病ませる水蜜さん 第十七話
はじめに
第二章『怪異対策課の事件簿 〜郷徒羊の受難〜』は第十七話で完結です。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
今章のはじめから順に読めるマガジン(まとめ)はこちら↓
なお、今回も文庫本の発行を予定しています。完全受注生産にするつもりですが、そちらは別記事でお知らせしますのでお待ちください。
では、本編をお楽しみください
病ませる水蜜さん 第十七話
怪異対策課の事件簿 第八話
一『郷徒羊の受難 エピローグ』
多くの苦難を経て不老不死の肉体となり、怪異と化した羊。自分はついに化け物になったのだと、怪異対策課の管理下で収容されることを受け入れようとした。しかし、蓮がそれを許さなかった。羊が攫われた時に助けられず、結果こうなってしまったことを悔やんでいたからだ。蓮は羊を禎山寺で引き取ることを提案した。羊にとっては良い誘いであったが、蓮の手を取ることは躊躇われた。
羊の知らない『幸せな家庭』が怖い。密かに慕っている蓮が、自分とは到底比べようもなく素晴らしい妻と娘を愛している光景を見たくない……かつてはそう思って目を逸らしてきたが、今は違っていた。蓮を取り巻く美しく幸せな世界、そこに自分という醜い怪物が入り込むことがどうしても許せなかったのだ。
しかし、蓮は羊を無理やりにでも引き留めた。強く抱きしめ涙を流す蓮の想いに押し負けて、ついに羊は蓮と一つ屋根の下で暮らすこととなった。戸惑う羊であったが、ついでに深雪も禎山寺の管理下に入ることとなり、ほんの少しずつではあるが『自分を特別に気にかけてくれる人たちがいる』という優しい愛も受け止められるように変化していくのだった。
怪異対策課での扱いは『禎山寺での保護と監視。不老不死の可能性が高いため、歴代住職がこの任務を受け継ぐ』禎山寺での表向きでの扱いは『身寄りのない子を預かって寺の仕事を手伝わせている』ということで落ち着いた。
強力な神霊を人類の味方として繋ぎ止めておける特殊な職員として、禎山寺で深雪と共に平穏な生活を維持する。これが自分の新しい職務であると羊も納得し、禎山寺から今まで通り警察署に通いながら怪異対策課の仕事を続けていくこととなった。寺での雑用と怪異対策課での任務、事務仕事。忙しくはあったが羊にとっては都合が良かった。目の前の仕事に打ち込んでいる間は、これから先に待ち受ける途方もない寿命のことを考えずに済む。
唯一ちょっと辛いことといえば……通勤するには不便な場所に住むことになったので車を持参したのだが、「どうせ共に行動するのだ」と深雪に掴まれ『神様通勤』する羽目になったのは今でも慣れないということくらいか。神狼の猛スピードは不死身の肉体にもなかなか堪えるのだ。
***
寺での生活に慣れてきたころ、不意に炎天にさらわれた。警察署で仕事をしているときに呼び出され、外に出たところで拉致同然にリムジンに押し込まれ。気がつけば、高級ホテルの中にあるカフェで居心地悪そうに座る羊がいた。コーヒー一杯飲んだだけで数千円にもなりそうな空間で怯えながら水を飲んでいると、少しして月極紫津香が姿を現し羊と向かい合って座った。
「あ、あの……また、何か事件でも……?」
「アホ。仕事の話やったら警察の応接間でするやろ」
月極の後ろに立つ炎天がぶっきらぼうに答えた。なんだか、いつもより機嫌が悪そうに見える。羊には心当たりがあった。この頃ずっと炎天はこんな感じだ。いつからかというと、羊が禎山寺に住むことが決まったときから。
「炎天。郷徒さんが怖がってはる」
月極が穏やかに言うと、何人かの給仕が近づいてきて紅茶がふたつ、さらに様々な軽食が並べられていった。
「少しは食べられるようになったらしいやないの。ちょうど昼休憩逃したやろ、欲しいもの適当につまんで」
怪異になっても元は人間。腹は減るし、飢えれば身体はうまく動かなくなる。寺で規則正しい生活を送るよう指導され、羊の食生活が改善されつつあることは月極の耳にも入っているようであった。
「はい……ありがとうございます。それで、あの」
「あんたは今の暮らしの話してくれればええねん」
不機嫌を押し殺しきれないまま、炎天が淡々と言い放った。
