病ませる水蜜さん 第一話
はじめに
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一『賢い女を畏れる村』
僕の生まれた村では昔から、女性の学問を厳しく禁じていました。忌み嫌われていた。畏れられていたと言ったほうがいいかもしれません。
例えば……僕の同級生のお嬢さんなので、君より少しだけ年上の子だったと思いますが。そんな最近ですら、地元の年寄り連中に「娘が大学に進学する」と言うといい顔をされないので「他県に嫁に行った」と嘘をついていたとか。いえ、『女性は家に居るもの』みたいな男尊女卑的な理由とは違うんですよ。
さらに昔の話になります。僕は中学に上がる前に親の都合で村を出ましたが、それから数年経って、村に残っていたはずの従姉が一人でウチを訪ねてきました。家出してきたというのが一目瞭然な格好でした。殴られたようなアザが頬にあったのを覚えています。僕の両親はすぐ事情がわかったみたいです。
従姉は昔から品が良くて賢い人でした。僕は今じゃ教授なんてやらせてもらっていますが、子供の頃の成績は酷いもので。よく彼女に教わっていました。それも大人に見られると大変なことになるから、こっそりと。そう、彼女は進学を猛反対されて逃げてきたんです。
昔の田舎ならあり得たかもしれないって? いやいや、本当に常軌を逸していたのです。大人たちが一様に迷信を信じて。従姉はまだ、殴られただけで家から逃げられて良かったんじゃないかな……僕の家族という逃げ場所もあって。幸運だったと思います。でも、村から高校に通ってるうちも針の筵だったろう、よく通い続けられたなと考えるだけで辛いです。彼女は本当に強い人だった。
ちなみに彼女は、うちにしばらく住んで大学受験をして、働き口を見つけたら一人暮らしをはじめました。今では大企業の偉い人ですよ。でも、実家とはそれっきり。絶縁状態。ご両親が亡くなった報せがあっても村には行かず、一度も墓参りに行っていないそうです。あんなことがあっても、彼女は家族のことを愛していました。でも村には帰れなかった。少しでも足を踏み入れたら『お終い』だと彼女もわかっていたのでしょう。
何故そういう村になったのか調べて、村を良くしたい。そのために、僕は民俗学者になりました。大人になってから村の歴史を調べようとしましたが、困難を極めました。なにしろ、戦争のときに大部分の手掛かりが無くなっておりまして。というのもほとんどが口伝えで。ほら、戦争で男の人が大勢いなくなったでしょ。女の人は読み書きすらあやしい人もいて。難しい伝承は覚えていなかったんです。
確認できた最古の記録では、江戸時代に女の子が兄弟の持つ書物を少し読もうとしただけで、酷い折檻を受けたという文献が残っていました。その後矯正に失敗して気が狂ったとのことですが……それについてこう記されています。
『根くたり様に魅入られて気がふれた』と
『根くたり様』というのは、村でずっと崇め奉られてきた神様。
明治時代になって、村独自の教えと家父長制とが都合よく結び付けられてしまって、そのカルトじみた異常性はなりをひそめてしまったのですが……これは単に女性差別を解消するだけでは済まない問題なのです。
頭がいい女の子は神様に目をつけられるって、村に災いがもたらされるって、大人たちが本気で信じて怖がっていたのですから。
……とはいえ、今はただの限界集落です。女の子が大学に行きたがったところで折檻されることもない。そもそも若い人はどんどん出ていきますから。唯一あった小中併設の分校は廃校になって随分経ちますし、今は年寄りばかり。
しかし、それでも……『根くたり様』は今も社に祀られていて、村人の信仰を集めています。
「さて、もうすぐ着きますよ。大丈夫ですか? 顔色が優れませんね。山道は揺れるので酔いますね」
話し終えた郷美は、向かい側の席で静かに話を聴いていた青年を心配そうに見つめた。
