
Sweetheart 第二話
はじめに
•創作BL小説です。R18の話が含まれています。
•以下の要素が含まれます
BL/男だけの三角関係/吸血鬼/黒魔術/触手/去勢/カントボーイ/男性妊娠/グロテスク•暴力的な表現/冒涜的なナニカ
上記の要素がお好きな方のみお楽しみください。
『Sweetheart』シリーズの第二話です。
初めての方は第一話から読んでね。
それではお楽しみください。
Sweetheart 第二話
一『無垢なるもの』

ハイボックがシンディと初めて出会ったのは、イギリスの静かな農村地帯。七十年ほど前、シンディがまだ少女として育てられていたころであった。
ハイボックは魔生物管理局の重鎮でありながら、自ら動いては凶暴な怪異を狩る者として活躍していた。その日はワイバーン……童話の世界のドラゴンのような外見の怪異を追って田舎の小さな村までたどり着いた。
人間社会が発展するほど、神秘の力は弱まっていく。千数百年も生きているハイボックでも、ワイバーンのような聖霊種を追った経験は少年時代にあったきりで、随分久しぶりであった。
聖霊は年々減っている。星の力、自然の力と直接繋がっている純粋な聖霊は人間たちの生活圏拡大に追いやられて姿を隠し、誰にも知られずに滅びてゆく。ハイボックはそのような純真無垢なる存在を愛していたが、これも時の残酷さかと諦めてもいた。
村の外れには、大きな木々が鬱蒼と茂る森になった一角があった。年老いた村人に尋ねると、その森はある一家が人工的に作り出したものなのだとか。奥には古い屋敷があり、代々魔女の一族が住んでいるそうだ。人目を避け迫害を逃れる、城壁や要塞の代わりに深き森があるというわけだ。そういったところにならワイバーンも身を隠すかもしれないと、早速捜索に向かうことにした。
ハイボックは吸血鬼であるが、物語でよくあるニンニクや十字架、太陽の光で苦しむということはない。吸血鬼に襲われ屍鬼となった怪異はそういうこともあるが、ハイボックは始祖の血に限りなく近い聖霊種なので人間の小賢しい技術に負けるということはないのだ。しかし陽の光の下より夜の暗闇の方が本来の力を発揮できるため、森へは夜になってから足を踏み入れた。
森の木はほとんどが常緑樹で、冬でも陽の光を遮ることができる。意図的に、分厚い木々の壁を作っていると感じられた。ここに住む魔女が身を守るために。魔女が森を管理しているというのは間違いないようで、足元の草花は明らかに薬草の類が多い。空気に含まれる魔力も濃い。ワイバーンは既にかなりの傷を追って逃げているそうだが、ここで傷を癒した可能性がある。勢いよく襲ってくるかもしれない……警戒しながらさらに森の奥に進むと、ぽっかりと木の無い円形の空間があった。
平らに整えられた広場は花畑になっていて、木が無いので星空がよく見えた。今宵は満月で、銀色の光がスポットライトのように花畑を照らしている……その中央にあったものに即座に気づいたハイボックは身構えた。
月光に照らされて、ワイバーンが横たわっている。鈍い金色の鱗に覆われた竜はヒグマくらいの大きさの小型種で、気配を隠さないハイボックが近づいても反応しない。近づくにつれ、それが既に死んでいることが確認できた。ワイバーンは目を開けたまま死んでいたが、その目はガラス玉に入れ替えられていた。表皮もぴかぴかに磨かれ、生きていた痕跡が綺麗に取り除かれている。ワイバーンは、剥製にされていた。
「ご機嫌よう、聖霊のおじさま」
鈴を転がしたような、細く愛くるしい声が聞こえた。ハイボックは素早く、ワイバーンから声の主へと視線を動かした。そこには、ワイバーンの剥製に負けず劣らず作り物めいた少女が立っていた。
リボンやフリルで飾り付けられたワンピース。同じくふわふわした装飾のヘッドドレスで飾られた髪は癖毛で腰まで伸ばされ、薔薇のような真紅に艶めいている。肌は陶器のように白く、大きな瞳はエメラルドグリーンで月の光をキラキラと反射させていた。うっすらと微笑みをたたえていたが、まるでビスクドールのように静かだ。気配的に、確かに人間であるのに。心臓の音が感じられるのに。人間らしい、やかましく耳障りな感情の雑音がほとんど聴こえてこないのだ。そして……彼女の纏う魔力は、聖霊のそれによく似ていた。