「暮らし……私の?」
「だーかーら。あの寺で暮らし始めてから何があったのか話せ言うてんねん」
ああ……やはり。炎天の仏頂面の理由をはっきりと理解しつつ、視線を月極に向ければ。彼は少し照れくさそうに、扇で口元を隠している。
羊は禎山寺で雑用を手伝っているが、家事は専業主婦である女性陣がさっさと済ませていくし、僧侶でもない羊ができる仕事は限られている。そんな中、最も重宝されている役割があった。蓮と礼の祖父・礼寛の話し相手だ。蓮の妻・藤代も何故か喜んで彼の長話を聞いていたが、今は子供の世話もあり時間は限られている。
その点、羊は何時間でも嫌な顔ひとつせず(愛想も無いが)大人しく座って話を聞いている。礼寛は恩人であるし、祖父には可愛がられていた思い出のある羊にとってはリラックスできる相手でもあった。礼寛も羊のことは大層可愛がっており、二人はかなり親しくなっていた。そういうことを、月極は聞きつけているのだろう。
要するに、自分が直接話しかけて様子を伺うことがなかなかできない元彼の近況を、羊を通じて詳しく知ろうとしているのだ。
礼寛からも月極紫津香との関係は聞いている。そこまで知らなくてもいい細かいことまで話してもらっている。ざっくりまとめると、彼らは十代後半の少年時代に二人組で怪異退治をしていたことがあり、相棒であり恋人でもあるという関係になった。その後お互いの家のこともあり、恋人関係は解消してそれぞれ他の女性と結婚した。その間も、怪異対策課への協力などを通じて元相棒としての信頼関係は続いていた。現在、二人とも妻に先立たれ一応独り身である。
二人の関係について、礼寛はさっぱりと『今はいい友達』といった態度でいるものの、どうも紫津香の方は恋愛感情を引きずっているらしい。しかし立場上、何よりプライドの高い性格からそれを言えずにいる。礼寛も悪い男で、紫津香の想いに勘づいていながら『友達なんだからこれくらいするだろう』と紫津香の心を弄ぶような言動を自重しない。そのあたりのズルさは羊にも理解できる。蓮もその手管をしっかり受け継いでいるからだ。
「そんなに……月極さんが新しく知るようなことは、私は知らないと思うので、つまらないとは、思いますが」
嫉妬に燃える炎天の神気に怯えながら、羊は最近のことをぽつりぽつりと話し始めた。
禎山寺の寺烏真礼寛といえば、日本屈指の高僧であり宗派を超えて一目置かれる存在である。家では孫に甘く、家族や檀家の人々に優しく接する優しいおじいちゃんといった風情であるが、僧侶の中では『実力者だが厳しくて怖い。顔も鋭くて怖い』というイメージが強いらしい。彼からたいそう可愛がられて育った礼は、羊や父から世間での礼寛の評判を聞いて驚いていた。礼寛の一人息子であり礼の父親である烈は家でも厳しい人であったが、彼をもってしても「親父の方が怖い」と言わしめるほどだという。
「蓮さんが、改めて修行をしたいと。お父様とお祖父様にお願いしたんです。そのときに私も知りました。いつもはあんなに優しいお祖父様ですが、僧侶の師弟関係となるとあんなに厳しいお顔になられるのだと」
礼寛と烈、二代連続で尊敬と畏怖を向けられていた寺烏真家であったが、後継者の蓮は二人に比べてかなりゆるいと思われていた。霊力は祖父や父に負けず劣らずだがまだまだ若く、威厳というものには縁のない……正直ちょっとチャラい若造だと、年上の僧侶たちからは思われていた。しかし、後にも『白き雛たちの夢事件』と語り継がれる今回の一件をきっかけに蓮は変わった。
「警察官でしっかりしている羊さんすら守りきれなかった。こんなんで妻や子どもたちを守れるわけない」
羊が怪異に成り果てるのを止められなかった蓮は相当悔しかったらしい。改めて修行を申し出、父だけでなく祖父の真の厳しさを知った。こうして蓮は僧侶としても男としても成長を遂げ、後に『次の禎山寺住職も相当怖いぞ』と言われることになる。
「……それで。何しに来たんだお前」
結局、羊の話を聴くだけにとどまらず、禎山寺を訪れてしまった紫津香なのである。申し訳なさそうな顔の羊を見て、なんとなくいきさつを悟った礼寛は呆れ顔でため息をついた。羊には大丈夫だから向こうで待ってなさいと告げ、礼寛と紫津香の二人だけで奥の応接間に入った。