「怖い村だと思いましたか。脅かしてしまったのでしたらすみません。君は男なので余程心配はいりませんよ。女子大生だと今でも年寄りの印象が良くないのは事実なのですが……。僕は村の出身者なので、事前の連絡でも歓迎されていますし。宿のサービスも良いと思います。自由時間は普通の旅行だと思って楽しんで……」
「……郷美先生。まだ何か大事なこと、俺に隠してますよね」
体調が悪いんじゃありません。力強い声色で言った青年は真っ直ぐな瞳で郷美に向き合った。
「これは普通の旅行でもないし、大学生になる前のフィールドワーク体験でもない。それはあくまで表向きの理由で、先生は俺に来て欲しかった理由がありますよね」
「……申し訳ない。騙すつもりは無かったんです。もし君が無理だと言ったら、本当に普通の旅行にして先に帰らせるつもりでした。とにかく村に来てもらわないと、お願いするにも説明しようがなかったし、信じてもらえないかもしれなくて」
郷美は悲しげに目を伏せた。青年は決して怒っているわけでは無いと言い、しかし何かを警戒した様子で郷美を見ていた。
「信じますよ。話だけだったら、ただの村の言い伝えだって思ったかもしれないけど……実際、見えちゃってるから。先生が心配で着いていくことにしたんです」
青年が険しい顔で見ていたのは郷美ではなかった。しかし、バスには運転手以外には二人しかいない……はずだった。
「俺に初めて声をかけてくださった時からずっといましたよね。今も郷美先生の隣に座ってる……真冬なのに白いワンピース。寒そうな格好で歩いて着いてきてて、首の無いソレ。何なんですか?」
ニ『寺生まれで霊感の強い礼くん』
幽霊、動物が長生きして何らかの力を得たもの、人々に祀られて神になった何か、人間のふりした人間じゃない何か。物心ついた頃から視えていた。
幸いうちはみんな『視える』家系で、うまく対応する方法は兄貴に教わったおかげで危険な目にあったことはほとんどない。ヤバそうなことがあっても、親か祖父母が何とかしてくれてた。そんな家庭環境だと、俺も自然とできるようになる。除霊ってやつが。うちの寺は地元ではそこそこ大きくて有名で、檀家さんも多かった。色々と舞い込んでくる相談の中には、いわゆる悪霊が関わってる案件も少なくない。中学生くらいから家の手伝いで除霊をしていた。
嫌じゃなかった。近所の人の助けになれるのは。身近な人が困ってたら助けたいし、感謝されて悪い気はしない。高校も地元だったので俺の体質のことは知れ渡っていたけど、偏見とかは無く楽しくやれてた。
でも、つい思ってしまった。俺が『霊感が強い』ってことを知らない人ばかりの場所で、生活してみたいって。だから地元を離れ、一人暮らししながら大学生活を送ることに決めた。
「……相当霊感が強いようですね。今の状態の『彼』を服装まではっきり視認できるとは」
俺の思い描く大学生活は、入学前に実現不可能になりそうだった。
ワンピースを着た細身の体型だったから女の霊だと思い込んでいたが、『彼』と言ったな……いや、それは置いといて。
「あの……このことは、できたら」
「大丈夫ですよ、学内で言いふらすようなことはしませんから。そこまでお強いと色々と人の目が辛いこともありましょう。僕ですら、子供の頃は偏見で嫌な目に遭ってきましたから」
「や、いや、その……」
そこまで深刻な理由で隠しているわけでは……と申し訳ない気持ちになったが、隠したいのは本当なので否定はしないでおいた。地元とは違うから、本当に嫌がらせをしてくる人もいるかもしれないし。
まだ雪がたくさん残っている静かな道を進む。ひたすら山奥に向かって走り続けるバスの中で二人だけ……一応他に運転手さんと、謎の首無し幽霊がいるが……静かな声で話している相手は郷美先生。俺が四月から入学予定の大学の教授だ。
入学前の手続きで不備があって学生課であれこれ困っているときに、親切にしてもらったのが郷美先生との最初の出会いだった。思えば、そのときすでに俺の霊感の強さを感じ取った上で、下心があって声をかけてきたのかもしれない。それでも助かったのは事実だ。入学前の、まだ高校生の田舎者が、大学のパンフレットで見た教授と親しくなれたのは特別な感じがした。せっかく大学まで来たのだからと教授の研究室にまで入れてもらったし、講義の話まで聴けて嬉しかった。
