見出し画像

銅鐸の話

銅鐸ってかっこいいよな、と子どもの頃から思っていた。安定感の高い形。どっしりとして堂々として、安定感がある。それでいて繊細な模様がある。上下の構造があって、絵に秩序がある。よく分からないけど、この世界の始まりに関する寓話が描いてありそうだ。そのうえ、中が空虚なのもいい。こんなに重厚感があるのに、質料がない。重い石板が宙に浮いているかのような、非現実感がある。

銅鐸は、日本では豊作を祈るなどするための祭器として使われていたが、もともとは、中国で発明され、鐘として利用されていたらしい。それが、朝鮮を経由して日本に伝えられた。しかし、日本では独自の進化を遂げ、銅鐸の表面に紋様が描かれるようになった。鐘と言っても、樹に吊るして内側に糸を垂らし、風鈴のように叩いて音を出していたらしい。ただ、祭器として利用されてく過程で、大きく巨大化していき、鐘としての機能はほとんど失って、ただ置いて眺めるだけのものになっていった。

鐘なのに音を出せなくなるなら本末転倒ではないか、という気もするが、もちろんそんなことはない。あらゆる道具はその目的に対する手段である。そしてその目的は、他の目的と連関しながら、複雑なネットワークを織りなしている。その総体が世界観として立ち現れる。当時の中国のネットワークと、日本のそれは、当然のことながら違っていた。だから、そのなかで銅鐸が演じなければならなかった役割も、違ったものだった。銅鐸は、日本に固有の文脈へと適応され、ローカライズされることで、音響装置としてではなく、宗教的・政治的な道具として位置づけられていったのだ。そして、その音響装置としての機能を犠牲にしても、宗教的・政治的な象徴性を強化することが、合理的だったのだろう。

それはそうと、そんな銅鐸は、当初は地域によって多様な種類が存在していたが、時間が経過するごとに、一つの種類へと統一されていく。弥生時代には、近畿式銅鐸に統一され、銅鐸の多様性は失われていく。これは、一説によると、一つの政治的な共同体が、具体的には倭国が地域を画一的に統治したことを反映しているらしい。

そんな銅鐸、使い終わるとなんと埋葬していたらしい。道具を埋葬するって、どんな感覚なんだろう。しかも青銅の人工物を。木製のものなら、まだ、「大地に還す」感がある。しかし、青銅製で、一度溶かしてから成形された、もっとも大地からかけ離れたものを、わざわざ埋葬する。いや、きっと僕が考えているほど、当時の「大地」は狭量なものではなかったのだろう。それもまた世界観の違いである。しかし、大地が青銅を受け入れてくれなかったおかげで、そのように埋葬された銅鐸が多数出土されている。埋葬した人達はきっと起こってるだろうな。

埋葬の仕方は、弥生後期になると、一つの方法に統一されていた。しかもそれが100年以上にわたって維持されていたらしい。他方で、銅鐸を捨てる際、わざわざ破壊した痕跡を残すものも出土している。埋葬する、という点で、道具をこの上なく丁寧に扱っているのに、それをわざわざ破壊する、という点では、なんだか道具に対して残酷でもある。

銅鐸が出土する範囲は、弥生後期になると広範囲に拡大するようになるが、その背景には、それまで畿内で中央政府が管理していた鋳造技術や技術者を、地方に拡散していったかららしい。なぜなら、銅鐸を製造する技術は、同時に剣や矛などの武器類のためにも応用できるからだ。銅鐸の画一化と普及は、同時に軍事力の向上と軌を同じくしていた。そういうことは、現代と同じで、面白くない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?