「郷徒さんは私も気にかけていた子です。深雪の件も心配やし、直接見た方が早いわ思てな」
「それで? 陰陽師の頭から見てウチでの保護状況は問題無いか? そうだ聞いてくれ、孫は最近自分から修行したいなんて殊勝なこと言い出してな。将来も安泰だと思わんかね」
「それが心配なんやけど。上のお孫さんね……益々爺イの若いころに似てきてうんざりするわ」
「お、蓮が俺みたいな男前になって昔が懐かしくなったか。背も高いし洒落てるから俺よりさらに男前だがなあ」
「僧侶としての霊力は受け継いでもろておおいに結構ですけど、女も男も軽率にたらしこむいやらしい性分は坊主としてどうなんです。いっそ切り落としたほうがええわ」
「人聞きの悪いこと言うな。うちの男はみんな愛妻家で評判なんだよ」
「そういうところがいやらしい言うてんねん」
「何のことだかな……で? お前とのお家デートは悪かないが、そろそろ本題に入ろうか」
飄々とした口ぶりだった礼寛が、不意に鋭い眼差しを向けた。そういうところが紫津香の心を捕らえて放さないのだが……今は真剣な視線を返し、礼寛の問いかけを促した。
「あの子は……羊くんは、この先危険な怪異になる可能性があると思うか?」
「私は無いと思う」
「ほう。お前が断言するのは珍しいな。お互い老先短いってのに」
「そんな遠い未来のことまでは責任持たへんけどな。少なくとも、あの子は水蜜にはなれへん。人の世で慎ましく暮らせる器量やし、何より体の中に何も無い。愛溟とかいう、宗教家に憑いとった神霊に喰われていたら別やったけど」
「ああ、蓮も礼も化かされたっていう例のお稲荷様か」
『白き雛』事件の情報は、無論礼寛にも届いている。神霊だったとはいえ、鋭い霊感を受け継いだ孫たちや、同じ神霊の深雪まで出し抜いてみせたという謎の怪異には礼寛も興味を持っていた。
「稲荷神にはなりすましてただけ。宗教家というのも、愛溟という青年の名と姿も、全部なりすましや。まことの名も姿も不明、だから愛溟と呼ぶしかない。あれは危険や。水蜜に執着しとる言う情報もあるし、あんたも他人事やあらへんで」
「しかし、深雪が退治してくれたんだろう」
「そういうことになっとるけどな。相手は神霊や。逃げた可能性もある。それに……私の見立てでは、水蜜の中の神霊もアレと似た物やないかと思うてる」
「愛溟という奴も、あのわけのわからん気配と似ていたというわけか。あんなんが何人もいたら困るんだがな」
以前『水蜜のことは孫に任せる』と干渉を避けた礼寛であったが、水蜜を脅威と感じていないわけではなかった。わからなかったのだ、老いて知識も経験も豊富な礼寛の目をもってしても。あからさまに害のある悪神でもなく、神社で人々を見守ってくれるような優しい神とも言えない。
「愛溟は既存の新興宗教を悪用し、明らかに人間に対して害のある行いをしようとした。死者も大勢出た。日本の法では殺人罪にはならへんけど、全部奴の仕業や」
紫津香は直接顔を合わせることは無かったが、愛溟の残した爪痕の悪辣さは十分に伝わった。あれは邪神だ。しかも、日本の霊や妖怪の知識では説明できない正体不明の。
「海外の怪異対策組織に情報が無いか、怪異対策課の方でも調べてるらしいけどな。水蜜が危険な神霊でないかも引き続き探らせてもらいます。何か掴むまでは、精々孫の心配でもしときなはれ」
「おう、本当に色々とありがとうな」
「別に……あんたのためやないし……」
不意に柔らかな笑顔を向けられ、紫津香は赤くなる頬を隠した。
「羊くんのことも何かと良くしてくれて。初歩の陰陽術も教えてやったそうじゃないか。実の孫より優しくしていないか? 香緒瑠ちゃんが拗ねるぞ」
「好餌のくせに護身術くらい身につけんとあかんって、あんなん幼児に横断歩道の渡り方教えるような初歩中の初歩や。月極家の後継者とは話が違う」
「はは、そうかそうか。昔俺にもちょっとした術を教えてくれたのを思い出してな。ありゃあ嬉しかったなってつい懐かしくなっちまった」
いつの間にか礼寛からは冷厳さが消えており、好々爺の顔に戻っていた。
「羊くんは自分のことを『皆に嫌われている』などと言っていたが……余計な縁は厳しすぎるほど尽く切られているだけで、本当に必要な縁には恵まれているのかもしれんな」
