病ませる水蜜さん 第十一話
はじめに(各種説明)
※『病ませる水蜜さん』第二章『怪異対策課の事件簿』の第二話です。前回の記事を読んでいる前提となっておりますので、初めての方は以下の記事からご覧ください。
※今章『怪異対策課の事件簿』はサブタイトル『郷徒羊の受難』となっており、主人公の郷徒羊がとにかく酷い目に遭います。ストーリー上どうしてもR18・グロテスク・陰鬱な展開は避けられないので、そういうのが苦手な方は同時進行中であるもう一つの第二章『陰陽師・月極紫津香』の方がおすすめ。マガジンも別々に分けてあるのでご活用ください。
※このオリジナルシリーズは私の性癖のみに配慮して書かれています。自分の好みに合うお話をお楽しみください。
【特記事項】
今回は羊総受のような雰囲気。全く羨ましくない可哀想な総受。直接的なR18シーンはありませんが、子どもへの性的な暴力や虐待などが過去にあったという描写があります。
・今後もこの一次創作BLシリーズはCPも受け攻めも固定しません。好きな組み合わせの小説を選んでね!
ご了承いただけましたら先にお進みください。
ざっくり登場人物紹介
※前話までのネタバレがあります!
・郷徒 羊(ごうと よう)
警察庁霊事課(別名・怪異対策課)所属。二十五歳独身。詳しくは第九話の登場人物紹介参照。
人間からは嫌われがちだが、何故か怪異には異様に好かれ性的な暴力を誘ってしまう。第九話では怪異に身体を弄られ余計に犯されやすくなり『怪異のみを惹きつける蠱惑体質』のようになってしまった。誰よりも嫌っている水蜜と似たような身体になったことには嫌悪感を抱いているが、その性質を活かして怪異を誘き寄せ、戦闘能力の高い深雪とバディを組んで退治・捕獲を行う仕事をするようになった。
『怪異対策課の事件簿』では実質主人公。脅威の大出世だが、サブタイトルが『郷徒羊の受難』なので色々と過酷な運命が待ち受けている。最後は絶対ハッピーエンドにするからそれまで頑張ってほしい。
・水蜜
郷徒が監視している怪異その1。詳しくは第九話の登場人物紹介参照。第九話では羊のファーストキスと童貞を奪った。
・深雪
郷徒が監視している怪異その2。詳しくは第九話の登場人物紹介参照。とにかく水蜜に惚れ込んでおり水蜜にだけは甘いが、他の人間は心底どうでもいい。オレ様で乱暴で脳筋で自分勝手だが、自分の身の回りの世話をしてくれたり何かと気にかけてくれたりする羊のことは彼なりに、ちょっとだけ、大事にしている模様。バディというよりは、放っておくとすぐ死にそうな小動物を見て庇護欲を刺激されている感じ。
・郷美正太郎
民俗学を専門とする大学教授。六十三歳の小柄な男性。郷美と郷徒の因縁は第一章第五話にて詳しく語られているが、ある事件から郷徒家を強く恐れている。郷徒羊とは直接の因縁は無いが、血筋から羊の目つきがある人に似ているため、目を合わせるのを怖く感じている。羊は全く悪くないのはわかっているので、勝手に怯えてしまうことを申し訳なく思っている。羊の境遇には同情しており、できる限り協力したいと思っている。
これまでのあらすじ
怪異対策課として『根くたり様(真名・水蜜)』と『深雪』という二体の怪異を監視する担当となった郷徒羊。
特に水蜜は、かつて郷徒家の故郷であった神実村の祭神であり、彼への信仰が原因で郷徒家は村八分同然に追放されたという因縁があった。羊自身は神実村やその文化と何も関係が無かったものの、自身の家庭環境の劣悪さやこれまでの人生の不遇さは水蜜にも要因があったのではないかという八つ当たりじみた憎悪を抱いていた。そのため、現在も彼は神実村の因習めいた文化の調査を続けている。第九話で水蜜と少し話をすることができた羊は、郷美正太郎とも話をしてみたいと思うようになった。
深雪とは現在はバディを組んで怪異対策にあたっているが、かつては敵対していた。羊自身も入院するほどの重症を負わされたが、羊本人はそのことよりも、対深雪戦で協力してくれた三名の人命を守れなかったことを自責し続けている。『水蜜に定期的に会えるのなら警察に協力し収容される』という妥協案を出し本人の意思で警察の人間に協力するようになった深雪とはそれなりにましな関係になりつつある……はず。
水蜜と深雪、ふたりのお騒がせ怪異に振り回されながら仕事に追われる羊に襲い掛かる、次なる事件とは……
第十話とも関連しているので、余裕のある方は事前にこちらもお楽しみください。
病ませる水蜜さん 第十一話
怪異対策課の事件簿 第二話
一『怪異対策課と陰陽師』
「郷徒さん、マズいかもです」
同僚の明李が耳打ちしてくるときは大体ろくなことがない。先日は優しいお坊様達だったから良かったものの(それでも心労はすごかった)それ以外は本当にろくなことがなかった。
「用件は」
「陰陽師の方が来てるんです。郷徒さんあてに。明らかに怒ってる雰囲気で」
ついにきたか。羊は小さくため息をついた。
先の深雪収容作戦に参加した人間は四人いた。そのうち生還したのは羊一人で、残り三人は深雪に斬殺されてしまった。今でこそ大人しく協力してくれている深雪ではあるが、本来神霊というのはこういうものだ。少し機嫌を損ねただけで、人間などいとも簡単に命を奪われる。
犠牲者のうち、神職の経験のある者は最もそういうことを心得ていた。神様を前にして、とるべき行動を間違えた。だから死んだ。神霊を視ることができ、神の威圧感を間近で感じながら生活する経験をした神職なら当然受け入れられることだと。普段はへらへらしている明李が真顔で語っていたのが印象に残っている。
僧職であった犠牲者は、寺烏真礼寛の取りなしにより手厚く葬られた。羊は何も悪くない、蓮たちもそう言っていたが、遺族の反応もほぼ同じだったらしい。
というわけで、三人の犠牲者のうち二人の遺族とはすでに話がついていた。だが、実は後一人の遺族からはずっと連絡を拒否され続けていた。連絡先は……京都の新陰陽寮。最後の犠牲者は、陰陽師だった。
応接室で待ち構えていたのは、身なりの良い壮年の男性と護衛役らしく後ろに侍る大柄の青年だった。
「お前の安い頭など、いくら下げられても何の価値も無いのだが」
「仰る通りです」
予想通り、陰陽師の遺族は羊を憎んでいたようだ。とはいえ、今更羊にできることなどなく。とりあえず平伏してはいるものの、自分の土下座にまったく価値など無いことは自分が一番よくわかっていた。
陰陽師といえば平安時代に隆盛を極め、その後も明治時代に陰陽寮が廃止されるまで存在していた職業。この令和の時代では昔話の存在。というのが一般人の印象である。しかし怪異対策課を中心とした『視える』人間にとってはしっかり現役の巨大勢力である。現在は京都にある『新陰陽寮』を拠点に活動している。一般に名乗るための副業を持つ者も多いが、そちら側も政治家や資産家、大企業の社長など立派な肩書きが多い。京都府警の怪異対策課はほぼ陰陽師の手中と言っていいほどで、今まさに羊が土下座している相手も京都府警怪異対策課の元課長である。
「命を奪われた陰陽師は、我が足谷家の有望な若者であった……」
羊はあまり陰陽師側の内情に詳しくないが、いくつかある陰陽師の名家の中でも足谷家は由緒ある家柄のひとつであることは調査済みであった。先日の阿部と似たようなもので、深雪収容作戦に参加した足谷家の若い陰陽師も神霊と対峙する経験を積みたかったらしい。だが深雪の暴虐の前では、なす術なく死んだ。
「あんたら怪異対策課のような新しい役人どもが上に立って無茶な作戦に駆り出すから、陰陽師だけではない、有望な霊能者が…………技術の継承が…………」
さて、いつまで床を見つめて罵られていれば納得してもらえるのだろうか。羊はいつも、できるだけ相手とは目を合わさないようにしている。誠意を伝えるために目を見て、とはよく言われるが。羊の場合、目つきの悪さで逆に相手を煽ることになるのは、散々痛い目を見て実感済みだった。
そこまでわかっていたのに。そろそろ終わるだろうかと、ちらりと顔を上げてしまったのがいけなかった。目が合ってしまったのだ。足谷の後ろにいる、屈強な肉体の青年と。彼が人間でないことは気配で察していた。彼はおそらく陰陽師が従える式神というやつだ。だとしたら、人間のように見えるのは擬態で、つまり怪異の一種だ。見てしまったその目はぎらぎらと輝いていて、羊と視線が合わさった途端にひときわ妖しく光った。しまった、と思い顔を伏せたが遅かった。
「……ご主人様。簡単なことですよ。人間の命の償いをさせたいのなら、人間の命をひとつ差し出させれば良いだけではないですか」
「どうした急に。この下っ端公僕の首など、我が足谷家の血筋の者と釣り合わぬと先ほどから言っているではないか」
式神が許可なく話し出したのは珍しいことなのか、足谷は眉を顰めて自身のしもべの方へと振り返った。
「血の価値で償わせるならなおのこと……この人間を我が糧にすれば良いのです」
「何を言っている。お前おかしいぞ……おい!」
式神が勝手に動いた。床に這いつくばる羊の髪を掴んで引き寄せ、再びその目をよく見る。つい先程まで、物静かな護衛役として佇んでいた雰囲気とは別物すぎる野蛮さで。まるで何かに取り憑かれているかのように。式神で人間に攻撃するのは流石にまずい。警察官が民間人に拳銃で攻撃するようなものだ。足谷は式神を止めようとしたが、彼はみるみるうちに妖獣の本性を露わにしていく。
「よくもまあ、こうも矮小な体に詰め込まれているものだ。人間どもの憎悪も。怪異の情欲も。鼻につく神霊のにおいまで染み付いている、呪力の煮詰まった坩堝だ。これは人間同士では価値が低い存在なのだろう? 罪が有り、好きにしていいのだろう? ならば今すぐこれを貰って帰ろう」
