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病ませる水蜜さん 第十八話

陰陽師章、再スタートです!

はじめに(各種説明)

※『病ませる水蜜さん 第一話〜第十七話』『番外編一〜五』からストーリーが続いている一連のシリーズですが、今回から『陰陽師・月極紫津香』章に戻ります。先日完結した『怪異対策課の事件簿』の章と並行して進めておりましたが、繋がりながらも別のお話として再スタートとなります。

はじめての方はこちらから

※本記事の冒頭に簡単なキャラクター紹介やこれまでのあらすじも掲載しております。今後は一部R18作品も含まれていきますが、今後の陰陽師章では『R18パートは飛ばしても話が繋がるようにする』つもりなので、エッチなシーンが苦手な方は毎回冒頭にある注意書きをご確認いただきますようお願いします。
※このオリジナルシリーズは私の性癖のみに配慮して書かれています。自分の好みに合うお話をお楽しみください。

【特記事項】
今回はR18描写なし。バトルものな雰囲気。第十話のリメイクですが、細かいところが変化していたり、新規で書き加えたシーンもあります。
・この一次創作BLシリーズはCPも受け攻めも固定しません。好きな組み合わせを愛でてください。

ご了承いただけましたら先にお進みください。

ざっくり登場人物紹介


※ 第十七話までのネタバレがあります!

・寺烏真 礼
普通の大学生活を送りたかった一年生。寺生まれで霊感が強いことは大学では隠しているが、一部の人にはすでに知られている。人外である水蜜の自由奔放すぎる振る舞いに、郷美共々振り回されて入学早々からずっと忙しい。でも勉強も私生活もめいっぱい頑張っている健気な十九歳。好きなタイプは巨乳のお姉さんだが、何故か水蜜には一目惚れした。同棲している間は水蜜を恋人として扱うつもりだが、束の間の割り切った関係であることも我慢して受け入れている健気な十九歳。

・水蜜
因習村で神として祀られていた謎多き美人。中性的な外見だが、性別は男に近い両性。神様の割に強そうな特殊能力は無く、人懐っこい飄々とした性格のポンコツ怪異。近づいた人を無意識に誘惑して自分に惚れさせ、ひどい場合正気を失ったヤンデレにしてしまう困った性質『蠱惑体質』を持つ。第八話で一度怪異対策課に収容されそうになるが、強引に取引をして再び自由を得た。引き続き礼が一人暮らしするマンションに居候しキャンパスライフを満喫中。『誰とも本気の恋人同士(結婚して配偶者になる等も含め)にはならない。どれだけ親しくしてもあくまで友達止まり』を貫いているが、礼に対しては無意識のうちに執着を強めつつある。その執着はとんでもない現象を巻き起こして……?

・寺烏真 蓮
寺生まれで霊感が強い。礼の兄。二十七歳で、幼馴染の妻と生まれたばかりの娘が一人。父の元で僧侶としての厳しい教育を受け、檀家からの信頼も厚い好青年。明るい兄貴肌で面倒見がいいヒーロータイプのイケメン。唯一の欠点は、年の離れた弟を溺愛しまくっているブラコンだということ。ちなみに妻は幼馴染なので昔から蓮の人となりを良く知っておりブラコンも承知の上で結婚している。隠れ腐女子でもあるので、同性に対してスキンシップ多めで距離が近い蓮のことは生暖かく見守っているようだ。

・郷徒羊
怪異対策課所属(怪異専門の刑事)の二十五歳独身。陰鬱で地味な眼鏡青年。身寄りがおらず、幼少期から数々の凄惨な事件に巻き込まれたせいで酷く傷ついている。ある事件に巻き込まれて不老不死の怪異に変生してしまったが、仲の良い蓮のはからいにより禎山寺(寺烏真家)で保護されることになった。何でも一人で抱え込む自虐的な性格であったが、寺での生活で癒されトラウマを克服しつつある。蓮に叶わぬ片想いをしているが隠している。実は水蜜の遠い子孫で、水蜜の『蠱惑体質』に似たフェロモンのようなものを怪異限定で撒き散らす『香餌体質』を受け継いでいる。怪異を凶暴化させ、食べられそうになったり性的な暴力を受けたりしてしまうため、寺生まれで霊感の強い人たちに守られた生活は非常に助かっている。

・寺烏真 烈
寺生まれで霊感が強い。礼と蓮の父親。禎山寺の現住職。見た目も性格も怖い。洋服を着るとその筋の人に間違われがちなので普段着でも袈裟を着ていることが多い。息子たちのことは厳しく育てているが、とても家族想いのお父さん。

・寺烏真 礼寛
寺生まれで霊感が強い。烈の父で、礼の祖父。足腰が弱ってきたので住職の役割は息子に継がせているが、それ以外の能力は健在。外では偉大な大僧正として畏怖されているが、家では孫にデレデレの優しくお茶目なおじいちゃん。特に母親似で優しい顔立ちの礼を溺愛している。礼もおじいちゃん大好きでニコニコ話を聞いてくれるため、そういうところも可愛いのだとか。月極紫津香とは十代のころバディを組んで怪異退治の仕事をしていたことがあり、深い信頼関係を築いている。

これまでのあらすじ

『病ま蜜』シリーズが初めてという方向けに、第十七話までのストーリーを全年齢描写のみでまとめたものです。今までの本編を読んだことがある方は飛ばして大丈夫です。

第一章(第一話〜第八話)

 大学入学を控えた青年・寺烏真礼は、大学の教授で民俗学者である郷美正太郎に誘われ大学入学前の春休みにフィールドワークに同行した。行き先は郷美教授の生まれ故郷・神実村だったのだが……そこは独自の神『根くたり様』を祀っており、現代に至るまで奇妙な因習が残る曰く付きの村だった!
 しかも、郷美の背後にはずっと首のない人のようなものが見えていた。礼は寺生まれで霊感が強かったのである。実は郷美は礼の能力を見抜いており、あることを頼んできたのだった。なんと、この首なし幽霊こそが村の神『根くたり様』で、自身の頭部を山の怪に奪われ困っているというのである。
 急な頼み事に戸惑う礼だったが、まだ雪の残る時期に薄着で頼りなく佇む『根くたり様』は神というにはあまりに儚かった。お人好しな性格の礼は思わず彼と会話を試み、彼が本当は『水蜜』という名前だと教えてもらう。健気に縋りついてくる水蜜に次第に絆されてきた礼は、山の怪退治を引き受けることにした。
 翌日、意を決して山の怪に挑む一行であったが……あまりにも呆気なく解決した。怪異の正体は化け狸とありふれた悪霊が合わさったもので、実家の寺で除霊を教わっていた礼にとっては拍子抜けする弱さだった。この程度の怪異に負ける神様とは一体……。ともあれ神の首は取り戻し村の平穏は保たれた、と礼は胸を撫で下ろすのだった。この事件との関わり合うのはこれで終わりだと。しかし……
「君、すごいね。決めた! しばらく君と一緒にいる。私も同じ大学に行く!」
 頭部を取り戻し、喋れるようになった水蜜は神らしからぬフランクさで思いもよらぬことを言い出した。しかも、礼は水蜜が人ならざる者とわかっていながら、その美しさにうっかり一目惚れしてしまう。郷美の後押しもあり、なんだかんだで礼と水蜜が同棲しながらの大学生活がはじまってしまうのだった。

 様々な怪異トラブルを起こしながらではあるが順調に協力者も増え、ボランティア活動として神実村の村おこしを企画するなど大学生活を楽しんでいた水蜜と礼、そして仲間たち。
 そんなある日、深雪という大男が大学に現れ水蜜を攫ってしまう。彼はかつて水蜜と恋人同然に過ごしていた過去があり、ずっと水蜜に執着し続けていた。深雪は水蜜の首を斬って殺そうとしたことすらある凶悪な武神であり、圧倒的な力の前になす術もなく礼は水蜜を守りきれなかった。さらに怪異専門の警察『怪異対策課』の警察官・郷徒 羊からは『水蜜も危険な怪異に変わりない。深雪も水蜜も、しかるべき場所に隔離すべきだ』と諭されてしまう。
 怪異対策課による深雪の捕獲作戦が決行されるが失敗に終わり一時は大ピンチに陥るも、そこで礼が立ち上がった。礼の兄・蓮が駆けつけてくれたことや大学の友人たちの協力、水蜜の息子たちの勇気と奮闘により、ついに深雪との戦いに勝利。水蜜を無事に取り戻した。
 深雪は清らかな神霊から悪霊へと堕ちかけ暴走していたが、浄化されたことで対話ができるようになった。彼は『水蜜に定期的に会えるのなら、警察に協力し収容される』と妥協案を出した。一方水蜜は『収容は拒否する。自由にできないのなら深雪を宥めるのをやめる』と脅迫。結局水蜜は今まで通り礼の元で過ごすことになり、深雪は警察の人間に協力するようになったのだった。

第二章前篇『怪異対策課の事件簿』

 怪異対策課の一員となった深雪は郷徒羊とバディを組み、危険な怪異を次々退治することで大活躍する。そんな中、彼らに『白き雛たちの夢』という宗教団体の代表・愛溟風斗(まなくらふうと)が怪異を悪用して怪しい動きをしているという情報が入った。早速調査を開始したが、その実態は予想以上に謎が多く危険だった。
 愛溟は自身の宗教団体の信者たちを怪異の苗床とし、たくさんの人や怪異を犠牲にして呪詛による大規模なテロを画策していた。郷徒羊、深雪、水蜜、さらに東京から異動してきたシンディの四名が一時期愛溟の手に落ち、羊とシンディは洗脳されて悪事に加担させられる。なんとか救い出すも、呪いに侵された羊はほぼ死にかけており回復は絶望的であった。羊に恋をしていたシンディは決死の覚悟で海の神と交渉し、自身と羊が不老不死になる運命を受け入れることで羊を救った。こうして羊とシンディは怪異となってしまったが、手厚く保護されることになり引き続き怪異対策課の一員として受け入れられる。
 一連の事件の主犯である愛溟は深雪によって倒されたと思われていたが、ただ逃げただけではないかという不安も残る形で事件は収束を迎えた。

 しかし、それから何十年も経って……不老不死である羊が、礼が老いて眠りにつくところまで見送ろうとしたところで、愛溟が突然姿を現したのだった。

 水蜜を巡る因果は、まだまだ全貌を見せていない。

病ませる水蜜さん 第十八話

陰陽師・月極紫津香 第一話・完全版

プロローグ

『寺烏真礼の葬儀』


『彼にとっては二周目』

 いつも不眠に悩まされている郷徒羊にとっては、いつもより長く微睡んでいた気がする朝。手探りで眼鏡を探せば、先日替えたばかりの畳の感触。ゆっくりと身を起こす。ここは禎山寺。彼がわけあって居候させていただいている、由緒あるお寺だ。
 時計を見て慌てる。普段は陽も昇らぬうちに身支度を整えて、欠かさずやっていることがあるのに。まずは朝食の支度を手伝って、それから……
「寝坊してしまいました、鈴愛さ……」
「あらおはよう羊さん。お寝坊なんてそんな、いつも早すぎるくらいだからたまにはゆっくり寝てなさいな。鈴愛ちゃんがどうかしたの? まだ離れで藤代さんと寝てると思うけど」
「あ、いえ。すみません貞子さん。なんでもないです」
 はじめの違和感。羊は今、台所にいる中年女性を見つけて『鈴愛さん』だと思った。鈴愛(れあ)は蓮の娘の名前。蓮は羊の二歳年上の二十七歳で、彼の妻の藤代は羊と同い年の二十五歳。二人の娘は生まれたばかりの赤ちゃんだ。台所で朝食を準備している中年の女性といえば、蓮の母親の貞子に決まっているじゃないか。まあ蓮が老いれば長女の鈴愛がこの寺を継いで、台所に立っていることもあるのだろうけど。
「台所で手伝ってもらうことは無いわね」
「ありがとうございます。ではお墓の掃除に……」
 そう口走って、また違和感を感じた。
「お墓? そんなこと頼んでいたかしら。いいわよそんなところまで掃除したら大変でしょ。本堂まわりのお掃除だけでも助かってるのに……しかも今日はお仕事でしょ」
「え……あ、はい……」
 どうしてお墓の掃除に行こうと思ったのだろう。毎朝の習慣として染み付いている動きみたいだった。羊は警察署にも勤めていて、出勤前にお寺の隣の墓地まで行ってあの広さを掃除するなんて無理だろうに。いや、墓地全体を掃除してたんじゃない。寺烏真家住職が代々眠る墓だけだ。どうして? 蓮さんの曽祖父以前の人になんて会ったことないのに。でもとても大切な人のために毎朝拝んでいた気がする。寂しくて寂しくて、すがりつくように……
 そう思いながら首を傾げていると、後ろから快活な声が聞こえてきた。
「おはよう羊さん! 今日はしっかり眠れたのかな。小生もいまから朝飯だから一緒に食べようよ」
「あ……」
 そのとき咄嗟に思ったのだ。
(蓮さんが、生きてる)
「ちょっと蓮、あんた羊さんに何したのよ」
「何もしてないけど! どうしたの羊さん、体調悪いの?」
「ぁ……え……なんで……? ごめんなさい、わかんなくて、なんかおかしくて、ごめんなさい蓮さん、蓮さん……」
 わけのわからないことで泣いて困らせた。すぐに『大丈夫』と離れなくてはならないのに。蓮の着物を掴む手が離せない。慌てながらも優しい蓮の声が聞こえるたびに涙があふれて止まらなくなった。
 羊の心には幼少期から何度もいくつも深い傷が刻み込まれているから、他愛もないことをスイッチにトラウマを呼び起こされパニックになることは初めてではなかった。蓮も慣れた様子で泣きじゃくる羊をしがみつかせたまま部屋に連れ戻し、泣き止むまでずっと背中をさすっていた。
 蓮の胸で泣きながら、羊は必死で自身の記憶を整理していた。まるで未来が見えたかのような違和感。いや、たった今過去にタイムスリップしてきたかのような感覚。『懐かしい』と感じてしまう蓮の若々しい声とたくましい肉体。それらを感じているうち、ふと記憶の中にある水蜜の声が脳裏に響いた。
『ね、郷徒くん。私が郷美家のことずっと愛してる気持ちがちょっとはわかったでしょ?』
 そのとき、すうっともやが晴れた感触がして、わけのわからない激しい感情の答えが見えたら急に落ち着いてきた。
「落ち着いてきたね。水飲める?」
「はい……ありがとうございます」
 蓮に促されて、ゆっくりと深呼吸をした。
「今日は出勤だったよね。休むって連絡しようか」
「いえ、遅れるとだけ連絡して、少し休んだら署には行きます。深雪さん、そういうわけですので準備ができたら私からお社に伺います」
 羊がそう言うと、障子の向こうにあった大きな気配がすっと消えた。
「無理はしないでね。復帰して間もないんだから。代わりにシンが入ったんだから羊さんが頑張りすぎなくたって怪異対策課は回るんだよ」
 ええと、ああ、そうか。今はもうあの事件は終わっていて、だから羊はここで保護されているんだ。余程ぼんやりした顔をしていたらしく、蓮には心配そうに肩を抱かれた。羊の心臓がひどく久しぶりに熱くなった。
 羊が何故取り乱したのか蓮は問いただすことはなかったが、羊は絞り出すように言った。
「本当に、もう大丈夫です。何だか、恐ろしい夢を見ていたみたいで」
 卑屈に歪んだ笑みをなんとか浮かべる羊を、蓮は心配そうに見つめていたが「そっか……わかった」と一旦様子を見ることにしたようだった。
「心細くなったらいつでも帰っておいで。羊さんの居場所はここにあるんだから」
「はい」
 良くわかっています。何十年も守られ、愛された記憶がありますから。心の中でそう呟くと、羊は蓮と朝食を共にすることにした。