ただ、その間ずっと首の無いワンピース姿の幽霊がついてきていたのは気になっていた。まあ、俺は見慣れている。こんなことに慣れてるのも変だけど、俺にとっては『あるある』の範囲内だった。郷美先生に憑いてるのか、俺が視えてることに気づいていて追いかけてきているのかは判断できなかった。郷美先生は気づいているのだろうか? 聞くに聞けない。高校時代までなら話題に出すこともあったかもしれないが、大学では『寺生まれで霊感が強い』ってことは隠すと決めてたんだ。
しばらく話した後、郷美先生はフィールドワークに一緒に行かないかと俺を誘った。民俗学の講義の一環で、先生の地元の村の変わった風習や信仰を扱うから資料を集めたいんだそうだ。ゼミ生の誰かに頼む予定だったらしいけど、都合がつかなくて困っていたと。
初対面で、教授の大事な取材旅行に同行するなんてどうなんだろうとはじめは思った。俺はまだ入学前だし、教授のゼミ生になるかも決まっていない。講義だって一回も聴いていない。郷美先生のゼミに所属する三〜四年生の先輩でも、こんな特別な役を任される人はレアなはずだ。そんなチャンスが俺に回ってきて大丈夫なのだろうか……と。
「専門的な知識は必要ありません。調査は主に僕がやるので、あなたは……ええと」
「あっ、寺烏真です。寺烏真礼です」
「失礼しました、寺烏真さん。あなたにはお手伝いをしてほしいのです。僕も長年、頻繁にフィールドワークをこなしてきましたがこの歳でね。若い人がいるだけで心強いんですよ。費用は僕が全部もちます。少しですがバイト代も出しますので、入学前の体験授業にいかがでしょうか」
「ホントに俺みたいなので役に立つんでしょうか……」
悩んでいた。どうも話がうますぎないか。民俗学にはそれなりに興味があるし、フィールドワークって聞くとなんだかワクワクする。山奥の変わった風習や信仰、というのも気になる。お金のことも心配ないみたいだし。
気になることがもう一つ。例の首無し幽霊が……研究室の中までついてきたんだが……郷美先生が村に行く話をしはじめたあたりから、ものすごく食いついてきている感じがした。幽霊は物音ひとつ立てず、話しかけてもこない。でもまるで『誘いに乗れ』と俺に促しているように見えた。郷美先生の背後にぴったりくっついて、俺の返事を待っている。ああ、これは郷美先生に憑いてるんだな。
「俺なんかで良かったら、是非同行させてください」
「ありがとう! 本当に助かります」
郷美先生はホッとしたようで、でもちょっと疲れてそうな笑顔を見せた。後ろの幽霊も喜んでいるっぽかった。どう考えても怪しいが、コイツに取り憑かれたまま郷美先生を旅行に行かせるのは危ないと思った。ただの幽霊じゃない、ちょっと神性が混ざっている気がするソレは今の俺に祓いきれるか自信が無かったが、旅先で郷美先生に何かあれば一緒に逃げるくらいはできる。そう思って……人助けのつもりで、俺は同行することにした。
そう、俺はてっきり、敵になるとすればその首無し幽霊で、郷美先生と俺を山奥の村に誘い込んで何か仕掛けてくるのだと思っていた。それで郷美先生に、幽霊のことが視えてるのか探りを入れた。
だけど郷美先生の答えは思ったより変な感じだった。幽霊が憑いてるのは気づいていた。わかっていて俺を村まで連れてきた。ここまでは想定内。村で除霊をしてほしい、それも想定内。そのために一旦実家に戻って色々支度はしてきた。
「実は……最近、村に勝手に棲みついた山の怪がいるそうでして。山の怪に頭を奪われて、助けを求めてきたのが彼なんです。私は彼と幼い頃から友人でして」
「幽霊と友達……なんですか?」
「今は弱々しい様子なのでただの幽霊に見えるかもしれませんが違うんです。彼こそが、先程話した村独自の信仰の拠りどころ……『根くたり様』と呼ばれる神、そのものなんです」
「神サマが俺たちに、除霊の依頼を……?」
うーん。これは予想以上におかしな案件だぞ。
三『水蜜さんとの出会い』
神実村(かむづみむら)。郷美の生まれ故郷であり、今は彼らについて来ている首無しの怪異が『根くたり様』という神として崇められているという不思議な村。