従者らしく振る舞うことも忘れ、主人の制止も聞かずに捲し立てる。細い頸は簡単に掴むことが出来、軽く絞めれば押し殺した悲鳴が微かに漏れた。命が危うい状況であるのに、ただ怯えるしかできない弱い人間なのに。彼には達観したような落ち着きがあった。くたびれたワイシャツを引き裂き、骨に皮が張った胸から臓腑を抉り出してやろうと爪を立てても……そうされることを予め分かっていたかのように諦め切って、はじめから抵抗は無駄だと四肢をだらんと下げて、虚ろな瞳でどこかを見ていた。脅されている相手を見るでもなく、視線を逸らしていて、何を見ているのかわからなかった。
死が近づいた刹那、彼からひときわ甘い芳香が立ち上ったことは、怪異である式神にしか感じ取れない異常であった。
「やめろ! 聞こえないのか! 殺すのはまずい!」
「殺す……そうだ、すぐ殺すのは惜しい。嬲って、殺して、もう一度死体を嬲って……腐り切る寸前が、きっと」
「家畜の餌になるなど、許した覚えはないが」
「⁈」
音もなく、気配もなく。
羊を鷲掴んだまま、異形に膨張しかけていた式神の腕が斬り落とされていた。羊は支えを失って崩れ落ち、そのまま床に転がった。
「神霊……!」
「独楽鼠が見当たらんので、他の人間に事情を聞いてきた。おまえたちはおれに用があるのではないのか」
怪異対策課にも地下収容室にも羊が居ないことに気づいた深雪が、ようやく合流した。そもそもこの男がすべての元凶なのだが……。羊は床に横たわったまま、首を絞められていた呼吸の乱れを整えるのに必死でしばらく動けずにいた。
「仇撃ちなら受けてたとう。その式神も遠慮なく使えば良いが一匹でいいのか。弔い合戦をしたい者はおまえだけか。小出しに来られても手間だ、まとめてかかって来い。一族すべて根絶やしにしてやる」
「ああ……あ……」
先程まで羊に牙を剥いていた式神は、斬られた腕をおさえて後ずさっている。陰陽師の足谷も神霊の殺気に気圧されている。
「他はいないのか。ならばおまえから殺す」
「……や、やめ……」
「む」
深雪の足に、枯れ枝のような手首が縋り付いている。
「何故止める。此奴らはおれを殺しにきたのだろう」
「違い、ます……私が……私のせいで、だから」
「何故おまえが責められる。蜜が止めなければ、おまえもおれが殺していた。此奴らと同じだ」
「私が深雪さんに接触するよう要請しなければ彼らは死ななかった」
「おれに意見しようとしたのはあいつらの判断だった。おまえは後ろで蜜を見張っているだけだった。責を負うのはおかしい」
「それが私の役割だからですよ……! 家族や友人や、大切な人を喪う気持ちは私にはわかりません。でもどうしようもない怒りがそこに在ることくらいはわかります。それを神霊に向けたところで、理解してもらえないって無力さも……だから、代わりに、私に向けることで少しでも気が済むなら……たとえ、殺されることになっても」
「代わりだと? おまえがおれの代わりになると?」
「そのへんにしとき」
応接室の扉が開いて、何者かが二人入ってきた。羊と深雪は彼らのことを知っていた。そして足谷たちも彼らを知っていたらしかった。羊たちよりも、身に沁みて。
「陰陽頭……どうしてここに」
「それはこちらが聞きたいわ、足谷はん。陰陽頭とは肩書きだけで半分隠居してる私のような年寄りはともかく、まだまだ働き盛りのあんたが遠くの警察署までわざわざ来る暇はどこから捻り出したんやろねえ」
応接室内の空気がものすごく重い。何せ神霊が二柱に増えた。執事のような装いの、褐色肌の青年は人懐こい笑顔を浮かべてはいるが、深雪に負けず劣らずの殺気を放っている。そんな彼が恭しく仕えている麗人は、足谷なんかより肩書きも財力も陰陽師としての実力も遥かに格上の存在。彼もまた、おっとりした口調で語るもののその言の葉にはしっかりと迫力が滲み出ている。
新陰陽寮の陰陽頭(長官)である月極紫津香(げっきょく しづか)。若い女性と見まごうような美貌を保つが、実年齢七十七歳の大ベテラン。現代陰陽師の頂点に立つ男である。最も恐れられている彼の功績といえば『神霊クラスの怪異を式神にしたこと』で、現在生きている陰陽師の中では彼以外に達成した者はいない偉業だ。その式神こそ、執事の装いをした青年・炎天である。
「ババアがのろのろ歩くさかいちょっと遅かったやないの。可哀想に、兄ちゃん服ビリビリやで。式神がこんな野良怪異もどきの暴力……陰陽師の面汚しや」
炎天は執事らしからぬ軽薄な口調で主人を煽りながら、羊を助け起こしてくれた。
「こ、これは……」
月極紫津香に睨まれたら、少なくとも陰陽師としての立場は致命的であると絶望してか。足谷は真っ青な顔で、次の言葉も出ない。彼の式神もすっかり大人しくなり足谷の後ろで跪いていた。
「っちゅーわけで、陰陽師の粗相についてはそこの偉そうなババアが詫びさせてもらうさかい、兄ちゃんの飼い犬は大人しくさせてくれんか」
「性懲りも無く何をしに来た、神霊の癖に人間に飼われている家猫が」
「今言うたやろアホ犬。警察で暴れんなや。そっちこそ神霊の癖に野蛮やで」
「深雪さん。ここは月極さんと炎天さんにお願いしましょう」
深雪と炎天は少し前に本気で戦りあったことがある。飢えようが人間には従わず何処にも属さない主義の深雪と、月極の式神となりその立場を利用して力を蓄えた炎天。かなり古い神でプライドの高い深雪と、比較的新しく神に成ったばかりで柔軟な思考の炎天。正反対の性格である二柱は反りが合わず、どうしても睨み合ってしまうようだ。
羊が弱々しく懇願すると深雪は不機嫌そうに唸った。
「こいつが死んだら、ここに居る全員殺す」
それだけ言うと刀を納めた。
その後足谷と式神は追い返され、応接室には月極と炎天、羊だけが残った。深雪はかなり怒った様子で、羊にこれ以上の危害は及ばないことを確かめると姿を消してしまった。
「あーあ、ワン公相当拗ねてんなアレ。後で助けてもらったお礼ちゃんと言っとき兄ちゃん」
「拗ね……てたんですかあれ」
「わかってへんのか……飼い主もアホというか、不器用というか」
「アレが勝手にいなくなってくれたのは都合がええわ。炎天を使ってでもちょっとの間引き離そぉ思てたからな。私は郷徒さんとだけ話がしたくて伺ったんや」
「私と……ですか」
「あの神霊も水蜜に骨抜きにされとるやろ。あれらには聞かれたくない内緒の話」
ほのかに上品な香を放つ扇子で隠された口元、それがなくても読めない月極の表情。羊は観念し、月極と向き合って座った。
「まずはきちんと謝罪を。色々と勘違いして、焦って荒事を起こしてしまいました。郷徒さんの管理する怪異を勝手に処分する判断をしてしまったこと、本当にご迷惑をおかけしました」
「あ、いえ、その……」
月極との出会いはあまりにも急で忙しないものだった。怪異対策課に何の連絡もなく、彼の独断で『今すぐ水蜜を消すべきである』と、式神である炎天と共に襲いかかってきたのである。色々あって水蜜側とも和解……とまではいかないものの休戦し、水蜜の監視を担当する羊にもこうして正式な謝罪があった。確かに大変な事件であったが、かなりの大物であると知っている上、見るからに貴族然とした優雅な人物に深く頭を下げられてしまい羊は酷く狼狽えた。
「俺の方で調べさせてもろたけど、他にも陰陽師が色々迷惑かけたらしいなあ。さっきの足谷だけでなく、阿部んとこの倅の件も」
「その件までご存知でしたか……」
正直、阿部との件はあまり掘り返したくない。
「にしても兄ちゃん、アレな案件ばっか関わって不幸やなあ。なんでかわかる?」
「え……?」
不意に炎天が郷徒の背後に回った。神霊の動きはほぼ視えないので心臓に悪い。耳の後ろあたりでスンと鼻を鳴らされ、思わず身体が跳ねた。
「んー、やっぱ美味そう」
「えっ」
「炎天」
「ヤキモチかあ? ババア、この間の意趣返しやで」
「公務員に悪ふざけすな言うとるだけや」
「いやこっちは冗談やないで。兄ちゃんほんま難儀な体質やな、さっきの式神もゴチャゴチャ言うてたやろ? 美味そうやて感じられてしまうんや、怪異から。土着神とか相手なら手土産に最適やで」
「そんなお歳暮みたいな……」
「『香餌』やね」
「こう、じ……?」
「わかりやすく言えば『寄せ餌』やな。怪異や神霊からしたらご馳走に感じる霊力を持っとる人間のこと。気色悪い絡まれ方するやろ。私も似たようなもんで若い頃は難儀したけど……郷徒さんは除霊も自衛もできんのやったね」
「はい。霊感が強いといっても大したことないので」
「大したことあるがな。でも兄ちゃんの場合自覚しとらんのやな。怪異を寄せ付けるけど、撃退する力はない。なるほど、あの水蜜と縁の深い人間てことか」
「……」
やはりそうか。水蜜も似たような推察をしていたが、ベテラン陰陽師の月極にまでお墨付きを得ては受け入れるしかない。羊は水蜜と同じ『蠱惑体質』を持っているらしい。ただし、怪異限定でモテる類の。しかも、水蜜のように男を手玉に取って味方につける手練手管もなく、ただ怪異に犯されやすいというだけの絶望的な才能。
「月極さん。この体質を改善……なくすことはできませんか」
「なくすことは無理やな。とにかく、上手くやり過ごす方法を考えなあかん」
「そう……ですか」
「力が無いのはしゃーないやん。怪異と戦う才能あるほうがレアやで。兄ちゃんに必要なのは悪いやつに喰われんよう立ち回る要領や。この先命いくつあっても足りんで。遠慮せんと強いやつにどんどん頼らなあかん、陰陽師でも、坊主でも。ああほら、ちょうど礼寛の孫とも懇ろなんやろ? あのクソジジイと顔が似てる兄貴の方」
「は……? 蓮さんとはただ、仕事でご一緒しているだけで」
「照れんな照れんな。紫津香も昔はヒス起こしてあの家に甘え……ぐはっ」
「禎山寺が近いなら好きなだけ使えばええよ、僧侶としての徳は間違いない。せやけどあの寺の男は性格が最悪やからな、怪異案件で陰陽師の力が必要なら私に直接言いなはれ。阿部と足谷の失態もある、郷徒さんは特別に話通したるさかい。私らの顔も立ててや」
月極は寺烏真にどんな恨みがあるのか……そもそも憎んでいるのか、それとも信頼しているのかよくわからなかったが、怖かったので羊は黙っていた。
