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病ませる水蜜さん 第九話【R18】

今回から第二章です!

はじめに(各種説明)

※『病ませる水蜜さん 第一話〜第八話』『番外編一〜四』からストーリーが続いている一連のシリーズですが、今回から『怪異対策課の事件簿』という新章に突入します。

はじめての方はこちらから

※特に『番外編四』は新章『怪異対策課の事件簿』の実質プロローグにあたるので先に読んでおくことを推奨。本記事の冒頭に簡単なキャラクター紹介やこれまでのあらすじも掲載しております。また、今章はストーリー上どうしてもR18・陰鬱な展開は避けられないのでご了承ください。
※このオリジナルシリーズは私の性癖のみに配慮して書かれています。自分の好みに合うお話をお楽しみください。

【特記事項】
今回は 蓮×羊(片想い匂わせのみ)R18描写があるのはモブ×羊と深雪×羊、四で羊×水蜜と深雪×水蜜。羊と水蜜は両方受けという雰囲気の絡みです。
・今後もこの一次創作BLシリーズはCPも受け攻めも固定しません。好きな組み合わせの小説を選んでね!

ご了承いただけましたら先にお進みください。

ざっくり登場人物紹介


※第八話や番外編四までのネタバレがあります!

・郷徒 羊(ごうと よう)
 警察庁霊事課(別名・怪異対策課)所属。二十五歳独身。表向きは刑事のように振る舞っているが、実際は怪異案件専門の国家公務員。生まれつきわずかな霊感があり怪異対策課にスカウトされた。足りない分は人脈や工夫で補う努力家。
 第五話にて、郷美正太郎の昔話に出てきた郷徒毅は彼の叔祖父にあたる。曽祖父・祖父の代で起きた『根くたり様の祟り』の罪は郷徒家全体に負わされ、一族は村を追放された。その後も祟りの影響か家庭環境は決して良くはなく、羊も自己肯定感が極端に低く謙遜が過ぎて自虐的ですらある言動をするようになった。手入れの雑な黒髪と、眼鏡の下のクマが色濃い幸薄地味顔。人から嫌われ疎まれることに慣れているが、何故か怪異には好かれる気がする。
 自分が住んだことのない村の因習に興味はなく、できたら縁を切りたいと思っていた。だが水蜜の調査・監視担当になってしまったことでむしろ縁は深く結びつき、これまでの不遇な人生の一因は水蜜にもあるのではないかと憎しみを抱くようになる。
 『怪異対策課の事件簿』では実質主人公。脅威の大出世だが、サブタイトルが『郷徒羊の受難』なので色々と過酷な運命が待ち受けているのは察してほしい。

※怪異対策課とは
国直属の怪異案件専門機関。本物の霊能者の間では広く知られており、神職・僧侶・陰陽師・拝み屋や悪魔祓いまで様々な人が要請に応じて怪異による人的・物的被害に対応する。それを取りまとめるのが怪異対策課の職員たちである。捕獲した怪異を無害化、除霊(消滅させる)、収容(どこかに封印する)などの後処理も担っており、全国各地の都道府県警には密かに怪異の収容施設があったりする。

・水蜜
 独自の信仰をもつ『神実村』で『根くたり様』と呼ばれる神として祀られてきた謎多き美人。中性的な外見だが、性別は男に近い両性(男性寄りのふたなり)神様の割に強そうな特殊能力は無く、人懐っこい飄々とした性格のポンコツ怪異。近づいた人を無意識に誘惑して自分に惚れさせる制御不能の能力『蠱惑体質』を持つ。
 村の名家・郷美家を先祖代々愛して見守り続けている。その一方で、村にとって都合の悪い思想を持ったり罪を犯した郷美の者は『郷徒』という名の分家として切り離した。そして罪や穢れ、嫌われ役を郷徒家に背負わせてきたらしい。そのため郷徒の末裔である羊にも嫌悪感剥き出しの態度をとり、何かにつけて働かせたり虐めたりと毒婦のような接し方をする。憎んでいるのと同じくらい執着しているようにも見えるが……いずれにせよ、羊にとっては憎悪しか抱きようのない関係性である。

・深雪
 神社で祀られていてもおかしくないほどの神気を放つ、正体不明の獣人型怪異。本名・出自等不明。本人も忘却しており、自身が武神であることしか覚えていない。人々からの信仰も途絶え、孤独に彷徨う神霊。
 アルビノのように白い肌と髪、真紅の目と化粧、二メートルの身長に筋骨隆々な巨体が特徴的。人間に擬態もできるが、本性を表すと耳と手足が獣のようになる。本人曰く狼らしい。狐や犬と間違えるとかなり怒る。
 記憶も信仰も無く彷徨っていたところを水蜜と出会い、一世一代の恋をした。水蜜は頑なに恋人や伴侶はいないとしているが、実質『昔の男』のような存在。少なくとも深雪は『おれの嫁』だと思っている。
 江戸時代ごろはまるで夫婦のように仲睦まじく過ごしたものの、あくまで『友達』の認識を変えず深雪の求婚を頑なに受け入れない水蜜に不満を募らせていく。元々気に入らないことがあると暴力に頼りがちな性格が災いして、ある時に些細なことで激昂。怒りに任せて水蜜の首を切り落とし、今でも治らない傷跡を残す。その際呪いを返され、一時悪霊にまで堕ちた。
 その後数百年の間水蜜を求めて各地を放浪し、最近ついに見つけて攫おうとしたところで水蜜の今の『友達』(実質恋人)である寺烏真礼と仲間たちに阻止された。深雪は水蜜の説得を受け、定期的に水蜜と会えることを条件に警察庁の怪異対策課に収容された。現在は他の怪異を処理する手伝いも気まぐれにではあるがしてくれるらしい。
 とにかく水蜜に惚れ込んでおり、病的に執着している。水蜜にだけは甘いが、他の人間は心底どうでもよく道端のアリのようなもの。オレ様で乱暴で脳筋で自分勝手だが、自分の身の回りの世話をしてくれている羊のことは最近ちょっとだけ認識している気がする。

これまでのあらすじ


『病ませる水蜜さん』
 第八話までのあらすじ
(怪異対策課関連部分抜粋)

 怪異対策課として『根くたり様(真名・水蜜)』と『深雪』という二体の怪異を収容する任務を受けた郷徒羊。特に水蜜は、かつて郷徒家の故郷であった神実村の祭神であり、彼への信仰が原因で郷徒家は村八分同然に追放されたという因縁があった。羊自身は神実村やその文化と何も関係が無かったものの、自身の家庭環境の劣悪さやこれまでの人生の不遇さは水蜜にも要因があったのではないかという八つ当たりじみた憎悪があった。
 そのため彼は懸命に調査を進めた。深雪がとある大学で人間を傷つける事件を起こしたことで、ついに警察が介入できる機会を得た。その大学には神実村因縁の一族・郷美家当主がいること、彼が大学で水蜜を匿っていることを突き止めていた羊は即座に動いた。怪異を人間社会の中で野放しにしている責任を郷美に問い、まずは水蜜を収容することに成功した。
 しかし、そのことで水蜜の心証は害された。元々郷徒家に良い印象をもっていなかったらしい水蜜は、お気に入りの郷美を責め自分から引き離した羊に対して明確な嫌悪感を表すようになり非協力的に。大人しく収容はされたものの、続いての任務である深雪の収容について重大な情報『深雪は狼系の神霊であり、同じイヌ科である犬や狐の怪異と間違われると怒る』という話を敢えて羊にしなかった。
 情報が不足したまま深雪と接触することとなった羊。彼が集めた協力者たちは深雪に『新しい稲荷神社を建立し、貴方様を信仰する』という和平案を提示するも、狐と勘違いされた深雪は激怒。作戦は失敗し、羊以外の仲間は命を落とし羊自身も深雪に攻撃されて入院する重傷を負う。そしてみすみす水蜜も奪われてしまう。自身の生い立ちを覆せるかもしれなかった作戦で何も成せなかった上、協力してくれた三名の人命を守れなかった自身の采配の甘さに打ちのめされる羊。
 結局、水蜜のことを郷美と共に保護していた大学生・寺烏真礼という青年と彼の仲間たちが力を合わせて決行した水蜜救出作戦により深雪は一時的に無力化。捕縛された。
 深雪は落ち着きを取り戻し『水蜜に定期的に会えるのなら警察に協力し収容される』と妥協案を出した。一方水蜜は『収容は拒否する。自由にできないのなら深雪を宥めるのをやめる』と脅迫。結局水蜜は今まで通り郷美や礼たちの元で過ごすことになり、深雪は怪異対策課で強制的に収容はできなかったものの、本人の意思で警察の人間に協力するようになったのだった。


病ませる水蜜さん 第九話
 怪異対策課の事件簿 第一話

一『武神の小間使い』


 深夜二時少し前、周りには人気の一切ない山奥の峠道。少し昔は暴走族が度胸試しに走っていたというが、悲惨な事件が続いたせいで現在はいなくなっている。
 車に幽霊が取り憑き、ブレーキが効かなくなる。ハンドルもコントロールを奪われるという噂もある。そのまま険しいカーブに突っ込んでゆき、曲がりきれず転落。切り立ったかなり高い山道のため、落ちて仕舞えば命はない……というのが、ここの怪異による被害報告。
 そんな道を、一台のセダンが猛スピードで駆けている。その中にいるのは運転手一人のみ。
 警察庁霊事課、通称怪異対策課所属の警官・郷徒羊。彼は敢えてここにやって来た。そして予定通り車は怪異に狙われた。今、彼は全力でブレーキを踏み込みながらハンドル捌きに全精神を集中させている。アクセルには一切触れていないのに、速度は車の全力をもって上がっていく。ハンドルの操作は奪われなかったのは、事前にある程度の対霊処置を車自体へ施しておいたからだろう。だが、運転を少しでもミスしたら死ぬ。額から流れる汗を拭く暇もなく、両眼を見開き、前照灯で照らされるわずかな範囲を凝視して命を繋いでいた。
(もう少し、もう少しでポイントに着く……いた!)
 問題のポイント。これまで何台もの車が落とされ、人命が奪われた魔のカーブ。そこだけガードレールが何度も直されており、白く光って見えた。
 そのカーブ手前に、立つ人影がひとつ。
 長い髪と逞しい肌は混じり気のない白さで、瞳は赤く輝くアルビノのような色合い。雪の結晶をあしらった袴姿は時代劇から飛び出して来た侍のよう。大きな手にはまっすぐ伸びる大刀が握られている。そしてそれが打刀か脇差にでも見えてしまうほどの長身、およそ二メートル。片肌脱いだ胸や肩が分厚い筋肉で覆われた、見事な美丈夫であった。
 普通の人間であれば両手で持つのがやっとであろう長大な真剣を軽々と片手で持ったまま、その男は空いているもう片方の手を前方に掲げた。羊の車は、彼に向かって容赦なく突っ込んでいく……
 巨体の侍は、時速百キロ以上出して暴走していた車を片手で止めた。物凄い衝撃でエアバッグが作動し、乱暴ながらも羊は無事なまま車は停止した。
 近づいてわかる、凄まじい神気。車に取り憑いていた怪異は怯えて車から離れ逃げようとしたが、狼を思わせる鋭い視線はそれを逃がさなかった。
「これが獲物か。こんな雑魚におれを使うな」
 不満げに吐き捨てると、氷のように冷たい一閃。神の力が宿った斬撃で、峠の怪異は跡形もなく消え去った。