「……っ、失礼。私有地であるとはわかっていたが、緊急事態であるので調査に入らせてもらっていた。君はこの森の中にあるという屋敷の住人だろうか」
ハイボックは少女を呆然と見つめてしまっていたが、すぐにハッとして本来の任務を思い出した。
「仰る通りですわ、おじ様。この森はわたくしのご先祖様が生み出した人工の森。今はママが管理していますの」
一生懸命に礼儀正しく振る舞おうとしているが、暗記した言葉をそのまま口に出しているようなたどたどしさも感じた。年齢は十歳前後だろうか……ママと甘えた声を出すあどけなさは、外見年齢より少し幼すぎるようにも感じる。やはり、人形のような不思議な子である。魔女が子どもの死体を操りでもしているのかと様々な憶測を脳裏に並べながら、ハイボックは少女に話しかけた。
「お尋ねしたい。このワイバーンはいつからこの森にあったのだろうか。見事な剥製になっているが、誰がここまで運び込んだのか……何か見聞きしていたら教えてほしい」
「見事だなんて、そんな……」
少女は白蠟の如き頬を紅く染め、何故か嬉しそうに恥じらってみせる。ハイボックが訝しがっていると、彼女は先ほどより人間らしい笑顔を輝かせて話した。
「ドラゴンの子だと思っていましたが、ワイバーンといいますのね。少し先の池のほとりで、ひどく汚れて疲れたお顔をしてらしたの。わたくし、ママに買っていただいた絵本を読んでずっと、ドラゴンが欲しいと思っていましたから……ママに『はしたない』と怒られてしまうかもと思ったけれど……その」
もじもじとしつつも、誰かに話したくてたまらないといった様子で少女は話し続ける。
「妖精さんの羽根と目玉をすり潰したお薬でぐっすり眠っていただいて。効き目はばつぐんですのよ、一週間の間、鱗をゴシゴシ擦って磨いても、擦り傷によく効くけれどとってもしみるお薬をかけてもちっとも起きませんでしたわ。傷が回復してピカピカになったら、お口からお腹の中に入れた魔石を炸裂させて、内臓だけをすり潰して……ねえ、おじ様からご覧になっても、美しく仕上がっているかしら?」
ハイボックは唖然としていた。確かに、子どもとはいえ彼女はこの森の住人。つまり魔女の一族の子。それにしてもだ。まるで森で虫取りでもして遊ぶかのように、母親には怒られるかもしれないからと恐らく一人で、ワイバーンを剥製に加工したのだ。薬を作る技術、ダイナマイト並に取り扱いが危険な魔石を難なく使いこなし、花畑の中央に飾るため重い物を動かす魔術も行使したと思われる。ハイボックの知る限り、ここまで多彩な技術に精通する魔女はもっと年配だったはずだ。子どもがこなしていい仕事じゃない。
「ああ……完璧だよ……正直、かなり驚いている。一人でやったのか、本当に。君ひとりで」
「ほんとう? 嬉しいわ。ママに見せても褒めてくださるかしら」
「素晴らしい才能だと思う。だが……君には残念だが、私はこのワイバーンを回収しに来たのだ。女王陛下の命でね、どうしてもこれが死んだ証……つまり死体を持ち帰らねばならない。君が家に持って帰ることはできないんだ」
「そう……お仕事で必要なのね。仕方のないことですわ」
宝石のように輝く瞳が悲しみに曇り、小鳥が囀るように軽やかな声を紡いだ口は静かに閉じる。再び冷たい人形のようになってしまった少女の顔を見て、ハイボックの胸が痛んだ。ただの人間の子一人に、ここまで魂を揺さぶられたことはなかった。ハイボックは戸惑いながら、少女を慰めようと言葉を探した。
「本当に、すまないと思っている……ドラゴンが好きなら、本物のドラゴンの鱗でも持ってきてやろう。生きているのは今時ほとんど見ないが、角や鱗なら我が家のコレクションにたくさんあったはずだ」
「おじ様、またわたくしに会いに来てくださるの?」
少女は、思いがけないことに喜んだ。
「むしろ、二度とこの森に足を踏み入れるなと拒まれるのではと怖かったよ。君や、お母様に……あと」
「この森には、わたくしとママだけですわ」
「それでは尚のこと。ご婦人だけの花畑に、私のような武骨な男が踏み入って良いのかな」
「わたくしも男ですよ」
「ん?」
「あっ……ママには今のことは言わないでくださいまし。ママはわたくしを娘として教育してくださってますから。立派な魔女として……」
