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町工場で生まれ育ちました。

創業してから何度も聞かれてお話ししてきたのでこれまでの自分のことアウトプットしておこうと思います。

1978年に金型屋を経営する両親の元で誕生しました。
両親が金型屋を始めて4年目の頃です。
オイルショックの最中に創業した両親。4年目ということはまだ軌道にも乗っている状態ではなく、仕事も一生懸命の時だったと思います。

両親から聞いた話によると、母は出産後1ヶ月で現場復帰し、父と一緒に現場でモノづくりをしていたと言います。工場の中で子供を育てながら金型を作り、プレス加工をし、そんな生活をしていたそうです。
母がおんぶ紐で私をおぶってボール盤で穴あけしていたという話は両親だけではなく、当時からお付き合いのある方々からも聞きました。

幼稚園に通うようになった頃、「両親の心臓止めそうになる事件」を起こしました。幼稚園って12時か15時で終わるのですが必ずお迎えに来てもらって帰るんですよね。(当たり前ですが)
ある日、お迎えが遅れたことがあって何を思ったのか私は園から2キロほど先の工場まで歩いて帰ったんです。
どうやって幼稚園を出たのかわかりませんが。。。
よく言えば両親が忙しいから自分で帰ろうと思った、ですが悪く言えば待ちきれず勝手に出たんだと思います。それはもう両親はパニックだったと聞きました。
そりゃそうですよね。居るはずの我が子が迎えに行ったらいないんですから。当時は携帯なんてものはないので電話しようと工場に慌てて戻ったら私がちょこんと座っていたそうです。幼稚園児としてはなかなかの行動力の持ち主でしたねwww

そんなこともあってか、小学校に上がってからも学校が終わったらすぐ工場へ帰るようにと言われていて毎日毎日工場で過ごしていました。
工場の近所のお友達と遊ぶ日々。
工場にはおもちゃはないのでママごとする時には重いものを運ぶ用のパレットを並べて部屋を作り、プレス加工した時に出る金属のスクラップを集めてきてお料理ごっこする。ライダーごっこする時には積み上がったパレットから飛び降りて遊ぶ。夏にはトラックにシート引いてもらって荷台をプールにして遊ぶ。町工場でしかできない遊びばかりしていました。
子供心に放課後に学校で鬼ごっこして遊んでいる子たちが羨ましいなぁと思っていた時期でもありました。

工場ではリフトの横にちょこんと乗っかってアトラクションのように楽しんで遊んでいたり、父が納品に行く時にはトラックに乗って一緒に得意先に回っていたり、プレス加工する母の横で何かもわかっていない製品を箱に入れるの手伝ってみたり、町工場でしか受けられない英才教育を受けていたように思います。

毎日、工場の機械音と油の匂いを感じて育ってきましたが中学に入ってからはクラブを始めることになり、ここから工場に行くことがなくなってきました。
心配性の両親は学校からの帰りがちょっとでも遅くなったら警察に連絡する勢いだったので家に直帰でしたねwww
高校生になってからはバスケを始め、さらに工場に行く機会はなくなっていました。学校と家の行き来しかしてませんでしたね。

町工場に入り浸って育ってきましたが両親の仕事がなんなのかは全く理解できていなくて、やりたいなんて思ったこともなければ、絶対こんな職場で仕事なんかしたくない!と思っていたくらいでした。

しかし、育った環境が居心地いいのか結果的にまた工場に入り浸ることになりました。

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