そんなこんなで、現代陰陽師のトップと直接連絡先を交換してしまった。流れで蓮の家のことをダシにしてしまったのも物凄く罪悪感がある。羊のような自力で怪異を退ける力も無い、家族の支えすら無い役立たずの下っ端風情が受けていいような加護ではないと思う。
内心そう思っていると、俯く羊の顔をじっと見ていた月極が静かに口を開いた。
「わかってへんみたいやからもう一度言うとくけどな、怪異と戦いに行って死ぬんは陰陽師一人一人の責任や。足谷が八つ当たりしたんは論外やし、あんたが自分のせいなんて思っているのも大間違い、ただの驕り。あんたらみたいな人間を守るんが私らの仕事、誇りや。そこは侮らんといて」
「は、はい……」
月極の静かな迫力に、郷徒はただ圧倒されるばかりだった。
「それに、ババアかてケチやから何の見返りも無しにここまで優しくはせぇへんよ、兄ちゃんにはちょっとお願いがあんねん」
「炎天」
「兄ちゃんかて、一方的に色々してもらうだけよりギブアンドテイクの方が気が楽になるよなあ?」
「私にできることなら……しかし、月極さんができなくて私にできることなんてあるのでしょうか」
「郷徒さんは血筋だけやけど神実村の人やろ」
なるほど……と羊は姿勢を正した。
「それを活かして俺たちでは調べきれんことを調べてきてくれんかな、ってことやねん」
「神実村のことを調べる……それはつまり、水蜜さんの討伐を諦めていないということでしょうか」
「せやけど何か? 郷徒さんかて、あのバケモノには消えて欲しいと思ってるんやないの」
「それは……」
深雪を遠ざけたのはそういうことか。
「もちろん、この間みたいな勝手は二度とせえへん。する理由が無くなったんや。俺たちにとっての本丸は水蜜やない、関わりはあるけど狙いの中心やないとわかってな」
「その話、詳しくお伺いしても」
「まだ確証が無いことばかりで下手に言えんのや、堪忍な。ただ、郷徒さんに協力していただけるのであれば、はっきりしたことは順次情報提供させていただきます。討伐ではなく、水蜜や深雪を大人しくさせておく方向でも策はあります。それなら穏やかな説得もできるでしょう。怪異対策課にとっても悪い話やないと思います」
「できることなら協力したいですが、郷徒の名はむしろ逆効果だと思いますよ。何しろ村八分にされ追い出された家なので」
「それは知ってんで。でも兄ちゃんは……郷徒羊さん個人はなんも悪いことしてへんよな? それなのに憎まれとる。それを可哀想やと思ってくれてる人が居るんやない?」
「……郷美……正太郎さん……」
「私とて、郷美先生とはゆっくりお話ししたい思ってるんよ。だけど……」
「いきなり水蜜ぶっ殺しにかかったからなあ。第一印象最悪やろ」
炎天が呵呵と笑う。
「それは私も同じですが……」
「せやからこそ、私らで協力しようという話をしているんです」
「なるほど……」
「寺烏真家の連中に可愛がられて、気難しい神霊のワン公にもあんな気に入られ方しとるのは奇跡やで。ここまで水蜜の懐に入れてるのは兄ちゃんだけや、期待してるで」
「そんな、好かれては……私を買い被りすぎでは」
炎天に後ろからがっしり肩を抱かれていて、もはや強制に近い。月極から協力関係のお願い、というよりは命令だこれは。とはいえ、羊はむしろ良い機会だと前向きに捉えていた。言われなくても、郷美正太郎とは話してみたいと思っていた。水蜜もどこまで本気かわからないが、郷美に会えるよう取りなしまで提案していた。月極から背中を押してもらえて、動く理由も十分できた。
「わかりました。怪異対策課としても、深雪さんと水蜜さんの今後の処遇についてはなあなあになっていて困っていたところです。何せ神霊二柱、正体もよく分からない。実際に神霊の式神化……共存に成功していらっしゃる月極さんが相談に乗ってくださるのでしたら非常に心強いです。ぜひよろしくお願いします」
「共存やて。俺らの夫婦円満の秘訣は簡単に真似できへんと思うけどなー、存分に憧れてくれて構わへんでー」
「適当なこと吹き込まんといて。まあ式神はこの通り阿呆やけど戦いなら文句なしやさかい、また深雪みたいな荒くれものの対処に困るようなら任せときなはれ」
「ありがとうございます」
これは素直に嬉しい。深雪もいるが彼は集団行動などしないし、今後怪異に関する大規模作戦があれば頼らせてもらおう。
「さて、用事も済んだしそろそろ……あっ、来た来た。ナイスタイミング〜」
「え、まだ何か?」
応接室に入ってきたのは、上品なスーツ姿の紳士だった。どこかのお偉いさんといった雰囲気だが、それに似合わずかなり焦って来たのがわかる息の乱れようであった。
「大変お待たせいたしました!」
「えっ、あの、本当に何があるんですか」
「何って兄ちゃん、まさかそんな半裸でお家帰るつもりなん?」
ほらほら立って、と炎天に促される。わけのわからないうちに破れたワイシャツやジャケット、特に無傷だが床に擦り付けはした靴とスラックスまで脱がされた。代わりに新品のスーツと小物一式を着せ替え人形が如くするすると着せられ、全身ぴかぴかになった。
「待ってください、これ何ですか」
「さっき兄ちゃん抱き上げたときにちょっと身体触らせてもろて、目分量でスーツ用意したんやけど。気に入らんかったら採寸させて作り直すで?」
「これ着替えってことですか」
「うちの陰陽師の式神が人様に粗相したんやから弁償するのは当然やろ」
「弁償もなにも、破られたスーツの何倍以上するんですかこれ……く、クリーニングしてお返ししますから……」
ちなみに羊が着ていたのは、社会人になりたての頃ショッピングセンターで買った一番安いスーツである。それが急に超高級品に化けてしまった。中身より服の存在感が強い。下着が洗濯でよれて色褪せていたのが急に恥ずかしくなった。駆けつけた人は、どうも近くにある百貨店の社員の方らしい。(おそらく)電話一本で百貨店の偉い人が駆けつけて商品を用意してくれる……わかってはいたが、とんでもない人とお近づきになってしまったようだ。
「もらえるんやから素直にもらっとき。全部足谷に請求書回すから使い放題でええで。おっと、あかん紫津香、眼鏡もヒビ入ってんで」
「眼鏡は本人連れてかな流石にあかんね」
「よろしければ、専門スタッフを派遣いたしますが……」
「眼鏡は元から……もご」
「ほんま要領悪いなあ兄ちゃん……あのな、俺も足谷んとこの式神嫌いやねん。楽しいから一緒にもっといびったろうや、なあ?」
「んぐ……」
口を塞がれたままそっと耳元で囁かれ、声も出せずに頷くしかなかった。本当に、とんでもない人とお近づきになってしまったようだ。
二『郷美と郷徒』
ここは郷美の研究室。今日は少し変わった組み合わせの面々が集まっていた。水蜜と仁、そして玻璃鏡という美しい女性が一人。郷美は奥で一人本を読んでいて、本棚の壁を挟んで手前のスペースで三人が談笑している。教え子たちが研究室でたむろしていても特に気にしない、郷美らしいゆるやかな雰囲気だった。
「仁くん、結局玻璃ちゃんの常連さんになったんだ……でも大丈夫かな、あんまりハマるとダメだよ? 本物の礼くんとの関係が……」
水蜜が心配しているのは、玻璃鏡の能力についてだ。玻璃鏡は怪異である。よく知られたところだと、サキュバスという種族に近い。彼女は(性別不明であるが、仮に彼女とする)老若男女どんな姿にも化けられる。実在の人物にすらなりきってしまう。容姿だけでなく、性格や記憶まで読み取って完全再現できるのだ。どんな相手でも、心を読んで『その人にとって最も性的魅力を感じる人物』に即座に変身。その能力を使って若くて綺麗な男性を誘惑し精をいただく。人間の生命力を少しずつ分けてもらうことで生きてきた。
仁は、幼馴染である礼のことが好きだ。しかしその恋心は伏せている。礼は男性を恋愛対象としていない。仁のことは『一番の親友』と慕っているが、恋人関係を求めれば困らせてしまうだろう。それで今までの関係が無くなってしまうくらいなら、一生友情のままでいい。仁はそう決意していた。
そこに関係をもちかけてきたのが玻璃鏡だった。いわゆるセフレというやつだ。仁は礼(のそっくりさん)と恋人のような時間を過ごせる。玻璃鏡は若いイケメンと安定して関係を持てて当面食事に困らない。Win-Winの関係ではあるのだが……そんな夢のような能力は、時に人を狂わせる。過去に玻璃鏡に魅せられた人の中には、夢と現実を混同して想い人本人に迫ってしまい、人生を破滅させた人間もいた。
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫。偽物と本物の区別はついてるよ。むしろ玻璃鏡さんのおかげで、性欲に邪魔されずに礼との関係を考えられるようになったんだ。感謝してもしきれないよ」
「うん、仁くんは本当にいい子だよ。いい子すぎるというか、割り切り方ほんとクールなんだよね」
「それならいいんだけど……」
「蜜ちゃん、すみませんが玻璃鏡さんたちを連れてそろそろ席をはずしてくれませんか?」
奥から郷美が顔を出した。
「郷美先生。すみませんうるさくして」
「いえ、それはいいのですが」
仁が恐縮すると、郷美は気にしなくていいと優しく微笑んだ。
「もうすぐ怪異対策課の郷徒さんがいらっしゃる約束なんです」
「怪異対策課ぁ⁈」
玻璃鏡が飛び上がった。彼女は怪異だ。怪異の警察である怪異対策課の人間とは顔を合わせたくなかった。少しでも人間に害がありそうだと判断されれば保護、監察……といえば聞こえがいいが、つまりお巡りさんに捕まってしまうわけだ。それは避けたい。
「正ちゃんもっと早く教えてよ! もう来たっぽいよ!」
「おや、約束の時間より少々早いですが……」
「もー、郷徒くんのばかー! どうする、どうする?」
郷徒羊はそれなりに霊感が強い。このまま普通の女子大生のふりをしてさりげなくすれ違う……とはいかないかもしれない。
「あの……」
仁がおずおずと声を上げた。
「玻璃鏡さんの倫理観に反するのはわかってるけど、ここにいる人は全員玻璃鏡さんの力を知ってるわけだし、郷徒さんの心を読んで逃げるってのは……? 俺たち何見ても絶対黙ってるからさ」