「お疲れ様でした、深雪さん。怪異の完全消滅を確認。車に設置した特殊なドライブレコーダーで、怪異の詳細は記録されているはず……メモリーカード回収。これで任務終了ですね」
 しんと静まり返った山道の中、羊は淡々と後処理を進めていく。怪異対策課の先輩に電話をかけている羊を、深雪が退屈そうに眺めていた。
「……はい、はい。わかりました。あと……乗って来た車は走らなくなりまして……はい。よろしくお願いします」
 ここまで迎えに来てもらうしかないが、時間はかなりかかるだろう。
「報告完了しました。車は壊れてしまったので、ここでしばらく迎えを待ちましょう」
「おまえとここで突っ立っていろとでもいうのか」
「はい。つまらないかとは思いますがすみません」
「待てん」
「そうは言っても、歩いて帰るわけには……」
「いつもの警察署に帰ればいいのだろう」
「……え?」
 深雪は羊を小脇に抱えると、崖から躊躇いなく飛び降りた。突然の恐怖に叫ぶ暇もなく、羊はされるがままに崖下の闇へと消えていった。
 今日だけで何回、『死ぬかと思った』だろう。

***

 二ヶ月ほど前。収容された神霊・通称『深雪』は、怪異対策課で羊が担当者になって管理することになった。とはいえ『管理』などできるはずもなく。やっていることは召使いというか、下僕というか。愛しの水蜜に会えるときは割と機嫌が良く、しばらく会えないとあからさまに不機嫌になる彼をなんとか宥めすかし、時に鬱憤ばらしに殴られ蹴飛ばされ(病院送りにはならないあたり、彼なりに手加減はしているようだが)振り回されながら通常業務をこなしている。
 深雪が着いてくるようになったおかげで怪異の調査は相当楽になったが、他の業務も格段に増えた。しかも、怪異に襲われたときにいつも助けてくれるというわけではなく。かなりギリギリ、死にそうになるまで助けてくれない。そのため心労は据え置き、業務は倍増で。羊の目の下のクマも痩せた肋の陰影も濃くなるばかりであった。

「郷徒さん、なんかマル暴案件っぽい人たちが来てるんですけど」
「はい?」
 同僚の明李がひそひそと声をかけてきた。
「二人ともスーツ姿なんですけど……おじさんの方はスキンヘッドで顔もめっちゃ怖いし、その後ろについてる若いお兄さんもソフトモヒカンで目つき鋭い感じで……組長と若頭とかですかね。ほら郷徒さん半年前くらいから暴力団に関わってる怪異担当してたじゃないですか。大丈夫なんですか?」
「……あー……あのですね、そろそろ怪異対策課によく来る関係者の方は覚えた方がいいですよ」
 明李は羊とほぼ同時期に配属された青年だが、羊より二歳下の実質後輩みたいなものだ。しかもちょっと……いやかなり抜けているところがある。神社の家系で霊力は申し分ないそうだが、社会人としてはもう少しなんとかしてほしい。
「というか、その方々のお名前は」
「あ……」
「はあ。いいですよ、どなたかはわかりましたから。次からお伺いしてから呼びに来てくださいね。それから、彼らはお坊さんです。怪異案件で大変お世話になっている方々です。失礼のないように」
 もう少し文句が言いたいところではあったが、これ以上彼を待たせたくなくて。羊は急いで身支度を整え応接室に向かった。
「申し訳ありません。お待たせしまして……ご足労ありがとうございます。寺烏真さん」
「いえいえ。突然押しかけたのは我々ですから。お忙しいところをお呼びだてしてすみません、郷徒さん」
 禎山寺(ていさんじ)現住職・寺烏真烈(てらうま れつ)と、その息子で跡取りの僧侶・寺烏真蓮(れん)。彼らは一般的なお寺のお坊さんとしての職務の傍ら、怪異対策課に協力している。主に人間や動物から発生した怪異……一般には悪霊や妖怪と呼ばれるものを祓う。神霊系は神社関係者、日本以外から来た怪異は悪魔祓い……と担当が異なるのだ。日本では悪霊案件が圧倒的に多い。彼らのような除霊のできるお坊さんは心強い存在なのだ。
「一度ご挨拶せねば……と思いつつ何ヶ月も経ってしまいまして。この度はうちの息子どもが大変ご迷惑を……」
「いやいや……逆にお宅の息子さんを危険なことに巻き込んだのは私の方です。結局、私の怪異収容作戦の失敗を蓮さんと礼さんに尻拭いさせてしまった。特に礼さんはまだ僧侶でもない。未成年の学生さんだというのに」
「怪異対策課自体には色々言いたいことはありますが、郷徒さんを責めることは一切ありませんよ。あなたもむしろ被害者だ、怒っていい」
 父親に代わって口を開いたのは蓮だ。彼は二十七歳、羊は二十五歳と、歳が近いからか羊のことを気にかけてくれる。彼が譲ってくれた除霊のお札のおかげで命拾いしたことは一度や二度ではない。今だって、自分や弟が危険な目に遭ったにも関わらず羊を庇おうとしてくれている。羊は他人に対しては常に疑念から入りがちな悪癖があるが、蓮に対しては不思議と信頼したくなるような感情があった。このように一方的に懐かれては蓮も迷惑であろうから、極力表に出さないよう気をつけているが。だから蓮には最低限、言葉少なに礼を述べた。
「そもそもあの案件に郷徒さんをつけたのが間違いだったんだ。神実村周辺の地域じゃみんな知ってる。極力関係ない人を担当にすべきだった。それに、弟が件の『根くたり様』を家に泊めてるなんて知ってたら、小生が協力者に……痛っ!」
 烈が蓮の頭をしたたかにはたいた。
「そうじゃないだろ阿呆が。ん、失礼……初動が悪かったことは我々からも上に話しておきます。今日は来られなかったが、父の礼寛も同意見ですからな」
「お祖父様まで……あの、ご迷惑をおかけしたのは本当に申し訳ないのですが……こちらでも今後対策を検討いたしますのでできれば穏便に……」
 現在三世代いる寺烏真家の僧侶の中で、最も畏敬の念を向けられているのが蓮の祖父・寺烏真礼寛(れいかん)。彼は僧侶の最高位である大僧正、同宗派すべての頂点に立つ徳の高い僧侶である。長年の怪異対策課への貢献も計り知れない。彼の言動によっては怪異対策課のお偉いさんであっても地位が危ぶまれ、震え上がる。
「ご安心を。郷徒さんにご迷惑をおかけすることはございません。采配を誤ったのは上層部ですから。どうかあまりご自身を責められぬよう。あれはどちらも一筋縄ではいかぬ神霊。得体は知れないが、比較的人間に近く話のできる水蜜から説得、郷美家にも話をつけて周辺の神社から人員を招集、深雪の方ははじめから水蜜に宥めさせれば……といったあたりが妥当だっただろうな。あとは陰陽師も偉いのを呼んだ方が良かった……」
「陰陽師、ですか?」
 確かに作戦には同行したが、あれは深雪のことを狐の化生と仮定しての人選だった。だからあの選択は間違っていたはずだ。だが、烈は『水蜜への対応に陰陽師が必要』と言った。それも高位の、だ。
「ま、こんなこと郷徒さんに話しても困りますわな。今日は郷徒さんには違う話をしに来たんです。聞けば、礼は大学を卒業したら怪異対策課への就職も検討しているとか。本職にするのなら一度うちで引き取って私がしっかり鍛えてから送り出します。郷徒さんが歳の近い先輩になられるかと思いますが、ご迷惑をおかけしない程度には仕込んでおきますからな。どうかよくしてやってください」
 隣で黙っている蓮の表情が引き攣っている。この厳ついお父様、見た目の通り彼の修行はかなりおっかないものであるらしい。
「現時点でもう、礼さんの方が私よりずっと強いし立派な方だと思いますがね……」
 これは、お世辞でもなんでもなく。本心からそう思っている。蓮も礼も、彼らはあまりにも眩しい。育ちが良いのは父親を見れば一目瞭然だし、二人とも他人に分け隔てなく優しく、自然に動いて弱きものを守ろうとする。それができる力も持っている。そして周りの人々に慕われ、愛されている。
 ……何もかも、俺とは正反対だ。