バスは雪の残る道を慎重に進み、村に着いた頃には空のオレンジ色が夜の紫に溶け切る直前であった。街灯の乏しい田舎の村では、夜の闇も濃い。一行はとりあえず宿へと急いだのだった。
礼の第一印象としては……確かに田舎ではあるが、郷美が言うほど寂れた印象は感じられなかった。
「郷美先生、歓迎してもらえるとは言ってたけど。予想以上だったなあ……」
用意されていた旅館は決して豪奢ではなかったが、古い建物はきちんと手入れされ老舗の風格があった。夕食が用意できたと大広間に通されると、村人が続々集まり宴会が始まった。猪肉や地元で採れた野菜を使った料理はどれも美味だったが、十八歳の礼は年寄り連中の酒盛りの空気に馴染めずさっさと風呂へ向かった。温泉は湧かない土地だが露天風呂はある。満天の星空の下、風呂に入るだけでも旅行に来た気分は高まる。諸々の問題はしばし忘れ、長距離のバス移動で強張った体を休めることにした。
「先生、まだ宴会付き合わされてるのかな……なんか村長にならないかとか言われてたし、あれは長そうだよなあ……」
宴会の賑やかな声が聞こえてくる。郷美は村の親戚や知人らしき人々に囲まれていたから、しばらく戻って来れそうにないだろう。湯冷めしないうちに暖かい部屋に……と足早に廊下を歩いていると、中庭に見えたのはいかにも寒々しい人影。
「あー……」
礼が思わず立ち止まると、あちらも気づいたようで体をこちらに向けて手を振ってくる。夜になり、よりいっそう冷え切った中で薄手の白いワンピースは見ているだけで痛々しい。それが人ならざるものだとわかっていても。
「寒い?」
頷く頭も無いが、おそらく肯定。
「んー……」
家族に散々教えられてきた。人じゃないものに、人にするような親切をするものではないと。礼もそれをよく理解していて、その通りにしてきた。ここは話しかけたこと自体が不正解。見なかったことにして、さっさと部屋に帰るのが正解。それなのに。
「俺の部屋、あったかいから来る? 服は変えられないみたいだけど、あったかい場所に行くのはできるよね?」
ただの幽霊ではない。この村でずっと『神様』扱いされてきた、実際わずかながら神性を感じる怪異。警戒すべきなのに、遠ざけるべきなのに。スカートをはためかせ軽やかに近づいて来る姿には、どうしても悪意が感じ取れなかったのだ。
「明日のために情報が欲しいだけだから……うん。喋れなくても、『はい』『いいえ』で答えてもらうくらいはできるよな?」
礼は部屋にソレを招き入れた。誰にするわけでもなく言い訳を並べながら、持ってきたノートとペンを取り出して机に広げた。
「ついてきたってことは、俺の話通じてるんだよな? 口がないから喋れないんだと思うけど。動きとかで話せないかな? ええと……根くたり様、っていうんだっけ、あんた」
郷美に助けを求められたということは、なんらかのコミュニケーション手段があるはずだ。返事を待っていると、ソレは礼のノートを指差した。
『 水蜜 私の名前 』
「……!」
まっさらなノートのページに、じわりとインクの線が浮かび上がった。かたわらのペンは微動だにしていない。美しい筆跡で、その怪異は『水蜜』と名乗ったのだ。
「水蜜桃のすいみつ、で読み方合ってる? えっと、根くたり様っていうのは村の人たちが呼んでる名前で、本名は違うってこと?」
『そんなかんじ 正ちゃんも 蜜ちゃんて呼んでくれる それでもいい』
「正ちゃん? ああ、郷美先生のことか。友達だって言ってたよな」
勝手に想像する。霊感が強いせいで、狭い村で偏見に苦しみ孤独だった少年。神扱いの怪異なのに、どこか頼りなくて弱々しく、ただついて来るだけの華奢な影。身を寄せ合うように、二人は仲良くなったのだろうか。
「水蜜さん……でいいかな。あのさ、首がなくて困ってるのはわかるよ。でも……俺、正直自信ないんだ。神様の首を盗んだ山の怪なんて、相手したことないから。ぶっちゃけすごく怖い。郷美先生が心配でここまでついてきちゃったけど、今でもホントは逃げ出したいんだ」