「私よりは余程良い縁に囲まれてるなぁ」
「お前には俺がいるのにか?」
「あんたが一番腐れ縁や」
月極が訪れた日の夜。縁側にひとり腰掛ける羊があまりにもそわそわしているので蓮が見かねて声をかけた。
「何を気にしてるの? 外で待ってた炎天がずっとピリピリしてたけど、羊さんのせいじゃないよね」
「でも……あの、先日月極さんと会って、ここでの生活のこととか、色々話したんです。そのとき私、何か余計なことを言ったんじゃないかって。わからないですけど」
「ここに来てから羊さん何も悪いことしてないじゃない。それとも……月極さんからじいちゃんにチクられたらヤバいことでもあるのかなぁ」
羊がびくりと身を震わせたので、蓮はさらに追い詰めるように羊にぴったり身を寄せて座った。
「最近修行のこととかあって怪異対策課に行ってなかったけどさあ……礼からはちゃんと話聞いてるんだよね。この間は生きたまま解剖されたとか言っててビックリしたけど、それ以外にも言わなきゃならない事件あるよね」
「え、と、あの……どれのことだか」
「わかんないくらい色々やらかしてるよね?」
あんまり羊が怯えるものだから、怒ってるわけじゃないんだよ、と一旦場の空気を和らげる。肩に触れると可哀想なくらい震えていて、とても不老不死の怪異とは思えなかった。こんなに弱々しい姿をしているのに、どうして彼は死に向かって軽やかに駆けてゆけるのだろう。
「不老不死だからって痛みはなくならない。心の傷は超回復能力でふさがったりしない。死なないからって、危険な怪異のいるところに率先して飛び込んでいくのは違うよ」
「私も、凶暴な怪異は怖いです。痛いのは嫌です。でも……いつもよくしてくれている人たちが死ぬのはもっと怖いです。普通の人が死ぬような状況でも、私が代わりになって、犠牲が防げるなら」
「そっか……」
空を見上げると、月が綺麗に見えた。ふと、布施のために自ら火に飛び込む兎の姿を月面に見出した。
「墨洋さんとかは、羊さんのそういう気持ちを尊重してやらせてるんだと思うんだけどさ。やっぱ小生は嫌だな」
「蓮さん……」
「何度も無茶していれば、いつか本当に死ねるかもしれないって……試してるわけじゃないよね」
「……」
「少しはそういうのもあるんだ」
「ちが、違うんです。ごめんなさい。ごめんなさ……」
「謝ることじゃないよ」
羊さんには平穏に生きていてほしい。ただの押し付けなのはわかってるよ。寂しそうに呟く蓮の横顔を見て、羊はとても悲しくなった。だけどどうしたらいいのかわからなくて、そんな顔をさせた自分が許せなくて、行き場のない怒りはねじくれた言葉を吐き出させた。
「蓮さんは、その内いなくなってしまうのに」
どうしてそんなことを言ってしまったんだろう。すぐに後悔した。何度も謝って、嗚咽混じりに謝って、痛みを求めて爪を立て、首筋に向かった手は蓮に抑え込まれた。
「そうだね。羊さんはずっと生きていかないといけないのに、小生はその内寿命がきて絶対死ぬもんね。じいちゃんみたいに元気に長生きできるかもわかんないし」
「蓮さん、私、嬉しいんです。蓮さんは私が怪我すると自分のことみたいに痛そうにしてくれて。蓮さんは優しいから、誰にでも……俺みたいなクズにも優しくしてくれるのは義務みたいなものだって、初めは思ってました。でも、休みを取ってまで大切な場所に連れて行ってくれて、死にそうになったとき泣いてくれて……こんなにたくさん、嬉しいことをしてもらっていいのかなって……」
幸せになってほしいと言うのなら。羊にとって、今が幸せの絶頂だから。いつか失われる日が来るのが怖くてたまらなくなった。だから、今の幸せな羊のまま。誰かのためになって消えてしまうのが最良だとしか思えなかった。
「ごめんね。本当はずっとそばにいてあげたいけど、小生ひとりの力じゃ無理だから……だからさ、お願い聞いてもらえないかな」
「え……?」
蓮が羊を連れて来てから、ずっと考えていたこと。どうすれば羊がこの先永く続く時間を壊れずに、幸せに生きていってくれるのか。蓮には何が残せるのか。
「藤代がさ。二人目……授かったんじゃないかって」
「!……そ、そうだったんですか。おめでとうございます」