「蜜ちゃんから玻璃鏡さんの能力は伺っていますが、つまり郷徒さんの想い人が明らかになってしまうということでしょうか。それなら僕は奥で耳を塞いでいます」
「名案だと思う! 私は郷徒くんの好きな人なんとなく知ってるし、仁くんは……きっと、絶対秘密にしなきゃって理解してくれるだろうから」
「何それ。まあそれは置いといて、玻璃鏡さんはドアの小窓とかから郷徒さん見られる? それでいけるかな」
「いける……と思う」
「じゃ、なんとか上手いこと俺と一緒に出よう。水蜜さんは郷美先生に合図する係で」
「オッケー」
「じゃあ、今から変身する。みんな見ないでね」
見られると変身できないらしい。言われた通り仁は玻璃鏡に背を向けた。そのまま、郷徒羊のノックに応対する係を担当する。
「申し訳ありません、少し早かったでしょうか……おや、あなたは。確か病院で」
「あっ、ども。長七仁です。寺烏真くんとは幼稚園の頃からずっと学校が一緒で仲が良くて。それであのときも手伝いしてたんですよ」
「そうでしたか。その節は色々とご迷惑をおかけしました」
「いや、俺は別に何も……」
「もーっ、郷徒くん遅刻もダメだけど早すぎもマナー違反なんだよっ」
水蜜が声を上げた。羊は露骨に嫌そうな顔で水蜜を見たが、水蜜がいること自体は知っていた。郷美への取りなしを依頼していたからだ。しかし、その横にいる人物に気がつくと明らかに動揺した表情を見せた。
「蓮さん?」
「郷徒さんじゃん、久しぶり! っていっても大学に月極さんが押しかけてきた件以来だから、そんなでもないか」
「どうして、こちらに……また大学で何かありましたか」
「いやいや、大した要件じゃないから。郷徒さんには迷惑かけないよ。いつも気にかけてくれてありがとな」
「い、いえ……そんな」
羊は目の前の蓮が怪異の化けた偽物とは気づいていない。彼より怪異の気配に敏感な礼でもわからなかったほどなので当然ではあるが、不意に蓮と出会ったことでかなり動揺している様子だったのでさらに都合が良かった。
「郷美先生とこれから会う約束だったんだろ。小生はもう用事は済んでるから失礼するよ。仁くん、行こうぜ」
「はーい。佐藤さんもまたね」
仁の『うまく引き留めとけよ』という目配せにニッコリと笑うと、水蜜は「正ちゃんの様子見てくるから郷徒くんは座って待っててね」と羊をソファに突き飛ばしていた。一抹の不安を感じながらも、仁は蓮(に化けた玻璃鏡)を連れて無事に研究室を出ることができた。
「この先に多目的トイレがあるので、そこ使ってください」
「助かったよ。ありがと」
何度見ても玻璃鏡の変身はすごい。今回は本人を見ていないので自信が無いのか口数が少ないが、仁から見て綻びは見つからない。
しばらく待っていると、トイレの中で架空の女性に化けなおした玻璃鏡が戻ってきた。
「はあ、冷や汗かいた」
「とりあえず大学出る? 俺ももう講義無いし、バイトも休みだからそろそろ帰るよ」
「今日どうする? 私も予定無いし、久しぶりにする?」
「うーん、今日はいいや。蓮さんの顔見たらなんか……ね。玻璃さんたら、蓮さんの『弟を見る目なんか変じゃない?』的な、俺のことちょっと警戒してる雰囲気までしっかり再現してくるんだもんなあ」
「あはは。再現度上げるために仁くんの記憶からも見せてもらったからね」
それにしても。
「俺なら絶対秘密にするだろう、ね……確かにそうだけどさ」
佐藤さんて、なんかいちいち腹立つんだよな。きっと郷徒さんもあいつのことめちゃくちゃ嫌ってるよな、なんて容易に想像がつく。大抵の男は虜にするらしいが、何が良いのか仁には少しも理解できなかった。それなのに、他でもない礼がアレに惚れてるなんて。どうしてこんなに最悪なんだろう。
「佐藤さんって相手がただの人間だからって舐めすぎなんだよね。そのうち何かで痛い目に遭わないかなあ」
「気持ちはわかるけどねー。痛い目みても反省しないからああいう性格なんだよね」
「なんだよなあ」
「やっぱり、今日しよっか?」
「……そうする」
何やら仲睦まじい様子で歩く二人は、見た目だけなら大学生同士の美男美女カップル。男子も女子も羨むような状況に見えるがその実、互いに厄介な秘密を抱える仄暗い間柄なのだった。
一方その頃、研究室の奥で郷美正太郎と郷徒羊は向かい合って座っていた。水蜜は二人を引き合わせた後は勝手に話してくれという感じで、手前にある学生たちのミーティング用スペースで一人机に突っ伏し昼寝をはじめてしまった。
「お忙しい中わざわざお時間をいただき、本当にありがとうございます」
「いえ、私も……僕も、早いうちに会いたいとは思っていたんです。入院中はまともに応対もできませんでしたから」
「その説は大変御心労をおかけして……」
「郷徒さんもお仕事ですし、蜜ちゃんが要注意怪異だということは僕もわかってるんです。まさか郷徒家のお孫さんが怪異を取り締まるお仕事に就かれていらっしゃるとは思わなかったので動揺してしまいました」
すでに退院後かなり時間が経ち、深雪に殴られた怪我もすっかり癒えた郷美は穏やかに話している。
しかし、目を合わそうとしない。
元々羊は人と目を合わさないタイプだったが、それでも気づいた。郷美は羊と目を合わすのを明らかに避けている。
「郷徒さんとはいずれきちんと話をしなくてはと思っていました。今は亡き父の心残りでもあります。村を去った後、郷徒家の消息はつかめなくなってしまいまして」
「それは……きっと、そうでしょうね。神実村と繋がりがあった祖父母は施設に入ってもう何年も経ちますし、そもそも村と関わるなと口酸っぱく言われていました。徹底的に避けていたのでしょう。両親とはほぼ縁を切っています。母親が金をたかりには来ますが」
「そう……ですか」
郷美は絶句していた。羊もつい、恨みがましい言い方をしたと反省する。郷美は何も悪くないのに。
「郷徒さんの現状を伺ったところで、僕の話をするのも気が引けるのですが」
「いえ、そういうことは気にしないでください。私は知りたいんです。上からの命令ではなく、自分の意思で村の調査をしているんです」
「わかりました。僕個人としては神実村とはあまり関わらない方がいいと思っていたのですがね。これは僕の娘や孫にも言っていたことです。若い世代に昔の悪習を受け継がせたくない。父もその方針でしたし」
「先ほども仰っていましたが、郷徒家を追放したのは他でもない郷美先生のお父様ではなかったのですか?」
「そのお話も後ほど。さて……」
郷美は一度言葉を止め、老眼鏡を外して机の上にそっと置いた。
「あの村に関するお話をすると、どうしても郷徒さんにとって気分の良くないお話は避けて通れません。それと実は、お恥ずかしながら……僕もそう、でして。知っていることを一気に話すことはできないと思います。情けないことに、口に出すだけで精神的に参ることもありまして」
「ご無理はなさらず……話したくないこともあるでしょう。そこを強引に聞き出したりしませんよ」
「ありがとうございます。ですが、言わないでいるのも要らぬ誤解を招きます。お聞き苦しいところもあるかと思いますが、あなたには知っておいてほしい。郷徒さんは……羊さんは本当に何も悪くないということを」
自分に関わることが一番負担なので最初に片付けさせて欲しいと乞われ、羊は静かに頷いた。
「まずは、何故郷徒家が村を追放されたのか、についてですね」
「私が調べた範囲では、郷美さんは郷徒毅という私の叔祖父にあたる方とトラブルがあったということですが」
「それはご存知だったんですね」
「失礼ながら、警察署で調べられる範囲は。しかし死因は山中での事故死となっており、郷美さんは目撃者の一人として短い記述があるだけでした」
「でしょうね。あれは具体的に書けるような話ではない。村の駐在は何も考えずに事故死にしたと思います。深く立ち入ることは許されなかったはずです」
郷美はゆっくりと語りだした。
「あれは僕が九歳のころでした」
羊の瞳がわずかに揺れた。そう、自分で調べた範囲内で、妙に記憶に張り付いている数字があった。事件があったとき、郷美正太郎は九歳の小学生、郷徒毅は十四歳の中学生だった。羊の中では、その年齢差の少年が二人並んでいることは特別ひっかかるものがあった。とはいえそれは羊の個人的な感情からくるものであるし、ただの偶然なので口に出すこともないのだが。
郷美家は神実村一の名家だ。正太郎の父親の代で村を出ているが、昔はずっと郷美家の家長が村長を務める慣わしだったという。村人からの信頼はもはや信仰に近く、絶大な権力を持っていた。何故なら郷美家は最も『根くたり様』に、村の最高神に愛され村を任されている一族だと伝えられてきたからだ。
「毅さんは僕一人を山中のお社に呼び出して、中学生の友人二人と合わせて三人がかりで僕に暴力をふるいました。そこで、蜜ちゃんが助けに来てくれた……と思われるところで記憶が途切れてしまったんです。蜜ちゃんもそのときの記憶が無くなっているとか……それで」
一息置いてから、郷美は続けた。
「気づいたら、僕以外の人間は死んでいました。毅さん含め、三人は首をすっぱり切られて明らかに息絶えていました。下半身はほぼ原型を留めないほど潰れていました。切り離された頭は、ご丁寧に三つ並んで『根くたり様』のご神像の足元にありました。三人とも何故か恍惚に満ちた表情で恐ろしかったです。僕は無傷でしたが、九歳の子どもが見ていい光景じゃなかった。気を失って、また記憶が途切れました。僕は返り血塗れになって、毅さんの頭部を抱いてぼんやり立っていたそうです。その現場の第一発見者が、先日病院で会った女性。夜見桃子さんでした」
「……っ」
警察である程度は調べていたが、実際に見た者の話は生々しい。羊も流石にゾッとした。そして、郷美が入院していたときに会った夜見桃子の複雑な表情を思い出していた。
『若い貴方には関わりのないことで、理不尽でしょうけど……貴方のその姓が、彼を苦しめているのよ』