怒らせて、祟られるだろうか……そう思いつつも、礼は素直な心境を語った。どのみち相手は得体の知れない怪異だ。隠してもお見通しかもしれないと思い、開き直った。
水蜜はしばしじっとしていたが、間を置いてノートに新たな文字が浮かんできた。
『お願いします 村で私がわかる人 もう正ちゃんしかいない 他の人は助けてくれない』
「うー……ん」
本当に神様らしくない奴だ。いっそ、もっと神っぽい高圧的な相手なら断って帰ることができたかもしれない。しかし目の前にいるのは、少女のように細く弱々しい何かで。頭はどうなっていたのか見たことはないけれど、姿勢や字の美しさや何気ない四肢の動きは美しい素顔を想像させるものだった。
なんだろう、この気持ちは。いつもより冷静じゃない。戸惑いながらも……礼は『おかしい』と自覚したまま、突き進むことを決めた。
「あー、もう、わかったよ。明日はできるだけ頑張るから」
『ありがとう!』
もし水蜜に顔があったら、ぱあっと輝いていたことだろう。背筋を伸ばして正座していた腰を跳ねさせ、手を叩いて全身で喜びを伝えていた。
「でも、倒せるとは思ってないから。まずは水蜜さんの頭を取り返すことだけ優先する。乗っ取られてる場所は諦めてもらうかもしれない」
郷美と二人がかりでなら、そんな隙くらいは作れるかもしれない。それすらも楽観的な賭けではあるが。
「なあ、この村にいても、あんたが見える人はもういないんだろ? だったらさ、今の家にこだわる必要ないんじゃないかな。郷美先生と仲良しなら、どこにいたって会いに行けばいいじゃん。先生に頼めば、新しい居場所くらいなんとかしてくれるよ。きっと」
『外には出たことある』
「そうなんだ。じゃあやっぱ頭取り返すだけでも良さそうだな。それならちょっと希望あるかも。あんま期待されるとガッカリさせちゃうかもしれないけど」
『よろしくね』
「はあ……腹くくるしかねーよな」
俺、今日は本当におかしいな。
礼は心の中でひとりごつ。手元のノートに目を落とせば、艶やかな黒のインキで浮かび上がる流麗な文字列。無垢な言葉たち。それを描いた主は、礼に助けてもらえると確信して安心したのか。部屋の片隅で壁にもたれて座り、ピンと伸びていた背を丸めてゆらゆらと前後に揺れている。眠っているらしい。
「寝ちゃったの? どこが神様なんだろ。むしろこの呑気さが器の大きさ?」
畳に広がる、ワンピースの薄い裾は花弁のように柔く。そこから伸びる手脚はワンピースや外の雪に負けないほど白く透き通って、爪だけが漆黒に艶めいている。首の断面は認識が阻害されていてどうなっているかわからないが、チョーカーのように真紅の線がぐるりと描かれたうなじが妙に艶かしいのはわかってしまう。
(人じゃないって言っても、男の部屋に入れちゃって大丈夫だったかな……いや、郷美先生は彼って言ってたし、こう見えて男なら変じゃないよな? いやいやいや、何考えてんだ俺。相手は幽霊なのに……)
「遅くなりました寺烏真さん。なかなか離してもらえなくて。お酒も飲めないあなたがいるのに放り出して申し訳――」
「わああ?!」
「どうしました?!」
「い、いえ、なんでも!」
何もやましいことはしていなかったのに。ようやく戻ってきた郷美に対して思い切り不審な反応をしてしまい、礼は顔が熱くなるのを自覚して顔を隠した。
「おや、蜜ちゃんがこんなところに。僕の部屋で寝かせるつもりだったのですが、こっちに来ましたか?」
「いや、水蜜さんは外にいました。先生が来るの待ってたんですね。すごい寒そうだったんで、俺が勝手に連れてきただけで……」
「もう名前まで教えてもらったんですか。寺烏真さんはなかなか気に入られたようですね」
机の上に拡げられたままのノートに気づいて、郷美は柔らかに笑む。
「仲良くなれたようなので、蜜ちゃんはここで寝かせてあげ……」
「連れてってあげてください! 付き合い長い友達のほうが安心できると思うんで!」
「ははは、わかりましたよ。蜜ちゃん、起きて。あまりこの子に迷惑かけないようにね。僕の部屋に行こうね」