「まだ病院で検査とかあるからわかんないけどね」
羊から向けられる愛については、蓮も感じてはいる。あまりにも純粋で、何もかも捧げようとする愛。蓮には受け止めることができなくて、だからといって拒絶することもできない。蓮が手を離したら、地面に落ちて粉々に砕けてしまうであろう硝子のような愛。だから、蓮は決めた。自分が狡くて悪い男になってしまえばいい。そうすれば、羊は綺麗なままでいられるから。
「娘のことも、次に産まれてきてくれるかもしれない子どものことも。それから、孫とかもっと先の子孫のことも。羊さんに、見守っていてほしいんだ」
敢えて傷つける。
最愛の人にはなれないから。せめて、消えない傷跡になって。あなたと共に在りたい。
「小生が死んでも、ずっと禎山寺にいてほしい。羊さんがここで平穏な生活を得られたように、未来もずっとこの場所が平穏な生活を送れる場所でいられるように守ってほしい。孫も、ひ孫も、小生が直接見られない子どもたちを、ずっと」
抱きしめて、優しく囁けば。羊は拒めないことを知っている。
「……わかりました」
羊はこの先、全身全霊をかけて、蓮がいなくなった後も愚直に約束を守ってここに在り続けるのだろう。これは呪い。祝福のように甘い呪い。羊の見えすぎる目を優しく塞ぐ大きな手。
「やっぱこの寺の坊主、全員嫌いやわ」
本堂の屋根の上で、炎天が吐き捨てるように呟く。帰ったふりをしていたが、月極に命じられ羊の様子を引き続き監視していたのだった。
「色で怪異を寺の中に封じ込めよった。何が聖職者やねん。あのジジイもさっさと死ねばええのに……」
ぶつぶつ文句を言いながら、炎天は月極に報告すべく禎山寺から姿を消した。
郷徒羊は、要注意怪異に変異する危険性はほぼ無し。収容の必要性は認められず。今後も禎山寺での保護に留めるものとする。
二『葬送』
寺烏真蓮の葬送。半永久的な命を抱えた羊にとっては、少しだけ未来の話。
死因は老衰だった。近頃はすっかり年老いて昔のような溌剌さは無かったけれど、羊と縁側に座ってとりとめのない話をするくらいには元気だった。だけど何かを感じていたのか。最後に交わした言葉は、別れの言葉にも似ていた。
「羊さん、今日も幸せだった?」
「はい」
「良かった。明日も幸せでいてね。明後日も、ずっと」
翌朝蓮は起きてこず、眠るように息を引き取っていた。
読経には、他家に婿入りしていた弟の礼が駆けつけた。生涯弟を溺愛していた蓮にとってはそれが最高の見送りであろうという、娘たちの強い希望によるものだった。
葬儀ではずっと、羊は一番後ろに目立たぬように座っていた。それでも、蓮の葬儀には怪異対策課関係の人物が多く参列するため嫌でも注目される。遺影の老人とほぼ同い年であるにも関わらず、二十代の青年のまま肉体の時が止まっている羊。不老不死となって何十年も経った今では、すっかり怪異らしい雰囲気を纏っていた。奇異の目で見られることはすっかり慣れた。でも、今はもう。「羊さんは人間だよ」と優しく肩に触れてくれる、蓮はもういないのだ。そう思うと涙腺がおかしくなって、目と鼻が熱くなるのを必死で堪え俯いていた。
不意に、式場内の空気が変わった。読経は澱みなく続いていたが、主に男性たちの気配がざわざわとしている。羊も気になって顔を上げた。
ワンピースタイプの喪服を身に纏い、すらりと長い足先まで漆黒で包み込んだ水蜜が凛とした姿で歩いている。その美貌は黒いヴェールで覆われているが、禁欲的な装いがかえって彼の危険な色香を濃くしている。会場の視線をことごとく奪い取りながら、水蜜は羊の隣に座った。怪異としての存在感、話題性は圧倒的で、おかげで羊は注目されなくなった。
「そういえば郷徒くんはこういうの初めて?」
水蜜が小声で話しかけてきた。
「初めて、とは」
「自分が人間だったときに同世代だった、大切な人が老いて死ぬこと」
「年長の方はお見送りしましたが……そうですね、同年代は初めてかと」
「そっか。しかも、あのお兄さんだものね」
「水蜜さん……お願いです。今日は、今日だけは……私のことは無視してくださいませんか」
「やだなあ、意地悪しにきたんじゃないよ。これからたくさんあるよって、励ましにきたのに。僕は大先輩だからね」
「はあ……」
