加害と被害の流動性を超えて
『タコピーの原罪』が第16話で完結しました。圧巻のラストシーンでした。
この作品では、一貫して、加害と被害の相対性、流動性が問題になってきました。いま加害者である人が、別の視点では、被害者でもありえる。そして同じように、いま被害者である人が、別の視点では加害者でもある。そのとき、私たちは暴力をどう解決したらよいのか、加害者と被害者の分断をどう乗り越えるべきなのか。それがこの作品が訴え続けた問いだと思います。
私たちは一つの現実しか生きられません。そしてその現実には加害と被害の歴史がすでに刻み込まれています。その歴史を変えることはできないし、その歴史に帰属する前に戻ることもできません。被害者の立場に置かれたら、被害者としていかに加害者と向き合うか、という形でしか、加害者を理解することができないのです。
しかし、タコピーはハッピー星人であるがゆえに、こうした限界を超えることができます。タコピーは、まりなちゃんの現実を生きるとともに、しずかちゃんの現実を生きました。そして、まりなちゃんの現実における加害と被害の構造が、しずかちゃんにおけるそれとは異なることを、知ることができたのです。
しずかちゃんの生きる現実では、しずかちゃんこそが被害者であり、この世界で一人ぼっちです。一方、まりなちゃんの現実においては、まりなちゃんもやはり被害者であり、一人ぼっちです。しかし、一方の現実に焦点を合わせると、他方の現実は見えなくなってしまいます。しずかちゃんの現実に従って世界を眺めているかぎり、まりなちゃんが被害者であり、一人ぼっちであるということは、覆い隠されてしまうのです。そしてそれはしずかちゃんの責任でもありません。それが人間の限界なのでしょう。
タコピーが直面したのは、被害者を救済すると、その被害者がやがて加害者になりえてしまうということ、そして加害者と化すことが加害者自身を破滅させる、ということです。まりなちゃんを殺すことでしずかちゃんを救済したタコピーは、結局、しずかちゃんを破滅させてしまいました。目の前にいる被害者を守るために、目の前にいる加害者を殺すことは、救済ではない。なぜなら、被害と加害は流動的であるからです。
ではどうしたらよいのか。タコピーが選択したのは、加害者と被害者を和解させる、ということでした。彼がそれをなしえたのは、彼が加害者と被害者が流動的であることに気づき、その暴力に巻き込まれているすべての子供たちが等しく一人ぼっちであることを知ったからです。
もちろん、その和解はあまりにも理想的です。理想的すぎます。現実にはそんなことは起こりえないように思えます。また、タコピー的論理に従って加害者の責任を相対化することは、今日の時流に従えば、かなり危うい発想でもあるでしょう。まりなちゃんがしずかちゃんをいじめていたことは、どのような理由であれ許されないことであり、和解するために二人に課せられる心理的負担は決して同じではないからです。
しかし、一方で、加害と被害の流動性を前提とし、そして双方の分断が簡単には乗り越えられず、その分断に囚われることが双方に破滅をもたらすのなら、タコピーの示した道は、少なくとも『タコピーの原罪』の世界観においては、タコピーのとれる唯一の選択肢だったに違いありません。
もちろんそれは現実的ではありません。奇跡に等しいものかも知れません。しかし、そうであれば、私たちは私たちの世界で、タコピーとは違った仕方で、加害と被害の連鎖を乗り越えていくしかありません。私たちは、タコピーのようにはできない。じゃあ、何ができるのか。『タコピーの原罪』はそう私たちに問いかけているのではないでしょうか。
タコピー、ありがとう。
バイバイ
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