 話が一通り終わり、烈が怪異対策課の上司に話をしに行った後。残った蓮は父親の手前かなり緊張していたらしく。羊と二人きりになると、黒子のある口元に人懐こい緩んだ笑顔を浮かべた。
「ごめんなあ羊さん。親父、何言っても圧が半端ないだろ。怖いけど、要は礼をよろしくって親心で言いに来ただけなんだわ。あの水蜜って神霊も厄介だとは思うが、礼が変なちょっかいかけられんように見といてくれると助かる。小生も気をつけてはいるが、身内だと逆に隠されることもあるからな」
「私がどこまで助けになれるかはわかりませんが善処します。それと蓮さん、先日は自動車の対霊措置ありがとうございました。おかげさまでハンドルは奪われずに済みました」
「ハンドルは、ってことは他は奪われたわけか。ごめんな……こりゃ後で親父にもド叱られるわ。憑いた瞬間トリモチみたいに拘束するつもりでやったはずなんだよ」
「あっ……ご、ごめんなさい。私は無事でしたし十分助かりましたから!」
「ていうか同行するつもりだったんだが、どうしても他の除霊があって行けなくて……本当にすまない。しょっちゅう危険な怪異に接触しに行くんだ、怪異対策課ってのは令和の世の中でもなんとも非人道的だわな」
「誰かがやらなくては、いけないことですし」
 それでも、嬉しかった。羊が命を賭して怪異の調査をしたとて、ここまで心配してくれるのは蓮くらいのものだ。給料の大部分を施設代に送っている祖父母とは意思の疎通ができなくなって久しいし、勝手に金を吸っていく親が見ているのは羊の稼ぎだけだ。特に個人的な趣味も目標も無く、淡々と仕事で身を削り、自宅では最低限生存のための活動をするばかりの羊にとって。この時間だけは、少しだけ普通の人間らしくなれた気がした。
「……あ、の」
「ん?」
「いえ。なんでも」
 ありがとうございます。あなたの言葉に救われています。なんて……重たすぎて、迷惑に決まってるから、言えなかった。
「そろそろお父様のお話も終わるころでは」
「おっ、そうだな。じゃあまた。悪霊案件なら遠慮なく相談してよ。また痩せた? メシはしっかり食いな」
 いつもの要る? なんて、昔からの友達みたいに笑って。スーツのポケットから干菓子を数個取り出して羊に握らせると蓮は応接室を出ていった。檀家の子ども相手に袈裟の袖をポケットにして駄菓子を常備しているのは知っていたが、スーツに着替えててもあるのか……ぼんやりくだらないことを考えながら、貰った菓子を早速開けて食べる。ほんのり線香のにおいが移ったやわらかな紙、少し欠けて粉がこぼれそうになる落雁。口に含めば優しい優しい甘さに満たされる。その後、訪れるのは物悲しい渇き。
 気持ちが悪い。
 普段ゆるやかな袈裟に包まれている身体の逞しさが、腰から下のすっきりしたラインが、スーツ姿ではくっきりと浮かび上がる……そんなところを見てしまっているいやらしさが。
 いつも心配しているよ、と何の躊躇いもなく紡がれる言葉を大事に大事にして、勝手に宝物にしている卑しさが。彼から受けた情はそんな大層なものじゃない。たっぷり用意されているから誰にでも気軽に配られる、袖の中のちっぽけな菓子と同じ。
 彼の本物の愛情は彼の妻に、子に、家族に注がれている。自分に向けられることは絶対にない。身の程を弁えろ、無能の屑が。そうやって自分を定期的に殴りつけなければ、溢れてしまいそうなこの分不相応に過ぎる想いが気持ち悪い。
 泥中でなお清らかさを保つ、花の名をそのまま体現するひと。心の中ですら、彼に寄り掛かりたいなんて思ってはいけない。
 せめて、知られたくはないなあ。先日の車の怪異事件なんて大した苦しみは感じていなくて、他の案件の隠れ蓑にすらしてしまっていること。近頃の担当案件はもっと穢らわしくて悍ましいものばかりだってこと。俺の身体ときたら、怪異用公衆便所みたいだもんな。まともな人間が触るものじゃないよ。

二『武神のお気に入り?』


「……というわけで、郷徒は深雪たちの監督担当から外すことになってな」
「本当ですか!」
「うお、お前そんなテンション高い声出るのな」
「あ、すみません……」
「いや、元気出たなら何よりだわ」
 そりゃそうだよな、全身殴る蹴るで病院送りにしてきた怪異の側仕えなんて一刻も早く辞めたいよな。心から同情した声で羊の肩を叩くのは彼の直属の先輩・墨洋だ。立場上羊には無茶な仕事も頼んでしまっているが、できる限り負担は減らしてやろうと頑張ってはいた。今回はひとつ心労を減らしてやれそうで、先輩の立場からしても嬉しかった。
 寺烏真家からのお叱りはかなりの威力だったらしく、およそ一週間でこうなった。『せめて郷徒さんにはこれ以上苦労をかけさせないでほしい』と結構強く言ってくれたらしい。元はと言えば羊が作戦をしくじったからなのだが……ゆえに胃が痛いが……今はともかく、深雪と水蜜から離れられるのが嬉しい。それが実現するなら、多少上から面倒くさそうな目で見られても構わない。それだけの価値がある。
「新しい担当の方は?」
「今日来ていてな。これから引き継ぎをお願いしたいんだ。すごいぞ、京都から来た陰陽師の血筋の人だと」
「陰陽師……」
 また、陰陽師だ。烈が羊にしたあの話、上層部にもしたのだろうか。それほどまでに、水蜜たちには重要なことなのだろうか。羊には検討がつかなかった。時間があれば、もう少し神実村の情報を集めてみるか。今日で担当は外れるが……そう思いながら、エレベーターで地下へ潜る。向かうのは怪異収容エリア。普段深雪が過ごしている場所だ。
 深雪にかかれば人間が普通に作った拘束や監禁手段など破壊し尽くしてしまう。ゆえに、被害を抑えるため『出たいなら堂々と正面出口から出てほしい。施設を壊さないでほしい。ただ、外出時は担当の郷徒を連れて行くこと』ということになっていた。無論、深雪がこんな地下に大人しく収容されっぱなしになるわけがなく。しょっちゅう振り回されている羊である。それも今日までだが。
「お待ちしておりました。京都府警配属でした、怪異対策課所属の阿部です」
「郷徒です。よろしくお願いします。阿部さんは陰陽師の家系の方だとか」
「はい。今でも陰陽師は現役ですよ。警察という立場の方が情報が得られるし、怪異とも遭遇しやすいですから所属させていただいてます」
「阿部さんは……わざと怪異に出会いやすくするために怪異対策課に……?」
「ええ、そうですが? 強い怪異を説得するかねじ伏せるかできれば、心強い式神にできますからね」
「式神……陰陽師の方が使役するという、あの」
「彼も良きパートナーになってくれると嬉しいんですがね……何せ神霊で武神ですからね。絶滅した狼の気配を纏う神々しい容姿、すさまじい怪力を誇る肉体、剣の腕、どれも素晴らしい……」
(深雪って、陰陽師のひとからしたらそんな魅力的な神霊なんだ……)
 改めて言われてみると、深雪は正直カッコいいと思う。初対面で病院送りにされ、今も毎日のように何かしらの苦労をふっかけられて疎ましいという感情しかなかったが、大抵の怪異を日本刀で切り伏せてしまう勇姿は正直美しいと思う。
 目の前の阿部という男は、おそらく羊と同年代か少し年上くらい……アラサーと表現すれば間違いないくらいだろう。いかにも良家の子息という雰囲気で自信に満ち溢れている。日常的に水蜜を見ているので目がおかしくなりつつある自覚はあるが、容姿も十分カッコいいと思う。少なくとも自分と比べたらすごくイケメンだ。
 深雪だって、こういう自力で怪異に対処できそうな、自信満々で明るくて見た目もいい人間が担当の方がいいに決まってる。さっさと引き継いで終わりにしよう。
「では、そろそろ深雪さんの収容室に行きましょう」
「ん? 郷徒さんには資料の引き渡しを頼んだだけですよね?」
「え? 担当が変わるんですから、深雪さんに一緒に会いに行って伝えた方が」
 羊がそう言うと、阿部に鼻で笑われた。
「ああ……郷徒さんは一般家庭のご出身で、実務経験もまだ数年そこそこなんでしたっけ……あのですね、神霊に対して、人間にするような挨拶は必要ないですよ。あれは人間とは違う感覚で生きているものです。ああいうものの扱いは陰陽師として幼少期から教育を受けている私の方が詳しいですからご安心を」
「……はあ。ではそのように」
 なんか、ひっかかるな。自分が馬鹿にされるのは別に気にならない。一般家庭以下のクソみたいな育ちなのは事実だし、怪異対策課でもまだ華々しい実績なんてないし。そうじゃなかったらなんだろう。深雪のことを、なんだか珍しい動物か何かみたいにしか思ってなさそうなところ? いや、なんでそこにひっかかるんだと、羊は心の中だけでぐるぐると悩んでいた。それでも体は平然と動き、持参した資料のファイルを阿部に手渡そうとした。
「おい」
「……!」
「おお……!」
 まったく気配を感じさせず、そこにいた。羊がファイルを掲げたまま見上げれば、深雪がいつもの気難しそうな顔で有象無象を見下していた。
「何をしている」
「あ、深雪さん。あの」
「素晴らしい……実際の御姿を拝見するとなんとも壮麗な……! 深雪様、お会いできて光栄です。わたくし、都より参りました。阿部の一族にございます。陰陽師の……ご存知でしょうか?」
 羊が説明しようと口を開きかける前に、阿部が割り込んできて深雪に話しかけはじめた。さっきまでアレとかモノとか言ってたくせに、本人には腰低いんだ……まあ、怒らせたら全身の骨折られるって資料にも書いたしな……とぼんやり聞いていると、阿部はさらに捲し立てた。
「本日よりわたくしが貴方様の担当となります。不肖人間ごときがお側につくことをご不満に御思いかと存じますが、今までの担当よりはお役に立つことをお約束します。貴方様の御力をより増大させる陰陽術を揃えて参りました。目障りな怪異どもは我々でどんどん潰していきましょう。さすれば貴方様の信仰はすぐにでも取り戻され、かつての神格を取り戻すどころかそれを超え……」
「おいおまえ」
「はい、どうぞ、なんなりとお申し付けくださ」
「違う、独楽鼠」
「……はい?」
「人間がたくさんいるから紛らわしい。いつものやつ。おれの周りで独楽のようにチョロチョロ動き回ってるやつだ。今はそこで小さくなってる鼠だ」
「私のことですか……」
 羊がため息をつく。当然のように、深雪は人間の名前を覚えていない。むしろ羊が個体として識別されていたことに驚いたくらいだ。
「この見慣れぬ五月蝿い人間どもは何だ」
「深雪さん。この方は阿部さんです。今日からこちらの方が貴方の担当になります。私はこれでお役御免なので、挨拶に来たんですよ」
「いらん」
「は?」
「いらぬことをするな。おまえで不満は無いのだから変えるな」
「いや、でも彼は陰陽師の家系の方で私よりずっと有能なんですよ。私なんか使えないから変えた方がいいですよ」
「人間なぞどれも等しく使えぬ」
「深雪様は程度の低い人間しか見ておられぬから失望していらっしゃる! 一度わたくしの能力を見ていただいてからでも……」
 はっきり程度が低いって言ったな……いや、どうやって収集つけるんだこれ。頭が痛くなってきた羊を追い詰めるように、深雪の機嫌はますます悪くなっていく。
「呼ぶな」
「なっ……」
「おまえごときがおれの名前を口にするな。我が妻が美しい字で綴った名だぞ。言霊が汚れる」
「で、では何とお呼びすれば」
「だから呼ぶな。口を開くな。目障りだ。失せろ」
「あ、あの。阿部さんとりあえず今日のところはこのくらいにしておきましょう。私も気遣いが足りませんでした」
「どういうことです? わたくし、何か神に失礼でも……」
「深雪さん、貴方が前回のデートで乱暴なことするから水蜜さん怒ったんじゃないですか。次のデートの見通しが立たないのは自業自得ですよ。私たちに当たらないでください」
「おまえ、昨日は子坊主と結託して蜜の機嫌をとってくると言っていただろう。やらずに逃げるつもりだったのなら頭を捻り潰すぞ」
「やればいいじゃないですか。礼さんとはまだ予定が合わないんです一日も待てないんですか? 暴れれば暴れるほど遠のきますよ」
「……チッ。もういい。全員消えろ。だが担当? というのか? おれに話しかけてくる人間は独楽鼠のままにしろ。せわしなく知らん人間に代わるのは疲れる。独楽鼠が死ぬまでは使う。いいな」
 苛立ちながらも収容室へ戻っていく深雪を一行は黙って見送った。その気になれば収容施設を破壊し尽くして出て行けてしまう武神だ、大人しく引っ込んでくれたのならこれ以上刺激してはいけない。
「いやはや……肝が冷えた。それにしても郷徒、お前あんなに神霊サマに好かれてんの知らなかったわ」
「好かれてないですよ……! 何見てたんですか」
「だって名前呼ぶなってキレてたのに、郷徒が何回名前を呼んでもそっちは怒ってなかったじゃん。他人とのコミュニケーション苦手とか嫌われるとか言ってたけど、意外と人たらしだったりして。いや、ていうか郷徒は怪異たらしか……」
「言わないでください……」
 何ヶ月か前に電車内で怪異に痴漢されて以来、羊はちょくちょく怪異から性的なアプローチで襲われる事件に遭っていた。呪われる、病気になる、殺される……のではなく、なぜか犯されるのである。先日の車に取り憑いた悪霊は珍しいパターンで、久しぶりに健全すぎる事件で交通事故死の危機も忘れてなんだかホッとしたくらいだ。死にそうなら深雪が助けに入ってくれるが、犯されているだけでは無視されるからである。そして、その経緯は逐一報告書にまとめねばならず。最も近くで報告を聞く墨洋先輩も『どうして郷徒ばかりこんな目に』と首を傾げるばかりだった。
「あの。私は今日のところは一旦帰らせていただいても?」
 刺々しい言葉が背後からささり、阿部を置いてけぼりにして先輩と話していたことに気づいた羊は慌てて取り繕う。しかし阿部の心証は最悪になったようで、ろくなフォローもできないまま帰られてしまった。
「人間には嫌われますね。やっぱり」
「いやまあ、これは仕方ないだろ……とりあえずこの件は保留かなあ。すまんな郷徒、仕事減らしてやれなくて」
「他の事務作業とか、誰かに回してもらえるだけでもかなり助かりますが」
「……それは、すまん!」
「はあ。ですよね」
 羊の社畜生活は、当分終わりそうにない。