そんなこと言って、やっぱり虐めにきたのだろうと。羊は再び頷いて水蜜から視線を逸らしたが、水蜜は構わず話し続けた。
「僕はね、お母さんだったな。母といっても産んだ年齢が子供みたいでさ、歳の離れた姉くらいの感覚だった。お葬式のときね、あーこれで人間だった私を知ってる人はいなくなったなーって実感したの。怪異になったって、とっくに受け入れてたはずなんだけどね。その日が、人間としての自分のお葬式でもあるなって思ったんだ」
確かにそうだな。この葬式は、蓮さんに「人間だよ」と言ってもらえていた羊の葬式でもあるのだ。いつものようにふざけて煽るでもなく、自分の過去まで明かして話しかけてくれた水蜜に気付かされた。少し癪ではあったけれど、この頃には水蜜への憎しみはほとんど薄れていた。残っているのは意地だけだと思う、彼の『幼体』などと呼ばれたことに対しての。羊はそう思いながら、ただ黙って頷くことで答えた。
「郷徒先輩。いらしてたんですね。お久しぶりです」
読経が終わり、出棺を控えたわずかな時間を縫って礼が近づいてきた。忙しくても、羊のことをいつも気にかけてくれている。兄と同じように。
「やっほー礼くん。立派なお坊さんて感じだねえ」
「水蜜さんは……全然久しぶりじゃないけど」
水蜜はここ何十年ごときで行動が変わることはなく、礼が婿入りした郷美家に足繁く通っているようだ。礼の子どもや孫とも親しくしているという。
「怪異対策課に最後に行ったのは……孫のことで挨拶に行った数年前でしたか。すみません、もうなかなか、体力勝負の除霊となるとキツくて」
「いえ……ご無理はなさらず。お孫さんも優秀ですし。貴方によく似ている」
初めて礼と会ったのは十九歳、まだあどけない表情をしていた学生の頃。それが今は袈裟姿にも貫禄がある立派な老僧である。ただその優しい垂れ目と、その下の黒子だけが面影を残している。毎日のように話していた蓮の遺影を見るより強烈に感じた。今でも二十代……時々学生にも間違われる容姿のままの自分が、いかに化け物に成り果てているのかを。
「兄は貴方のことをずっと心配していました。兄の死は老いによるもので仕方のないことではありましたが、あまり痩せ衰えた爺さんの姿を……同世代の郷徒さんに見せるのは良くないよなって、そこまで気にしてて」
「……そうですか」
蓮らしい気遣いだと思った。
「郷徒さん。辛かったら、俺の葬儀は来なくてもいいですからね」
「いえ、礼さんにもお世話になってますから。必ず行きますよ。でもまだ長生きしてください。あの頃の私を知る方となると、あとは貴方や陽葵さんくらいしかいらっしゃらないので」
「あはは、無茶言うなあ……息子や孫たちのこと、これからもよろしくお願いしますね」
「もちろんです。ああ、そろそろ出棺ですね」
遺影を抱く蓮の妻、目や鼻を真っ赤にしながら、棺の中に花を敷き詰める三人の娘たち。それを遠目に眺めながら、羊は一歩、また一歩と後ろに下がる。
「せっかくですから、参列された怪異対策課の方々に挨拶してきます。水蜜さんも一緒に。こういうことはちゃんとしておいたほうがいいですよ」
「郷徒さん……一緒に火葬場行かないんですか」
「行けませんよ。行くのは親族だけでしょう」
蓮は羊のことを、家族と呼んでくれたけれど。
「あっほら、あの子も来てるじゃん、雪ちゃんの神棚作ってくれた神社の子。郷徒くん、あの子誘ってご飯食べに行こうよ。お腹空いちゃった〜」
「明李さんは礼さんより年上ですよ。そんな気軽なノリで……いや、彼なら来てくれるかもしれませんね……」
水蜜も空気を読んでか、明るく振る舞って羊と共に葬儀場を去った。
親族が火葬場から帰るころを見計らって、禎山寺に戻ることにした。水蜜もついでに深雪に会おうと着いてきた。
羊と深雪が禎山寺に拠点を移して以来、水蜜は深雪とこまめにデートしてくれるようになったので、羊が代用品として使われる頻度は下がっている。どうやら水蜜は嫉妬しているらしい。求婚は断り続けているくせに、深雪が羊に対して特別優しくなるのは気に入らないらしい。
「まったく……倦怠期のカップルが盛り上がるためのダシにしないでほしいです」
