が止まった。Aは笑い話にできなくなり始めたのを悟り始めたが、なんとか食い止めようとする。「やだー、私だってあんたなんかやだよお」彼は方向転換しなかった。「いや、マジでさ。お前みたいなやつとは無理だわ」。
宴会には引率の人事担当者もいるが、同期の人数は多く、宴会は島になってしまっていてこちらの話には気づいていない。何よりも酒が入っている。いつもならやんわり止めに入るようなメンバーは、ここにはいなかった。周囲は事態の成り行きにどう口を出したらいいのか、迷って手をこまねいている。まだ冗談の範囲内で済むかもしれないとでも思っていたのかもしれない。または、こうしたやりとりを真面目に諌めることは、どこか無粋だと考えていたのだろう。そして彼は周囲が遠慮しているのを知りつつ、手を緩めない。
彼が加えた打撃は、冗談として威力を軽減されることもなく、Aに突き刺さった。やがてAは無表情になりサッと立ち上がり、走るように宴会場から消えた。ようやく事態の重さに気づいた同期たちが空気を取り持とうとするが、あまりにも遅かった。気周りの効く女子が、すぐさまフォローしにAの後を追う。中心人物の去った宴は、台風の去った後のようだった。みんな、何かを取り繕うために様々なことを口にする。「まあ、好みは色々だよね」「あはは、私も男だったら、ちょっといやかもね」。しかし宴会には取り返しのつかない、わだかまりが残った。
そこには何があったのか
それらの一連の出来事は、2つのある確信を私に残した。一つには、Aは本当は自虐をしたくなかったのだろうということだ。実は彼女は自分に自信を持っているということは、時折彼女が口にする、男性に言い寄られているエピソードに現れていた。しかし、それをストレートに表してはいけない、と彼女は思っていたのかもしれない。それなりにモテることを口にして、見た目も華やかで本当にモテるいわゆる「キラキラ女子」と並ぶのは得策ではない。華やかな異性経歴がある人と比べられるには、キツイものがある。
または、そうやって自分を下げて自虐をしておくことで、自分を守っていたのかもしれない。自分でモテない、と前置きして「キャラクター」にしておけば、本当の自分の傷や劣等感や負い目には触れられずに済む。ある種の防衛として自虐をしていたのではないだろうか。だからこそ、本当にそのように扱われることには、我慢がならないのだ。
もう一つの確信は、「本当の自分はこんなものじゃないはずだ」「本当は私はモテるのに」という彼女の自虐の裏側にある「卑屈」と「驕り」が、周囲には伝わっていたことである。自分の自虐に耐えられなくなり、卑屈になる。そしてそれをだれかに否定してほしい。
自虐は実は高度なテクニックを要するものだ。すなわち、本人が本当の意味でその弱みを受け入れ、理解し、そして自分を諦めていなくてはいけない。それにはある程度の年齢と経験と知識と、自分を見つめる力と突き放す冷徹さがいる。そういったことの積み重ねの上にある人間の自虐は聞いていて共感したり、慰められたり、時に強くなれる。時には凄みすら感じる。
しかし、多くの人間の自虐はそこにはまだ達していない。防御としての自虐は、自分で表明しておきながら否定してほしい、というそのある種の心理的物乞いを生み出すことがある。
その自虐の裏にある求めに、みんなどこかうんざりしていたのだ。それがAを糾弾した彼の攻撃心を生み出したのだろうし、危険な空気になりつつあるとわかっていたのに、早急にブレーキをかけなかった、私とその周囲の人間の怠惰を作り出していたのだろう。私は自分の中にあった、Aに対する若干の苛立ちに気付かされた。そしてそれは私にとって少なからぬ衝撃を残した。自分の隠れた敵意というものを知ったのだ。
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成功者としてのストーリー
彼女と同期、そして私に起きた出来事は、決して特別なことではない。モテるかモテないかというテーマを抜きにしても、自虐をする人間は多くいる。問題は、なぜ自虐をする人間が世の中に出てくるのか、ということだ。
個人として考えた結果、ある一つの答えにたどり着いた。きっと自分を含めた多くの人たちは、成功者のストーリーの型にはまれないからだ。
ストーリーの型、というと大げさに聞こえるだろうか。しかし、世の中にはそうした型がある。こういう話を知っているだろうか。この世の中の物を調べたところ、6つの型に集約されることが発見されたのだ。
内容は記事を見てもらえば分かるが、物語の中で幸福と不幸の間の中で上昇と下降を繰り返す、そのいくつかのパターナリズムによって物語の型は分けられるという話である。
