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タコピーとニーチェ

『タコピーの原罪』、いよいよ次回が最終回のようです。いったいどんな結末を迎えるのか、、、

第15話では、タコピーが激高するしずかちゃんに対して「一人にしてごめんっぴ」と語り、自分の決意を示すところでラストシーンになります。今まで、タコピーからの手助けによってかえって闇を深めていたしずかちゃんは、タコピーのその言葉には心を開いたように思います。

第14話では、タコピーは、「助けようとするだけじゃ、きっと違った」と思い至っていました。僕は個人的にこのシーンにとても胸を打たれました。タコピーはこれまで、苦しい立場に置かれているしずかちゃんに同情し、なんとか彼女の力になろうとしていました。しかし、それでは何も問題は解決しないし、かえって彼女を苦しめていることに気づいたのでしょう。

なぜ、彼女に同情することが、彼女をさらに苦しめるのでしょうか。おそらくそれは、タコピーが同情すればするほど、しずかちゃんが孤独を感じるからです。タコピーがしずかちゃんを助けてあげたいと思えば思うほど、しずかちゃんは、自分が誰からも理解されないという思いを強めるからです。

まったくの勘違いに終わるかも知れませんが、僕はこの一連のやり取りのうちに、同情という問題に対するニーチェの洞察を思い出さずにはいられません。彼は『喜ばしき知識』のなかで次のように述べています。

われわれが個人的にこのうえなく深く悩んでいるものは、ほとんどの他人にとっては理解しがたく、近づきがたいものだ。その点ではわれわれは、最も近しい者、ひとつ釜の飯を食べていた者にとってさえも、窺い知れない存在である。──しかしわれわれが苦悩する者とみなされるや、われわれの苦悩にはいつも上辺だけの解釈が施される。他人の苦悩から、真に個性的なものを取り去るというのは、同情という感情の本質に属するものである。──われわれの「善意の人」は、われわれの敵以上に、われわれの価値や意志を矮小化する。不幸な者に善行が施されるほとんどの場合、同情する側がまるで運命を握っているかのように振る舞う知的軽薄さは、われわれを憤慨させる。同情する側は、私にとって、わるいは君にとっての不幸が、どのような内的な経緯や錯綜を辿ったかの全貌をまったく理解していないのだ!

ニーチェ『喜ばしき知識』

ニーチェによれば、人間が苦悩する事柄は、その人自身の個性的なものであり、他者から簡単に理解できるものではありません。それに対して、他者の苦悩に同情することは、その他者から苦悩の個性を奪い、苦悩を平板なもの、よくあるものへと「矮小化」させます。だからこそ、同情される人は、そのように気軽に同情してくる人間に対して「憤慨」することになります。同情されればされるほど、自分は誰からも理解されていない、自分は独りぼっちだ、という思いを強めていくのです。

では、苦しんでいる人に対して、どうしたらよいのか。これは簡単な問題ではありません。おそらくタコピーは、ニーチェとは違った道を選ぶでしょう。彼がどんな選択をするのか、来週の更新を楽しみに待ちたいと思います。

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