少女ではなく、少年だった。服装で勝手に勘違いしていたと、ハイボックはさして驚く様子は無かった。なんでもないことのように聞き流すハイボックのことを少年は気に入ったようで、ドラゴンの鱗がなくてもまた来て欲しいとねだった。
「ワイバーンはだめでも、他にも色々怪異を集めていますの。お気に入りがいろいろあって……それもおじ様にご覧になっていただきたいわ。あっ、ワイバーンなのですが、目はくり抜いてガラス玉に取り替えてしまいましたの。目玉だけでもいただけないかしら……もう、素材としてバラバラに切り刻んでしまったあとで。内臓の血肉も薬を混ぜて瓶詰めにしてしまいましたわ。そちらも返さなければいけないのかしら。火の魔石の表面に塗ろうと思って。でもドラゴンじゃないなら効果は期待できないのかしら……」
「わかった、わかった。私はこの剥製だけを持ち帰るから。切り取ったものは全部君にやる。心配しなくていい」
この子は怪異の研究や魔術の実験が好きなようだ。母親に言われて嫌々魔女の勉強をしているという態度は微塵も感じられず、魔女が伝承してきた技術に心から惹かれのめり込んでいるように見える。好きなこととなると饒舌になってはしゃぐ姿は、確かに『深窓のご令嬢』というよりは『森の元気な少年』かもしれない。これは母親に叱られるわけだとハイボックは思った。
「必ず会いに来るよ。この美しい花畑でまた会おう」
ハイボックは二メートルもある大きな身体を屈めて膝をつき、小さな魔女見習いの瞳を改めて見つめた。エメラルドグリーンの瞳にはライトブルーの煌めきも混ざっていて、澄んだ泉が深い青緑色をたたえて輝くような光を灯していた。
「君の名を教えてくれ」
「Cindy」
「Cynthiaに起源を持つ名だな。なるほど、狩猟と貞潔、そして月を司る女神の名は、君によく似合う」
振り返ってみると、初めて会ったこのときからハイボックはシンディに心を射抜かれていたのだと思う。
約束した通り、ハイボックは足繁くシンディのもとを訪れた。ハイボックが各地を飛び回って狩った珍しい怪異の話に、シンディは大きな瞳を輝かせて聴き入っていた。神秘的な森の中で、二人の逢瀬は御伽話のように美しく年月を積み重ねていった。
シンディが生まれてすぐ去勢されている少年であったことを知ると、ハイボックはさらに彼に夢中になっていった。ハイボックは主に人間の血を糧とする吸血鬼であるが、特に貞潔な血を好んだ。すなわち童貞処女の血である。性器を取り除かれているシンディは、この先森を出て多くの誘惑を受けることがあろうと童貞でなくなることは確実に無い。老いを醜いとは感じないハイボックであったが、人間は大人になり純潔を失うことで見るに耐えなくなると思っていた。その点、シンディの清らかさは若いうちの儚い輝きではなく、長い間保たれるであろう奇跡だと惚れ込んでいた。
ハイボックはシンディのことをすぐにでも自分の領地に連れて帰りたかったが、シンディは母親のことを強く慕っており森を離れることを頑なに拒んでいた。この閉じた森の中の世界で、母親と二人きりで生きてきたのだ。視界が狭くそれしか無いと思い込んでいるのだから仕方ない。ハイボックもそれを理解していて、無理やり攫うようなことはしなかった。
だが、シンディの母親のことは邪魔だと感じていた。彼女はあまりにも穢れていた。数えきれない男と関係を持った、なまぐさい血の臭い。シンディの父親について辿ることも難しい。魔女ならさして珍しいことではない。だからこれまでハイボックは魔女という人種を好ましく思っていなかった。こんな穢らわしい環境からシンディという奇跡が生まれたのは特例中の特例だ。だからこそ、彼だけをどうやって保護するか相当悩んだ。
シンディが十代後半に差し掛かったころ、チャンスは訪れた。身体の成長が著しくなったシンディは、去勢されているとはいえかつてのような少女そのものの華奢さ弱々しさは失われつつあった。美しくも精悍な青年になろうとしていたのである。そして心も。母親に矯正され淑女のように演技してきたシンディだが、近頃その仮面を被ることに違和感があると、母親以外に唯一信頼していたハイボックには打ち明けるようになっていた。母親からも日々大人の男性らしさが目立ってくる容姿を疎まれ、母子の間に亀裂が入っているとも。
二次性徴を迎えてもなお、シンディは無垢さを失わずにいた。少女として振る舞うことに違和感はあるが、かといって反動で過剰な雄々しさに憧れることもなく。ただ『ママの理想の娘』になれないことを嘆いていた。
