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震災、それから① 〜 みんなが思い出させてくれた、さくらYOSAKOIスピリッツ

2011年4月下旬、避難から1ヶ月ぶりに富岡町へ。3月の慌しい避難の際に持ち出せず残して来た大事なものを取りに自宅や会社に戻りました。

目に見えない怖さ、長くは居られない。また大きな余震が来る事もある。短時間にとにかく車に詰めるだけ詰め込んで足早に撤退。

途中通りかかった夜の森、桜通り。新聞の写真でみた桜はもうほとんど散り落ちて路肩に薄っすら堆積しているだけ。もちろん人影など全く無し。線量計の数値は10μSvオーバー。その表示に驚きながら車のスピードを少しだけあげて、大好きなはずの桜並木をただ走り抜けるだけでした。

ああ、もうダメだね… と呟きながら。

避難は、3月12日のときは二本松市、そして同じ年の夏にはいわき市へ移りました。生活再建と同時に、当時のさくらYOSAKOI実行委員長として中止になったお祭りの処理、参加予定だったチームさんへの連絡と参加費の返却(再開への支援金として取っておいてほしいというチームさんもありました、ありがとうございました)等をこなし、ひと段落がついたのは梅雨に入ろうとする頃でした。

震災後の日本列島は自粛ムード。そんななか6月の最初の日曜日、いわき市四倉町にてよさこいのイベントが開かれます。会場は津波による損傷がまだ残ったままの道の駅よつくら港、地元の皆さんが活気を取り戻すべく開いたイベントに私も伺いました。毎年さくらYOSAKOIに参加してくれていたチームさん、踊り子さんたちとの再会。久しぶりのよさこいに元気が湧き出ることを感じた一日。

ただ私自身は穴が空いていました。お会いする踊り子さんは口々に「夜の森のお祭り、復活できることを信じています!」と前向きに言ってくれたので、私も「そうですね、必ず復活します!」と答えてはいましたが、心の中では「いや、無理っす」とつぶやいていました(ごめんなさい)。

でも沢山の方が復活を期待していることは本当にありがたく、嬉しい事でした。自分の携わってきたものがこんなに愛されていたのかと。それに対して「無理」という気持ちで終わらせるのではなく何か別なかたちでも良いからお応えはして行くべき、という気持ちが生まれた時でした。

夏を過てくると各地で復興イベントも開かれるようになり、10月にはいわき市21世紀の森公園で「がんばっぺ いわき復興祭」が行われます。いわき市内に避難している人々との新たな絆を結び一体となって復興へのエネルギーを生み出そうという開催主旨、そこに双葉郡各町村から伝統芸能を披露することになるのですが、富岡町の代表として「さくらYOSAKOI」が登場することになります。「さくらYOSAKOI」の歴史は10年しかありませんでしたが地域を代表する芸能文化として紹介されることを嬉しく思いました。

それについて富岡町役場から連絡があったときには私は踊り子側の人間ではなくチームにも在籍していなかったので、踊りを踊ってくれるチームを探さなくてはと震災前に富岡町を拠点に活動していた各チームの代表さんに連絡をとりました。踊りませんか?と… しかしその反応は、避難によって踊り子たちはバラバラになりよさこいどころではない、既に解散を決めてしてしまい対応できない、との答え。

ああ、祭りが出来ないだけじゃなくてチームもなくなる、富岡のよさこいはこのまま終わってしまうんだ… なんて嘆いている場合ではない、本番は迫っている、踊り子を集めなきゃと声をかけた結果、復興祭でチームとしてではなく富岡のいち踊り子として集まってくれた数人に、いわきや楢葉の踊り子さんなどが応援に来てくれて皆んなで1曲を踊りました。

演舞前の挨拶で私は「富岡のさくらYOSAKOIは、富岡町のみならず、県内外のたくさんの皆様に参加いただき支えられ成長してきたお祭り、文化です。今回このような形で町を越えて踊り子さんに協力といただきながら参加できるということは、まさに「さくらYOSAKOI」らしい事なのではないかなと思います」
と、そんなふうに紹介させて頂いたと思います。

一緒に踊った仲間たち

こうしてさくらYOSAKOIを一緒につくってくれる踊り子の仲間がいる。場所はどこであれ富岡らしいよさこいを続けていくことができる、続けていかなくちゃ、と新たなスタートを決意します。

その後わたしはいわき市にてよさこいイベントのお手伝い、裏方として携わる機会を頂きながら、同時に自分らしいよさこいの楽しみ方、生き方を再び見つけていくことができました。さくらYOSAKOIのスピリット思い出させてくれた、よさこい仲間の皆さんに思い出させて頂いたおかげです。

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