本当に寝ていたらしく、ふにゃふにゃと立ち上がった水蜜の手を引いて郷美は隣の部屋へ戻っていった。
「あなたも僕に似て難儀な業を負いましたね。今更遅いでしょうし、お前が言うかと我ながら恥ずかしいですが。一応年長者として言っておきましょうか」
去り際に、郷美が苦笑しながら礼に投げかけた忠告。
「この人だけはやめておきなさい。愛すれば愛するほど返してくれるけど、彼はたくさんの人にそうしているんです。あなただけ特別にはなれませんよ」
「えっ……? は……? 何、を」
「僕の勘違いであることを願います」
おかしくなったのは。普段は間違いなく避けるであろう危険に突っ込んでいくほどに盲いてしまっているのは。まさか。そんなはずは。
明日は大事な仕事があるというのに、礼はなかなか寝付けない夜を過ごした。しんしんと冷えゆく薄明にも、妙に火照り続ける頭を持て余しながら。
四『寺生まれってすごい』
翌日は、朝から灰色の雲が空を重く覆い尽くしていた。雨や雪が降る気配は無いが、昼間でも薄暗いのは絶好の肝試し日和だ。残念なことに。『根くたり様』の社は村の外れ、山林に踏み入り獣道を少し登った先にあった。
「こんなに歩きにくい道ではなかったのですが……しばらく見ないうちに荒れましたね。昔は郷美家が社の管理者でしたが、父が別の方に引き継ぎまして……ごめんなさい蜜ちゃん」
水蜜は「正ちゃんは悪くないよ」と言いたげに郷美へ寄り添い歩いている。
「山の怪が何かしてて村の人も近づけないんじゃ? あんまり軽々しいことは言えませんが、新しい社を用意してもらうことは難しいでしょうか」
礼は思い切って、昨晩考えたことを提案してみた。
「それも最終手段として検討しています。ですが、予算や村の人の説得も簡単ではないので……僕は寺烏真さんと一緒に大学に帰りたいので、できたら今の社を取り戻したいです」
「ああ、村に残ってほしいとか、村長になってほしいって何度も言われてましたね……」
「僕の祖父の代くらいまではこの村の名家だったらしいんですがね、うちは。今更思い出したように神輿にされても困ります」
昨晩遅くまで宴会に付き合わされていた郷美は存外元気で、あまり眠れなかった礼を心配する余裕すら見せながら山道を進んでいく。礼もいよいよ開き直って、今は妙に身体が軽い。ここまで踏み込んだら徹底的に解決策を探してやる、と意気込んでいた。
「着きました。あの建物です」
郷美が指差した先には、いかにも古めかしい社があった。やはり手入れが行き届いていないようだ。建物はかろうじて崩れていないものの、生えっぱなしで枯れた雑草に囲まれ、廃墟のような風貌になりかけている。
「いつまでも直せないのが申し訳なかったのですが……向かって左側の壁に穴が空いていたはずです。そこからこっそり中を見てみましょう」
「そうですね。明らかに中に何かいます。気づかれる前に様子を見られるならありがたいです」
「すでにそこまで感じ取って……僕にはまだわかりません。寺烏真さんが来てくれて本当に良かった」
出来るだけ音を立てないように裏側から社に近づくと、壁の穴は修繕されないまま残っていた。見るだけで危険かもしれないと、まずは郷美が覗いた。壁から顔を離すと、険しい表情で静かに首を横に振った。
「蜜ちゃんからの情報と一致する外見ですね。実際に目にすると、なんとも恐ろしい……」
「郷美先生にも見えてますか。どうでした?」
「いえ、僕にわかるのは外見だけです。どの程度危険かすら判断できません。寺烏真さんが見て他の情報が得られれば良いのですが」
既になんとなく悲観的な空気を振り払うように、礼は深呼吸した。危険な相手なら目が合うだけで悪いことがあるかもしれない。ここまで近づいて冷や汗が出ないので問題ないとは思ったが、郷美に何事も無くて良かった。続いて、礼も穴を覗き込んだ。
「……えっ……?」
不安げに礼の反応を伺う郷美であったが、礼はなんとも複雑な表情をしていた。何かに戸惑っている。
「寺烏真さん……何かわかったのですか」
「えっと、多分大丈夫です」
行きましょう、と礼はさっさと社の正面に向かった。