彼女が言っていた意味が、やっときちんとわかった気がする。だが、羊は続きを聞かねばならない。郷美も覚悟を決めて話してくれているのだから。
「そのとき水蜜さんは何をしていたのですか。まさか、彼が三人を……いえ、それはないですね」
「そうですね。蜜ちゃんにそんな力があれば今までいくらでも行使する機会はありましたよ。蜜ちゃんも、どうやって三人が死んだのかは覚えていないそうです。ただ……ひっかかることがひとつ」
「……」
「現場の状況が、儀式に似ていたそうです」
「儀式……?」
郷美は事件がある少し前に村の祭で、『根くたり様の巫女』の役になっていた。本来少女が務めるべきもので、花嫁衣装のような着物を着て村を練り歩く。最後にお社に辿り着いて祈りを捧げる。郷美や一般の村人が知っていたのはそれだけだった。
「蜜ちゃんによれば、お祭の儀式はかなり簡略化されたもので、本来はもっと複雑だったそうです。完全な概要は蜜ちゃんすら忘れていますが、もし完璧な手順で行えば……神が目覚めるそうなんです」
「神霊を故意に呼び出す方法が、昔の神実村には存在したと」
「にわかには信じられませんよね。しかし実際、蜜ちゃんを巫女にして儀式を成功させた結果、彼はああいう怪異になった。一時的にも神を目覚めさせ、自身の体の中で眠らせたんです。その技術は、古くは京都出身の陰陽師から伝えられたものなのだとか」
「京都の……陰陽師から」
ここで月極たちの意味深な言動と繋がってくるとは。これは本当に、彼らと協力すれば水蜜をどうにかできるのかもしれない。と、それは後ほど考えるとして。羊は目の前の郷美の話に意識を戻した。
「巫女を務めたばかりの僕。そして神のお社の中という場所設定。それらが偶然儀式と重なった……これは僕の仮説ですが、あのとき一瞬、神は目覚めていたのではないかと」
「手順は不明瞭ですが、何らかの方法をとれば水蜜さんの中に眠る神霊は目覚めるかもしれない。『根くたり様』と呼称される本物の神霊が目覚めた場合、人間三人を容易に殺害できる権能が水蜜さんのコントロールを失ってばらまかれる危険性があるんですね」
「そう……なります。それでも蜜ちゃんを庇うのは……本当に申し訳ない、僕のエゴでしかない。あの頃、霊感が強いことを含めて本当に親身になって接してくれたのは蜜ちゃんだけだった。その恩を反故にはできない」
「それに関しては私からも謝罪します。今すぐ水蜜さんを拘束してどこかに閉じ込めようとかは、もう言いません。怪異対策課全体でその見解です。神実村のこと、水蜜さんのことを私がもっと知らなくては。村の人たちは今でも信仰を守って生活している。不安を与えることがないよう、皆が納得できる対処を郷美先生と考えていければなと思っています」
「ありがとう。あなたのような聡明で優しい方が間に入ってくれて本当によかった」
「そんな……ことは」
目は合わせられずとも、郷美は少し安心したように微笑んだ。少し気を許してくれたことに、羊はちくりと罪悪感を感じていた。
「そんなあなたに、さらに村のことを……昔から伝わる、いわゆる因習というものを話すとなると、不快にさせるようなことばかりなのが心苦しくてなりません」
「大丈夫です。郷美さんがそうじゃないことはちゃんとわかっています。ただの昔話です。続けてください」
「わかりました。ここからは僕も生まれていない、ご先祖様の話になります」
郷美はデスクの上のノートに手を伸ばした。古いノートが何冊か積まれていた。彼の日記のようなものらしく、開くと全て肉筆でびっしりと書き込まれているのがちらりと見えた。
「僕の世代も十分異様ではあったのですが、戦後にはほとんど村独自の文化は失われており、普通の村に近い形になっていたようなのです。明治維新よりもさらに前、山奥に閉ざされた神実村はもっと異界のような場所だったそうです。郷徒さん、神実村の特産品や主な産業はご存じですか?」
「確か、変わった桃と……他にも果物の畑をやっていらっしゃる方が多くて……農業、ですかね? それから、最近は観光業にも力を入れているとか」
「観光は本当に最近の話ですね。仰る通り、特殊な品種の桃『オオカムヅミ』と、他果物の生産は現在の村の主要な収入源です。ですが、現在もバスで何時間も揺られなければ辿り着けない山奥の村です。冬は大雪で外と隔絶される不便な場所にも関わらず、平安時代後期からずっと村は豊かでした。果物を売るだけではそこまで収入を得ることはできません」
「何があったんですか?」
「呪いです」
「……え」
「陰陽師の技術が村に伝わっていたことは話しましたよね」
村の開祖とも言われる京都の陰陽師一族・啓沙果家。その家自体は早々に断絶し陰陽師は村から姿を消した……だが、一部の技術は途絶えず残った。それを知る水蜜は自身に繋がる一族にそれを託し、村を守る術として代々継承していくように伝えた。
「それが郷美家です」
「えっ……ということは、郷美さんは水蜜さんの遠い子孫ということになるんですか?」
「蜜ちゃんの母方の実家だそうです。僕も驚きましたが、振り返ってみれば蜜ちゃんの僕に対する絡み方はなるほど、血縁だったからなんだなと腑に落ちました」
それは置いておいて、と郷美は話を続ける。
「『特別な桃を買い付けに行く』と神実村に訪れた客人の多くは……特に身分の高い、お金持ちの方の目的は、誰かを呪殺してもらうことでした」
「怪異の手を借りるなりして、一般の方には見えない力で事故死や病死に見せかければ政敵を合法的に葬れるというわけですか」
武士が台頭して鎌倉、戦国時代と続いて、江戸時代が終わる頃には衰退していた……時期的にも日本の中で血生臭い領土争いが消えていったのと一致する。明治時代には外国の怪異対策も入ってきたはず。その後科学技術が発展したり霊感の強い人間が減ったりして、神実村の闇はオカルトな与太話に化けて眠りについた。といったところか。一般の人ならにわかに信じられない話だが、ある程度霊感があって怪異の被害を知る人物ならば実感のもてる話である。実際怪異を悪用した犯罪は現代にも存在しており、普通の刑事では対応できないから怪異対策課があるわけで。
「因習に閉ざされた山奥の村なので情報も漏れにくいという信頼もあったでしょう。暗殺の報酬は莫大なもので、神実村は豊かになりました。しかし、そんな稼ぎ方では必ず報いがある」
「呪い返しですね」
「相手方が貴人であるほど、武力だけでなく霊力でも護衛されていたでしょう」
それこそ、月極家のような京都の陰陽師が守っていたりすれば、平民が聞き齧った程度の呪術は歯が立たず倍返しにされるだろう。
「村を取り仕切り、なおかつ最も呪殺の才能に優れていたのは郷美家でした。定期的に霊力が強いと評判の人間を外から呼び寄せ、婚姻させて血を強くしていたくらいなんですよ。郷美家が村の大黒柱であり、万が一にも呪い返しで断絶などあってはならなかった」
「それで、どう対応したのですか」
羊はなんとなく話が読めてきたが、口には出さなかった。
「郷美家の中で能力が低いと見做された者、村の在り方や根くたり様信仰に疑問を持ち反抗した者などを選別して分家を作りました。あくまで郷美家と同等とされていましたが、その地位はハリボテです。有事には真っ先に身代わりにされ、命を落としていきました。死ななくても酷い呪いに苦しみ、村人たちからも疎まれる人生を過ごさなくてはならなくなった。それが……」
「郷徒家、なんですね」
「僕が生まれた頃にはもう村に呪いの技術は無く、郷徒家も郷美家の親戚として扱われていました。しかし、一部のお年寄りから昔の感覚は伝わっていました。僕と毅さんは何かと比較され、僕を必要以上に持ち上げ贔屓するのがお約束でした。僕はまるで人間じゃないかのように扱われるのが嫌で仕方がなかったけれど、毅さんは何度も悔しい思いをして、僕を憎んでいたと思います」
「だからって、いじめをしていい理由には……」
「父はずっと郷徒家や他の追放された方達を気にかけていました。村から追い出したのは、郷徒家への罰ではなかった。むしろ、守るために村から離したと言っていました」
「守る? 根くたり様から?」
「父は亡くなるまではっきり言うことはありませんでした。根くたり様が復活して毅さんを祟り殺したのではないかと先程言いましたが、僕は考えてしまうのです。僕にはまだ、郷美家の血が……人を呪う力が残っていたんじゃないかと。無意識のうちに、僕が、彼らを」
「そんなことは……!」
違う。絶対に違う。そうであってほしいと羊は思った。こんなに優しい人が、自分が酷い目に遭っているのに、加害者を慮る人が。実は人殺しなのではないかと苦しんで欲しくなくて。羊は思わず立ちあがろうとした……そのとき、ぐらりとした感覚が襲った。目眩ではないことは、郷美の後ろに積まれていた本の山が今にも崩れそうなことでわかった。
「地震だ、危ない……!」
重い本の波が郷美の頭上に今にも襲い掛からんとしたところを、間一髪羊が庇った。郷美を床に押し倒して、その上に覆い被さった羊の背中に本が落ちた。羊は眼鏡が飛ばされたのと、多少打撲で痛かったものの、二人とも無事だった。揺れはすぐに収まり、大したことはないようだった。安心した羊が、郷美の無事を確認しようと下を向いた。
二人の目が合ってしまった。最悪のシチュエーションで。羊は目元が毅によく似ていると、祖父も言っていた。『しまった』と思ったが遅かった。何故だか、目が合ったまましばらく視線すら動かせずにいた。郷美は気の毒になるほど怯えていた。理屈は分かっているのに。羊に害意はなく、押し倒したのも助けるためだと理解しているのに。それでも、冷静さを失っていた。
その姿を見て、確信に変わってしまった。郷美正太郎は郷徒毅にいじめられていただけではない。大人たちからの贔屓を妬まれていただけではない。
この世のものではないと伝えられる美貌の女神の血を引く彼を手に入れたいと、暴力に染まった愛欲を向けられていた。お社に呼び出されたときに受けたのは性暴力だったんだ。そうでなければ、こんな顔はしない。よく知っている。自分も同じだから。今にも腹の中のものをすべて吐いてしまいそうな、青褪めた顔。