 最高に幸せな日々をまた味わえる、だなんて。喜んではいけないと葛藤を抱えながら。

一『禎山寺の賓客』

(第十話の一・二周目)

 大学も休みに入った年末年始。礼は久々に実家に帰ることにした。
 水蜜と息子たちも誘ったが「この間会った礼くんのお兄さんとか、あの人より強いお父さんやお祖父さん……すごいお坊さんが三人もいるんだよね? じゃあやめとく」と嫌がった。礼はいいのに、本職の僧侶は嫌とはどういうことなのだろうか。成仏でもしてしまうのだろうか。ひっかかるものがあったが、礼の部屋に置いていくことにした。
 最寄りの駅に降り立つと、早速近所の知り合いに声をかけられる。
「あら礼くん、おかえりなさい! そうねえもう冬休みよねえ。大学は楽しい?」
「礼くん、大晦日のお手伝いにわざわざ帰ってきたのかい? 偉いなあ。そうだ、ついでにこれお父さんに渡してよ」
「礼ちゃんかい? 都会に出て急に大人っぽくなったんでないか?」
「もうちょっと帰ってきてやれよ礼ちゃん。あの心配性なお兄ちゃんが寂しがってるんじゃないか?」
 話しかけられるたび、礼は愛想よく名前を呼び返し世間話に付き合う。町内で礼のことを知らない住民はいない。それだけ礼の実家である禎山寺(ていさんじ)は地域に貢献しているわけだ。祖父から住職の役目を受け継いだ彼の父、そして兄へ。先祖代々僧侶として皆に寄り添ってきた。町ぐるみで可愛がられて育ったから、今の礼がある。こういうご近所付き合いも苦ではない。
「礼〜、電車乗ったら連絡しろって言ったじゃないか」
 寺の正門へ到着するなり蓮が飛び出してきた。体格はとうに礼が上回っているのに、少女のようだった幼い頃の弟を可愛がっていた甘い声で出迎える兄は相変わらずの様子。
「車でお迎えにあがりましたのに。遠かったでしょう」
 蓮を追いかけて、郷徒も歩いてきた。怪異対策課で会うときとは違い、礼が中学生くらいのころに着ていたジーンズとコートに身を包んだ彼は礼より年下に見える。蓮の後ろを歩く姿は、昔の自分を思い出すなと礼は懐かしさに似たあたたかさを感じていた。
「はは、ごめん兄貴。久しぶりだし、檀家さんにも挨拶しながら歩きたかったんだ。郷徒さん、わざわざ待っていてくださったのにすみません」
 年末年始でお寺といえば除夜の鐘、ということで。禎山寺は毎年、大晦日から元日にかけて地域住民に開放されている。近所の子どもたちに鐘を撞かせたり、年が明けたら温かい飲み物や食べ物を配ったりと賑やかで大忙し。進学して一人暮らしをはじめた礼だが、蓮の妻が第一子を産んだばかりなのもあり手伝いに戻ったというわけだ。
 もちろん家族に会いたくなったというのもある。今年は本当に、本当に色々あった。大学生活のスタート、慣れない一人暮らしまでは想定の範囲内だったがそれ以上の事件が立て続けに起こって。こうして去年までの日常に戻ってみれば、いかに非日常に振り回されてきたかを実感するのだった。やっぱり、ここに帰ってくると安心できる。
「……ただいま、兄ちゃん」
「おう。おかえり、礼」

 年末年始の休日は、あっという間に過ぎていく。大晦日を間近に控えたある日、礼が境内を掃除していると見慣れぬ来訪者と出会った。
「ごめんください。住職……いえ、礼寛さんはいらっしゃいます?」
 わ、すごい綺麗な人。否が応でもそう思わざるを得ない美人だった。声は低く男性のようだった。だが、艶やかな黒髪は腰のあたりまで優雅に垂れ、白粉の香りがする肌は女性のような色香を放つ。イントネーション的に関西系。多分京都の人。礼は詳しくないが、舞妓さんのイメージがこんな感じ……と思わせる淑やかな所作。容姿も声色も身につけているものも仕草も、洗練され尽くした人だった。
(でも、水蜜さんのせいで美人に対してかなり麻痺してんなあ、俺)
 礼が心の中でそう呟いた途端、目の前の人形のような顔が忌々しげに歪んだような気がした。何か失礼なことをしただろうか……慌てる礼をよそに、彼の表情はすぐに涼しげなそれに戻ってしまっていた。
「あの、俺……すみません、何か……」
「いえ、何でも。要らん気ぃ遣わせて仕舞うたね、堪忍な坊ちゃん」
「は、はい! ご案内します」
 礼は彼を門の中へ通した……彼のすぐ後ろにもう一人、客人がいたことにその瞬間まで気が付かなかった。美しい貴人の後ろにそっと仕える、執事らしき服装の男。
「ごめんなあ兄ちゃん、怖かったやろ。こいつ無愛想でな、いつもこういう顔やねん」
「え……」
 礼の背筋が凍る。
(神霊だ……!)
 正体を隠さなくなった神霊の気配を感じ取ってか、礼の父が血相を変えてとんで来た。客人は奥にある来客用の庵まで案内される。近頃足が悪い祖父はそこで待ち構えているらしい。父は来訪者の顔を見るなり苦い顔をして思わず悪態を溢した。
「妖怪爺がきた……」
「いげずやわ。妖怪を退治するほうの爺やのに」
(爺……?)
「礼、こっち」
 首を傾げる礼の傍らには既に蓮が駆けつけており、神霊から礼を庇うように手を引いて下がらせた。
「あの人さ、あんな見た目だけどじいちゃんと同い年なんだって」
「え、ええ……?」
 礼の祖父は七十七歳。父に連れられて奥へ進んでいく、黒髪の美人は年齢不詳の感じではあるがどこからどう見ても七十歳を超えているようには見えなかった。

 月極 紫津香(げっきょく しづか)。神霊をも従え、現代陰陽師の頂点に立つ男。蓮は礼にそう教えた。蓮や父が僧侶として警察の怪異対策課に協力しているように、陰陽師も京都に総本山があってそこから優秀な人物が派遣されてくるそうだ。月極もその一人だが、彼本人が動くことは滅多にない。
「陰陽師って今でもいるんだ」
「あー、礼にはまだそういうことも教えてなかったっけ」
「じいちゃんの話では聞いたことあるよ。昔陰陽師の人とコンビで怪異を倒してた時期もあったって話は色々聞かされてたし。でも昔話だと思ってたし、じいちゃんノリで話盛ったりするじゃん」
「確かにじいちゃんの昔話はいいかげんなこともある。でもその話は本当だと思う。あの月極さんはじいちゃんと若い頃から知り合いらしいんだ。礼が聞いた昔話って月極さんのことじゃないのか?」
「えー……でも、確か『気が強いけど臆病なところもある可愛い子』で、一時期付き合ってたって言ってたから女の子かと思ってたけど」
 しかし、今でも美女と見まごう月極の姿を見た今、自分が勝手に女の子と思い込んでいた可能性はあるなと礼は思い始めていた。
「それで、今日は何の用事なんだろうな。いつもより雰囲気がピリピリしてたけど」
「うちによく来るの?」
「いや、最近になって立て続けにな。礼にも手伝ってもらったあれ、『白き雛たちの夢』事件ってあっただろ。あのとき怪異化した郷徒さんをうちで保護できるように色々根回ししてくれたのが月極さんなんだよ」
「へえ、すごい人なんだね」
「すごいんだよマジで。月極さんは陰陽師の組織の中では社長とか会長とかそういうレベルのすごい人なんだ。それに、うちのじいちゃんだって……」
 礼たち兄弟は気軽にじいちゃんと呼び、祖父もデレデレと甘やかしているのでつい忘れそうになるが、祖父・寺烏真礼寛(れいかん)も大僧正、僧侶の頂点に立つ立派な人物である。家では穏やかで少しお茶目、父親に怒られた孫たちを甘やかす優しい祖父だが、ひとたび外に出れば表情は一変する。
 月極紫津香と対面した礼寛は、普段仏のように柔らかに閉じた目蓋を鋭く開き凜と背筋を伸ばして正座していた。
「よくわからんが帰れ。羊さんの件では確かに世話になったが、そっちの件に関しては助力を頼んだ覚えはない」
「せやけど、無敵の大僧正さんがえらいのんびり構えてはるから心配で。大事なお孫さんが、けったいな怪異に付き纏われとるのになんもせんなんてあんたらしうもない」
「あれをどうするかは礼自身に任せとる。爺が口を出していいもんじゃない」
「まあ確かに、あれだけ『におい』つけられて正気を保っとるのは流石あんたの孫やとは思うけどな。顔はお兄さんのほうがよう似てはるけど、霊力の質は弟さんのほうがあんたと瓜二つやわ。せやけど……はたちにもなっとらん坊ややろ。口と体で誑し込まれてからでは遅いで」
(あっ、これ、水蜜さんのことで怒られてるんだよね……?)
 礼と蓮は閉じた障子の外から話を盗み聞きしていたが、話題の中心が他でもない自分たちのことだったので礼は息を呑んだ。
(すまん礼、親父とじいちゃんには結局話しちまった。隠すって約束してたのに)
(いや、それはいいよ。郷徒さんからも話いってるだろうし)
「坊やたち、隠れていないでこちらへおいで」
「!」
 小声で話していると、月極が涼やかな口調のまま二人を呼び寄せる。
 まあ、バレてはいるだろうな……と申し訳なさそうに部屋に入れば、案の定父親が呆れた表情でこちらを見ていた。
「はじめから二人も同席させておけば早かったか。お前からもこのお節介な年寄りに言ってやれ。自分のことは自分でできるとな」
「え、ええと……?」
 普段より厳かな祖父の声に緊張しながら、礼は月極の方を見た。何度見ても、この人が祖父と同い年だなんて信じられない。水蜜のような神霊や怪異の類いではなく、人間だというのだから驚きだ。
「単刀直入に言わせてもらいます。坊ちゃんのお部屋に棲みついた怪異は非常に危険なモノや。それは警察からも注意されてわかっとるやろうが……怪異対策課が不甲斐なくてこんなに長いこと放置したのもあかんわ。近いうちに私が消したるから、坊やは正月明けあたりまでここに残っていなさい」
「え……消す?」
「心配せんでもええよ。ババアこう見えて生きてる陰陽師の中では敵なしやから」
「う……わっ」
 戸惑う礼の背後に、例の神霊が突然回り込んできた。礼より背の高いすらっとした長身に、執事っぽい服装の青年だった。ジャケットの下にワイシャツではなく和装を重ねているあたり、彼が本当は青年なんかじゃない……人には不可能な年月を生き続けた神霊であることを伺わせている。何故か月極のことを婆呼びする彼の声は軽快で、関西風の訛りもあいまって親しみやすい雰囲気ではあった。だが……霊感が強いゆえに、彼のすさまじい神気を感じ礼はずっと警戒心を抱いていた。彼らは『危険な怪異から助けてあげる』と言っている。それは正論なのだろう。郷美が入院したとき、同じようなことは郷徒からも忠告されている。だがそれとは違う嫌な予感が礼の中にあった。
「ずっと怖がっとるな兄ちゃん。勘のええ子や。流石ここの血筋だけはあるなあ」
 神霊の男は、礼の肩に手をやって励ましているようにも見える。何も知らなければ『関西弁の気のいい兄ちゃん』といった印象だろう。だが、隣で押し黙ったまま凄まじい視線を送っている蓮の表情からもわかる。今、この神霊は礼を脅している。礼が神霊の本当の怖さを感じ取れる人間だからできる方法で。普通の人には視えない凶器を向けられているようなものだ。怪異対策課の人間とは違う強引さがあった。
「ほなわかるやろ。あとはオレたちに任せてここで待っとったらええねん。全部終わったら、もっと綺麗なお部屋に引っ越して。せっかく華の大学生なんやから、怪異なんか相手せんと。人間の可愛いらしい女の子と遊んどき。な?」
 確実に、この二人は水蜜を消そうとしている。蓮や祖父たちも様子見に徹しているくらい、水蜜には謎が多い。それに水蜜を攻撃したら深雪も黙ってはいない。水蜜自身も大人しく消されるつもりはないはすだ。一体、どうなるんだろう。お互いに神霊が味方についている状態で。その戦いに、ただの人間である礼がいても足手纏いになるだけかもしれない。それでも。
「心配していただけるのは、ありがたいですけど。俺、本当に大丈夫なんで。水蜜さんは危険な怪異じゃありません。怪異を呼び寄せる体質なのは、迷惑かもしれないけど……それくらいなら俺でも祓えるし。なんていうか……ここで他の人に丸投げとか、したくないんです。もちろん水蜜さんが人間に危害を加えるような怪異になってしまったら、庇ったりはしません。あなたたちにも助けてもらうことになるかもしれない。でも、今は……今すぐには、まだ。決断してほしくないんです」
「ほお……」
「炎天。子供を脅かすのはそれくらいにしとき。私まで大人げないと思われるやないの」
 月極の一声により、炎天と呼ばれた神霊は礼から離れた。その瞬間、蓮が礼の腕を引いて自分の背後へ庇った。父も厳しい表情で二人の息子を見守っている。やっぱり、そのくらいの殺気をぶつけられてたんだ……真冬にも関わらず額から汗が噴き出してきた。
「もう充分思っとるわ。俺の可愛い孫たちに何のつもりだ」
 そんな中、祖父の礼寛だけが微動だにせず炎天を睨んでいた。月極は礼寛を見つめ、冷たい声で言い放つ。
「孫は可愛い言うても甘やかしすぎやないの。危ないものには近寄らんように躾けるのも大人の愛情やろ」
「愛情、ねえ……他でもないお前が? 手前の息子にも冷たいお前が、他人の孫のために家まで出張してやって怪異退治? 気色悪いとしか思えん。何を企んでいる」
「他人の孫やない。あんたの孫やないの。烈くんかて赤ん坊のころから自分の息子同然に可愛いがってるのに」
 礼の父……見た目も性格も厳つい烈までも、月極のことは苦手らしく複雑な顔をして礼寛に対応を任せているようだった。
「せがれも可愛いがってもらった覚えはないぞ。さっさと本当の目的を吐け。それか大人しく帰るかだ。お前の都合で俺の家を荒らすな。嘘をついて事態をややこしくするのはお前の悪い癖だ……紫津香」
「……礼も変わらんなぁ……」
「へ?」
「ああ、この子も『礼』くん言うんやね。名を一字あげるくらい大切にしとる坊やなのに……はあ」
 月極が目配せすると、炎天はすかさず近寄り月極の手を取った。普段からそうしていることがよくわかる自然な所作でエスコートされながら立ち上がると、月極の冷たい眼差しが礼寛を見下ろした。
「今日のところは御暇させてもらうわ」
「ああ。くそ忙しい年の瀬にご苦労さん」
「後から何言われても、知らんよ」
 月極たちが完全に去るまで緊張は解けなかった。神霊の気配が完全に感じられなくなったのを確かめると、礼と蓮だけでなく、烈も大きなため息をついて脱力したくらいである。
「烈まで……情けないな」
「あの爺さんだか婆さんだかわからん妖怪は昔っから苦手なんだよ! おっかないたらありゃしねえ」
「えっと……しづかさん? て男の人だよね?」
「男だぞ。若いころはよく女と間違われとったな」
「今でも綺麗な女の人みたいに見えるけど……」
「あんなん綺麗だと思わんほうがいいぞ。気持ちはわかるけどな。子どもの頃から女のかたちの怪異を見慣れとると罹る風邪みたいなもんだ。若いうちはそうなる。そのうち蓮と同じように、もっと可憐で普通の、人間の娘さんが好きになるから。それまで早まった決断はしないほうがいいぞ」
「じいちゃんとこんな話したくなかったなあ」
「ともあれ。アレがわざわざ自分で怪異退治すると言い出すとなると相当なことだ。礼を一人であっちに戻すのはできたら避けたいのだが……」
「いや、大学もはじまるから無理だよ」
 大学の友達と初詣の約束もしているし、もともと元日の手伝いまでしたら早めに実家を出る予定でいた。確かにあの炎天という神霊は怖かったし、実家の家族に頼りたい気持ちもある……しかし水蜜を今、この瞬間もあちらの家で待たせていることが心配だった。ベテランの陰陽師と神霊相手に礼一人で何ができるかわからないけど、できるだけ早く戻ってやりたかった。
「そう言うだろうとは思ったよ。この件は蓮と話し合っておくから、礼はお母さんとゆっくり話でもして休んできなさい。神霊と向き合うとしんどいだろう」
「うん……やっぱ神霊は怖いや」
 殺気に漲った深雪と対峙したことを思い出すと今でも寒気がする。それくらい、神と名のつくものは恐ろしい。そこに存在しているだけで。それを思うと、水蜜はやはり神らしくないなと思う。彼は一体何者なのだろう。
 結局、この事件が次に進展するのはお正月ムードがすっかり過ぎ去った後のことになる。

