【創作漫画】創作は、自閉的で自己完結する世界なんだろうか
みなさん、こんにちは。
今日は、創作にまつわる「自己」と「他者」について漫画にしようと思います。
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さて、ものを作るって、どういう作業なのでしょうか。
チームで何かを作ることもありますし、創作の過程で誰かと関わることはありますが、どこかで個人として作業する過程が発生するものでしょう。
クリエイティブなものは、多くの場合、孤独な作業がともないます。
特に、小説・漫画・エッセイ・詩・絵画・シナリオ、と言ったものは自分と向き合って作る作業時間が、必ずあります。
それは、作家の世界を深堀する時間でもあり、徹底的に自分との闘いであります。その際に、作家が一人であるならば、作品はその作家ひとりの視点から、生み出される形になります。
そういった作業は、はたから見ていたら、とても自閉的で自己追及的な作業に見えるのでしょうか。確かに、登場人物は、もちろん作家の自己投影や自己世界を反映しています。それを逃れられる作品も作家もいないでしょう。
しかし、完全に他人の存在しない世界なのでしょうか?
そして、作品とは本質的な意味で、個人の中で完結しうるものだろうか。
今回はそれを漫画にしました。
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おそらく、自分は自己追及して自己世界にどっぷりはまって何かを作るタイプなので、今まであまり他人というものを意識してこなかったから、このように感じるのかもしれません。
社会派小説は好んで読んでいたものの、自分が何かを作る時にはそこまで意識していませんでしたし、社会や第三者を書くにあたって、しっかりとした調査をしてきたわけではありませんでした。
または、孤立した話が多かったからかもしれません。
しかし、自分ではじめて完結させようと思って、実際に絵に起こして書いてみた時に、自分の限界を感じました。自分で考えた設定やキャラクターなのに、自分でコントロールできないなんておかしいでしょうか?
しかし実際、自分で生み出したキャラクターの苦悩に、自分の知識や自己解決法では、とても対処できない、そうあの時思いました。
救済をしたいのに、解決方法が自分の中にはない。
そのときに、誰か別の子どものキャラクターを立てることにしたのです。そういったことは、あまり今までの自分のキャラではないのですが、そうするべきだと思いました。
そのキャラクターは、自己投影やどこかから引用してきた誰かの影でもない、突如として現れた他人のように感じました。どこからきたのか分からないけれど、たしかにここにいて、誰かに必要とされている。
明確な記憶としては覚えていないけれど、ずっと前に誰かが自分に与えてくれた存在そのものが、自分にそういったものを書かせてくれたのかもしれません。もっとも自分と相反するものを、自己追及して見つけることができた。
それは、自分が他者とともに生きてきたのだと、気づかせてくれた起点でもあります。結果的に、この子どものキャラクターによって、孤独な主人公を救うことができたと思います。
この経験から、二者関係の重要性、ひいては他人が存在する意味が、自分の創作の中で重要になってきました。
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よしよし、二者関係は大事だぞ、と今度は2人の登場人物を巡る話をまた書き始めたのですが、また問題が出てきました。それは、2人とも傷ついた存在であるということと、前回とは違って町の中で暮らしていることです。
どういうことかというと、誰かの傷つきは誰かが許容して受け止めることができるものだと思いますが、二者関係で終わってはいけない、ということです。
私はあなたを受け入れました、私はあなたの存在を認めます、と言うことはできますが、それはとても閉ざされた世界です。
また、だれかを許容し、保証する「自分」というものを誰かに保証し、信頼してもらわなくてはいけません。それを「あなた」と「私」の間だけで完結させることは、とても危ういものだと思います。また、2人が町の中で、つまり世間の中で生きている以上、周囲との関係というものが生じます。
さらに前作は、町から離れて人のいない谷であったから、二者関係で済んだのですが、今回はそうではありません。
ここで自分の中で、2人を許容してくれる誰か、を書かなくてはいけないと気づきました。もちろん、お話なので2人の登場人物以外にも、多くの人間が出てくるのですが、あくまで「世間」「町の人」「その他大勢の皆さん」の枠を出ていないものだったのです。
その誰か、を書けたときに、ようやく自分の中で社会や世間を構成するうえでの第三者の必要性に気が付いたのだと思います。
そのひとが、そのひととして生まれ、そのひとであり、時に傷つき、その中でもがいていること、これを受け止めて見守れる誰か。必ず世界にはこれが必要である。
これが、二者関係を超える「三枚目の手持ちのカード」だと、自分は感じました。
皮肉なことに、自分は自分を徹底的に深堀することで、「あなた」としての他人と、「第三者」としての他人というものに、回帰したのだと思います。もしかすると、他の人はこれを齢5才くらいで感得するのかもしれませんが、自分はずいぶんと時間がかかって悟りました。
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さて、感得したところで何をすればいいのか?
そう、このnoteは、「あなた」にとっての他人であり、「第三者」であるべく書いています。私の自己世界でありながら、あなたにとって開かれた場所へ。
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