***

「くそっ!」
 警察庁内の人気のない廊下で、阿部は悪態をつき壁を殴りつけた。あんな屈辱を、一般人相手で味わう羽目になるなんて。
 阿部家は確かに陰陽師の一族だが、実は由緒正しさで言うともっと古く洗練された一族がいくつもある。『この間の戦争といえば応仁の乱』という冗談があるほどの京都である。要するに、阿部は京都の陰陽師界隈ではうだつが上がらず怪異対策課に就職したのだ。ただ霊感がちょっと強い……ちょうど郷徒羊のようなほぼ一般人の中に混ざれば『京都の陰陽師』とチヤホヤされつつ名声を得られると思ったクチである。
 あの、深雪とかいう神霊。確かに気難しい気性であったが、外見の美しさも強さもこのまま諦めるにはあまりにも惜しい。神霊自体、そうそう出会えるものではない。有名な神社に行けば会えるが、そういうのは所属が決まっているわけで。深雪のような逸れの神霊など今時とっくに消滅しているか、妖怪や悪霊に堕ちてしまったものがほとんどだ。実際深雪も一度悪霊に堕ちかけている。しかし彼はかなり立て直しており、信仰を集めることができれば元通りの武神に戻ることが可能なようだった。
 神として弱っているうちに懐柔し、自分の式神になるように誘導したい。そのまま『式神になってくれるというのだから仕方ない』と怪異対策課から自身の手持ちに移してしまいたい。
(そうすれば、傲慢な月極家にも一泡吹かせてやれる。武神を連れているからと、現代陰陽師の頂点で踏ん反りがえっているあの妖怪爺に、さらに強い武神を叩きつけて横に並び立つ……いや、超えてやれるのに!)
 そのために、今まで入念に練ってきた計画がすべて水の泡に……などさせるものか。
(郷徒羊……あいつさえいなくなれば、深雪も受け入れざるを得ないだろう)
 担当にさえなればこちらのものだ。いくらでも策はある。そのために、まずは郷徒の不祥事を探して辞職させてやろうと阿部は企んだのだった。

 警察庁に残り、捜査資料をざっと確認した阿部であったが、郷徒羊担当の事件に不審な点は何もなかった。唯一大失敗しているのは深雪捕獲の一件だったが、これは寺烏真家が関わっているので下手に触れることができない。
(何かないか……何か……!)
 すでに成功している事件に穴が無いのなら、現在対応中の事件で重大事故を起こさせればいい。ちょうど彼は今、触手型怪異を預かっており怪異専門鑑識への引き渡しを控えている状況らしい。
(ここで触手怪異の脱走を起こし、奴に管理不備の責任を負わせることができれば)
 さらに、脱走した触手に証拠が残らない程度に術式を施し、人を襲わせでもすれば郷徒の責任は重くなる。それを阿部が見事退治したことにすれば相対的に阿部の信頼は増すことだろう。
 そう考えた阿部は、気配を隠しつつも早速怪異保管室に急いだ。件の触手はすぐに見つかった。昆虫や熱帯魚でも入れておくような水槽に入ったそれは全長五センチあるか無いかという小ささで、期待していたものとはかなり違っていた。
(なんだこれは……こんなモノでは脱走したところで大した被害が出そうにない。術式で強化でもかければあるいは……くそっ、報告書には『危険度高』とあったのにどういうことだ)
 阿部は水槽の蓋を開けた。
 次の瞬間、触手は小さな身体をバネのように縮めて凄まじい速さで飛び出すと、目の前の人間の鼻の穴に潜り込んだ。

三『武神の独楽鼠』


 今日も何にもうまくいかなかったな……そんな悲観的な感想を脳裏に浮かべつつ、いつも通り羊は事務作業で残業していた。最後の一人になるのもいつものことだ。
(最後に、預かってる触手型怪異の様子見て帰るか)
 今扱っている触手型怪異は、捕獲までは他の担当者が行ったものだ。こういう物理的に襲いかかってくる怪異は、感覚としては人里に降りてきた熊とか動物園から逃げた猛獣なんかに近い。僧侶による除霊や悪魔祓いなどとは違い、あまり怪異対策課らしくない捕獲の仕方をする。すなわち武力行使。猟友会に協力してもらうこともあるし(ベテランの猟師は下手な怪異対策課スタッフよりも怪異に詳しかったりする)今回の触手型怪異も刃物や銃器、爆発物などを利用してぶくぶく肥えた巨体を削りに削って……羊の元に届いたのは人の指ほどの欠片のみだった。捕獲した担当者は次の怪異案件のため既に出動しており、しばらく帰っては来ない。預かって明日怪異専門の鑑識に回すだけなら戦闘能力皆無な羊にもできる。というわけで引き継がれた。念のため、引き継いだ資料に再度目を通しておくことにする。最近関わってきた怪異案件的に、羊としては『触手』なんてものには極力近づきたくなかった。だが担当者である以上、万全に資料を読み込んで、慎重に慎重を重ねて、引き渡しまで乗り切るしかない。
 今回の触手型怪異は、人に寄生する。耳鼻口などの穴に滑り込んで内部から食い荒らし、その人間が触手の手足となるように都合よく改造していく。脳を喰い自我を乗っ取り、人間に擬態して他の人間の乗っ取りも企む狡猾なタイプだ。ゆえに危険度は高いと認定されている。
 とはいえ、今の触手型怪異は欠片しか残っておらず。他の肉片は徹底的に焼却処分されたと聞いている。人間にとっての脳や心臓部にあたる核があの小さな肉片に含まれているらしく、そこだけは何故か焼却処分しきれなかったんだとか。なのでとりあえず密閉した水槽に閉じ込めて、怪異のことを調べられる専門の鑑識に討伐方法を分析してもらおうということになっている。水槽の密閉を保ち、人間や他の生き物に接触しないように管理しておけば危険はないはずだ。