あなたの知っている創作も、このうちのどれかには当てはまるだろう。しかし、もう少し考えてみると、創作ではないものもこの型に沿って作られていることがとても多いのである。経営者や当事者インタビューもこうした方向に振られていることが多い。「スタートアップを立ち上げて挫折の日々、でも数度目の新規事業で大成功した。」「病気になって、あの時はとても辛くて苦しい日々でした。でも、今はそんな自分のことを受け入れて毎日を明るく過ごしています。」なんて、どこかの媒体で見たことのある表現だ。
幸福→不幸のパターンでまとめられている話も時折見られる。分かりやすい悲劇は衆目を集めるし、学びとして話のネタになりやすい。
なぜこういった型に物語が寄せられるかというと、やはり話の盛り上がりとしてサクセスストーリーと悲劇は圧倒的に映えるのである。書く方、まとめる方からしてもこういう話に転んでくれた方が、内心、話にまとめやすいと喜んでしまう。
サクセスストーリー、つまり成功者としてのストーリーは人の人生に最も影響を与えている型ではないだろうか。誰だって、幸福になりたい。でも人生の中にはままならないことがあって、誰しも幸福の側にいることができない。早く苦境を抜け出して、幸福の方向に至る成功者としてのストーリーを語りたいのに。「ああいう苦痛の時期も、自分にとって学びの時だったと、今なら思います」と言えるようになりたい。
自分は成功者のストーリーに乗っかれないかもしれないと思った時に、人は「悲劇」のストーリーの方向に行ってしまうのではないだろうか。「本質的」に悲劇のストーリーの中にいるのではなく、「認識」としての悲劇に。本来、そこまで不幸な状況ではないのに自虐してしまう。自分の目の前で、誰かの成功者としてのストーリーが展開されているなら、特に。
本当に「幸福」か「不幸」しかないのか?
ところで、本当にこの世の中には「幸福」と「不幸」の2択しかないのだろうか。そして、そのどちらかに属しているかの組み合わせによるパターナリズムに分けられるのだろうか。確かに、話としての作りとして美しいのはそういった型にハマったものだろう。しかし、人の人生という枠で考えた時、「どちらでもない」状態の方がはるかに多いのではないだろうか。
美しい勝利でも、醜い負けでもない、それらの間を行ったりきたりしているに過ぎない。一見、「サクセスストーリー」と「悲劇」に見えるものだって、本人が死んでみるまではどういうストーリーであったのかわからないものだ。
思うに、私たちが分かりやすい話の型を自分のうちに求めてしまうのは、それが一般的に流布しているからだと思っている。型として映えるがゆえに、物語としてすぐに流通する。しかし、先ほど述べたとおり人生の大半はどちらでもないような状態にいることがほとんどだ。
もちろん、自分の人生は不幸だらけだという人もいるだろう。確かにそう行った人生の不文律の時期もある。しかし、全てが不幸であったかどうかを振り返ってみると、そうでもない時もあったはずだ。ただ、自分が人生の「悲劇」の中にいる認識であるがゆえに、過小評価しているものがあるはずである。
このnoteの結論は決して、悲劇ぶるなといった押し付けや認識を変えろという暴力的な話ではない。ただ、その自分でしている自虐がゆえに苦しんでる何かや失っている何かがあるのであれば、別のストーリーの可能性に目を向けて、語ってみるのもありだ、という提案である。
流布している分かりやすい物語を追うのではなく、そのどちらでもない、どっちつかずの自分というものを、人々にはもっと語って欲しい。そうすれば、「成功」か「悲劇」しか選べないと思っている人々の無意識というものも、どこか変わるのではないかと思う。
成功譚は美しい。悲劇というものもそこまで行ってしまえば気楽だ。でも世の中の大半の人間はそのどちらにも寄らなかったり、行ったり来たりしているものだ。悲劇にもならない程度のところで苦しんだり耐えたりしている。その人間としての、ある種の「美しくない」状態こそが、最も語るべきものであり、評価されるべきものだと思う。それが人間というものではないか。現実は凡庸で退屈だ。そういうものを我々は生き抜いている。
かくいう私もどちらかというと自虐をしてしまうタイプの人間だ。つい、「自分なんて」と言ってしまいたくなる。しかし、その自虐をすることによって、人生の複雑さと多様さを単純化しようとしていることに、ハッと気付かされる。
日々、仕事の中で美しい物語を探しているし、自分も生み出したいと思う。しかし、そうではないものも書き記しておきたいと思うし、だれかにも語って欲しいと思う。
それは「幸福」でも「不幸」でもない人生の大海の中をたった一人で泳ぐ、私とあなたのためにだ。
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実はチキン野郎でもあるので、記事が伸びていないと、地味に沈んでいます。まあ、やりますけどね2019年も。やなやつですね。
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