二『初詣に、また神霊』

(第十話の二・二周目)

 月極と炎天が禎山寺を去った後、いつのまにか姿を消していた郷徒かおそるおそる戻ってきた。蓮が祖父や父と話し合っている間に、礼は郷徒から情報を得ることにした。
「月極紫津香さん……新陰陽寮の陰陽頭ですね。私はお世話になったばかりなので、下手な口出しができないと思い隠れてしまいました。礼さんの力になれずすみません」
 郷徒は眼鏡を抑えながら苦い顔をした。
「今回のことで色々教えてもらったんですけど、今でも陰陽師って国家公務員みたいな感じだったんですね」
「一般の方は『陰陽師』といえば大昔……平安時代のイメージしか無いでしょうね。歴史を学んだとしても江戸時代まで、明治に入って陰陽寮は廃止された。そこまででしょう。ですが今でも怪異は存在しますよね」
「怪異対策課みたいに『視える』人間の間では現役ってことですね」
「怪異が実在することを知らない人たちからすればオカルトとしか思えませんが、陰陽師は現在も京都にある『新陰陽寮』を拠点に活動しています。国の補助も受けているので我々とほぼ同じ、公務員ですね。表向きは副業として別のお仕事をされていますが。月極さんも、お名前から推察できるとは思いますが……」
「もしかして『月極グループ』と関係あるんですか?」
「今は息子さんに任されていると思いますが、社長だった方ですよ」
「ひえー……」
 月極グループは全国に膨大な不動産を所有する大企業で、国内でその名を知らない者はいない。子どもですら、街中の看板を見慣れている。
「先祖代々大富豪として知られていて、陰陽師の中でも平安時代から政治に深く関わってきたエリート家系ですよ。その中でも紫津香さんはベテラン中のベテランですから、今では若い方に任せていて自分で動くことなんてそうそうないはずです。先日私が助けてもらったのも偶然の巡り合わせで、本来私のような下っ端が直接会えるような方ではありません。本当に、月極さんが直接水蜜さんを『消す』と仰ったんですか」
「はい。俺には、それまで実家にいろって……神霊を連れていて、すごい殺気でした。本気だと思います」
「あの方に冗談は通じないでしょうね」
「蜜が、どうした」
「うわ! 急に後ろ来るのやめろよ」
 神霊は気配を消して近づいてくる。礼でも容易に背後を取られるので心臓に悪い。いるだろうとは思っていたが、礼のすぐ後ろから深雪が二人の人間を見下ろしていた。
 深雪は大学襲撃事件が落ち着いた後、水蜜を交えた交渉の末に怪異対策課に協力するようになっていた。はじめは愛する水蜜と時々会えることを条件にと、警察署の地下にある怪異収容フロアに渋々滞在していた。その後郷徒羊が禎山寺に引き取られることになり、一緒に寺の監督下に入ることになった。今は寺のそばに小さな神社を建ててもらって、郷徒と共にのどかな生活を送りながら怪異対策課の仕事も続けている。都会にあるビルの地下より田舎のお寺のほうが居心地が良いようで、以前より気性はほんの少しだけ穏やかになった。ほんの少しだけ、だが。
「小坊主の話は途中から聞いていたが、陰陽師が蜜をなぜ狙うのだ。話が違うが、独楽鼠は何をしている」
 深雪は郷徒のことを独楽鼠と呼んでいる。人間たちのややこしい手続きはすべて彼に任せきりで、今も甘えるように責めるものだから郷徒はため息をついてズレた眼鏡を直した。
「私も寝耳に水ですよ。別の陰陽師が来たとき何も言われなかったじゃないですか」
 郷徒は今後の対応についてかなり悩んでいる様子だった。
「水蜜さんも私の担当ですので、怪異対策課に話が来ていたら私が真っ先に知ることになるはずですが。何もなかったということは、月極さんの独断でしょうか……とりあえず京都へは私から問い合わせしておきますが、何せ彼はそこのトップなので。私はもちろん、止められる人はいないと思ってください。礼寛さんがとりなしてくださると助かるのですが……現役の陰陽師の中では、唯一神霊を式神にしていることを公言なさっている実力者です。十分お気をつけて」
「それは身をもってわかってます。あの炎天っていう神霊ですよね……」
「それで蜜が殺されるかもしれんと騒いでいたのか」
 水蜜は不老不死の怪異である。しかし例外もある。自身より強い力……神霊の攻撃であれば重傷を負う可能性がある。かつて深雪の刀によって水蜜の首が落とされたときは、江戸時代から戦後しばらく経つまで水蜜は瀕死の状態で動けなかったという。
 深雪はその一太刀で攻撃をやめてしまったが、もし追撃していたら完全に消す……殺害することができたかもしれない。水蜜は『元人間が怪異化した、現在はおそらく神霊らしきもの』とされ、いまいち正体がつかめないのではっきりとはわからないが。
 月極が陰陽師として炎天をサポートし、神霊の力を行使して水蜜を傷つけようというのなら、かなり危険な状態だと言えるだろう。
「所詮人間の下僕に成り下がった神霊。程度が知れている。挑んできたところでおれが斬り伏せるだけだ。しばらくおれを蜜の傍に置いておけばいいだけの話だ」
「ちゃっかり水蜜さんと一緒に居ようとしてるよね。まあ、近くにいてくれるのは俺も助かるけどさ……それで本当に大丈夫かなあ」
「なんだ。小僧はおれがあの神霊より弱そうだとでも言うのか」
「そうは言ってないじゃん」
「礼さんの心配はごもっともですよ。神霊と神霊が街中で喧嘩なんて始めたらどうなると思ってるんですか」
 建物や一般の人に被害が出たら、火消しに追われるのは怪異対策課の面々……というか、ほぼ郷徒が一人でフォローに回ることになる。今から胃が焼かれる思いだ。
「深雪さんの長期外出許可もそう簡単には下りませんからね。申請はしておきますが、私が問い合わせや手続きを終えるまで絶対に下手な真似はしないでください」
「蜜の危機とあればその限りではない」
「あんまり大事にすると水蜜さんが大学に通ったりもできなくなるんだからね! 急に斬りかかったりしないでよ! 水蜜さんにも嫌われるよ」
「チッ……」
 味方側も不安である。

 新年を迎え、実家の寺の手伝いを終えた礼は急いで水蜜の待つマンションに戻ることにした。蓮には散々引き留められたが、どの道大学が始まるまでには戻らなくてはならない。せめて限られた時間内で、祖父から対陰陽師・対神霊の策を授かってきた。「礼は坊主にもならんでいいと思っていたが、先にこんな滅多に使わん知識を教えることになるとはな」と祖父も父も嘆いていた。月極達がいつどう動くかまったくわからず不安ではあるが、やれることをやるしかない。自宅で待っていた水蜜たちに何事もないことを確認した礼は一安心し、実家であったことを話した。
 礼と水蜜だけでは何もできないため、とりあえず郷徒に現在の状況を聞こうと警察署へ出向いた。そこで声をかけてきたのは、郷徒の同僚である明李だった。
「神霊案件なら、お寺出身の礼くんより俺の方が詳しいと思いますよ」
「ああ……明李さんのご実家はかなり大きな神社でしたね」
「初詣シーズンも落ち着いてきてるし……どうですか? うちの神様にも協力をお願いしてみませんか?」
 明李によると、現在確認されている……生き残っている神霊は、ほとんどが人間によって神社や特定の土地に祀られており協力的な性格であることが多いのだという。深雪のようにどこにも属していない存在は信仰を失い、完全に悪霊に堕ちてしまったり弱い怪異化して消滅してしまうことがほとんどで、かなり珍しい事例らしい。
「月極さんのとこの神様だって、京都の陰陽寮に属してるわけでしょ。話せばわかるかもしれません。神様は心から敬って接すれば決して恐ろしいだけの方ではありません。紹介するんで、試しに俺の実家の龍神様と話をしてみませんか?」
「龍神様と、話を……?」
 すべてではないが、神社には本当に神霊がいるということは礼も知っていた。水蜜だってそうだ。だが、初詣で人が集まるような有名な神社の神霊というのは会ったことがなかった。少し怖気付いたものの、今は手段を選んではいられない。新陰陽寮からの返答を待つ間、一行は明李の親が神主を務める神社に行くことになった。