 ……はず、だったのだが。念のため怪異収容室を見に行った羊の前には絶望的な光景があった。
「開いてる」
 水槽の蓋が開いていて、中にいた小さな触手がいない。早く見つけなくては……とりあえず壁にある緊急ボタンを押して、地下の怪異収容区画を全面封鎖。助けも来るはずだが……時間が時間だ、誰かが気づいて人員を確保するまで時間はかなりかかるだろう。羊一人で、なんとか触手の居場所だけでも確認しなくては。口元を押さえながら辺りを見回していると、物陰で何かが動いたので反射的に後ずさった。
「え? 阿部さん?」
 物陰から姿を現したのは、昼間会った阿部だった。
「こんな時間に……まだ居たんですか? なぜここに」
 内心で人を最悪な方向に疑うのは羊の悪い癖だ。みんな羊のことを嫌っていて当たり前の想定。
 彼は触手怪異の脱走を先に発見していたのではないか。そして責任者の羊を糾弾するためにここにいたのではないか。そう思い、罵られる心の準備をする。しかし、そんなの安いものだ。京都から来た陰陽師だという彼がここにいるのは心強い。もう触手怪異を捕まえておいてくれているかもしれない。羊の怠慢やミスを叱責されるのは仕方ない。怪異が他の人間を襲わず無事捕獲できれば何でもよかった。
「すみません、私が管理していた触手型怪異が逃げ出してしまったようなんです。大変申し訳ないのですが、阿部さんも捕獲を手伝っていただけませんか……阿部さん?」
 返事が無い。異様な空気を感じて、羊が思わず一歩後ろに下がった瞬間。阿部が突然走って近寄り、羊の肩を掴んだ。体重の軽い羊は容易く押し倒され、背後にあった事務デスクの上に仰向けになった。
「見ツケタ……ヤット……ああ、お前もこれで終わりだ」
「はい……? 阿部さん、どうして……? あっ」
 覆い被さってくる阿部を見上げたとき、見えてしまった。彼の耳の穴から、チラリと覗いた触手の先端を。
(こいつ……陰陽師って言うから強いかと思ってたのに既に寄生されてる……! この分だと、阿部がわざと脱走させた可能性もあるな、現場知らない馬鹿かよ……!)
 悲しいかな、いくら腹を立てようが羊にはそれに伴う怪異との戦闘技術に乏しいので抵抗しようになかった。
「調査書読んだぞ。地味な顔のくせに、怪異に股開いて件数稼いでたとはな」
「は……?」
「神霊相手に身を捧げる巫女はよく聞くけど。十代かせいぜい二十代前半の若い女だ。まさかこんな平凡な男が怪異に……命乞いのためか? 今まさに死にそうだぞ。媚びてみろよ」
 おそらく阿部の素の筋力にも羊は負けていただろうが、今の阿部は触手に寄生されて脳のリミッターや筋肉の組成自体を弄られ人外のそれに改造されていた。それも資料にあった通りだ。彼の言う通り、阿部を操る怪異が羊を殺す前に性的な暴力でいたぶるつもりならば、それで時間を稼いで応援を待つのが最善手なのかもしれない。そう判断してしまう程度には、羊は怪異に犯され尽くしていた。着衣を引きちぎられるのには抵抗しなかった。
「うわ。骨と皮だけの胸で乳首ばっか腫れてる。貧相な身体で好き者だな」
 毎度締まりを良くするためにヒリヒリするまで嬲られるそこは、気のせいではなく確実に肥大化している。元々見れたものではない身体が一層醜くなる、それも吐き気を催す行為で、肉体だけは強制的に快楽を感じさせられながら。
 前回怪異に犯されて少し日が経っていたので、治りかけだった胸元の弱い皮膚は余計に敏感になっていた。しゃぶりつかれれば思わず呻いてしまう。咄嗟に唇を噛み締めてやりすごした。阿部の口腔内は既に触手の培養袋になっているようで、舌で舐められているというよりは無数の細かい触手に揉みくちゃにされている。気持ちいいのか悪いのか分からない、ただ神経をいたずらに刺激される不快感に変わっていく。それでも、下半身は否応なく反応する。
「あ……アア……イイ、匂イガスル……ココニ運バレテカラズット、触レルのヲ待っテタ……」
「阿部さん! 完全に言語野持っていかれてます! まだ意識どこか残ってませんか? 返事してください! 頼むから……あ、あ……っ」
 ダメ元で呼びかけてもやはりダメで。ついに行動だけでなく阿部の元の話し方も消えつつあり、早ク犯シタイ、孕マセタイと譫言のように繰り返しながらグロテスクに変貌した口を大きく開いた。まるで無数の蛆虫のような肉塊が蠢くそれで、今度はゆるく勃ちかけていた陰茎を吸われる。その刺激で誤魔化されながら、後孔が弛緩した隙に触手だか指だかわからない何かで暴かれる。前戯もそこそこに、デスクの上でM字に開脚させられた無様な姿勢のままいきり立ったペニスを挿入された。

 早く、終わってくれ……いや、助けが来るまではこのままがいいのか。硬く冷たいデスクの上で揺さぶられながら、羊は濁り切った瞳を天井の照明に向けていた。
 常識の通じない怪異に陵辱され尽くしてきた肉体を、今更普通の人間の男のペニスが犯したところで。特に何の衝撃もない。快感なんて感じるはずもない。乳首や陰茎を痛覚が反応するまで弄ばれれば反射的にふるえるけれど、羊の意識はどこか他人事にそれを切り捨てていた。
「あの……完全に脳乗っ取ってますよね。今いるのは阿部さんじゃなくて……元の人間じゃなくて、さっきまでそこの水槽にいた怪異。そうですか? 私の言葉わかりますか」
 普通に喋ろうとしても漏れ出る薄汚い嬌声に我ながら気色悪さを覚えながら、羊は触手怪異とのコミュニケーションを試みた。思えば、会話できそうな怪異というのはほとんど会ったことがない。人の言葉は話しても一方通行に捲し立ててくるだけで、羊の呼びかけにまともに応じた個体は皆無に等しかった。
「ア……アア、ン…………ん、うん、わかった、できた。わかるよ。余裕だね君。泣き叫んだりしないの?」
 返事をした。しかも発話レベルが上がっている。人間の脳を利用して、ここまで擬態してみせるのか。怪異の得体の知れない能力には悍ましさを覚えるが、これはチャンスでもあった。羊にはどうしても知りたいことがあった。
「あいにく、私は何故か怪異から殺されそうになるよりこうして生殖行為を求められることが多くて。怖がった方が良かったのならすみません。顔には出ていませんが怖いとは思ってますよ。どうして私みたいな……そもそも女ではない、妊娠できない、見た目も女性に似ているわけでもない男を。さっき言ってたニオイがするって何ですか」
「あー、だからここも緩いんだ。全然発情してない、これじゃいけない。これならどう」
 羊の胎内にある陰茎が不自然にうねった。肉棒の内側から、根本から何かが流れ込んでいる。腹部で繁殖していた触手が陰茎に移動して肥大化をはじめている、羊に挿入したままで。
「ぐっ……う、あ……やめ、裂ける、やぶれる、から……っ」
 とは言っているが、羊にとって何より怖かったのは『裂けた・もしくは裂けそうな痛みが無い』ことだった。内臓を圧迫される感覚はある。少しずつ細い触手をじわじわを追加して太くしていっているからなのか、羊側の身体もある程度柔軟に受け入れながら拡張されているらしく。冗談じゃない、本当に公衆便所にされてしまう。
「ああ、良くなってきた……泣き顔可愛いね」
 生理的に滲み出てきた涙を舐め回される。口から花束のごとく飛び出した歪な形の触手たちに。頬も、見開いた目も眼鏡ごと覆われて。真暗な視界で眼球を撫でられ、鼻水まで啜って鼻の穴まで到達したところで背筋が凍った。眼球を抉り出されるか、それとも鼻の穴からか。いずれにせよ脳はすぐそこに在る。しかし、そうはならずに頭部はすぐ解放された。
「あ、脳を喰われると思った? しないよ。勿体ないだろ。脳を喰ったらじきに崩れるから。人間だったことをカラダが忘れちゃって。単なる私の一部になる。そしたら君を味わえなくなるだろう」
「人間を取り込んで大きくなる、繁殖することがあなたの目的なのでは……」
「それはもちろんする。だが人間だって仕事しかしないわけではないだろう」
(俺は仕事しかすることないけどな……)
 会話を引き延ばしながら自嘲に耽る。これからどうなる? 自分はどうなる。阿部と同じく怪異の一部になるならすることはひとつだが、どうもそうでもない、怪異の言動には不可解さが残る。
「じゃあ私をどうするつもりですか」
「今まさに考えている」
「はあ……」
「また慣れてきちゃったね。もっと拡げようか。たくさん孕めるようになるし」
「ひっ、ぎ……痛、痛……くな……なん、で」
「痛いと発情しなくなるから。ん? でも期待していた感じだね。マゾというやつかな」
 まぐわりながら麻痺毒か媚薬のようなものを刷り込まれているのか、下半身がじんわり熱くてぼんやりしている。ただ快感だけが事務的に脳に送られている感じがして、腹の上の陰茎は情けなくふるえて、本来こんな使い方をしない直腸内は悦んで怪異の肉棒にむしゃぶりついていた。
「痛めつけられたほうが発情するならそうするけど、はらわたは傷つけたらいけないから。爪でも剥ぎ取ろうか」
「……」
「脅しただけでこんなに怯えて。やっぱりずっと目をつけていて良かった。うん。そうしよう。やっぱり脳には極力手を付けない。代わりにもっと胎を拡げて仮の宿にしよう。元の君を忘れないまま、私を慈しみ育てることが何よりの悦びになるようにしてあげる。そのほうがきっと君も幸せだよ。ねえ?」
「……」
「あら、また反応しなくなっちゃった。まあいいか。暴れないうちに引越そう」
 段階を経て、改造され尽くした生殖器は羊の薄い腹の上から見てわかるほど浮き出ている。今にも突き破らんと抽送される動きに無抵抗で揺さぶられながら、羊の右手だけはゆっくり自身の背中に滑り込んでいた。
 押し倒された瞬間、羊は自分の背中の下に拳銃を忍ばせていた。怪異収容室には怪異制圧用の武器があり、立ち入る際に念のため取り出して携帯していたのだ。警察官なので使用を許されているそれは、羊にとっては制圧用というより『最後の希望』という認識が強かった。
 怪異が阿部の身体を捨てて羊の胎内に逃げ込んできたら。脳を支配される前に、すばやく腹を撃って自決する。宿主が死亡すればしばらく、怪異はこの部屋から動けないはずだ。
「……っ、締まり良くなってきたね、もう、イく……っ、君のナカに出て孕んでもらう……っ」
(きっ、しょくわる……)
 羊の手が銃をしっかりと握った。寄生先を変える瞬間を逃すまいと、人間の形をした怪異を見上げる。イケメンもここまで尊厳を踏み躙られたらブサイクになるもんなんだな。なんてくだらないことに嗤いながら。整った顔立ちが性欲に歪む不気味な目。その後ろにある……白くて涼やかな表情の顔……あれ?