「今日はここまでだねえ」
隣に水蜜がいた。羊が慌てて飛び退くと、水蜜の手が伸びて郷美を起こした。
「大丈夫、喋らなくていいから。落ち着くまで待とう、ね?」
呼吸も荒い郷美を優しく抱き寄せて語りかける水蜜を見て、とりあえず安心と判断した。それから、自分はここにいない方がいいということも。
「では、失礼します」
「うん。細かいことは僕が仲介するからまた今度ね」
眼鏡を拾い上げ、羊は研究室を出て行こうとした。水蜜が正太郎を抱えて背を向けたまま、声だけで羊を呼び止めた。
「ちょっとだけ訂正。正ちゃんに呪術の才能は受け継がれていない。もっと前の代から失われている。だから正ちゃんは何も悪くないんだ」
「それは後で本人にも教えてあげてください」
「もちろん言うとも。他に言ってたことは大体合っていると思う。正ちゃんのほうが事態をちゃんと把握してるんだよね基本的に。僕はテキトーだから」
「それから……」
早く去らねばと思いつつも、羊は気になることをひとつだけ尋ねた。
「郷徒家もあなたの血縁だったんですね」
「そうだよ。正ちゃんと君も正反対のようで、根っこはよく似ているね。だから僕は君が嫌いなわけだけど」
「……また、後日メールで連絡します」
話を打ち切って、羊は出て行った。
羊が郷美の研究室を訪れた数週間後、羊の祖父母と母が亡くなった。祖父母は長らく認知症を患い施設で過ごしていたが、祖母の病状が悪化したため延命処置をするか問われた際に事件は起きた。年金を目当てにしていることを隠しもしない娘の非情ぶりに激昂した夫が無理心中を計った、世間的にはそういうことになり新聞に少しだけ載ったあと忘れ去られていった。
羊の祖父は既にまともに話せない状態だったはずなのに、突然はっきり喋り出したこと、何故か現場に刃物があったこと。娘の親不孝にはすらすらと罵倒の言葉を吐き続けた彼が最期に「毅の罪は私が持って行くから、どうか、孫は解放してやってくれ」と意味不明な言動を遺言にしたこと。不可解な点はいくつかあれど、調べられることもなく闇の中に溶けていった。彼らの訃報を伝えるために羊の父を探したところ、彼もつい最近自宅で孤独死していたことが判明した。
一夜にして天涯孤独の身となった羊であったが、聞いた瞬間にはむしろ安堵すら感じていた。彼がそうなってしまったのは、この数週間の間に起きたもう一つの事件の方が、彼の心を徹底的に痛めつけていたからである。
三『寂寞たる再会』
羊が普段働いている警察署の怪異対策課には、数名の怪異専門警察官が常駐している。出入りする者はもっとたくさんいるが、いつもいる人員はその程度のものである。数字上は最も所属の多い京都府はほとんどが新陰陽寮との掛け持ちで、次いで東京都だがそちらは全国の怪異対策課に飛び回っているため東京に居残る者はごくわずかだという。そんな中で、この警察署は地方都市であるにも関わらず常駐人数も設備も全国的に有名な規模だったりする。
そんな怪異対策課のオフィスのメンバーは、あまり存在感の無い課長を(一応)筆頭に、実質的なリーダーである墨洋健、まだ新米のような頼りなさだが神主の家で育った実力は確かな明李平太、そして『なんでも雑用係』を自虐的に名乗る郷徒羊、以上である。これでも多い方なのだ。以前はあと数名いたが、他県では常駐する者が一人もいないところもあったので次々に異動してしまった。怪異対策課は万年人材不足だ。なにせ、生まれついての霊感が無くては務まらないのだから。
そんな小規模な職場に期待の新人候補がやって来たので、今日の怪異対策課は少しだけ浮ついていた。
「寺烏真礼です。本日からお世話になります。よろしくお願いします」
「礼さんはまだ大学一年生ですので学業最優先で。休日予定が合えば怪異対策課の見学を、危険なものでなければ誰かの案件について行っていただくことも検討しております」
礼は昨年まで田舎の高校生だった。進学を機に一人暮らしをはじめたばかりだというのに、いきなり警察署に呼ばれほぼ内定な雰囲気で職業体験という急展開だ。さすがに緊張した面持ちで立っている。その横で、礼より一回りも二回りも小柄な羊が淡々と説明していた。緊張をほぐしてやるとか、羊にそういう器用さは無い。代わりに明李が陽気な声を上げた。
「実はさ、神社に来てもらうってときちょっとビビってたんだけど、寺烏真弟くんはあんまりお父さんやお兄さんに似てないね! デカいけど優しそうでよかったー」
「父や兄に似てないとはよく言われますね。母に似てるってよく言われます」
「なるほどー。お母さん美人なんだろうねー」
「烈さんの奥さんって確か……いや、今はいいか」
「え、墨洋先輩て礼くんのお母さんと会ったことあるんですか?」
「いや、会ったことはないけど……今は話すことじゃない」
「なんですかー、気になるなあ」
「明李さんは過去の資料とかろくに読んでませんから」
「え、郷徒さんまで何?」
「はい黙って。お前ら、学生さんが初めて見る『働く大人』だと思ってシャキッとしろよ。手本なんだから」
若手二人を下がらせ、礼の前に出て来たのは彼らより年上らしい気怠げな雰囲気の男性だった。
「はじめまして、墨洋だ。今日も……ンンッ、今日は課長がいないから一応俺がここの責任者だと思ってくれ。初日だし、まずは署内の案内とかか? 郷徒、テキトーに案内してやれ」
「はい」
相変わらず人使いが荒い。怪異案件でも他のことでも経験豊富で頼りになる先輩ではあるのだが。
「期待してるよ。俺は怪異対策課のスカウトみたいなこともさせられててさ……明李もそうなんだが、家業を継ぐ必要のない霊能者の子は喉から手が出るほど欲しいんだ。あの寺烏真家のサラブレッドときたら、怪異案件じゃ俺よりずっと強いんだろう」
「いや……兄と違って俺はまだ得度もしていないし、大学も好きに選ばせてもらったから素人で……」
「ま、今年から四年間楽しいキャンパスライフだってのに就職の話なんかして野暮だとは思ってるよ。でも前向きに考えりゃ、周りが就活に必死な時期に余裕でいられるのはいいことだぞ。四年生になったらそのありがたみもわかるさ。とにかく、うちは君を大歓迎するからじっくり考えてくれ。郷徒、くれぐれも優しく、丁重に、なんとしても口説き落としておいてくれ」
「はあ……」
「あはは……霊能者限定の職場ってやっぱり大変そうですね」
将来の選択肢の一つとして気楽に、なんて言ってはいたが墨洋の目は割と本気だった。礼は霊感の強さだけではなく、体格も学力も優秀な好青年である。若い人材として普通に欲しいのだろう。サボり癖があって肝心な時にいない奴とか、霊感体力家柄コミュ力何もかも人並み以下の雑用係とかだけじゃ心許ないだろうから。
「それと……礼さんはご実家の禎山寺がありますから、簡単に他県に取られないだろう、というのも魅力的なんでしょうね」
「あー……」
もし礼が遠くの県で働くことになったら、真っ先に警察まで乗り込んできてなんとかしに来そうな兄を思い浮かべて礼は苦笑いした。
怪異対策課での挨拶を終えて、羊と礼の二人は県警の中で入ってもいい場所を回ることにした。最後に地下に行って、深雪が(一応)収容されている怪異収容フロアを見せる予定だ。今は危険な怪異も(深雪以外は)いないのでちょうどいい。
「次は交通課です。一般の方には交番の次に馴染み深いのではないでしょうか」
「こんにちは。どこの課の人?」
交通課の人らしき男性が近づいて来たので、羊は苦手ながら挨拶しようとした。自分の愛想のなさで礼まで悪く思われたら困る。
「失礼します。こちら霊事課の……」
「あれ? もしかして羊くん? 郷徒羊くん?」
「え……? あの……」
「郷徒さんの知り合いの方なんですか?」
「……」
「ちょっとちょっと、覚えてない? 俺だよ、子どものころ一緒に遊んでたじゃん! ナオキ! 灰枝直毅だよ」
「……!」
ひゅ、と変な息が喉奥に滑り込んだ。愛嬌の乏しい三白眼がしばし左右にぶれた後、平静を取り繕った羊は淡々と礼を紹介した。
「お久しぶりです灰枝さん。交通課の警察官になられていたんですね。私は霊事課所属です。こちらの彼は大学生ですが有名なお寺のご子息で、捜査にご協力いただいていまして。それで署内を案内しているところです」
「刑事課じゃなくてれい、じか? お寺……ああ、霊事課か。心霊現象とか扱うっていうあの……子どもの頃幽霊が見えるって言ってたの、本当だったんだ」
(あの頃は信じるって言ってたのに。内心じゃガキの嘘だと思って合わせてたんだな)
刺刺した心の中で悪態を吐くが、あくまで顔には出さないように無表情で固めた。
「礼さん、そろそろ地下へ行きましょう。怪異収容フロアはよく行く場所になると思うので」
「わかりました。お邪魔しました!」
「あっ、羊く……」
背後で呼び止めようとする直毅へ振り返ることなく、羊はその場を去った。
「同じ署内に子どものころの知り合いがいたなんてビックリしますね。なんかすごい嬉しそうにしてたけど、もっと話さなくてよかったんですか?」
「今は勤務中ですので。小学生のころ以来会っていなくて、私の方はあまりよく覚えていませんでしたし」
「あー、向こうはよく覚えてるっぽいのに自分は忘れてると焦りますよね。それにしても明るいっていうか、声大きくて元気な人でしたね。ちょっと兄貴に似てる」
「……! っ、あ」
「郷徒さん?」
礼の言葉で、物凄く嫌な悪寒が全身を駆け巡った。
先程直毅の顔を見たとき、名乗られるまで誰だかわからなかった。よくよく見れば、昔の顔と大して変わらなかったのに。忘れていたんだ、故意に。彼の顔を思い出したらマズイと思っていた。だって、まさか。あの人に惹かれた理由の中に、もしかして。綺麗だと思っていた憧れの中に、そんな悍ましい記憶が混ざっていいはずがない。違う。そんな理由で興味を持ったんじゃ
「郷徒さん、顔色悪くないですか?」
礼が心配そうな顔で覗き込んできた。