「そういう郷徒くんもうまくあしらってハカセくんをキープしてさあ、雪ちゃんとやる回数は減ったけど性欲はどうにもならないし、セックスは彼が一番相性いいから手離さないんでしょ? いやらしいなあ」
「深雪さんにも礼さんにもそれらしい態度をとって、恋人扱いを要求しておきながら『友達』呼ばわりだったあなたにだけは言われたくないですね」
周りは変化して行っても、彼らの罵り合いは何十年と変わることはない。こういう時間にも、怪異になったのだなあと羊は実感していた。
寺が見えてくると、門の前に女性たちが集まってこちらを見ていることに気づいた。羊が戻ってきたとわかると、一斉に声を上げ駆け寄ってきた。蓮の妻の藤代、そして三人の娘たちだ。赤ちゃんのときから見てきた三姉妹だが、今では皆立派な大人になった。長女が寺を継ぎ、妹たちも強い霊感を活かして長年怪異対策課に協力してくれている。
「帰ってきたあ! よかったー!」
「だから言ったじゃない。帰ってくるって」
「玲央が一番心配してたくせに!」
「羊さんはいなくならないよね!」
ご婦人がたが童女のような表情で涙目になり、羊を取り囲む。なんとか落ち着かせて話を聞いてみると、こういうことだった。
今から数十年前、蓮の父・烈の葬儀があった。そのとき妻であり喪主だった貞子は葬儀の後落ち着いたところで、烈の遺骨を持って故郷に帰ると言い出したのだ。祖父も祖母も大好きだった三姉妹は反対したが、母の正体を知る蓮は反対することなく送り出した。三姉妹はそのとき初めて、祖母がかつて怪異だったことを聞かされた。
「お前らのひいじいちゃん……礼寛じいちゃんが言ってたんだけどな、雪女ってのは、一番愛した良い男は死んでも絶対手放さない。冷たい雪山で、一緒に眠るのが最高の幸せなんだと」
そうやって寂しそうに言っていた蓮を思い出した三姉妹は、まず母である藤代を心配してすがりついた。しかし藤代は普通の人間である。どこかに去ったりはしないと笑って答えたが……そこで、あることに気づいて一言漏らした。
「羊さんは……蓮さんがいなくなったらどこかに消えるかもしれないわよね……?」
そこから大騒ぎ。そういえば羊さんがいない、火葬場についてこなかった、もう行っちゃったのではと。いい大人が揃ってパニックになったという。
「読まれてるじゃん」
半笑いの水蜜が、羊を寺の方向に向かって突き飛ばす。
「やっぱりどこか行っちゃうつもりだったの⁈」
「いえ、あの……深雪さんのこともありますし、行方をくらますなんてことはしませんけど」
「良かったー!」
抱き合って喜ぶ母と姉妹の声はあどけなく、かつての若い夫婦と幼い少女たちの姿が鮮やかに蘇って見えた。だがそこに、もう蓮はいない。
「しかし……私は今まで通り、ここに居候させていただいてもいいのでしょうか」
「今更何言ってるの! 当たり前でしょ!」
「次の住職にも、羊さんのことはくれぐれもきちんと引き継げってパパに言いつけられてるんだからね!」
「私たちが死んでも、孫やひ孫とずーっといてくれるんだよね?」
「私は……そうしていただけるなら、嬉しい、ですけど」
「ほんっとーに、良かったー!」
「疲れたし、早く家の中入ってご飯食べましょ! 水蜜さんもどう? 礼叔父さんももう中で休んでるよ」
「わぁい、ご馳走になるー!」
しっとりとした喪服美人の静けさをかなぐり捨てて、いつも通り天真爛漫な水蜜は遠慮のない様子で走っていった。礼寛や烈の存命中は禎山寺の空気が怖くて入りづらかったらしいが、今は慣れたものだ。
ふと、数十年前の記憶を反芻する。
その日は、蓮の妻と娘たちが遊びに行く日だった。三姉妹は年頃で、父親への態度は冷たい時期だった。母親とは友達同士のように親しく、女性陣だけで買い物に行きたがったわけだ。弟と同じように娘たちも溺愛していた蓮は嘆いていたが、こればかりは仕方ない。
「すみません羊さん、せっかく警察のお仕事お休みなのに、留守番お願いしちゃって」
「いえ、どのみちここでのんびりさせていただくつもりでしたから。楽しんできてください」
蓮の妻・藤代は申し訳なさそうにしていたが、羊は本当に気にしていないとぎこちなく微笑んで見せた。妻と娘が不在のときの蓮は羊にべったりなのでむしろ嬉しい……とは口が裂けても言えなかった。
「羊さん、お土産買ってくるね!」
「パパがウザかったら、ちゃんとウザいって言いなよ」