 怪異の動きが止まる。そのまま後ろに引かれる、物凄い力で。巨大な逸物が引き抜かれ、羊が勃起を伴わないまま精液を垂れ流して身悶えているうちに。阿部の形をした怪異は、大きな男に引き倒された。
 股間にぶら下がっている、羊の中を我が物顔で蹂躙していた元ペニスの化け物は照明の下で見るとより大きく見えた。皮一枚隔て蛆虫のような何かがうぞうぞと脈打っている不気味さは気弱な人であれば失神するほどかもしれない。
「魔羅に本体がいるな」
 大きな手が脚の付け根に伸びる。ペニスだったモノの根元を躊躇いなく引っ掴むと、一気に引きちぎった。
「深雪、さん……それ、そのままそこの水槽に入れて蓋、してください。その大きさと素材なら水槽は割れないはずなので」
「他はどうする」
「触手が残ってるので一応気をつけて、増援が来るまで隔離します。そこの個室が空いてるので……」
 破かれてよれよれのジャケットを申し訳程度に着直しながら、羊はデスクから降りた。下着とスラックスが見つからず辺りを見回していると、阿部の頭を掴んで持ち上げた深雪が何やら思案していた。
「この男の首、貰ってもいいか」
「はあ? 何でですか。いや、理由聞いてもだめですけど。脳が一番寄生されてるんですよ」
「蜜が以前『顔だけ良くて性根は腐っている男の首を河原に晒して、グズグズに溶けていくところを眺めたい』と強請っていたのでな」
「余計ダメに決まってるじゃないですか。ていうか『前』ってどうせ江戸時代くらいの話していますよね。プレゼントのセンスが数百年前で止まってる男はモテませんよ」
「はっ。この蛆虫に胎の中を造り替えられてついに自棄になったか。おまえがいくら吠えようとおれは介錯はやらんぞ」
「は……?」
 造り替えられたって、まさか。
「脳味噌は喰わないと言ったが、他は喰わないとは言っていなかったろう。怪異自体は滅してやったのでこれ以上喰われることはないが、おまえの尻の中は具合が良くなるように弄られたままだぞ」
「そうなる前に止めてくださいよ!」
 そもそも押し倒される前に助けて欲しかったが、そこまで深雪に期待しても無駄なことは心底わからされていた。
「知らん。気づいたのも今だからな」
「最悪だ……」
 すでに怪異に都合の良い肉便器と化していた自覚はあったが。ついに物理的な改造をされてしまった。ということは、今後もっと怪異から性的な意味で狙われるということで。呆然としている羊を前に、深雪は何やら別のことを考えながら彼の肉体を眺めていた。
「……おまえ」
「ろくな事考えてませんよね」
「背丈だけなら蜜に似ているな」
「流石に飢えすぎじゃないですか? ほんの少しデートの期間が伸びたくらいで情けない。百年単位で待ってたんじゃなかったんですか」
 深雪は地獄耳だ。だが、都合の良いことしか聴いてくれない。羊がいくら罵っても、頭に入っていない。
「それだけ弄り倒されていれば、人間とはいえおれが使っても壊れんか」
「正気ですか? こんな近場で浮気したら水蜜さんに即バレますよ。ていうかバラしますよ」
「おれの周りをチョロチョロと動き回る独楽鼠をつまんで小腹を満たすことが浮気になるのか」
「こっ……の」
 神とか祀り上げられてるクソ怪異はこれだから……! 悪態を吐く暇もなく、先ほどのデスクに逆戻り。うつ伏せに押し付けられるだけマシだと思ってしまうあたり、我ながら終わっていると諦念に浸る。
「うむ、まあ……背格好だけでなく、容易く折れそうな細さも近いといえば近い……のか……あるいは、薄暗い所でなら……」
「そんな渋々理由つけるくらいなら手出さないでくれます?」
「しばらく黙っておけ」
「……」
 腕を枕にして歯を立てておく。あの水蜜の代わりに使われるのだ、汚い声を出したら萎えると殴られかねない。自我を出してはならない。浮気なんてとんでもない、ただのオナホらしくしておけば良い。が。
「……っ、ぅ、ぐ……」
 耐えきれず、少しだけ呻きが漏れた。さっきの触手怪異による魔改造チンポも正気の沙汰ではなかったが、それよりさらに一回り質量がある。深雪の逸物が人間のそれと比べものにならないことは知っていた。深雪の担当として彼が水蜜と会うときは必ず同行せねばならず、つまり恋人たちの時間(そう言うと水蜜には怒られるが)
の間も同室とまではいかないが部屋を出てすぐくらいのところで待機していなければならない。処女だけさっさと踏み躙られて童貞だけが虚しく残る羊にとって、どぶに浸かるがごとき時間の消費である。事後ほやほやに部屋に入らなくてはならないこともあって、あんな化け物みたいなモノを水蜜はよく受け入れているなあと思ったものである。それが自分にぶち込まれる日が来るなんて予想できるものか。
 触手怪異には余程懇ろに解されていたのか、深雪の乱暴な挿入にも裂けずに耐えた。苦痛は腹の中身が押し出されそうな強烈な異物感のみ、胃袋が裏返って口から出てきそうだ。だがここで吐いたらまた殴られる。自分の腕に喰らいつく。早く終われ、助けがやって来たらこの状況をどう説明すればいいんだと必死で思考を平常に置こうとする。
 どれぐらい時間が経ったのか、羊は途中で意識を飛ばしかけていたのでわからないが、深雪が小さく「……蜜」と愛の名を零して一回中に出したところで漸く解放された。ずるりと引き抜かれるだけでも強い刺激で腰が抜けそうになる。ああ、また勃起すらしていないのにだらだらと射精して机を濡らしている。絶対に身体に悪い性欲処理をさせられている。
「ろくなものじゃなかったでしょう。これに懲りたらこんな悪ふざけは二度とやらないでください」
 今度こそスラックスを見つけて拾い上げると、同僚たちにはせめて下半身の惨状だけは見られまいと慌ててベルトを締めた。拭き取っても後から後からわけのわからない液体が出てくるため、下着の中はじっとりと最悪の環境になったが諦めた。今は少しでも早く家に帰って風呂場に飛び込みたい。腹立たしげに深雪を窘めれば、意外な返答が返って来たので羊は面食らった。
「悪くはなかったぞ」
「……は?」
「おまえは遊女のように甲高い声で喚かないしな。殖えるしか能のない蟲がわざわざ拵えただけあって具合もそれなりに良かった。蜜には遠く及ばないが、そもそも及ぶ奴なと存在しないから言うまでもないことだ」
「はいはい。そんなに水蜜さんが好きなら彼だけ抱いていてくださいよ」
「おれとてそうしたい。だがお前ら人間に逐一監視され、雑魚怪異の掃除ばかりでは気が滅入る。妻を憂さ晴らしに犯すのは良くない」
「そういう優しさだけはあるんですね……」
 羊がその優しさの範囲内に入ることは初めから諦めている。
「たまに使わせろ。あと担当を変えるとかいう話もおまえから取り下げておけ」
「……わかりました」
 当初上がっていた、神実村に水蜜を封じ込めて国管理にする計画も、深雪のために新たな神社を用意しそこで大人しくしてもらう交渉も凍結してしまって久しい。おそらくそれらの計画を再開すれば膨大なコストと人員が割かれるから、それが羊一人の人身御供で済むなら……と上は判断するだろう。羊自身ですらそう思っていて、自分の身体を差し出してしまう。
「ま、このペースじゃすぐ壊れるから……そしたら上も流石に真面目に対策するだろ……」
 今回は使わずに終わった拳銃が、薄い子種に塗れてデスクに横たわる。それを自身の身体より丁寧に清めて保管庫にしまっている羊の背中を、深雪が黙って見ていた。一通り片付けを済ませた彼を見届けると、大きな手はおもむろに羊の首根っこを掴んで引き摺りだした。
「何ですか? まだ何かあるんですか」
「逆だ。今日はもう何もない」
「……は?」
 怪異収容室の中には様々なタイプの部屋がある。以前水蜜が収容されていた部屋と同じタイプの、ビジネスホテルの一室のような部屋も存在していた。深雪はその部屋を開けると羊を中に放り込み、外から鍵をかけてしまった。
「ちょっと! 何してるんですか!」
「鍵はおまえが『先輩』とか呼んでいる人間に渡しておく。そろそろ此処に辿り着くようだからな。おまえは怪異の制圧で精魂尽き果てていたので眠らせておいたと言っておいてやる。その中には風呂も寝床もあるだろう。大人しくしておくがいい」
「何言って……先輩が到着するなら私が……ああ、もう!」
 本当にわからない。怪異というものはこれだから。監禁されても壁を突き破って出てくる深雪と違い、羊は大人しくこの部屋で待っているしかなく。墨洋先輩の性格からして、深雪の言いたいことを読み取って翌朝まで羊はそっとしておかれることになるだろう。
 明日の仕事量を嘆きながら、羊はとりあえず奥のシャワールームへ吸い込まれていった。