「すみません礼さん。地下に着いたら応接室でお待ちいただけますか? 少しお手洗いに行かせてください」
「それはいいですけど……大丈夫ですか?」
「今は深雪さんしか収容していないので安全です」
「いやそっちじゃなくて……ううん、急ぎましょう」
何かを察した礼は、少しでも早く羊を一人にしてあげようと早足でついてきた。羊から目を逸らしながら。つくづく、この兄弟は勘が鋭く、まめに気遣ってくれる。それが今は苦しかった。
礼を応接室に案内すると、羊は一目散に空の人型怪異収容室に駆け込んで小さなユニットバスに向かった。便座に縋りついて大きくえづく。いつものようにろくに食べていないので、胃液だけが情けなくこぼれ落ちた。
「はあ、はあ……」
「あの男は何者だ」
いつものように音もなく、背後に深雪がいた。
「あれは何だ」
「灰枝さん……交通課の警察官です」
「あれは何だと、聞いている」
「はあ……」
神様には、人間ごときのごまかしは通用しない。
「九歳のころの私を、強姦した男です」
羊は子どものころ、親に放置されていた。食事などもろくに与えられず、いわゆるネグレクトだった。そんなときに何かと気にかけてくれたのが、近所に住む中学二年生の直毅だった。お小遣いからラーメンを奢ってくれたり、同級生からのいじめから庇ってくれたり、話し相手になってくれたりと世話を焼いてもらっていた。羊は直毅のことを祖父母を除いて唯一信頼できる大人だと(当時の彼から見れば、中学生は大人だった)慕っていた。彼の言うことは何でも信じて疑わなかった。突然強く手を引かれて公園の公衆トイレの裏に連れて行かれたときも、何やら怖かったけれど素直についていった。あとは……思い出したくない。
「今の警察は、十にも満たぬ餓鬼を犯した男でもなれるのか」
「深雪さんてそういう倫理観はあるんですね……もちろんなれませんよ、事件になってればね。でもなりませんでしたから。私はうまく証言できませんでしたし、親も警察沙汰を面倒がっていました。それっきり、私は彼から距離を置いた。まさかお互い警官になって同じ署にいたとは思いませんでしたけど」
「成程、おまえに向ける気が胸糞悪いと思えばそういうことか」
「……五歳年上で、頼もしい人だと思っていました」
ふと、深雪になら話してみようかと思った。
「私は両親にも見捨てられていたので一般的な家族がどんなものかよくわかりませんでした。ですが、それに近い存在だと思っていました。まるで、兄のようだと」
「……」
大きな耳をぴくりと動かして、しばし思案した様子で。漸く口を開いたかと思えば、深雪は突拍子もないことを言い出した。
「斬ってやろうか」
「は?」
「今聞こえた。あの男が、怪異対策課にいる。おまえを訪ねて来たと言っていた。アレが対応している……龍の神社の出仕が」
「上のオフィスにいる明李さんですね。しかし何故私を」
「碌な用事ではあるまい。だから、斬ってやると言っている」
「いや、なんでそうなったんですか」
「おれが勝手にやったと言えばいい」
「やめてくださいよ。監督責任を問われるのは私なんですから……というか、今日はどうしたんですか。人間ごとき、何してようと興味ないじゃないですか」
「無いな。だがおまえは壊れたら困る。あの男のせいでおまえの正気が損なわれるというのなら、邪魔なので斬ると言っている」
深雪の様子がいつもと違う……戸惑った刹那、羊の脳裏にあの龍神のことが過ったが口には出さなかった。そうやって、深雪の怒りに思いを馳せたら急速に冷静さが戻ってきた。
「もう大丈夫です。お騒がせしました」
「本当に、急に落ち着いたな。何だおまえは」
「深雪さんのおかげですよ」
「まだ何もしていないのにか?」
「しましたよ」
「わけがわからん」
さりげなくとぼけるような小細工をする性格ではなさそうだし、本気で首を傾げているようだ。とにかく今は、深雪の良くも悪くも真っ直ぐすぎるところに救われた。
「礼さんを待たせているので戻りましょう。今後は礼さんにもここへの出入りを許可するので精々お行儀良くしてくださいね」
「ふん。そこまで口が達者ならもういいのか」
寝る、と吐き捨てて深雪は消えてしまった。
その後、初日の見学を終えた礼を帰してから、羊はできるだけゆっくり歩いて怪異対策課のオフィスまで戻った。
「郷徒さん、お客さん来てましたよ。交通課の有名なイケメンと何のご縁が?」
「灰枝さんですよね、彼は子どものころ近所に住んでたんですよ。今日十何年ぶりに会っただけです」
「へえー」
「有名な方なんですか?」
「そりゃもう。署内では俺の次にモテる男なんで」
明李のカスみたいな冗談は聞き流して、羊は続きを促した。
「確か今年で三十路なんだったかな? 結婚するならちょうどいいくらいだって、ここ何年かは署内の独身女性が必死で狙ってるみたいですけど。あんなイケメンなのに結婚の話どころか彼女もいないらしいんですよねー。黙ってるだけの可能性もあるけど、彼女いるならいるって言った方が署内の女の子にしつこくされなくて済むのに」
「それは個々の事情でしょう」
結婚を意識する恋人がいない……彼は今も男が恋愛対象なのかなと思ったが、また気分が悪くなってきたので思考を中断した。深雪が勝手に暴れでもしたら厄介だ。
「小学校の交通安全教室とかすごく評判良いらしいですよ。そういうのもあってモテてるんでしょうけど……ああ、さっき来たときにメモ預かってたんだった。ゆっくり話したいから連絡してくれって」
「ありがとうございます」
交通課のマスコットが印刷されたメモ用紙には、整った筆跡で直毅の名前とメールアドレス、SNSのアカウントが書かれていた。正直二度と関わり合いたくなかったが、無視していたらまた怪異対策課に来るかもしれない。羊は新たにメールアドレスを作って、それで簡潔に『会うつもりはありません。話すこともありません』という内容を送った。それからしばらく、直毅が署内で羊を探しているらしき様子が伺えたが、羊は徹底的に避けて話すことはなかった。
***
その後しばらくして、派手な怪異案件が舞い込んできた。なんと白昼堂々、子どもたちのいる小学校で怪異が暴れているというのだからとんでもない事件だ。怪異を退治するだけでなく、どう後始末するかも頭が痛くなるシチュエーションである。
しかしまずは子どもたちが心配だ。羊は深雪に声をかけて、返事を待たずに署を飛び出して行った。多くの人は怪異の姿すら見ることができない。せめて視える人間が急行して、怪異のいない方角に誘導しなくては。それに……もしものときは自分が寄せ餌になればいい。
「地震のような衝撃が断続的に続いています! 小学校の中でのみの異常現象のようですので、児童は全員グラウンドに避難し教員の指示で順次下校させてください」
羊が到着したときには、すでに児童全員の避難と点呼が終わっているところだった。グラウンドに集まった子どもたちが順調に家に帰っている様子を見て安堵する。とはいえ、まだここからが怪異対策課の仕事なのだが。
「校内のところどころが荒れている……壁や出入り口の傷からして、象くらいの大きさの怪異が廊下や教室を走り回っている感じですね。人的被害が無かったのは本当に良かった……はい、深雪さんもこちらに向かっていますよね。先輩は近隣の交番や消防に根回しお願いします」
墨洋に状況を電話で報告した後、羊は校舎に足を踏み入れた。あちこちめちゃくちゃにされた校内は静まり返っている。学校にいた全員が避難を終えたと教員の一人から教えてもらっていた。
「たまたま交通安全教室をやっていたんで、ほとんどの児童が元々グラウンドに集まっていたんです。お巡りさんもいてくれたから迅速に避難指示を出してくれて……そうだ、若い男の人が一人校舎に残って逃げ遅れた人を探しに行ったはずです。その人にも避難完了したことを伝えていただけませんか」
あと一人、逃げ遅れた人がいるらしい。嫌な予感がした。そして、予感はその通りになった。
「羊くんが来たってことは、これ本当にお化けの仕業なんだ。怪異対策課ってこういうときに出動する人たちだったんだね」
まだ日没が早く、既に西日に近い光が差し込んでいる教室で。逆光を背に、直毅が眩しい笑顔をこちらに向けた。
「こんな事件滅多にありませんよ。怪異は基本陰気で静かな場所で見つかります。昼間に人が大勢いるところに出てくる時点でだいぶおかしい個体でしょう」
羊は淡々と説明した。
「そうだね。何にも見えなかったけど気配的に廊下をダーっと走ってぶつかって、身体が大きいから狭い窓とかドアには入れなくて別方向にまた走って……って猪かなんかがいる感じがした。猪より大きいかも。北海道の熊とかあんな感じなのかな……賢くはなさそうだけど、人がいると反射的に襲いかかるんだと思う。子どもたちは全員無事? よかった。俺は逃げ遅れた人の確認のために残ったんだけど、さっきからたまに近くで物音がするから、まだ俺のこと探してそうな気がして動けなかったんだよね。とりあえず静かにここに入って隠れてたって感じ」
「なるほど……状況が掴めてきました。ありがとうございます」
怪異を視ることはできずとも、直毅は優秀な警察官のようだ。咄嗟の分析と対応は最善を尽くしていた。彼がいなければ被害者が出ていたかもしれない。皆に頼られ慕われる大人になっているんだ。羊は醜く歪みそうになる顔を無表情で塗り固めながら、懐からお札を取り出して教室の入り口と部屋の四隅に貼り付けていった。
「それは……?」
「即席の結界を張っています。怪異を防ぐバリケードみたいなものです。入れないわけではないですが、わざわざここに寄りつくことはしないでしょう。静かに隠れていれば大丈夫です。間もなく怪異を倒せる応援が到着するので、それまでここで籠城するのが安全かと」
「わかった。ありがとう助かったよ」
お札は無論、以前蓮からたくさん貰っていたものだ。嫌でも彼の顔を思い浮かべてしまう。できるだけ直毅を見ないようにしながら、羊は最低限説明したきり黙ってしまった。
「ねえ、羊くん」
「……何ですか、灰枝さん」
