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『光る君へ』におけるケアと物語

2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の第32話「誰がために書く」を観た。紫式部を主人公に据えた今年のテーマは、文学であると睨んでいた。長い序章を経て、ようやくその本質に切り込み始めた回だった。

一条天皇は、最愛の中宮・定子を失って、絶望していた。その悲しみを癒すために、彼は定子に仕えていた日々を描いたききょう(=清少納言)の著作『枕草子』を読み耽る。同書は、一条天皇にとって定子の生きた証であり、彼はそこに亡き彼女の息遣いを感じることができた。

『枕草子』は随筆であり、ノンフィクションである。一条天皇は、そこに書かれていることを現実として眺めることよって、定子を失った悲しみを和らげることができた。しかし、それは同時に、彼が定子の喪失に囚われることを促しもする。彼は、そこに定子がいると感じるからこそ、彼女を忘れられなくなり、彼女がもういないという現実に繰り返し直面せざるをえない。この意味において、彼は『枕草子』から一時の慰めを得るのだとしても、それはかえって、悲しみから抜け出す可能性を彼から奪うものでもあった。

それに対して、左大臣・藤原道長は、一条天皇の意識を定子から遠ざけるために、まひろ(=紫式部)のもとを訪れ、一条天皇の関心を逸らすことができる、架空の物語の執筆を依頼する。当初は、依頼を固辞するまひろだったが、道長から一条天皇の境遇を聞くことで、彼のために物語を執筆することを決心する。こうして書かれ始めたのが、『源氏物語』である。
 
ここには、なぜ、紫式部が世界最古の長編小説と呼ばれることもある『源氏物語』を執筆したのか、という問いに対する、このドラマの一つの答えが示されている。すなわちそれは、他者へのケアのためである、ということだ。紫式部は、自分の創作意欲に基づいて、『源氏物語』を執筆したのではない。そうではなく、最愛の人を失った一条天皇の悲しみを癒すため、いわばケアのために、彼女は物語を創出するに至ったのだ。ここには、物語はケアのために求められる、という、極めて強烈な制作陣のメッセージが表れている。

ただし、そのケアは、清少納言の『枕草子』が果たしたそれと、大きく異なっている。『枕草子』は、一条天皇に対して、記憶によるケアを試みている。つまり、彼が亡き定子を思い出すことによって、彼女を失った悲しみを癒そうとする。しかし、『源氏物語』は反対に、忘却によるケアを試みている。つまり、彼に対して定子のことを忘れさせ、定子を失った自分の人生を一つの物語として理解させることで、その悲しみを癒そうとするのだ。

前述の通り、『枕草子』は一条天皇の悲しみを緩和すると同時に、彼を定子の喪失から逃れさせなくする。彼は、もうこの世界に定子はいない、という現実から、目を背けることができない。しかし、『源氏物語』は、そうした現実の厳粛さから、彼を解放する。それは、そもそも実在しない、虚構の物語なのである。そうした物語によって自己を理解することで、一条天皇は、定子を失った自分の人生を再解釈し、そこに新たな意味を見出すことができるようになる。

ここには、フィクションとノンフィクションの関係を巡る、ある種の緊張関係が描かれている。清少納言は、ノンフィクションこそが悲しみを癒すと信じていた。それは、あたかも写真のように、定子の美しい日々を写実的に切り取ったものだった。しかし、その定子は死んでいるのだから、『枕草子』もまた本質的に死んだもの、つまり遺影のようなものである。それに対して、紫式部は、ドラマのなかで『源氏物語』を何度も書き直し、その理由を物語が「生きている」からだと説明する。ノンフィクションが死であり、フィクションは生である。だからこそ、物語は死の悲嘆に暮れる者に対して、新たな生の可能性を提示できる。

一条天皇は、最愛の定子の死によって、悲劇としか言いようのない人生を歩むことになった。しかし、その人生だって、物語が何度も修正されうるように、新たに再解釈されうるのだ。人間の人生は、決して一通りにしか理解されえないのではなく、何度でも違った仕方で意味づけされ直されるのだ。それが、『源氏物語』が果たすことのできた、一条天皇へのケアなのだろう。

『源氏物語』は、ケアを目的とし、利他的な行為の帰結として生み出された。しかしこのことは、紫式部があたかも何らかの自己犠牲を払ったことを意味しない。彼女は、その創作を通じて、自分自身の新たな可能性を確信し、それまでとは違った自己を創造することができた。ケアや利他は、それによって自己創造を可能にもするのだ。紫式部が体現する、こうした自己の潜在性の創造的開花は、ケアや利他に対して寄せられる、献身的自己犠牲という誤ったイメージを払拭するものである。

しかし、だからといって、紫式部のケアが虚構によって実現されるのであり、現実を直視することはケアを妨げる、と考えることは、性急だろう。なぜなら、「光る君へ」は最初期において、幼少期の紫式部に、「真は偽りである」と語らせているからである。フィクションは虚構である。しかし、虚構が真実になる可能性もある。そのように考えるなら、一条天皇の悲しみからの回復は、単に現実から目を背けることを意味するのではなく、彼が新たな現実を生きることを意味するのかも知れない。

この辺りの問題がどう描かれているのか。今後も目が離せない。

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