「今から俺がデカい音させて真正面から乗り込みます。先生もアレの姿は見えてるんですね? 俺の方におびき寄せられたら、水蜜さんと奥に走って頭を取り戻してください。水蜜さんと同じ気配が……祭壇っぽいところの、おそらくお供え用のお皿の上にあります。それが多分水蜜さんの頭です。趣味わりーな……まあともかく、取れたら一応外に逃げてください。大丈夫だと思うけど念のため」
「そんな……あなたが囮になるということですか?」
自分から巻き込んだとはいえ、元は村とは無関係だった若者に捨て身の行動をとらせるわけにはいかない。止めようとする郷美だったが、礼は落ち着いた様子で「大丈夫です、本当に」と繰り返した。
「わかりました……頭部の奪還は任せてください。何かあれば構わずあなただけでも逃げてください」
社の正面へ戻ってきた。郷美と水蜜は入口横の壁に隠れ、礼の撹乱を待って乗り込む。
「じゃあ、行きますよ」
礼は躊躇いなく、大きな音を立てて戸を開け放った。
内部は埃っぽく、じっとり不快な空気に満ちていた。奥にある祭壇のようなものも埃で薄汚れている。その手前に、件の『山の怪』がいた。
大きさやカタチは虎に似ている。しかし手足は人間のような五本指で、毛がなく赤黒い肌を晒している。胴体や腕脚は土留色の毛皮に覆われている。じっとりと荒れた毛並みでお世辞にも美しいとは言えない。何より奇怪なのが頭部だった。首が太いのか頭が埋まっているのか、肩と一体化した膨らみに人間の顔が面のようにのっぺり張り付いている。手足と同じく赤黒い肌で、両目と口があるところに真っ黒な穴が空いている。礼がまっすぐにソレを見据えると、口らしき穴をぐちゃりと歪めて笑ったように見えた。礼が一歩、社の中へと踏み込めば。ひたり、ひたりと手のひらと足を床につけ。じわじわと礼の方へ近づいてきた。
なるほど、なんとも悍ましい見た目だ。長年村で祀られてきた神から首を奪い、社を乗っとるだけの貫禄はある。……見た目だけならば。
「……そんなハッタリで調子乗ってんじゃねぇぞ」
やるなら徹底的に。昨晩から礼は、浮かれているような焦っているような苛立っているような、ともかく落ち着かなかった。普通なら、神を害した怪異なんて絶対相手にしない。神扱いされている不審な怪異に自分から話しかけて、優しく部屋に招き入れたりしない。しおらしく頼み込まれて、普通しないことを引き受けたりしない。断じて絆されてなんかない。あまつさえ、放っておけない気がしている、なんて……
ああ、そうだ。ただの八つ当たりだ。悪く思うなよ。
「さっさと……成仏しろオラァ!!」
大きく振りかぶり、強く踏み込んで。気味の悪い顔面に全力の拳を叩き込んだ。山の怪は耳障りな悲鳴を上げながら、あっけなく消し飛んだ。
「え……?」
郷美は呆然とそれを見ていた。礼に言われた通り、水蜜を連れて奥へ走り真っ先に首を取り戻したが、その合間にあっけなく元凶が倒されてしまった。
「ソレが、恐ろしい山の怪の正体ですよ」
父に習った経を唱え、数珠を握っていた手を緩めて礼がふにゃりと笑った。
「狸……化け狸ですか?」
そこには、ごく普通の、田舎ならどこにでもいそうな狸が一匹。礼の剣幕に驚いて狸寝入りしていた。
「正確には、人間の恨みが篭った念がそのへんにいた狸に取り憑いてた……って感じですかね? 水蜜さんって、女癖……男癖? なんかこう、恋愛においてだらしなかったりします?」
「だらしないですね」
郷美は親友をばっさりと斬り捨てた。
「蜜ちゃんには、男を自分に惚れさせる能力があるんですよ。誰にでも優しくして気を持たせて、求めれば恋人のように返してくれるのですが……誰にでも、そうなんです」
「あー……なんかこう、水蜜さんのストーカーかな、って感じの霊だったんです」
「大勢いるでしょうね。恋人だと思っていた蜜ちゃんが他の人にも同じ様に愛想を振り撒いているのを見て、裏切られたと強く恨みながら死んだ人は……。寺烏真さん、その悪霊は今の一喝で除霊できたということですか?」
「はい、綺麗さっぱり。痴情のもつれ案件はよくやってましたし……おう、お前はもう変なのに捕まるなよ」