 それから数日後。礼と水蜜が郷徒の車に乗せてもらい、神社に到着した。明李とは現地合流で、駐車場の出口でにこやかに手を振っていた。
「ちょっと遠かったですよね、お疲れ様です」
「雪ちゃんも来てるんだよね? 見た?」
「おれはここにいる」
 鳥居の手前に深雪の姿もあった。一応人に擬態してはいるが、二メートルの巨体はそれなりに目立つ。遅めの初詣にやって来た参拝客がちらちらと見ながら通り過ぎていく。
「蜜も行くというから同行したが……他の神霊の力など要らん。本当に会いに行くのか」
「えー、ここまで来たのに。他の神霊に私を取られちゃうかもって心配なの?」
「あーはいはい、水蜜さんはあんまり深雪を煽らないで……陰陽師に属する人みんなが敵かもしれない以上、怪異対策課側に味方してくれる神様なら挨拶くらいはしなきゃ。あ、お供えとか必要でしたか?」
「それは大丈夫! 俺がバッチリ手土産持って来たから」
「え、それは……おもちゃ?」
 明李の手には、某有名玩具店のカラフルなロゴが刻まれたビニール袋。中には小さな箱がいくつも入っているらしかった。
「後でわかるよ。じゃ、早速行こう」
 明李と郷徒を先頭に、一行は鳥居の内へ足を踏み入れる。水蜜は深雪の腕にさりげなくしがみついていて、深雪はまっすぐ前を見ながら険しい表情をしていた。
 参拝客のいるにぎやかな場所を抜け、徐々に人気の少ない方へ歩いていく。
「こちらです。裏手に自動車の交通安全祈願をする建物があるんですけど。今日は予約無くて誰もいないので、そこでゆっくりお会いできることになってます」
「自動車……?」
 言われてみれば、ぐるりと回って先程の駐車場の方向に戻ってきている。そこから車を運んで来られるように道が広く舗装されていた。
「実際に車をこっちまで持ってきてお祓いするんですよ。うちはガチで神様のご加護が得られるので評判ですよー」
 社殿に到着する。その辺りからすでに神気が感じられて、礼は息を呑んだ。水蜜や深雪はもっと先に感じていたらしく黙っている。静電気のようなピリピリした刺激が肌に触れている感じがした。
「お久しぶりですー。雷轟様あ」
「おー、平太か。親不孝者め、全然帰ってこないな」
「うわ……でっ……か」
 思わず呟いてしまった。デカかった。まずそこにびっくりした。まず、礼が一八七センチある。人間としては十分長身だ。そして、深雪が二メートルある。大学で初めて会ったときは圧倒された。それなのに。目の前にいる『雷轟』と呼ばれた男はさらに大きかった。深雪よりさらに一回り大きく、負けず劣らず筋骨隆々なので山のようにデカい。ラフなツナギ姿ではあったが、溢れる神気とその巨大さで十分わかる。彼がここの神様なのだろう。
「これ……持ってないの選んできたつもりですけど」
「おっ、待ってました。平太くらいなんだよな、こういうのわかるの。親父さんたちはよくわかんないらしくてな」
 差し出されたビニール袋から中身を取り出す。大きな手がちょこんと摘み上げたものは……ミニカーの入った小箱だった。
「ミニカー……?」
「雷轟様は車が大好きなんですよ」
「ん、ありがとな。後でゆっくり見るわ。で? 神霊二柱も引き連れて何の用事だ」
「……っ」
 緊張が走る。深雪が一歩前に出て、礼は水蜜を庇った。
「そういう用事なら、吾も正装するか」
 雷轟の体に、電流のような光が走る。眩しくて目を背けた刹那、彼の容姿は大きく変わっていた。派手な袴姿に、長くうねった髪も色鮮やかな翠色に染まっている。何より目を惹くのは爬虫類の鱗が生え揃った大きな脚、そして額から生えた立派な角。いかにも『龍神様』という威風堂々とした格好になっていた。それとほぼ同時に、深雪も擬態を解いていた。雷轟の神気にあてられているのか、普段より獣化の度合いが強い。白狼の耳だけでなく、手脚にも純白の毛並みがあらわれそこから鋭い爪が剥き出しになった。
 一触即発か……水蜜すら深刻な表情で押し黙った、冷たい沈黙。だが……その次の瞬間、雷轟が何かに気づいて目を見開き何度か瞬きをした。
「ら、雷轟様。この方達は私の客人です」
「平太」
「は、はい」
「なんだよ、玩具なんかで勿体振りやがって! こっちの方が本気の土産なんだろ? よくやった!」
「えっ?」
 その場の皆が戸惑う中、雷轟はずかずかと深雪に近寄り眼前に立った。後ろで水蜜から「いきなり殴りかかったらダメだよ」と囁かれているので辛うじてじっと睨みつけるだけに留める深雪の顔をまじまじと見下ろしてから、嬉しそうに大きな声で笑った。
「生きてたんだな!」
「何? 雪ちゃん、この神様知り合いだったの? どうして教えてくれなかったのさ」
「知らん。龍神の知り合いなど」
「はあ……矢張り何も覚えてないか。いざそう言われると切ないな」
「この神様は雪ちゃんのこと知ってるみたいだけど」
「知ってるも何も。これは吾の弟だよ」
「……え?」
「えー⁈」
 思いもよらない展開になってきた。

 深雪は『神霊であること』『その中でも、戦闘能力に長けた武神であること』『狼の要素を持つこと』以外自分のことを何もかも忘却している逸れの神霊だった。江戸の街で水蜜に出会い行動を共にするまで、彼はずっと独りで各地を彷徨っていたという。
「真名は親父が消しちまって吾も覚えてない。神が『消した』からな、世の中から綺麗さっぱり無かったことになったんだ」
 深雪は己の兄を名乗る神霊に対して、警戒心を剥き出しに黙って睨みつけていた。
 雷轟の話によると、雷轟と深雪は腹違いの兄弟。父親にあたる神霊が同じで、深雪の生みの親は産後すぐ亡くなったという。現代の人間風に言えば、父親は深雪を認知せず育児放棄したのだとか。
「兄弟といっても人間の親子以上に生まれ年は離れていたからな、あんまりだと思った吾がしばらく育てた。だが自分のされた仕打ち、母親の受けた屈辱を産まれたときから知っていた弟は、ある程度大きくなってすぐに父親に牙を剥いた。結果は……まあ、想像できるよな」
 完膚なきまでに打ちのめされ、さらに名前を消されて、虫の息のまま。人も住んでいない僻地の山中に投げ捨てられたのだとか。
「神霊にとって重要なのは信仰だ。名前すら無いなんて、何も食えないように口を縫われたようなもの。そうして誰からも認識されず、飢え死にする筈だった」
「そのときは、雷轟様は助けなかったんですか。一度は……赤ちゃんだった深雪をかわいそうに思って、弟だからって、引き取ったんですよね」
 勇気を振り絞って口を開いたのは礼だった。ここのところ、神霊には散々脅かされて恐怖が身に染みている。それでも彼は言いたかったようで。そんな礼の横顔を、深雪がじっと見ていた。
「何やら思うところがあるようだな、小僧」
「……」
「いや、怒ってないからな。怯えるな。人間ならそう思うだろう。だがな、吾等は神霊なんだよ。死ぬよりも辛い……誰にも名を呼ばれず、孤独で、信仰も無いので希薄な肉体を引きずって、かといって人間のような脆弱な肉体ではないから死ねずに。そうして生き延びてしまうより、強い神からの一撃でスッパリ死ねた方が安らかだと思ったんだよ。ま、親父の手前何も言い出せなかった臆病者だという誹りも甘んじて受けよう」
「実際、雪ちゃんは前者だったんだよね。記憶喪失のまま独りで彷徨ってた」
「憐れむな、不快だ。蜜に気遣われるのは赦すが他は全員殺す」
 黙って聞いていれば。苛立ちに拳を握りしめて、吐き捨てるように深雪が言う。
「今の話、さも真実のように語るが証人は居らん。こいつが勝手に言っているだけだ。いくらでも作り話はできる」
「あのとき居合わせたきょうだいなら証人になるかもしれんが……もうずっと会っていないしなあ」
「何のつもりでおれを憐れむような話をしたのかわからんが、喧嘩を売るなら回りくどい。兄を名乗れば手っ取り早く敬われるとでも思ったか」
「深雪さん。今日は怪異対策課として雷轟様に協力を要請しに参じたのです。ことを荒立てないでください」
 郷徒の制止に辛うじてその場にとどまっているが、正直爆発寸前だというのはその場にいる人間全員が感じていた。それを雷轟が、容赦なくつつく。
「なあ。先ほどから弟をみゆきと呼ぶのは何だ?」
「私が考えたんだよ。名前が無くて、人間たちに好き勝手呼ばれてたから。深く山里を包み込む雪。私のふるさとの風景からつけた名前」
「それが今の心臓か。社も無しによく生きていたと思ったが……女神の言霊とは」
 口を開いた水蜜を一瞥し、雷轟が目を細めた。それから視線を深雪に戻す。しかし、深雪か。などと頭から足先まで視線を這わせてから。ほのかに笑んで言った。
「なかなか良い名前を決めたな。よく似合っている。毛並みも肌も白雪のそれだもんなあ。きょうだいの末っ子らしく小さくて愛らしいし……」
 言い終わらないうちに、深雪の傍らに居た郷徒が吹っ飛んだ。全員咄嗟に伏せた。深雪が雷轟に殴りかかったのだ。
「蛮勇ぶりは変わらんな。それで名を喪ったというのに」
「……っ!」
「え……?」
 礼に支え起こされた郷徒が、信じられないものを見た表情のまま固まっている。怪異調査チームとして深雪と組まされて一年も経っていないが、すでに数え切れないほどの怪異を難なく捻り潰し。猛スピードで走る乗用車すら片手で受け止めた彼が。
「深雪さん、が……組み伏せられてる……?」
 仰向けで、背中に土をつけたまま。そんな状態一刻も早く起き上がりたいはずである。だが、深雪はまったく動かない。雷轟の腕を力一杯掴み、脚でも蹴り上げようとしているだろうに。動けないのだ。
「せっかく兄弟感動の再会なのだから、儚くとけてくれるなよ」
 雷轟の背中を覆う、長い髪がふわりと逆立ってほんのり光る。金色の瞳が瞬いて、すさまじい轟音と共に閃光が走った。眩んだ目が視力を取り戻したころには……ぐったり動かなくなった深雪がいた。密着したまま雷撃を喰らわせたのだと、そのときに理解した。
「いきなりのことで頭に血がのぼっていたようだからな。弟が……今は深雪か。こいつがいると他の面々が話せないようなので黙らせた。さて、本題を聞こうか」
 少しも動く気配のない深雪に、さすがの水蜜も不安になって駆け寄りたかったけれど。
 乱れた白い前髪を梳き、閉じた眼を縁取る化粧に太い指を這わせ、移った紅に唇を寄せる龍神の気魄があまりにも、息が詰まるくらい重たくて。気絶した深雪を雷轟の手元に残して、人間たちは本来したかった話を粛々と進めるのだった。

 理屈はわかる。雷轟は、先祖代々明李の家が神主を務めて大切に祀られ、こんなに立派な神社を持っている。初詣客だけでも参拝者の規模は有名で。
 膨大な信仰を集める彼に対して、社も持たない深雪が神霊として太刀打ちできないのは当然のことだ。しかし先ほど目の前で起きた呆気ない出来事は礼の不安を煽った。
「深雪の名誉のために言っておくが、決してこれが神霊として格が低いわけではない。むしろ今存在する神霊の中では相当古株で、神格を失わずにいるだけで大したもんだ。さらに武神としての力も維持しているんだから驚かされたくらいだ。そこは理解しておいてくれ。これから人間からの信仰を得て立て直してほしいんだ。一応、兄としてはな」
「雷轟様から見て、今の深雪は炎天っていう神霊より強いと思いますか」
「先程からそこの小坊主は肝が据わってやがるな。いいぜ、昔の弟みたいで気に入った。ええと、なんだったか? 陰陽寮に神霊がいることは知ってるが、会ったことはないな」
 霊感あるのに、よく怖がらずに話せましたね。俺なんか初めて雷轟様にお目通りしたときはビビって一言も喋れなかったのに……と後で明李が驚いていたほどに。初対面の深雪さんに殴りかかったそうですからね、と郷徒にため息を吐かせるほどに。怖いもの知らずなのは、礼本人が一番よくわかっている。どちらの勇気も、ただがむしゃらに考えた結果なだけ。水蜜から危険を取り除く方法を。
「炎天とやらがかなり新しい神霊なのは間違いない。吾が知らないからな。だが古ければ強いというわけでもない」
 炎天も月極の式神として新陰陽寮の人間たちから支えられているのは確実で、月極の地位からすればさらに多くの人間からも信仰を集めているに違いない。
「人間の浅い歴史でも、しっかり積み上げてきたものは馬鹿にできない。陰陽師の連中はそのへん堅実にやってる」
「そういうのが深雪には無いってことですよね。陰陽師みたいに、彼をサポートできる能力の人もこっちにはいないし」
 未だ目を覚まさずにいる深雪に視線をやる。
「もし勝ち目が無いとしても、深雪は戦うと思います。炎天が水蜜さんを攻撃するなら」
「名をくれた恩ゆえ……いや、嫁か?」
「私、結婚してないです。友達です」
「ははは、随分性悪に騙されているな。可愛い弟は」
 快活に笑ってはいるが、目と神気のひりついた感触はまったく笑っていなかった。
「で、吾にどうにかしてほしいと」
「まさかこんな話になると思ってなくて、深雪にはちょっと申し訳ないけど……雷轟様も、もう無視できないですよね。仲裁に入っていただけませんか」
「できんな」
「……!」
 やっぱり、そう簡単にはいかないか。明李と郷徒は青い顔をして礼を見守り、水蜜はぼんやりと深雪の方を見つめて考え込んでいる。礼だけが正面から雷轟の視線を受け止め、視線を逸さずにいた。
「一緒に戦ってくれとまでは言いませんから」
「とはいえ、荒事になればそちら側を庇うことにはなるだろう。そうなれば陰陽師からは吾は敵だと思われる。吾を支える明李の家もな。吾はこの神社に集うすべての人間を背負っている。陰陽寮とは関係を悪くしたく無いのだ」
「やはりそうなりますよね」
 礼さんのように頼みたい気持ちはやまやまですが、と庇いつつ郷徒は諦め気味だった。
「深雪さんが喧嘩を買うのも本当はすごくまずいです。今、怪異対策課から新陰陽寮へ問い合わせはしていますが返答がありません。この状態で、一応怪異対策課に所属する深雪さんが派手に炎天さんとやりあったら……私が深雪さんの独断行動を止めきれなかった、というていで平謝りするしかありません。それも通じるか」
「人間の小僧よ。何故そこまでその女神を守ろうとする。はじめは成り行きで助けただけだろうが、こうも危険が積み重なり大きくなればただの親切心では続くまい。そこまで足掻かずとも、誰も貴様を責めたりはせんよ。相手が悪すぎる」
「それはわかってます」
「礼くん……」
「水蜜さん、大丈夫だから。俺は途中で投げ出したりしない」
「頑なだな」
「雷轟様はいいんですか。このまま深雪が……せっかく会えた弟が、考えなしに他の神霊に挑むのを傍観してるつもりですか」
「言ってくれる……」
「礼くん! もうこのくらいで……」
 見かねて明李が礼を止める。
「良い。小僧の覚悟はよくわかった。だが話すことはもう無い。考えてはやるが吾の返答は先程の通りだ。諦められんのなら、他の手も探すことだ」
「……わかりました」
 手応えは……よくわからない。とにかく怖かった、という気持ちが今更どっと湧いてきたのでそれどころではなかった。運動していないのに今日はものすごく疲れた。今日はもう早く帰りたいと礼は思った。
「では、お暇させていただきたいところですが……起きませんね、深雪さん」
「やりすぎたか? このまま置いていっても構わんが」
「そうはいかないんですよ……」
 深雪が自由すぎるので忘れがちだが、本来は警察署の地下深くにある怪異収容室に厳重に閉じ込めておかなくてはいけない存在なのだ。今こうして外出しているのも担当官の郷徒がついているからギリギリ、特例中の特例だった。
「社殿の前まで私の車を回させてください。後部座席に乗せて帰ります。申し訳ありませんが礼さんたちは帰りはタクシーで。手配はしますので」
「運ぶの手伝いますよ」
「助かります。しかし、入るかな……」
 郷徒さんていつも無茶なことさせられて困ってるな。とハラハラしながら一旦見送り、明李も一旦親に話してくると席を立った。雷轟は本当にもう礼と話すつもりは無いらしく、いまだ眠る深雪の傍らに黙って座っていた。
 残された礼と水蜜も、何も言わずに座って待っていた。明日から、いつ陰陽師がやってくるかわからない日々が続くのかと漠然とした不安を抱えながら。
 ほどなくして、参拝客用駐車場に停めてあった郷徒の車が社殿前までやって来た。
 まさかそれが、さらに予測不可能な事態につながっていくなんて。