四『偽女神の悪戯』


 触手脱走事件で羊が処罰されることはなかった。監視カメラから見えないように動いてはいたようだが、状況からして阿部が水槽に何かしたことは察せられたためである。死体は処理され、変わり果てた彼のペニスだけが鑑識へ引き渡されていった。事情を聞いて俺まで股間が寒くなったよ、とは墨洋先輩の談。
「ちゃんと病院へは行ったのか? 神様が寝かしといたって言うけど念のため部屋をモニターしたら、シャワー室で気絶してたから慌てて入ったんだよ。声かけても触っても全く起きる気配無かったし。相当酷かったろ」
「ご心配おかけして申し訳ありません……この通り、すっかり元気ですので」
「どのへんが『この通り』なのかわからないんだよなあ」
「すみません……」
「いやいやそうじゃなくて……」
 元気そうに見えないのはいつものことである。
「担当変更の件も残念だったな」
「あれ以来、深雪さんの素行が格段に良くなりましたからね。上もこの状態を維持したいでしょう」
 自分が彼の性欲処理もするようになったからです、とは口が裂けても言えない……ともいかないのが怪異対策課の悲しいところで。先日の出来事は一から十まで報告書に記載済み。触手怪異にだけでなく、深雪にも犯されたことや、その後もしばしば彼の居室に引き摺り込まれて抱かれていることは監視カメラにばっちり記録されている。
 何故か気に入られている、怪異対策課のスタッフ一人餌にして大人しくさせられるならそれでいいだろう。セットで怪異捕獲に出向かせればちょうどいい。専任の飼育員に任命するからあとはよろしく、という雰囲気である。
 深雪はあれで義理堅いところも持ち合わせているらしく、羊がしばらく従順に従っていると態度がほんのりと柔らかくなってきた。微かな変化ではあるが。なんとなく楽になった感覚がある。どうしようもなくどん底で四肢を投げ出した時にだけ掬い上げてくれるような、ぐずぐずになるまで噛み締めてやっとわかるような、そんなわずかな甘さだけれど。
 狼は仲間には優しく、血が繋がっていなくても子どもを群れに入れて育てることがあるのだとか。恋愛感情でも友情でもなかったら、あれの情けのかけ方はそれに似ているか。狼の生態とか調べたら少しは行動が読めるかな……などと。深雪にバレたら不敬とぶっ飛ばされそうなことを考えてみる。
「その代わり……にもならないが、しばらく郷徒専任の怪異案件は新規で来ないと思うから。例の触手の件では鑑識から問い合わせとか来るかもしれないがそういうのは頼む」
「わかりました。お心遣い感謝します」
「あとさ、郷徒お前、今日で何連勤だよ」
「……わかりません」
 途中から数えるのをやめている。
「かーっ! だめだだめだ。そんなんじゃ次の怪異案件が来たとき困る! 明李を見習え、あいつ今ハワイ旅行行ってるんだぞ日焼けしてマカダミアチョコなんざ押し付けて来たらぶっ飛ばしてやる。とまあそれは置いといて、明日は休みにしといてやるから、今日もこれで上がれよ」
「え……でも……」
「言ったろ、しばらく新規案件は無いって。ちょっとした問い合わせは俺がやっておくし、神様だって明後日に愛しのカミさんとデート控えてるんだろ? 機嫌いいからそのくらい許されるって」
「はあ……それなら、お言葉に甘えて」

 久々の我が家だ……と言っても、家賃で選んだ築年数数十年のオンボロアパートに何の愛着もなく。先日深雪に無理やり泊まらされた怪異収容室のほうがよほど綺麗で過ごしやすかった。最低限の物しかなく、しかし長年色んな人に使われてなんとも言えないにおいの染み付いた埃っぽい狭い空間。怪異に犯された身体を洗って、敷きっぱなしの布団に横になって眠る……ことすら許されず、ただ目を閉じて嫌な思考からひたすら耳を塞ぎ休んだことにする。そんなスペースでしかない。
「おかえりなさい」
 独身男性の棲家から聞こえるはずのない出迎えの声がした。綺麗で柔らかな、男とも女ともとれる優しい声。
「ちっとも帰ってこないから何か食べようと思ったけど冷蔵庫何も無いじゃん! アイスくらい入れておいたら? 腐らないからさー」
「……どうして私の家の中にいるんですか。佐藤さん」
 あたかも長年の友人か家族かのように振る舞っているが、彼は全くの他人だし、出会ったのは数ヶ月前だ。因縁なら羊が生まれるずっと前からあるのだが。
 神実村という特定の地域でのみ信仰される女神『根くたり様』をその身に宿し、人間から不老不死の『神の化身』へと変生した正体不明の怪異、名を水蜜という。普段は『佐藤』と偽名を名乗って大学生に成りすましており、怪異対策課による収容をかわして悠々自適な生活を送っている。
 普通の人間の男であれば、彼がこうして家に押しかけてきて親しげに甘えればたちまち虜になってしまうところだ。水蜜の最も特徴的な能力『蠱惑体質』。男性を自認していながら、中性的な美貌と両性の性器を有する身体で男を堕とす。その人の元々の性的対象や性的嗜好など関係なく、水蜜に夢中になって狂ってしまう。だが生憎、羊にそれは通用しない。ある程度霊感が強い……怪異対策課で日夜怪異と戦っているような人間ならば惑わされることはないのだ。
「郷徒くんさあ、ダメだよ? 大事なお家にはしっかり鍵をかけなくちゃ。開けっぱなしだったよ」
「ああ、また母さんかな……いえ。鍵を忘れたのは私の迂闊ですが、だからといって佐藤さんがこんな薄汚い独身男の家に居座っている理由はわかりません。礼さんのお家から追い出されでもしたんですか」
「いや、そうじゃないけど。警察で聞いたら、明後日まで郷徒くんはお休みって聞いたから珍しいなーって。ついでにどんな家に住んでるのか見てみようかなと。僕が郷徒くんに会おうとするのそんなに変?」
「変だと思います。佐藤さんは私のことかなり嫌っていらっしゃると思っていたので」
「やだなーもう、いつまでも根にもたないでよ。そういうところが暗いんだぞ? もう水蜜って呼んでもいいよぉ、僕だって色々あってイライラしてただけなんだからさあ」
「はあ……では水蜜さん。何のご用で」
「違うでしょ、君が僕に用がありそうだから来たんだ」
「……」
「聞きたいことがあるんじゃない」
「山ほどあります。何のおもてなしもできませんけど、話をしてくれるんですか」
「ほんとに冷蔵庫に何にもないから僕がお酒買っといたよ。感謝してよね」
「私、酒弱い体質なんですけど」
「ちょっとは飲めるでしょ。ま、飽きたら途中で帰りたくなるかもしれないから、優先度高いことから聞いてよ」
 羊の返事は聞かず、水蜜は冷蔵庫から自分が買ってきた缶チューハイを二本出して、部屋の中央に置かれた簡素な折りたたみテーブルの上に並べた。
 やっぱりこの怪異、心底嫌いだな。そう思いながら、羊は玄関の扉をそっと閉めた。

 聞きたいことか……知りたいこと、この怪異から吐かせたいことならいくらでもある。こいつが羊を……郷徒家そのものを、不幸な人生に突き落とした村の宗教のいわば教祖であることはわかっている。憎き敵ではあるが、羊一人の力ではどうすることもできないのは事実。向こうが友好的なうちは大人しく馴れ合っておいた方がいい。
 何せあの深雪が心底惚れ込んでいる『嫁』が水蜜なのだから。水蜜側は結婚どころか交際した事実も無いと言うが、彼の深雪に対する態度はどう見ても長年連れ添った恋人同士のそれだ。あれが『友達』にする態度だというのなら、男を誘う体質以前に性根が淫乱すぎる。
 さて、何から尋ねようか……突然訪れたチャンスに戸惑いつつも、羊は必死で頭を働かせる。
 神実村での郷徒家の扱いや追放までの経緯……いや、それは自分で調べた方が正確だろう。水蜜からの話だと、記憶の曖昧さや個人的な偏見が大いにノイズになりそうだ。本当は、郷美正太郎に尋ねるのが最適解だが……気が重い。今日水蜜から聞き出せたこと次第でアポを取ってみよう。
 深雪の扱い方……それも羊には参考になりそうもない。スタートの時点で違う。水蜜は深雪に誰よりも愛されている妻(ではないが)、羊は性欲処理の家畜。羊が可愛らしく甘えたところで不気味がられるだけだ。
 となると。直近の問題を解決するのが最適解か。ちびちび口に含んでいた酒がじんわりと回ってきた感覚がある。羊は思い切って水蜜にあの話題をふってみることにした。
「先日私がまた怪異に性的な意味で狙われた件はご存知ですか」
「ああ、触手だっけ? 雪ちゃんにちょっと聞いた」
「そのときの個体が人間を乗っ取って言葉を話す能力がありまして。気になることを言っていたんです。私のことを前から目をつけていた、理由は性別や容姿ではなく『ニオイ』だと……」
「ふむふむ」
「私は一応清潔には気をかけているつもりなんですが。周りの人に聞いても異臭はしないと言われましたし。香水の類も無縁です。となると、怪異にだけ感じられる何かのことだと思ったわけです」
「うん、郷徒くんは臭くはないけど。むしろ潔癖なくらい洗ってるよね。それに怪異はそういう生き物臭は気にしないやつが多いと思う」
「そうですか」
「郷徒くんは自分でわかってないの?」
「わからないから貴方に聞いてるんですが? その言い方ですと何か知っているんですね」
 深雪の件で重要な情報を伏せていたことに関してはまだ根に持っている。なにせ人が何人も死んでいるのだ。忘れてはいけない。深雪も水蜜も人間ではないということを。どんなに人間らしくあっても、ある時急に人の命を踏み躙っていく。そのときの彼らは紛れもなく怪物であった。
「もう……だからいつまで根に持ってるの……今回は違うよ、私もはっきりわからないから郷徒くん本人に確認してるの。言われてみると、確かに気になる感じはあるよ。孕ませたがるのは怪異ばっかりなの?」
「ええ。人間には嫌われてますからね」
「ふうん……やっぱり僕にはわかんないかな」
「そうですか」
 落胆はあった。それから『水蜜のことだから、また何かわかっていて教えてくれないのだろう』といういじけたような気持ちも。それらの不安や不満を濁った無表情の下に押し隠した羊の顔をじっと見つめ、水蜜は呆れたようにため息を吐いて会話を再開した。
「でもさあ、このままだといけないと思うなあ。細かい理由はわからないけど、郷徒くんが怪異から見て美味しそうなのは間違いない。それって僕の蠱惑と似てるでしょ。身を持って知ってるから断言するけど、すぐに壊れちゃうよ。郷徒くんは普通の人間だから」
「そのうち壊れるというのは、私もそう思います」
「その割に平然としてるなあ。壊れるの自分だよ?」
「どうしようもないので。壊れたらそのときですよ」
「ねえ、郷徒くんて恋人いたことあるの」
「ありません」
「じゃ童貞なんだ」
「そうですね」
 今更水蜜に隠すことでもないか、と。自分のプライベートな情報もさして大切とは思っていない。
「怪異にしか犯されてないからまだギリ処女ってことでいい?」
「判定甘いですね……それにしても私はダメですよ。子どもの頃にレイプされたこともあるんで」
「……そうなんだ」
 軽率に揶揄うような声が、ほんのりと低くなった気がする。
「このままだと一生童貞かもじゃん。ていうか、郷徒くんは女の子と付き合いたいとか思う? それとも男の人?」
「どちらでも望んでいません。だって可哀想じゃないですか、男でも女でも。怪異に体を改造までされたし、犯されるたびに胃液が枯れるまで吐くし、親族もクズ揃いのゴミに好かれる人なんて」
 脳裏に特定の人物が浮かんでしまう思考は、必死で遠ざけながら。
「相手のことは気にしないとしても、本当に郷徒くんにはそういう欲求は無いわけ?」
「だから、望むべきではないと言ってるんですよ。誰も巻き込まず、一人で死んでいかなくてはいけないんです。長く続いた……のかは私は知りませんが、郷徒家はこれでお終いですよ。それが一番喜ばれるんじゃないですか? あなたの村の人たちからも、その中心にいるあなたからも」
「うーん……郷徒くんは少し勘違いしてるんじゃないかな」
「どこを勘違いしていると? 郷徒家は丸ごと村から排斥された、正真正銘嫌われ者の一族。あなたからも疎まれ呪われている。違いますか?」
「違う……僕からはうまく説明できない……近いうちに、正ちゃんに会ってみてくれないかな。病院でのことで気に病んでるなら、それは僕がなんとかするからさ」
 意外だった。水蜜は郷美家に郷徒家の人間を近寄らせたくはないのだと思っていたからだ。あちらから村の情報をほとんど開示してきたようなものじゃないか。酒の席での口約束なので実現するかは期待しきれないが、どちらにせよ郷美正太郎には接触すべきなのかもしれない。
「僕が難しい話で答えられるのはここまでだな」
「もう飽きましたか。ではもう帰って……何ですか?」
「問答は飽きたけど、別の楽しみは見つけた」
 嫌な予感がする。
「確かに郷徒くんのことは好きじゃないけど……美味しそうな童貞には見えるってこと」
「……は?」
 やっぱりそうだ。少しでも理性的な会話ができたと喜ぶべきではなかった。ふたりの間を隔てていたテーブルを退かされ、じりじりと、距離を詰められる。再度帰るよう、声を上げかけたのに。眼鏡をさっと奪われて意識を逸らされ、優しく両手で頬を包まれて……唇を塞がれた。