「ごはんちゃんとたべてね」
蓮の三人の娘たちも、口々に羊を気に掛けた発言をする。彼女らは赤ちゃんのころから羊に世話されているのでとても懐いていた。怪異対策課の仕事が休みのとき、羊は積極的に蓮の子どもたちの世話をした。「ヨウは無料のベビーシッターではないのですよ」と何故かシンディが不満げだったが、羊は充実した生活を送っていると感じていた。
禎山寺で与えられる役割は、怪異対策課の仕事とは違う。労働というよりは、羊が自身の人生で学ぶ機会を取りこぼしてきた『普通』というものを教えてもらっている……普通の人間の生活、普通の子どもたちの成長を間近で見せていただく。そんな感覚で、寺烏真家の片隅に住まわせてもらっていた。
「行っちゃったなぁ」
楽しそうに出かけて行った妻子の背中を名残惜しそうに見つめて、蓮が情けない声を上げる。
「羊さんにはあんなに優しいのに、小生のことは最近ほぼ無視してないか?」
「思春期の娘さんのことは私にもよくわかりませんが……あの子たちは蓮さんのことをとても信頼していると思います」
「そうかな? すごく冷たいけど……」
「信頼していなければ、冷たく突き放すことはできません。そうでなければ、常に顔色を伺って恐れなくてはいけないから」
「……そっか。羊さん、家の中に入ろう。██し……」
ああ、記憶にノイズが入る。同じようなことを何度も言われてきたから。暑いから、寒いから。疲れたから。暗いから。今日はゆっくりしたいから。だから、家の中に入ろう。そう言って手招きする、蓮の優しい声が聞こえた気がして、羊はゆっくりと禎山寺の門をくぐる。
はじめは、兄のような友人だった。蓮の娘たちが大きくなってくると、父と息子のように。娘が子を産むと、祖父と孫のように。不思議なことに、羊の精神はちっとも老人らしくなる気配がなかった。知識や経験は積み上がっていくのに、いつまでも頼りない青年のままのような気がする。
『蓮さんは、どんどん立派な人になっていくのに』
『羊さんは、そのままでいることが一番立派だよ。変わらないことが一番難しい。体は不死身で自然に回復するかもしれないけど、心はおざなりにしているとあっという間に朽ちてしまうよ。羊さんは、ずっと透き通ってる感じがする。小生はそこが好き』
中身はいい年になったくせに。蓮に『好き』と言われるだけで、胸が高鳴るのは最後まで治らなかった。そして不治の病でいい、とすら思っている。蓮は恋人からの愛を除いたほぼ全ての愛を教えてくれた。それで十分なはずなのに。最後の一つを諦めたふりをして、諦められずにいた。すべてに絶望し無欲なはずの羊にたったひとつ残された欲。蓮がいなくなったこれからも、ついに得られなかった彼の性愛を惜しみ続けるのだろう。手の届かない恋を崇拝し、それを道標に生きていくのだろう。
『羊さんが自分自身を大切にできないなら、できるようになるまで小生が羊さんを大切にする』
『小生が死んだら寺からこっそり去ろうと思ってるだろ? ダメだぞ。前に約束したんだから。忘れるなよ』
相変わらず羊は自分自身のことが大嫌いで、自分を愛するなんてできそうにないけど。記憶の中の蓮がそう言っているから、羊はこの家に残ろうと思う。幸せでいてほしいと願われたから、自分が幸せになれそうな道を選ぶ。
世界で一番いとしくて、にくい呪い。
玄関に入ると、先に行っていたはずの水蜜が奥に入らずに羊を待っていた。
「ね、郷徒くん。私が郷美家のことずっと愛してる気持ちがちょっとはわかったでしょ?」
「感情的には受け入れ難いですがそうですね。この先、このお寺の人々を他人と思うことはできないでしょう」
「……君のこともね」
「何か?」
「んーん、なんでもない。それよりさ」
やっぱりここで待っててよかった、感謝してよね。水蜜はそう言って笑い、玄関で靴も脱がずに立ったままの羊の目の前まで近づく。手に持った小さな鞄から純白のハンカチを取り出して差し出してきた。
「奥へ行く前に、さっさと拭きなよ。またあの子たちに心配されちゃうよ?」
「……え」
羊は、静かに涙を流していた。
【二巡目 おわり】
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