「……おい」
 雷轟の目つきが変わる。本当に、神霊の移動は心臓に悪い。一瞬にして気配が消えて、気づいたら目の前にいたりする。深雪にようやく慣れて来たところをさらに上回る巨体が目前に現れたので、思わず後ろに倒れかけた郷徒の肩を雷轟の両手が掴んだ。
「あれはおまえの車か」
「はい、そうですが……?」
「何だ? 郷徒さんと雷轟様が揉めてる……?」
 離れたところで見ていた礼には何を話しているのかわからなかったが、ほどなくして明李も駆けつけ大人たちで話し合いをしているようだった。何とも言えない顔をした郷徒が、満面の笑みを浮かべた雷轟に肩を抱かれながら社殿に戻って来た。
「こいつら、今夜は泊まっていくことになった」
「郷徒さん、お客様用布団出してもらうんでうちに泊まってください。深雪さんは……」
「ありがとうございます。深雪さんはこのまま社殿で寝かせておけばいいんじゃないですか。別の神への信仰とはいえ、ここは神気が強い。回復の助けになるでしょう」
「そうですね。ご兄弟とのことですしなおさらそうか」
 何やら雷轟に絡まれている郷徒の代わりに、明李が慌ただしく怪異対策課へ連絡をとりはじめた。
「お前は煙草を吸うのか」
「いえ」
「そうか。じゃああれは昔の男のにおいが染み付いて取れないわけだな」
「前のオーナーが男かは知りませんがそうですね」
「何度か事故してるな。直した跡がある」
「そうですね。私が購入した時点で走行距離もかなりのものでしたし、修復跡がありました。できる限り清掃してアレです。だから激安だった中古の軽自動車ですよ? 車好きなのは伺いましたが、どこがいいんですか?」
「なんだ、お前は人妻とか未亡人とか興味無いのか? 若い処女以外も良いぞ」
 そのあたりで水蜜が勘付いて、小刻みに震え出した。
「やば……郷徒くん面白……愛車……自分の車まで……そんな目で見られ……ふっ」
「ねえ水蜜さん、雷轟様は何を話してるの? なんで急に猥談始まったの?」
「礼くんは知らなくていいよ」
「礼くんは聞かなくていいです」
 いつの間にか、雷轟を郷徒に押し付けた明李が礼たちの方へやって来ていた。
「雷轟様は……その、自動車が好きすぎて、特に好みの車が交通安全祈願に来るとそれはもう喜んですごい加護をくれたりするんですよ。その代わり、一晩ゆっくり『楽しみたい』から置いていけと所望されることはよくありまして」
「あの車、そんなじっくり見たい感じのレア物だったんだ。レトロカーってやつ?」
「郷徒くんが大事に乗ってるってわかったんだよ」
 水蜜もとぼける道を選んだようだ。
「このままご機嫌なら、少なくとも雷轟様は敵に回ることはないでしょうし多少は助力してくださるでしょう。それ以外の対策も考えるので礼くんたちは一先ずいつも通り生活していてください。できるだけ人の多いところにいるようにしててくださると……陰陽師も、人前で変なことはできないでしょうから」
「わかりました。今日はありがとうございました」
 最後の最後で余計にわけがわからなくなったものの、自分のせいで雷轟の機嫌を損ねることにならなくてよかった……と思いつつ、礼は水蜜と二人だけで帰路につくのだった。

三『襲撃! 陰陽師』


(第十話の三・二周目)

 雷轟に会いに行ってからしばらく、月極からの接触はまったく無かった。怪異対策課の郷徒に聞いても、新陰陽寮への問い合わせには中身の無い返答しか来ていないそうだ。
「不穏ではありますが……すぐに何か起こることがなくて良かったなとは思います。あれからしばらく深雪さんが大荒れだったので……」
「ああ……でも水蜜さんがつきっきりで慰めていたからかえってよかったのでは? その間は深雪のすぐそばで守られてたわけだし」
 雷轟のもとに深雪と郷徒だけ残されてどうなったのか礼は知らない。だが途中までの様子を見る限り、雷轟は蓮のような優しい兄ではないらしかった。「神霊って血縁の方がかえって厄介な関係だったりするんだよ」とは水蜜のコメント。ただの人間の礼としては極力関わりたくないことだが、深雪にはちゃんと動いてもらわないと困る。
「簡潔に申し上げますと、深雪さんは以前より強くなりました。かつて水蜜さんから受けた呪いは完全に浄化され、もう悪霊化の心配はありません。水蜜さんの息子さんたちに斬られた首の傷跡まで綺麗に修復してもらったみたいです。雷轟神は直接手を貸してはくださらないと思いますが、深雪さんを万全の状態にするという形で応えてくださったようです。ただ、深雪さん本人の反応は……できれば、そのあたりは話題にしないほうが」
「触らぬ神に……ってやつですね」
 やはり、深雪と雷轟の関係はかなり複雑なようだ。今は掘り下げないほうがいいだろう。
「京都府警の怪異対策課にも相談はしてあるので、何かあればすぐに連絡します。学業もあって大変かとは思いますが、どうかお気をつけて」
「はい。よろしくお願いします」
「郷徒くんは何て?」
 スマホでの通話を終えた礼を、向かい合った席で水蜜が見つめていた。今は大学のカフェスペースで過ごしている。できるだけ人の多い場所を選んでいるのだ。大学であれば、すぐに郷美にも助けを求められる。
「陰陽寮からの情報は無いって。一番偉い人だから、独自に動けるんだよ」
「なにそれ。月極紫津香、だっけ……知らない人だけど、すでにやな感じだなあ」
「それにしてもさ……」
 礼はずっと気になっていたことを水蜜に尋ねた。
「なんで陰陽師の人が水蜜さんを消したがるの? 水蜜さんは心当たりない?」
「なんで私ご指名で消されそうなのかはわかんないよ。でも、私を消すなら陰陽師ってのは合ってるかな」
「どういうこと?」
「うーん……こういう話はちゃんとまとめてくれてる正ちゃんがした方がいいんだけど。結論から言うと、私を怪異にしたのは陰陽師の技術によるものだから。私の不死性を奪って殺す技術が、今の陰陽師にあるのかはわかんないけどね」
「神実村にも陰陽師がいたんだ」
「いたというか……今の歴史の教科書で言うと……ええと、平安京での政争に敗れた陰陽師が田舎に逃げて、山奥で村を作った。それが神実村のはじまりだと言われているよ。私も生まれる前の話だから言い伝えだけどね」
「京都とちょっと関係あるね」
「いや、でも千年とか前の話じゃない」
「そうだね。今京都にいる陰陽師ってことはその政争の勝ち組なんだろうけど、今更その子孫が追ってくるって変だよね」
「それに、神実村にはもう陰陽師は一人もいないし。村の始祖と言われる陰陽師一族は『根くたり様』を私に降ろそうとして死に絶えたし。私も子どもの頃陰陽師としての教育を少しは受けたんだけど、神への供物としてその知識を捧げたから今の私は陰陽師じゃない。勝負を挑まれたとして勝ち目は無いよ」
「月極さんは、水蜜さんの中にいる『根くたり様』に用があるのかな?」
「わかんない……でもそれ以外考えられない。もし私を殺したかったら、神との接触は避けられないと思う。これまで根くたり様が目覚めたことは一度も無い。宿主である私でも、話せたのは私と融合して眠りにつく直前のちょっとだけ。他のひとと対話してくれる神なのか、私にもわからないよ」
「これから郷美先生に聞きにいこうか? 月極さんの目的がわかるかもしれないし」
 二人は郷美の研究室がある上階へ向かうことにした。すぐ近くにあったエレベーターがタイミングよく開いた。他には誰も待っていなかったのに。礼と水蜜が乗るのを待ち構えていたかのように。思い返せば、そこで違和感を感じるべきだった。しかし、乗り込んでしまった。ただならぬ気配を感じたときには、背後で扉が閉まりエレベーターが動き出していた。
「……やられた。こんなところで」
「礼くん……」
「わかるよな。空気変わった。捕まったんだ俺たち」
 無駄な抵抗とは思いながらも、礼はすべての階のボタンを押した。非常通話ボタンを叩くと、ノイズでざらついてはいるが覚えのある軽快な関西弁が聞こえてきた。
「あかんなあ兄ちゃん。こんな小さい箱にのこのこ入って。捕まえてください言うとるようなもんや」
 それっきり、通話ボタンは反応しなくなった。
 息を呑んでエレベーターの動向を伺っていると、三階で停まり扉が開いた。しかし、降りようとは思えなかった。扉の向こうは、明らかに大学内ではなかったからだ。そして目の前に……月極が立っていた。彼は人差し指を立て、そっと唇の前にやって静かに乗り込んできた。黙って大人しく乗っていろということらしい。エレベーターは再び動き出したが、いつの間にか階数表示が消えてしまっていた。上がっているのか、下りているのかも感覚的にわからなくなっていた。
「陰陽術にしてはハイテクや思われるけどな、座標も絞り易ぅて便利どすえ」
 再び開いた扉、促されて降りるしかなく。
「ここは……大学だけど、大学じゃない」
 昼間のキャンパス、白を基調とした明るく新しい建物の中。どこに行っても学生の賑やかな話し声が聞こえるはずであるのに、今は誰の気配もない。礼と水蜜、そして目の前にいる月極と、待ち構えていた炎天の四人を除いて。
「なんやろなー、異世界って言えばわかる? ババアの結界術と、神霊であるオレの神隠しの合わせ技や。カタギの人間らが大勢いたら迷惑かけられへんもんなあ? そこは兄ちゃん考えたなあて褒めたってもええけど。陰陽師と神霊やぞ。舐めたらあかん」
「……っ!」
「逃げても無駄やで」
 礼は水蜜の手を取って走った。大学と同じ間取りならどこに何があるかわかる。非常階段の扉を開くと、そこには中庭に繋がる螺旋階段があった。とりあえず一階に戻るべく、階段を駆け下りる途中で……
「無駄やて言うてるやろ」
 二階を通過しようとしたところで。非常口の扉をぶち破る炎天の蹴りが二人を直撃した。すさまじい力で、老朽化していた階段の手すりは容易く壊れた。空中に放り出された礼は水蜜を抱きかかえると、できる限りの受け身をとりながら中庭の芝生に落ちた。
「いっ……てぇ……」
「礼くん! 大丈夫⁈」
「この通り、誰にも邪魔されん異世界やからどれだけ器物損壊やっても怒られへん。助けも来ぇへん」
「それにしても……腹立つほど紳士やなあ坊ちゃん。その化け物は不老不死やて知ってるやろ。そこは化け物を盾にして、自分の負傷を抑えるのが最善やないの」
「魅入られとるからしゃーないやろ。こうやって身を守って生き延びてきたもんなぁ? バケモンが」
「君たち……一体何者なの?」
 余裕たっぷりに獲物を追い詰める神霊にも、悠然と下りてきた陰陽師にも。水蜜には見覚えがなかった。狙われる理由がわからなかった。
「ま、初めましてやからな。一応ご挨拶はしときましょか」
 痛みに蹲る礼を支える水蜜、彼らを冷たい瞳で見下ろしながら、彼は改めて名乗った。
「京都・新陰陽寮陰陽頭、月極家当主。名は月極紫津香。あんたを消しにきた陰陽師や。水蜜(バケモノ)」
「月極……」
「知ってるはずや。うちの先祖が追い出さんかったら、あれが山奥の田舎へ落ちることは無かった。外法にばかり長け、まつりごとはからっきしだった根暗の啓沙果家はな」
「ひらさか家……? 何のことなの、水蜜さん」
「君は人間なんでしょ? どうして平安の世で負かした家のことを気にしているの。そっちが都で生き残って、千年繁栄してきたんでしょ。とっくに滅びた家を追っても、もう何も無いのに」
「ここに残ってるやないの。啓沙果が残した最低最悪の外法が」
「それって……根くたり様のこと?」
「坊ちゃんも知ってたん? なら余計に悪い子やな」
「そいつは王子様ごっこして守ってやるようなお姫様やない。男を誑かして利用して、自分の養分にしながら千年生きてきた怪物や。知ってて庇ってたんやろ」
「がっ……」
「礼くん!」
 もはや警告も、予備動作もなく。音もなく礼の目の前に近づいてきた炎天が礼の顔面を殴り飛ばした。思い切り吹き飛んで、数メートル先に転がった。
「わかっとるなクソガキ。神霊が本気で殴ったら頭と体がサヨナラしてたとこや。今のは優しく叩いただけやからな」
 髪を掴んで無理矢理起こしてから、更に腹に蹴りを食い込ませる。礼は除霊が上手く少し運動が得意なだけで、喧嘩なんて知らない平和な人間だ。ましてや相手は人間ですらない、陰陽師に使役されている戦闘用の式神。なす術もなく、苦痛に耐えるしかなかった。
「目が覚めんようやから……いや、怪物の蟲惑やのうて思春期の恋心で目が見えんくなっとるさかい何しても無駄やからなー。一応死なん程度にしばいて、邪魔できんようにしてからゆっくり奴を殺しにかかるわ」
 反撃はできずとも、なんとか水蜜を逃がせないかと諦めない表情でいる礼には苛立たしげに、炎天が拳を振り上げた。