気安く呼ぶな、という棘を含んで返事をしたつもりだったが、直毅のような社交性のある、やや強引に距離を詰めてくるタイプの人間には通じていなかった。
「メールは見たよ」
「では、私を探すのも止めてください」
「それは……どうしても、話したかったんだ。このまま黙って離れることはできなかった」
「話すことなんて無いでしょう」
「……ごめん。本当に馬鹿なことをしたと思っている。後悔してるんだ。中学のときから今までずっと悔やんでいた」
「ちょ……っと、何を」
教室は普段使われていないところだったらしく、床には砂っぽい埃がたまってざらついていた。そこに躊躇いなく膝と手をついて、ほぼ土下座のような姿勢で直毅が謝ってきたので羊は後ずさった。
「あのときは、よくわかっていなかった。それからずっともやもやしたままだった。それで……先日君と再会できて、やっとはっきりわかった。昔も、今も、俺はずっと君のことが好きだったんだ」
「何言ってるんですか。危険な任務中なのをわかっているんですか……!」
「ここから解放されたら、君はさっさと帰って二度と俺とは顔を合わせてなんてくれないんだろう」
「そうですね」
「だから、今伝える。君は何にも変わっていなかった。周りの環境が悪くて、それで人付き合いも怖くなってて……そんなドン底のときでも、子どものころから君は優しかった。今だって、応援を待ってからここに来ても良かったのに、たった一人で先行して来た。それは少しでも早く、現場の人たちの生存率を上げたかったからだろう? わかってるよ。昔からずっとそうだ。自分が飢えて危険な状態でも、他人の心配ばかりして。放っておくことなんてできなかった。目を離したら、儚く消えてしまいそうで」
こんなときに何を言っているんだ……? と、羊は呆然と立ち尽くして直毅を見下ろしていた。
「ガキの頃は焦って、本当にとんでもないことをしてしまった。兄ちゃんがいたらこのくらい楽しいのかなって、無邪気に手を繋いでくれていた君に……。よく考えたら、君の住所すら知らなかった。いつもの公園で待ってる、それだけで繋がっていたのに。それを自ら断ち切ったんだ。君はあんな酷い目に遭わされて傷ついただろうに、一切責めることなく姿を消した。どうしようもない俺にすら、最後まで優しくしてくれて……」
それは誤解だ。今の知恵があればちゃんと大人に頼んで、被害届だって出していた。当時は直毅も未成年だったから、大した罪にはならなかっただろうが少しは彼の人生に傷をつけることはできたはずだ。それすらしなかったのは、できなかったのは。ただ羊が弱く、口を塞いで震えていることしかできなかったからでしかない。今も口を挟んで訂正することすらできず、直毅の独壇場を止められない。
「片時も忘れたことなんてない。でも、君を見つけることなんて無理だと思っていた……それがまさか同じ場所で働いていたなんて。こんな機会逃したら二度とない。頼む、俺にチャンスをくれ。お互いもう大人だし、二度と君の意思を無視するような乱暴はしないよ。全力で愛してみせる。変わった俺を近くで見ていてほしい。昔みたいに守らせてほしい。他の誰も愛せないんだ。君以外には」
「は、はは……」
「羊くん?」
「一体、誰の話をしているんですか?」
まともな好青年だと思っていたけど、やっぱりおかしいよ。かわいそうに、俺なんか可哀想だと思って食べ物あげたりしたから、かわいそうに、この人まで頭がおかしくなってしまったんだ。優しくて、儚くて? 目も感性もおかしくなっちゃったんだ。可愛い同僚の女の子にでも向けてやればたちまち幸せな家庭がひとつ出来上がる大事な愛の言葉を、こんなゴミ屑に投げ捨てるなんて。どうしようもない気狂いだ。
「あなたにとっては、あの日の出来事はそんなにも美しい悲恋の記憶に作り変わっていたんですね。間違ってるから教えてあげますよ。あそこにあったのは、公衆便所の不潔さと、じめじめ暗い地面と、得体の知れない精液の生臭さだけでしたよ」
「羊くん、本当にごめん。君が怖くて痛い目に遭ったのは、俺もわかって……」
「わかってないじゃないですか……! あんなにがっついて食べてたラーメンとか、町中華みたいな脂っこいにおいを嗅いだだけで吐きそうになるんですよ、今は。あれから大人になるまで、ずっと」
「だから、そんなに痩せて……」
「もう関わらないでください。謝りたい気持ちがあるのなら、二度と顔を見せないで。忘れさせて」
「わかった、赦してほしいなんて言わないから。でも、せめて償わせて……」
「何をどう償うっていうんですか」
「君が望むならなんでもするから!」
「なんでも……?」
何ができるっていうんだ。結局外面は良くて、自分を悲恋の主人公にして周りに慰められたいだけのくせに。たとえ死んで償うと言われたって嬉しくない。俺みたいなゴミとヤったことなんて忘れて、俺の見てないところで、何も無かったように順風満帆な人生を送ってくれた方がずっとずっとマシだ。それでも、どうしても俺に干渉したいというなら……その手を汚して、俺の人生を終わらせてくれたりするんだろうか。みっともなくしぶとく、苦しさだけが続く、郷徒羊という男の醜い生を。
「じゃあ、私を殺せますか」
震える唇からこぼれ落ちた。声にだしてしまった一言が、強く甘く匂い立つ呪詛になった。清らかな結界を穢して、祟りを誘った。
爆発したような音が轟いた。
廊下側の壁に大穴が空いていた。
それを見てから、視線を正面に戻した。直毅は床に跪いたままだった。むしろ土下座していた。顔が見えなかった。いや、頭が無かった。なくなっていた。
大きな肉塊に無数の人の手が蟲のように生えた化け物がいた。目どころか頭がどこかもよくわからないが口だけは大きく、鋭い歯が黄ばんだ醜い列をなしていて。くちゃくちゃと不快な音を立てて咀嚼している、たぶん直毅の頭部を。
『コロシタ』
大きな図体に似合わぬ幼い声で怪異は言った。
『コロシタ、コロシタヨ』
羊の返事を待っているように見えた。まるで……命令を守って、褒めてもらうのを待っている犬のように。
『コロシタコロシタコロシタコロシタ』
何も言えずに硬直している羊に向かって、怪物のたくさんの脚が一歩近づいた。
「おい」
聞き慣れた声がひやりと耳を通り抜けて、羊は正気を取り戻した。深雪が羊の前に立っていた。怪物が次の言葉を紡ぐことすら許さず、神刀が切り刻んで滅ぼした。
「ど、どうして」
「何だ」
「どうしてもっと早く来てくれなかったんですか!」
「おまえは結界でも張って隠れていたんだろう。そのまま息を潜めていれば、おれがあの化け物を追い込んで狩っていたものを。奴め、突然踵を返してここへ向かいはじめたのだ。おまえ何をした? いや……」
深雪は下に視線を落として、直毅の亡骸を見た。
「この男に何をされた」
「あ……あ」
わかってしまった。羊の直毅への憎悪の念がうるさくて、怪異に居場所を教えてしまったことに。自分が最悪のタイミングで、『寄せ餌』と呼ばれたあの体質を発揮してしまったことに。
「そうか、そう、俺の、俺のせいで」
「違う」
「誰も死なずにすんだ、すんだはずなのに台無しにした、また生き残った、他人の命をつかって、そんな価値無いのに、俺が死ねば良かったのに」
「違う。こちらを見ろ」
か細い首を大きな手が引っ掴んで引き寄せる。神霊の紅い瞳が羊の濁った黒眼を覗き込んだ。
「まずいな、気が触れてしまう」
深雪は思案して、そのまま手に力をちょっとだけ加えた。きゅ、と小さな悲鳴が上がって、羊は気を失った……気を失っただけだ。へし折ってはいない。
昔、蜜がこんな癇癪を起こしたか……くだらん男にも色目を使うから……懐かしいな。そのときはどうしたらよかった? とりあえず先輩とかいうやつにまた放っておくか? 深雪は呑気に考えながら、羊を抱えて戻ることにした。意識を取り戻した羊が再びパニックを起こして過呼吸を起こしたので、怪異対策課はしばらく大騒ぎになった。
四『後日談と、新たな不穏』
直毅の死を目前で見て間もなく、祖父母と両親、家族四人の死後の処理がのしかかってきた羊であったが、むしろ冷静に目の前のことに対処することで強引に正気を取り戻すことができた。
それに、周りの人々が次々に手を貸してくれたので普段より孤独感が薄れすらしていた。葬儀関連は寺烏真家が率先して引き受けてくれたし、書類手続きの際には郷美が『僕は彼の親戚なので』と名乗り出て、つきっきりで教えてくれた。諸々の経費までほとんど出してもらった。
「申し訳ありません……全部やってもらって、しかもお金まで」
「このくらいはやらせてください。むしろ、これまで何もできなくて申し訳ないのは僕の方ですよ」
郷美は相変わらず羊と目を合わさないが、何も悪くない羊に酷い顔を見せてしまったことは気にしているらしくとても良くしてもらっている。
こんなことを考えてしまっては申し訳ないが、羊は郷美との独特な距離感にちょっとした安堵感を感じていた。一定以上は決して踏み込まず、それでいて祖父に似た優しさは感じる。そして、同じ心の傷を抱えていることを知っている。祖父の遺言を郷美に伝えるかどうかは、まだ決めることができずにいた。伝えるとしても、誰かを間に通したほうがよさそうだと思っていた。
***
不思議だよね君は。
みんな自分のことを嫌っているだろうなんて、世の中の理不尽を全部背負いこんでさ。加害に対して反撃も自衛もしない。怒りも憎しみもすべて自分に向けようとして、だけど死ぬのは怖くて震えながら生きている。
怨みを抱えた怪異からすれば、君の胎内はさぞや安心できるのだろう。絶対に抵抗しない、汚い感情をそのまま受け入れてくれる絶望のゆりかご。
君は邪悪な怪異を集めるのに最高の餌だ。近いうちに力を貸してもらいに行くよ。役に立って死にたいのだろう、自ら喜んで身を捧げたいのだろう。願いを叶えてあげる。こちらには最高の舞台が整っているから、安心しておいで。
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