狸はびくりと飛び起きて、一目散に社を飛び出し森の中に逃げていった。
「うちの寺の庭にも狸は来てたので。壁の穴から見たとき、雰囲気が同じだったのでわかりました。いや、信じられなかったけど……」
礼がじとりを睨んだのは、社の奥で首を繋いでいる真っ最中の『神サマ』である。
「狸に取り憑いた程度の。自業自得で呼び込んだ元カレ元カノのストーカー霊に。首と棲家を奪われて……? ただの人間に泣きついてくる『神サマ』がいるなんて、にわかには信じられなかったんだよなあ?」
「あのねえ! 私だっていつもは狸くらいなんてことないよ! 首を斬られたのはもっと昔で別の強い人にやられたんだし、弱ったからここで休んでる隙をつかれたの! 仕方ないじゃん!」
「うわ、喋った!」
男とも女ともわからない、しかし綺麗だと感じる声。
真珠ような艶のある白髪は腰まで伸びているが、首の傷の高さを境に下半分は黒く染まっている。全体的に金の粉を塗したような煌めきを振り撒きなびく髪はしっとりと整い、勢いよく振り返っても乱れることなく華奢な背中に沿ってまとまった。
初めて見せた水蜜の顔は、一瞬で礼の心を鷲掴みにしてしまった。切長の目元にくっきりと引かれた眉、すっきりした鼻筋に口紅無しでも艶かしい唇。妖艶な美人であるのに、子どものようにむくれる表情とのアンバランスさがあまりにも危うげで。
先程聞いた、だらしなさすぎる恋愛遍歴であるとか、礼は今まで男性を好きになったことがないとか、そもそも水蜜は怪異であるということだとか。そういったことを忘れてしまうくらい、好きなタイプのど真ん中だった。なお礼本人が一番「バカな」と思っており、動揺している。こんなこと初めてだ。
『惚れさせる能力』にやられたのか? それもあり得ない。郷美にも効いていないのだから礼にも効かないはずだ。操られたわけでなく、純粋に惹かれてしまったのだ。よりにもよって、正体不明の怪異に。
「……ね、それよりさあ」
思考がまとまらずフリーズしている礼をよそに、水蜜はすでに持ち前の陽気さを取り戻していた。
「君、すごいね。決めた! しばらく君と一緒にいる。私も同じ大学に行く!」
「は……?」
「好きなところ行けばいいって、礼くんも言ってくれたじゃん! だからそうする。いいでしょ正ちゃん。私も大学に連れてって!」
「そんなこと、できるはず……」
「うーん……しばらく待ってください」
「できるんですか?! てか、やってあげるつもりなんですか?!」
教授としてどうなんですか……? と愕然とする礼には申し訳なさそうに、郷美は力なく笑う。
「蜜ちゃんは言い出したら聞かないので勝手についてきますよ。力を取り戻したので、霊感の無い一般の方にはただの人間に見える程度に擬態できるでしょう。好きに動かれて学内を混乱に陥れられると困るので、僕がなんとか誤魔化します。それまで大人しく待てますね?」
「はあい」
「先生……本気なんです……?」
「それで……寺烏真さんには引き続き申し訳ないのですが……しばらくの間、彼を家に置いてあげてくれませんか? 僕の家には妻がいるので……」
「えっ、何なんですかこの状況? 除霊するまでしか引き受けて無いですよ!」
「ねえねえ、礼くん、お願い!」
それから礼の記憶ははっきりしていない。
宿に戻ってからも説得と拝み倒しの猛攻を受け。おそらく昔からこの手の無茶振りに振り回されてきたであろう郷美の困り顔に同情してしまい。そしてその間ずっと、好みドストライクの美人がべったり密着して甘えてくる。水蜜はよほど礼のことが気に入ったらしい。郷美の発言に対して「誰にでもってわけじゃない! ただ、素敵な人はたくさんいて、一人に絞れないだけ」などとのたまい「今は礼くんが一番好き」と定番の甘い文句でいたいけな若者を惑わした。
気がつけば、新年度からはじめる一人暮らしのマンションに水蜜も住むことが決まり、帰りのバスでは三人仲良く大学へ戻ることとなった。
平凡を望む礼の大学生活は、こうしてあえなく非凡に染められていくのだった。
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