 礼が目を閉じた瞬間。
 青白い稲妻が一閃。

 偽りの空に穴を開け、炎天目掛けて真っ直ぐに落ちてきた雷。ありえないはずだった。月極と炎天が作り出した隔離用の結界に、外部から干渉するなんて。それができるとしたら、炎天と同等以上の神気を帯びた者か……
「雪ちゃん!」
 水蜜の泣きそうな声に、真白な巨体が反応する。
「み、ゆき……」
「勘違いするな。おまえを死なせれば蜜が泣く。世話役兼虫除けにもなるしな」
「はは、なんでも、いいや……助けに来てくれてありがと。おれには無理だもん、これ。あとは、よろしくね……」
「礼くんしっかりしてー!」
「まったく、人間は脆弱に過ぎる……」
 そっけない物言いをしつつも水蜜と礼を離れたところに運んでやるあたり、深雪は身内になると優しいところもあるらしい。
「結界を突き破ってきたんか? 無茶苦茶やな。なんか喰らったことある雷やし。お前いつの間にそんな力を……どう見てもクソトカゲちゃうしなんやねんお前」
「なんや、人間の坊ちゃんに縋っていかにも無力ですいう顔しといて、しっかり神霊の飼い犬呼んではるわ」
「そこの座敷猫と違って、式神になど成り下がっておらん。ただ嫁を守りに来ただけだ」
「神霊まで色仕掛けで従えとるんか。やらしいな……」
「あかん、下がれ紫津香!」
「……!」
 間に合うタイミングで気付けたのは炎天だけだった。人間の目では捕捉できない速さで踏み込み、見えたときには月極の前に大刀を構えた深雪がいた。予備動作のほとんど無い居合いで、長い刃が月極の白い頸を薙ぐ……ところだった。炎天が咄嗟に後ろに下がらせたので、突然斬首されることはなかった。
「ちょっ……深雪、いきなり……!」
「ふん……避けたか。一発で首を落とすつもりだったが」
「雪ちゃんやりすぎだよお!」
「こいつが蜜を殺そうとしているのだろう。首を落としても死なない蜜をどう殺すのか知らんが、陰陽師にはそういう知恵があるのか。おれはわからんからさっさと殺す」
 前言撤回。優しいかもと気を緩めたのは間違いだった。神というものをわかった気になってはいけない。
「おい、ババア大丈夫か?」
「よう気づいたな、炎天……、っ……」
「……!」
 致命傷は無かったが、よく見ると月極の頬に横一文字の紅い線ができていた。鮮血が溢れて、白い肌を伝って流れていく。
「……紫津香に傷、つけたな」
「それが厭なら守れば良かっただけだ。おまえも武神のはしくれだろうが若造」
「古いばかりで黴生えとる野良犬が。元の形わからんようになるまで刻んだる」
 執事のようないで立ちの炎天がジャケットとベストを脱ぎ捨てると、その下にはワイシャツではなく袖の無い着物のような服を仕込んでいた。深雪が着物を片肌脱ぎしているのと同じ理由だろう。全力を出せば出すほど、彼らの四肢は……特に腕は肥大化し、人間とはかけ離れた形になっていくのだから。
「かえって助かったわ、うちの怠け者をやる気にさせてくれて。私の貌に傷つけたんや、高うつきますえ」
 口元まで伝う血を、なまめかしく舌でぬぐう。
 深雪が少しだけ身体を横にずらすと、直前まで顔があった場所を神速の槍が穿った。炎天がいつの間にか槍を出したのも、猛烈な槍撃の嵐を浴びせ始めたのも深雪にしか見えていなかった。それを躱すか刀で受け流すかしつつ、踏み込んで斬りかかる。炎天が避け、再び距離を取って槍の間合いを保とうとする。
「なーんにも見えないねえ」
 水蜜と礼は、離れたところから見守ることしかできなかった。
「とにかくガチで戦ってるのはわかる」
「でもまだ人間の武器をわざわざ作り出して戦ってるから余裕残ってるんだよね」
「そうなの? 神気の圧が強すぎて、俺もう近くにいるだけでしんどいんだけど」
「坊ちゃんは気の流れに敏感すぎるのをなんとかせんと。せっかく立派な御実家があるんやから修行つけてもらいなはれ。ま、歳喰ったら嫌でも鈍感になって楽になるわ。あんたの祖父さんみたいにな」
「うわ! 月極さんいつの間に」
 音もなく、月極が隣に移動してきていた。
「いけずやわ、人を化け物みたいに。化け物は後ろにおるのやけど。はあ」
 既にボロボロなのに、とっさに水蜜を背に庇う礼には呆れてため息をつく。
「あんただけはせっかく御母堂から優しいお顔を受け継いだのに、性根は烈といい孫達といい、あの男の丸写しばかりやなあ……忌々しい」
「えっと……あの」
「まあそれでも下の子は可愛げがあるだけマシやわ。安心をし。猫の手も借りなそこの化け物は始末できん。炎天が片づけてくれるまであんたらには何もせんよ」
 爪を紅く塗った長い指が、礼の額の傷に触れる。
 その手を真っ先に払いのけたのは水蜜だった。
「礼くんに触らないでくれる?」
「この期に及んでまだしおらしい恋人ぶるつもりなん。面の皮何で出来とるんやろ」
「大切な人なのは本当だからね。『礼』は」
 水蜜が敢えて呼び方を変えて礼を抱きしめれば、月極があからさまに不愉快な顔をした。
「その様子なら心配なさそうやけど、あんただけ逃げるようなことがあれば坊やの命は無い……大人しくしとき」
「脅さなくても私だけじゃ出られないから」
「徹底してはるなあ。どこまで追い詰めたら化けの皮が剥がれるのやら」
「何をそんなに警戒してるのかわかんないけど、私は陰陽師じゃないし、不老不死と蠱惑以外はなーんにもできないんだって。その二つも自分でコントロールできない、神霊から強制的に与えられたものだし」
「そういうことにされとるんやね。今表に出ているのは『自分は人間と同じ』と思いこんだいわば仮面の人格。神霊を叩き起こさん限り、話を聞くのも無駄みたいやな」
「ご期待に添えなくて悪かったね。今からでも、飼い猫を止めて帰ってくれない?」
「無理な相談や。私らはまだ帰れへん。陰陽師という存在に泥を塗っとる、下品な啓沙果家の邪法をこの世から消し去らん限りはな」
「……雪ちゃーん」
 水蜜の顔から、愛嬌のある笑顔が消えた。声を張り上げなくても、たとえ戦闘中であっても、深雪は水蜜の声だけはよく聴いている。
「いきなり結婚は無理だけどぉ、お試しで一ヶ月くらいお嫁さん体験……同棲するくらいならご褒美でしてあげてもいいよ。その猫、殺せたら」
「確かに聞いたぞ」
 顔目掛けて突き出された槍……刀で軌道を逸らすところを、深雪は真正面から受け止めた。槍先を歯で受け止めていた。その大胆さにほんの少し怯んだ隙を突いて、穂を噛み砕く。そして、自身の大刀まで投げ捨てた。
「冗談やろ……そんなんで真体晒すんか。色ボケ犬が!」
 上半身の着物を全てはだけさせた深雪の肌はみるみるうちに白い毛に包まれる。遠吠えをひとつ、めきめき音を立てて顔が大きく変質し、三メートルくらいあろうかという巨大な白狼が筋骨隆々な姿をあらわした。
「チッ……俺はそこまでやりたなかったんやけどなあ!」
 同様に、炎天もその姿を変える。神々しくも逞しい虎の獣人が唸り声を上げた。
 武神にとって、人間の武器は飾りでしかない。人間が好む美丈夫や美女に姿を変え、人間の理解できる武器を手にして強さを見せつける。しかし今はその必要はない。敵も神霊だからだ。さらに今、双方本気の殺意が沸いた。獣のような姿でぶつかり合う、それが本気の決戦だった。
「私は陰陽師じゃないから術で神霊の強化とかできないからねー、このぐらいしかできないけど」
「やっぱり月極さんは陰陽術で援護してたんだ」
「当然そうでしょー。でなきゃ、あんなのとっくに死んでるもん。雪ちゃんより、仔猫ちゃんはずーっと若くて……弱いもんね」
「挑発には乗らんよ。確実に仕留めるためなら二人がかりでやらせてもらいます。あんたがいつまでも爪隠しとるうちにな」
 月極の手元が妖しく光った。それに呼応するように、炎天の後頭部から背にかけて炎のように伸びた毛がぱっと紫色に燃え上がった。
 戦いは激化する。まだまだ終わりそうにない……一同そう思っていた……が。