「……ん……っ!」
 嫌われているはずなのに、どうして。それはあまりにも優しく、労わるようで。犯されるとき、下劣な目で見られて嬲られるときに感じる吐き気が来ない。むしろ心地良さすらあって戸惑う。久しぶりに入れた酒のせいか? わからない。だって、キスされたらどう感じるかなんて
「郷徒くん……キスしたこともなかったんだ」
 口を薄く開いたまま呆然としている、羊の反応は水蜜を喜ばせたようで。濡れた唇をひと舐めして、魔性の怪異は妖艶に笑む。
「知ってる? 雌みたく犯されて情けない射精ばっかしてると、おちんちんが小さくなっちゃうって。そうなったら童貞卒業したくてもできなくなっちゃうよ?」
 よかった、まだ勃つんだ。とスラックスごしに萌しかけた男根を撫でられて思わず息を呑む。
「だからって……貴方としたいとは思いませんよ。結局怪異、じゃないですか。それにこんな、幼くも綺麗でも素直でもない、ただ惨めなだけの童貞の相手して貴方も面白くないでしょう。ついでに言うと小さいのは元からです」
「わかってないなあ」
 ワイシャツのボタンを外して肌蹴させられ、スラックスのベルトも外して前を開かれる。その一連の行為に抵抗することができない。どうして? まさか水蜜の能力が効いてしまっている? そんなはずはない。
「それに、大きさだけ追求したら雪ちゃんに抱かれてる僕は人間全部興味なくなっちゃうよ。それは郷徒くんだって身をもってよーく知ってるくせに」
「それ、は……あっ」
 背中から腰にかけて、素肌を撫でられただけなのに妙な声が出る。下着に指先を差し込まれて流石に抵抗しようとしたところで、再びキスされて力が抜けてしまう。
「……あは……こんな改造されちゃったんだ。男の子のお尻なのに、濡れてる……柔らかいのに吸い付くし。郷徒くんは嫌だ嫌だって泣いてるのに、ここはすごく欲しがってる……こんなの、怪異は『誘ってる』としか思わないだろうねぇ、可哀想……」
「……ぁ、や、やだ、やめ……あ、あっ」
 深雪に抱かれるようになってから……いや、怪異に犯されてからだったのかもしれないが。羊は自慰行為をうまくできなくなっていた。男性器を刺激するだけではイけない。何故かはわかってる、後ろも刺激されないと満足できない体にされたんだ。それに気づいた日はひたすら吐いた。それでも抜いておかないと怪異に襲われたとき余計に喜んでいるように誤解されるかもしれないと、自分で指を入れてみたこともあった。が、それもうまくいかなかった。
 それがどうだ。水蜜がその細く長い綺麗な指で軽くまさぐっただけで、目が眩むほど気持ちよかった。確かに経験値は圧倒的に違う。だけど、いくらなんでもこんな。いくら経験豊富で肉体も美しいと言っても、心から憎んでいる相手にいたぶられて、苦痛なしの快感を感じるなんて。
「郷徒くんさあ、自分は気持ちよくなっちゃいけないって思ってるよね。だから苦しいんだよ」
「だっ……て、本当に気持ちよくなんて、な……気持ち悪いだけですよ、それを、無理やり……っ、あ」
「でもさあ、どうせ犯してる側からしたら関係ないよ。郷徒くんが気持ちいいのを我慢してるかなんて。体はすっかりマゾ雌で、喜んで男に媚びてる。見られてるのはそこだけ。だったらさ、いいじゃん……どうせ犯される間やり過ごさないといけないのなら、気持ちいいことだけ考えてれば……そうすれば、当面は壊れずに済むよ。少なくとも心は」
 後ろだけで射精させられそうな刺激を断続的に与えられ、しかし寸前で止められる。羊自身もこんな奴にイかされてなるものかと耐えているが、そうですかと寸止めを続けられるのは拷問に近い。それでも。
「壊れた方が、まし……」
「嫌いだな僕。そういうの」
 水蜜に抗うようなことを言い続けていても。目を合わせることはできなかった。眼鏡を外されてぼやけた視界でも怖かった。きっとあの村の人間にはずっと染み付いているんだ。どこに逃げようと。この『根くたり様』なる怪物に対する畏れが。
 下だけ脱いだ水蜜が羊を抑え込みながら跨って、今までで一番長く、貪るように唇を奪う。初めて知る甘ったるいキスに溺れた隙に、腰を落とした。散々焦らされ続けた羊の雄が、数多の男を蕩けさせてきた名器に喰われて耐えられるはずもなく。ほぼ挿入した瞬間に射精してしまった。
「……っ、は……っ、は……」
「ふふ、かわいらしい童貞ちんちん一生懸命勃たせて、うっすい子種必死で搾り出して可愛い。ほら、腰揺らして頑張ってるね、偉いね。いっぱい出しな? そのうち勃たなくなって、ちょっと大きいクリトリス扱いで、乳首と一緒に玩具にされるだけになるんだから」
 指先でグリグリ胸元を弄られて耐えられず体を跳ねさせる。その動きで頬を涙が伝う。抵抗の意思を折られた証左を見届けて、水蜜は心底満足げに笑った。

「終わりか? こんなものか」
「あ……っ」
 久しぶりに吐き気を伴わない快感があった、とそのまま眠りたくなったのも束の間。水蜜を挟んで、さらにその背後に突如現れた影は狭いアパートの一室ではあまりに窮屈そうな巨体で。冷水を浴びせかけられたような恐怖心で、ほろ酔い加減も一瞬で抜けた。
「あは、は……雪ちゃん、遊ぶのは明日だよ……?」
「独楽鼠に休息を与えると聞いて、それもやむなしと思った矢先にこれだ。相変わらずの悪食だな、蜜」
「ちょっ、と、乱暴にしないでっ……あっ、ん」
 まだ繋がったままだった体を強引に引き剥がされ、水蜜も羊も快楽の余韻に身を震わせる。軽々と抱え上げられた水蜜は慣れた様子で深雪にしなだれかかるが、深雪の機嫌はかなり損ねていて簡単に宥められそうになかった。
「……あとは夫婦間の問題なので、他所で解決してくれます? 深雪さん天井突き破りそうなんですけど」
「夫婦じゃないんですけど……っあ、痛い、やめて」
「私は襲われただけの被害者なので、これで……」
 自宅を捨てて逃げようともしてみるが。しっかりと足首を掴まれて引き戻されてしまった。
「女を知らぬ若い男を誑かす、蜜の妙な遊びは昔からだがおれは一度も認めたことはない。今すぐ死ぬか、おのれが蜜を抱けるような男だということ自体忘れるか選べ」
「じゃあ殺してください」
「蜜への仕置きが済んだら次はおまえだ。そのへんでいつも通り縮こまって待ってろ」
 やはり聴いてもらえなかった。物件が古すぎて、たまたま隣人や上の住民がいないタイミングなのは助かった。あとは建物が壊れないのを祈るしかない。

 さっきまで獲物をいたぶる猫のように余裕で嗤っていた水蜜が悲鳴を上げている。泣いて赦しを乞う姿に多少なりとも溜飲を下げたからか、それとも、まもなく自分にも突き立てられる圧倒的な雄を思い出して胎が疼いたからか。部屋の隅で半裸のまま膝を抱えていると、羊は再び勃起しかけているのに気づいた。理由がどちらにせよ、最低で最悪の屑らしい思考だ。
 ジャケットからこぼれ落ちて、色褪せた畳の上に転がっていたボールペンはすでにインクが切れている。役立たずのそれを拾い上げると、尖った先端を自身の太腿に向かって真っ直ぐ振り下ろした。

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