 また雷が落ちたような音がして、何かが大学の中庭に飛び込んできた。
「えっ、ちょっと、何なに⁈」
「あー……よかった。通じたんだ」
 険しい顔で痛みと神気に耐えていた礼が、安心したように微笑んだ。その視線の先には、一台の軽自動車が急ブレーキの跡を残して停まっていた。
 月極の作った結界は、炎天に拮抗する神気があれば破ることができる。
「雷轟様に悪ふざけされたこの車が早速役に立ってくれましたね」
 運転席には、普段通り疲れた表情の郷徒がハンドルにもたれ掛かっており、助手席では蓮が軽快な声で笑っていた。
「実物見せてもらったときはビビったわ、ホントに神気の塊だったからな! 一体何してもらったらこんなに神の加護満載の車が出来上がるんだ?」
「まあ……色々ありまして」
 郷徒は押し黙った。蓮には説明したくないようないきさつがあるらしい。
「そんなことより、礼さんがかなり弱っているみたいですから、早く保護を」
「マジかよ! 礼、大丈夫か⁈」
 顔に打撲傷と血を滲ませる痛々しい弟の姿を見つけると、蓮は慌てて駆け寄り肩を貸した。急いで礼を車まで運ぼうとする蓮をじとりと睨む月極、それに気圧されつつも彼は虚勢混じりの笑顔を向けた。その容貌は礼の顔よりも効くようで、強い感情に歪んだ月極の横顔を水蜜がにやつきながら眺めていた。
「豊島先輩に、郷徒さんや兄貴の連絡先を伝えてたんだ。大学の中に、水蜜さんを殺すつもりの神霊が入って来たら豊島先輩は絶対気づく。たとえすぐに異世界に隠れても、一瞬は寒気がするだろうから。それで俺に連絡がつかなくなってたら、緊急事態として動いてもらうってわけ」
 兄に肩を借りてふらふらと立ち上がりながら、礼も悪童じみた笑みを浮かべる。無力に殴られるだけの若者を演じて、奥の手が助けに来るのを待っていたのだ。
「はて、お寺さんの坊やが一人増えたところで、この状況をどう納めるつもり……?」
「小生はオマケだぜー、紫津香さん? いやあ、『そろそろ来る』って言い出すから半信半疑で大学近くのホテルに滞在してたけど大当たりだったなあ……じいちゃん」
「は……⁈」
 月極が血相を変えて軽自動車の方を見れば、郷徒が後ろのドアを開け、降りてきた人物の手を取り介助しているところだった。
「いつもすまんね羊さん。老人の支え方が上手いな」
「祖父が施設にいたころはよくやっていたので」
「そうかい、気は弱いが優しくて良い子だね。紫津香も目をかけるだけのことはある。昔の自分に似てるからだろう」
 鮮やかな朱は、高位の僧侶の中でも大僧正のみが纏うことを許された色。足元が覚束なくても、その眼光は鋭いまま。
「さて、まずは獣を静かにしようかね」
 そう気軽に言ってのければ、長い数珠を手繰って少しの経。たちまち光の輪が深雪と炎天を拘束し、動きを止めさせた。
「神霊を……止められるんですね」
 その光景を、郷徒がぼんやりと見つめている。霊感がある者なら、その手腕がいかに異常か驚くのは当然だった。
「人間は神には太刀打ちできんよ。だが今のあれは両方獣。情人にのぼせて暴れる力は神の力ではない。ちょっと強い悪霊と似たようなものだ」
「簡単に言ってるけど、それじいちゃんしか通用しない理屈だからね」
 蓮も礼も苦笑している。彼の父親も多分同じような、困った反応をするだろう。
「とはいえ神様だからな。束の間縛って頭を冷やさせることしか出来ないが。その時間に大元を説得させてもらおうか。なあ、紫津香」
「何故はじめから来へんかった、『礼』……!」
「前にも言ったが『根くたり様』のことなら孫に任せとるから来るつもりは無かったぞ。こうしてわざわざ車まで出してもらったのは、困った姫さんを宥めるためだ」
「あんたはまたそんな……!」
「どうしちまったんだ紫津香。お前らしくもない」
 姫さんって……礼はふと、幼い頃から祖父の昔話を聞かされていたことを再び思い出した。一度始まると長い上に嘘が本当がわからない不思議な話をするので、兄や父母はできるだけ捕まらないように避けていたようだ。
 しかしおじいちゃんっ子だった礼は少女のような顔をニコニコさせて話を聴くものだから、祖父もデレデレになりつつ、気合を入れて様々な話をしてくれたものだ。
 そんな祖父の話の中で特に多かったのが『十代のころ、同い年の陰陽師と組んで東京で怪異退治をしていた』という話だった。怪異対策課のような仕事をしていたのだろう。
 相棒の陰陽師は、京都から来たお姫様のような可憐な子だった。陰陽師としての腕は一流だったがちょっぴり自信なさげでよく不安がったり、癇癪を起こしたりしたがそこも可愛かった、なんて。
(祖父ちゃんが話してた陰陽師の子、やっぱり……)
「顔や仕草が綺麗なのは相変わらずだが、お前さんの美しさはそこだけじゃないだろうが。術の緻密さ、ほつれひとつない霊力の流れ。難しいことを涼しい顔でやってのける姿によく見惚れたものだ」
「な……何を急に」
「俺は足腰をやっちまってな。怪異退治の仕事は息子と孫に任せとる。だが、もしまたどうしてもやらなければならんくなったら……お前以外と組む気は無いぞ、紫津香」
 動揺する月極をよそに、礼寛はゆっくりと歩み寄って彼の目の前に立つ。
「今でも現役で怪異対策課に力貸しとるなんざ俺には真似のできないことだ。命ある限り害ある怪異を倒して市民を守る、誇り高いお前らしいがあまり無茶をするな。この通り俺は老いた、以前のようにすぐ駆けつけて助けてやるわけにはいかんのだ」
 ふしくれだった手が、白くたおやかな手をそっと握る。
「あの神霊は確かに得体が知れないが、お前が命を縮めてまでかかる必要はない。俺の孫だ、どうかしばらく信じて見守ってやってくれないか。俺と一緒に」
 もはや月極は何も言い返せず、耳まで肌を赤く染めて小さく震えていた。そこへさらに畳み掛ける。
「孫のことを『礼』と呼んでくれるたび思い出していたよ。紫津香がそうして優しく俺を呼んでくれたことを」
「何ほざいとんねんジジイ!」
 耐えかねて、拘束されたままジタバタしていた炎天が吼えた。
「おいババア! お前も何を生娘みたいな顔しとんねんキッツイわ! 礼寛とは何もない言うとったやんけ! 嘘は式神との契約において大問題やぞ⁈」
「何もないわ! 礼とは十代のほんの短い期間に……子どもの火遊びみたいなもんや、あんたと契約した頃にはただの仕事の相方で……」
「そうだぞ、まだお祖母ちゃんと出会う前のことだからな。不倫ではないから安心しなさい、蓮も礼も」
「あ、はい」
「付き合ってたのは本当なんだね」
「しかし紫津香も冷たいこと言うのう、ほんの数年でも恋人だと思っとったのに……『いずれ怪異との戦いで操を狙われることもある、初めてがそんな経験なんて嫌や、心が通じたひととがええ』なんて俺にしなだれかかってきたのは紫津香が先だってのに……」
「……は……」
「あ、その話前もしてたよね」
「礼は真面目に祖父ちゃんの昔話聞いてるもんな」
「お、まえ……孫にそんな恥ずかしい話までしてるんか⁈ 信じられんわ!」
「いいだろ? 可愛いらしいラブロマンスで」
「は? なんやねんババアその話聞いてへんぞ」
「聞かんでええわ!」
 かなり動揺している月極の反応からして、礼寛の話は概ね真実なのだろう。礼はてっきり祖父の話はかなり脚色されたものだと思っていたので驚いていた。
「へー、じゃあ築地の怪異がタコに取り憑いて『陰陽師の相棒』に襲いかかったときの話もあれは月極さんの」
「どこまで、話して……」
「他にも色々ありましたよ。祖父ちゃん本人は忘れてるかもしれないけど、俺はほとんど覚えてるかな」
「今すぐ忘れなさい! ああ……そういう意地の悪いところまで似て憎たらしい……!」
「礼くんの『そういうとこ』は血統なんだね〜」
「どういうとこ?」
「あの」
 ごちゃごちゃしてきたところで、郷徒が割って入った。
「月極紫津香さん。怪異対策課で水蜜さんと深雪さんの担当をしているのは私です。今回の件、私には何も連絡もなく新陰陽寮への問い合わせにも応じていただけなかった。大きな恩がある貴方がたとはいえ、これについては正式に抗議させていただきます」
「はあ……先にことを済ませてから怪異対策課には話通せばええ思てたから、もう時間切れやな。わかりました。一旦帰ってきちんと手続き踏ませていただきます」
 強引な攻撃は諦めてくれたようで、礼は胸を撫で下ろしていた。しかし依然として、月極と水蜜の間には刺々しい雰囲気が残っていた。
「もうしばらく泳がしておきますけど。人間に戻れたつもりで、化け物の宿命から目を逸らし続ける生活はじきに破綻しますえ。それまでには始末するさかい覚悟しとき」
「いい歳して暴走して、挙句昔の男に黙らされて失敗とか。超だっさいね」
「もー水蜜さんは煽らないでよ! せっかく和解できたんだからさあ!」
 そうこうしている間に、ずっと『待て』をさせられていた獣二匹の拘束が解けた。
「チッ……もう少しで仕留められていたものを」
「面白んないこと言うなあ。やっぱ古臭い神は好かんわ」
 深雪は戦い足りない様子だったが、炎天はすっかり闘志が消えてしまった様子でさっさとジャケット姿を整え主人の元へと戻ってしまった。すれ違い様、礼寛だけに殺意をちらりと覗かせて。
「今はあんたの姫さんだろ。しっかりお守りを頼むよ」
「は?」
「炎天!」
「ほら、一人にすると不安がってすぐ癇癪を起こす」
「黙れやさっさとくだばれクソジジイ」
 言われんでも誰にも渡さんわ、と煮えたぎる想いを飄々とした笑顔の下に隠し、月極を横抱きにするとさっさとその場を立ち去ってしまった。

 月極が立ち去ってしばらくすると、徐々に結界が崩れはじめた。
「まずいですね、このままだと本物の大学の中庭に突然軽自動車が現れてしまいます。急いで大学から出して手近な路地裏に隠してきます」
 郷徒が車で退避する際、一旦礼だけ乗せて病院に行った方がいいと礼寛と蓮は言ったが、礼が辞退した。結局郷徒は連れて来た二人を送り届けることになり、水蜜と礼、深雪が大学に残ることになった。去り際、礼寛は水蜜を見て苦笑し、孫の前途多難を予見しながらも何も話しかけずに去っていった。
 深雪は水蜜の気まぐれな愛を掴めなかったことを悔やみながらそっと気配を隠した。水蜜と礼は中庭のベンチに座り、異世界からの脱出を待った。ふと、急に楽になって瞬きをすれば。壊れた校舎は元通りになり、周りに人が戻ってきていた。元の世界に戻れたのだ。
「これでもう大丈夫……なんだよね」
「よかったぁ……礼くん無事でよかった! 怖かったねえ……!」
「はいはい、もう泣かないで」
 これから郷美ゼミに急いで豊島先輩や郷美先生に報告、今後は郷徒と共に怪異対策課を通じて月極と詳しい話をしなくては……課題は山積みだけど、今は取り戻した平穏を喜ぶことにした。

 どうして月極は独断専行で水蜜の排除を決断したのか、何故今更千年前の陰陽師たちの因縁が関係してきたのか……ひとたびそれらを紐解けばたちまち神実村を、大学の仲間達を巻き込んだ一大事件へと発展していくのだが、この時の礼と水蜜は知る由も無いことだった。

獣化形態の二柱
礼の両親の若い頃
おじいちゃんの若い頃


四『郷徒羊の秘密』


(第十一話の一・二周目)

 月極が水蜜を襲撃した事件からしばらくして、月極の元に郷徒羊からメールが届いた。郷徒のことはある事件で出会ってから何かと世話を焼いていた。困ったことがあればいつでも連絡してきていいと言って本人直通(炎天が持つスマホ)のメールアドレスを教えてあったが、月極の大物ぶりを知っている郷徒が気軽に連絡できるはずもなく。月極から会いにいくことばかりだったが、そこに突然『こちらが指定した日付と時間に、指定した場所で会って欲しい』という気弱な郷徒らしからぬ要求であった。驚いた月極であったが、一緒に書かれていた情報が気になったので、指定された通りに会えるよう多忙なスケジュールを調整したのだった。場所は、郷徒が働いている警察署の応接間だ。
「うわ、ホンマや。メールに書いてあった通りや。足谷んとこのバカ息子に遭遇したやんけ」
 炎天がはしゃいだ声を上げた。
「陰陽頭……どうしてここに」
 月極が鉢合わせたのは、同じ京都の陰陽師である足谷という男だった。身なりの良い壮年の男性で、護衛役らしく後ろに侍る大柄の青年もいた。青年は人間ではない。怪異を陰陽師の部下として躾けた式神というものだ。人間と見間違えるほどしっかりと自我を持った式神を従える陰陽師はかなり高位の存在である。実際足谷は京都府警怪異対策課の元課長でもある。しかし……今目の前にいるのは、その足谷を遥か上から見下ろす天上人。陰陽師全ての頂点に立つ新陰陽寮陰陽頭(長官)の月極紫津香だ。
「それはこちらが聞きたいわ、足谷はん。陰陽頭とは肩書きだけで半分隠居させてもろてる私のような年寄りはともかく、まだまだ働き盛りのあんたが遠くの警察署までわざわざ出向く暇はどこから捻り出したんやろねえ」
 月極は低く艶やかな声でゆったりと、足谷のことをちくちく刺す言葉を紡いだ。月極は若い女性と見まごうような美貌を保つが、実年齢は七十七歳の大ベテランである。女性ものの着物を好んで纏っていはいるが、堂々とした態度をとれば大人の男性らしい威圧感を放つ。足谷などは赤子のように取るに足らない存在だ。
 最も恐れられている月極の功績といえば『神霊クラスの怪異を式神にしたこと』で、現在生きている陰陽師の中では彼以外に達成した者はいない偉業だった。その式神こそ、執事の装いをして月極の横に侍る青年・炎天である。炎天がそこにいるだけで、格下である足谷の式神は震え上がっている。
「オレは知ってんで、こいつのせがれが深雪に殺されたんや」
 わかりやすい殺気を足谷たちにぶつけながら、顔は人懐こい猫のようにニコニコさせ炎天が話しはじめた。
「深雪を捕まえる作戦に呼ばれてな。その作戦を仕切っとったんが郷徒くんや。せがれがしくじって殺されたんを郷徒くんの責任にして八つ当たりしたろ思てるんよコイツは」
「まあ。それがほんまなら新陰陽寮の面汚しやねえ」
「もしかしたら郷徒くんが『香餌』や聞きつけて、自分の式神に食わせるつもりやったかもしれへんでえ。そしたらもっと大問題やなあ?」
 香餌とは、怪異に好かれやすい人間の呼称だ。怪異が我先にと食いつく魅力的な餌ということである。郷徒羊は怪異を惹き寄せるフェロモンのような霊気を撒き散らしていて、常時抑えることができない。深雪と炎天曰く『いつも旨そうなにおいがするのでつい齧ってしまう』『土着神とか相手なら手土産に最適やで』だそうだ。怪異や神霊に差し出せばその肉体を喰われるか、繁殖に最適な苗床として犯されるかという凄惨な目に遭う。この体質のせいで郷徒は深く傷つき非常に内向的な青年になっていた。
「式神を使って無防備な人間に攻撃するなど、陰陽師にあるまじき行い……警察官が民間人に拳銃で攻撃するようなものやね」
「め、滅相もない! そんな野蛮なことをするわけがありません!」
 足谷は真っ青になって警察署の廊下に跪いていた。いかにも偉そうなおじさんがなりふり構わず平伏する姿は異様で、通り過ぎていく警察官たちは皆できるだけ離れチラチラ見ながら去っていく。
「しかも香餌といえばここにおる紫津香も似たような体や。もっとも郷徒くんと違って自衛できるし、オレという最強のボディガードまでついとるけどな。紫津香に直接下剋上できへんからって、紫津香が目をかけてやってる郷徒くんを辱めてやろうなんて思ってるとしたら……」
「ご、誤解です」
「流石に邪推しすぎやないの、炎天。しかし、郷徒さんに会って謝罪でもさせて、それからどうするつもりだったのかは気になるねえ」
「どうするも何も、取る金も地位も無いで。家族みんな亡くして寺に預けられたみなしごや。やっぱり喰う以外考えられへんわ」
「本当に誤解なのです! ただ、怪異対策課の責任を」
「それが面汚しや言うてるのがわからへんの?」
「ひ……っ」
 優美さを崩すことなく、しかし威圧感はすさまじく。月極の声は静かであるにも関わらず怒りに満ちていた。
「陰陽師が仕事で命を落とすことは珍しいことやない。人間ごときが神霊に挑むのは、常に死と隣り合わせ。ほんのわずかでも礼を欠けば神は激しく怒り、容易く押し潰されてしまう。そんなことも教えられず散ってしまった御令息が気の毒で泣いてしまいそうやわ」
「月極さん」
 月極が本格的に怒りだしたところで、廊下の向こうから声をかける者がいた。一同が目を向ければ、郷徒がゆっくりと歩いてきていた。彼は足谷の前で膝をつき、まっすぐ視線を向けて言った。
「足谷さん。私の力が足りなかったばかりに、大切な息子さんを助けられなかった。私なんかがいくら頭を下げても価値は無いとは思いますが、本当に申し訳ありませんでした」
「郷徒くん、謝罪なんかせんでええよ」
「いえ……これは私の問題なのできちんとさせてください。もう、やり直せない罪なので」
 郷徒の姿を見た途端、予想した通り足谷の式神は目の色を変えた。だが炎天の殺気で抑えつけたので郷徒が襲われることはなかった。とはいえ、郷徒にとっては猛獣二体に挟まれていつ八つ裂きにされるかもわからない恐ろしさは変わらない。それでも郷徒は、怯えながらも逃げようとはしなかった。そんな彼を見た月極は何かを感じて、それ以上足谷を責めることはしなかった。
「これから郷徒さんと大切なお話があります。私はしばらく京を留守にしますから、お仕事頼みますえ」
「こんなとこで油売っとらんとさっさと帰れボンクラ共。モタモタしとったらいてこますぞ」
 炎天がとどめの威圧をかますと、足谷と式神は大慌てで去って行った。周りの視線も気になるのでと、郷徒は急いで月極たちを応接間まで案内した。

「郷徒さん、こちらからも謝罪を。色々と勘違いして、焦って荒事を起こしてしまいました。郷徒さんの管理する怪異なのに、こちらで勝手に攻撃する判断をしてしまったこと、本当にご迷惑をおかけしました」
「いえ、それはもういいんです」
 月極が頭を下げたことに対して、郷徒はやや申し訳なさそうに縮こまったものの意外と落ち着いていた。
「あのメールのこと、詳しく教えてくれはるんやろか。郷徒さんがこんなに急いで連絡してくるなんて余程のことやと思ってな、駆けつけたんやけど。その妙な落ち着きぶり……怪異の、においがするわ」
「信じていただけるか、自信がなくて……月極さんが水蜜さんを大学内で始末しようと強硬手段に出ることはわかっていました。でも止められなかった。それで、メールに足谷さんがいつここに訪問されるかと、そのとき想定される状況を書いて送りました。ここまでやれば、話は聞いてもらえるかと」
「まどろっこしい奴やなー。水蜜を狩りに行くのは悪手や、それよりこっちを助けてくれって言えば良かったのに。抱え込むんは悪い癖やで郷徒くん。で、なんやこれは? いつの間に未来視なんて会得したんや」
「炎天」
 郷徒の小さな声の上から畳み掛けるように話してしまう炎天を嗜めて、月極は郷徒へ柔らかな視線を向けた。
「郷徒さん。遠慮なく何でも話してくれればええよ。あんたは誰よりも水蜜のことを知っている。ささいなことでも重要な手掛かりになるかもしれへん。ゆっくり聞くさかい、気になることはすべて話してくれますか?」
 郷徒は小さく頷いた。
「ありがとうございます。これから突拍子もないことを言いますが、どうか最後まで聞いてください」
 そう言って話し始めた。
「まず、未来に起こることを言い当てたのは『未来が視えた』からではありません。今の私は、この先約六十年くらい生きてから過去に戻ってきた、怪異の郷徒羊です」
 現在二十七歳の蓮さんが祖父の礼寛さんのように立派な大僧正となり、健康なまま老いて穏やかに亡くなられた光景を私は確かに見ました。そのとき私は人間のふりをして生きることをやめました。はっきりと覚えています。
 淡々と語る郷徒を、月極はじっと見つめていた。ぼんやりとではあるが、月極は対面した人物の心の中を読むことができる。郷徒が嘘をついていれば察することができるはずだが、彼に嘘特有の揺らぎは無かった。
「タイムスリップしたってことか?」
「それとも少し違いますね。別世界に来たんだと思います。並行世界……とでもいうのでしょうか。前に私が生きていた世界とは、すでに流れが変わっているんです。例えば『白き雛たちの夢』事件は現時点ですでに解決済みですが、私の記憶では今から起こるはずでした」
 そう言って、郷徒はいくつかの書類を机に並べた。どれも最近起こった水蜜関係の事件の資料で、表紙に日付が記されている。
「礼さんが神実村で水蜜さんと出会い、一緒に大学へ通い始めたのがすべてのはじまり。ここは変わりません。その後、深雪さんが現れ水蜜さんを攫おうとし、足谷さんのご子息が巻き込まれて亡くなったあの作戦。次にこれが来るのも同じです。ですので、足谷さんが私に責任を問いに訪れることを予言できました。問題はここからです」
 古い順番に並んでいた書類を、郷徒は話しながら並べ替えはじめた。『白き雛たちの夢事件』と書かれた書類を、最新の書類と入れ替えた。
「前回、足谷さんに対して私は一人で謝罪しました。香餌体質であることを自覚しておらず、彼の式神を刺激してしまいました。そのときまだ人間だった私はもう少しで喰い殺されるところまで追い詰められました。私の命の危機を感じ取った深雪さんが助けに入ってくださいましたが『敵討ならおれにやれ』と相当お怒りで、一触即発なのは変わらず……」
「サムライ気取りのワン公らしいな。で、あいつは今日はおらんな」
「今日は深雪さん抜きで話したかったので、礼さんのご自宅で水蜜さんと遊んでいただいています」
「はは、人生二回目らしい手際の良さやな」
「話を戻しますね。足谷さんの件ではもっと大惨事になっていたはずなのですが、そこで治めてくださったのは前回も月極さんと炎天さんでした。そのとき初めて月極さんと話しました。香餌という体質の人間がいることもそのとき教わりました。水蜜さんの謎を解き明かし、その危険性を証明するために情報共有しようとご提案を受けて、私も賛同しました」
「直接水蜜を消すことに失敗した私が郷徒さんにご協力をお願いするところまで、すでにお見通しやったわけか。確かに今日はそちらから呼んでくださってちょうど良い、同盟のお話もしよう思ってたところや。それで……郷徒さんにとっては二回目やけど、また仲良うさせていただけるんやろか」
「もちろんです。むしろ今回のほうがもっと頼らせていただくことになるかと……その説明は早く済むと思います。事件はすでに終わっていますので」
「愛溟風斗やな」
「はい」
 郷徒は顔色を悪くして俯き、しばらく黙った後、平静を取り戻して話を再開した。
「『白き雛たちの夢』事件は、私の記憶ではこれから起こるはずでした。月極さんはまず、水蜜さん単体を見て危険な怪異だと感じたようで、大学での襲撃事件を起こしました。それから周辺を探って愛溟にたどりつきました。そして案件をうちの署に持ち込んだ。しかし、そこの順序がおかしくなっているわけです」
「私は愛溟が水蜜に固執して何か企んでいると知ったから、水蜜が元凶なのかと直接消しに行ったつもりなんやけど……郷徒さんにとっての一回目と二回目では、私の思考自体が入れ替わったわけやね。妙な気分やわ」
「過去に戻ってきた私はすでに怪異化した状態で禎山寺に居候していました。おかしいと思って、すぐに署で資料をひっくり返して全ての日付を確認しました。おかしいと思いませんか? 辻褄は合っているけれど、去年あたりに重大な怪異事件が起こり過ぎています」
「深雪が怪異対策課で祀られることになった一連の出来事と、郷徒さんが不老不死になるきっかけになった『白き雛たちの夢』事件……」
「その二つは特に重要ですよね。少なくとも私が不老不死化するのは今年、これから起こるはずでした。深雪さんが味方になるまでの事件もそうだったのかもしれません。私が覚えていないだけで」
「郷徒さんにとっては二回目やけど、自覚が無いだけで三回目かもしれへん、と……」
「もっと何回も繰り返しているのかもしれません」
 意を決して、郷徒は月極に自らが知り得たすべてを話した。
「水蜜さんは、寺烏真礼さんがお亡くなりになるたびに世界に干渉しているようです。十九歳の若い礼さんに出会ったころに……まさにこの年、令和初期に巻き戻しているんです。礼さんと死別したくないから。ずっと一緒にいるために」
「んな、阿呆な……」
「私が過去の世界に飛ばされるとき、そう愛溟が説明したんです」
「水蜜が無害な怪異だなどとんでもない、世界そのものを歪めている災厄級の神霊だと……しかも、そのからくりを知っているのは郷徒さんと、愛溟だけ……」
 まるでSF小説のような現象を淡々と語る郷徒の心からは、やはり偽りひとつ感じられない。軽く目眩を感じながら、月極は冷静さと保とうと深呼吸していた。
「私が今回記憶を失わなかったのは、不老不死の怪異になったせいなのと、水蜜さんと血の繋がりがあるからだそうです。愛溟の口ぶりでは、彼の方はすでに何回も世界のやり直しを経験済のようです。『周回』という表現をしていました。私はまだ二周目ということですね」
「水蜜本人は自覚してるんか?」
 疲れた様子の主人を気遣ってか、炎天が代わりに相槌を打った。
「自覚なしかと思います。確かめてはいませんが、本人にこの話をしてしまったらどんな現象が起こるかわかりませんから。下手に刺激するつもりはありません」
「せやなあ。台風の目は呑気に楽しい夢見とるだけなんやろな。夢かあ……愛溟のネーミングセンスもそこから来てんのやろか」
「かもしれませんね。彼は水蜜さんをずっと観察し続けているようですから。結論を申し上げますと、愛溟は『白き雛たちの夢』事件で深雪さんに消される前に身代わりを殺させて逃げました。いまだ健在です。そして彼の発言からすると、この周回でも何か仕掛けてくると思われます。あの事件が起こる前に巻き戻ったのなら、私が愛溟に接触できる機会も予想できたのですが……」
 郷徒が不老不死になったことや関連する出来事は確定事項として固定され、過去の事件として改変されてしまった。このことを月極たちにも話したことで、次の周回では月極が水蜜を襲撃したここまでの流れも確定事項扱いに変わるかもしれない。ここから先、愛溟がどんな事件を起こすのかは郷徒にもわからない。だから、先がわかるうちに月極を味方にしておきたかったらしい。
「お寺で相談はしたんか」
 月極が尋ねると、郷徒は静かに首を横に振った。
「いいえ。礼寛さんも水蜜さんの危険性を想像できる方だとは思いますが、禎山寺で話せばいずれ礼さんにも伝わってしまう。このことはまだ月極さんにしか説明していません」
「賢い子で良かったわ。まあ、そういうのは気にしてへんかったけど。むしろ私には話してくれたことに驚いてたところや。誰にも言わず一人で抱え込んで、なんとかしようとしそうや思ってたからね」
「昔の私なら、そうしたかも……ですが、私のようなどうしようもなく弱い者でも周りの人に頼れば何かを変えられる。頼ってもいいんだと、六十年かけて教えてもらえたんです。あのお寺で……」
 人に迷惑をかけていない人などいない。誰も信じることができずに一人で抱え込みすぎた郷徒に、そう言ってくれた人がいた。苦しいことは苦しいと言えるようになった彼に手を差し伸べてくれた。たくさんの苦しみを知っているからこそ、苦しんでいる誰かに寄り添う力があるのだと勇気をもらった。
「『この寺はそういう人のためにあるのだから、安心して頼るといい。頼ったぶん何かお返ししたいと思うなら、他に苦しんでいる人に手を差し伸べてくれ』礼寛さんのお言葉です」
「ふん。あの男の言いそうなことやわ」
 月極は不機嫌なような、しかし何かを懐かしんでいるような、誇らしげでもあるような複雑な表情を扇で隠した。
「私は禎山寺のみなさんに多大な恩があります。不老不死になった私を、子孫の代もずっと受け入れてくださると言ってくれた。あの素敵なご家族を守りたい……これは私情、なのですが」
「本当に、ええ子やな……六十年生きて戻ってきたということは、私よりも年上なのやろか」
「確かに愛溟の事件のときより貫禄ついた気はするなあ。親鳥についていく雛みたいなガキっぽさも残っとるけど。そこは怪異のイビツな性やな」
「以前の……一周目の私は、水蜜さんへの憎しみから月極さんに協力することを決意しました。醜い動機です。でも、今は……礼さんを、寺烏真家のみなさんを、もっと大きなことを言ってしまえば世界の人たちを水蜜さんの見る夢から解放したい。そのためにやれることをやる覚悟でいます。怪異から人々を救うために長年尽力されてきた月極さんの御力をお借りしたい。よろしくお願いします」
「よう言った郷徒くん! めちゃくちゃ男らしくなったやんけ! 相変わらずモヤシではあるけど」
 神霊の膂力は強い。手加減しているとはいえ、ご機嫌な炎天にバシバシ背中を叩かれ郷徒はかなり痛そうに咽せていた。それを「やめなさい」と叱りつけながら、月極は優しい声で郷徒に向き合った。
「もちろん協力は惜しみません。この案件は警察はじめ国家権力に動いてもらわないとどうにもならない部分が多い。それでも秘匿されたり風化して消えた情報が多すぎるのが、水蜜の厄介なところやけど……」
「そのことなのですが、これからの方針について私から提案があります。郷美正太郎さんに、月極さんから直接お話ししてみませんか」
「民俗学者の郷美教授……水蜜を神として祀る神実村の有力者であり、現在は自身の勤める大学で水蜜を匿っている。誰よりも、神実村と水蜜のことを知る人物……」
「水蜜さんのお母様の、直系の子孫でもあります」
「……!」
「そして私は、郷美家の分家の末裔です。ただし郷徒家は村八分に遭っていて、かつて私と正太郎さんはお互いを避けていました。しかし、それも『周回』のおかげで和解済みで、いつでも頼ることができます」
「やるなあ、いや、ホンマようやった郷徒くん! いきなり水蜜にとっての本丸に接近できるわけや」
「炎天」
 落ち着きなさいと嗜めつつも、月極も想像以上の進展に動揺を隠せない様子だった。愛溟を見失って暗礁に乗り上げていたが、かなり具体的に目標が浮かび上がってきた。
「では、近いうちに郷美教授に直接お会いする約束を。何食わぬ顔で村に入り込めればこちらのもんや。くれぐれも穏便に話を進めるように。ええな炎天」
「任せとき! いやあワクワクしてきたなあ、こんなん強くてニューゲームやんか」
「ニュー……なんて?」
「ババアにはわからんかー。ま、ここまで長生きしてても驚かされることがあるんやなってことやで」
 炎天の馬鹿にするような軽口はいつものことなので溜め息ひとつで受け流しつつ、月極もこれからはじまる案件は初めての体験になるかもしれないと久方ぶりに目の覚める思いだった。未知への不安、今までの経験が通じないもどかしさ……反面、武者震いとでも呼ぼうか、奇妙な高揚感もある。
(冒険に連れ出してくれるのはいつもあんたなんやね、礼……)
 安心して頼ってくれ。お返ししたいと思うなら、他に苦しんでいる人に手を差し伸べてくれ。彼にそうやって救われた人はたくさんいるのだろう。救われた人がまた別の人を救って、彼の想いは彼の知らないところまで拡がり繋がっていく。それは嬉しくも、あるのだけれど。
 彼の腕の中のあたたかさを知るのは、自分だけなのだと。愚かにも思い込んでいた若いころの自分に『周回』とやらで戻れるのなら、あんなはしたない思い出は二度と作るまいと苦々しく思う月極なのであった。


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