「シンディ……残念ながら、君はこのままずっとこの森で母親と暮らし続けることはできないと思う」
「クーリ……私は……わたくしは、一体どうしたらよかったのですか」
シンディはすっかりハイボックに懐いていて、ハイボックのファーストネームであるKugelschreiberを幼い頃の舌ったらずな口で略した愛称で呼び続けていた。他の者であれば、人間如き存在にこんな呼ばれ方をしようものならハイボックは愚弄されたと激怒しただろう。しかし、シンディにだけはそれを許していた。シンディのことを溺愛していたのである。故に、嘘をつくことにした。シンディからの信頼と愛情を独占するために。
「シンディ。君は何も悪くなかった。しかしこれから努力する必要がある。君の母親はこの森を出て生きていくことは難しいだろう……しかし、この森はいつまでも君たちを守ってはくれない。いずれ危機が迫るときがくる」
「そんな! 私はどうしたらいいの。何を頑張ればいいの?」
「君は森の外で生きるんだ。少し寂しいが、しばらくは母親とは離れて暮らすことになる。君くらいの年齢の青年は、そろそろ全寮制の学校に入って勉強するころだ。必要な手配は私がする。有名な大学を優秀な成績で卒業し、社会的地位の高い職業になれるよう励みなさい」
この退屈な内容はハイボックにとってはどうでもいい過程であったが、シンディにハイボック以外の依存先を作らせないためには重要なステップだった。シンディは、このようないわゆる『人並みの幸せ』では決して幸福を感じられないだろう。ひたすら退屈で、周りにいる人間をくだらないと思うだろう。
「君にとっては退屈すぎて苦痛な時が何年か続くことになる。しかしこれは必要なことなんだ。誰もが君を『模範的な男性』と認め憧れるようになったとき、君の母親の男への偏見も無くなる。シンディ、君のことを真に素晴らしい息子と認めるであろう」
「ママが……私を息子として認めてくれる……?」
「ああ、きっと」
これも嘘だ。シンディが普通の人間の男性らしくなるほど、上流階級の男らしい姿と地位を得るほどに。彼の母親は苦しみ、シンディを憎むだろう。そういう男たちに搾取され、老いた娼婦のようになったら捨てられたのが彼女なのだから。ハイボックはそれを予想できていながら、シンディに微笑みかけながら言った。
「都会でお金を稼いで、素敵な家を作ってあげよう。彼女の好きな花を毎日買ってあげられるような男になろう。そうすれば、新しい場所で幸福を得られる」
「うん……わかりましたわ、いや、わかったよクーリ。僕は今日から男になる。堂々とママに言うよ。森を出て頑張るって。だってママのためだもんね?」
「よく言ったシンディ。彼女は初めは怒ったり反対したりするだろうが、仕方のないことだ。たった十年足らずのことだが、母と子が別れるのだからね。寂しく悲しいに決まっている。それは受け止めてやればいいが……シンディは男になるのだから、いつまでも母親と手を繋いで泣いているばかりでは始まらない。いいね」
「わかってるよ。僕に任せて!」
どちらかの性の役割を当て嵌められることに疑問を抱いていたシンディも、『ママのため』という幼気な祈りのためなら大人の男性の仮面を被ることを決断したようだった。今はそれでいい。ハイボックに手を振り、森の奥の家に帰っていくシンディは中性的ではあるが青年らしい立ち振る舞いになっていた。
こうしてシンディは、大好きなママと離れて暮らすことに……は、ならなかった。しかし、シンディは当初の計画通り森を出て寮に入ることになった。
「クーリ、お待たせ!」
「いや、説得に時間がかかることは予想していたとも。それで……母親は納得してくれたのか?」
喧嘩別れしてくることを予想していたハイボックは、シンディを慰める準備をしていた。シンディを森から連れ出せたら後で母親は始末しておこうと思っていた。しかし、シンディは予想に反して嬉しそうな表情をしていた。
「うん、ママはね、僕を見守ってくれてるよ。僕についてきてくれるって。ほら」
そう言って、両手で大切に抱えた瓶を誇らしげに掲げて見せてくれた。ガラス瓶を強化するために外枠には魔術的な加工の施された金属を。ガラスにはワイバーンの血を混ぜて耐火性を付与し、暗い薔薇色に染め上げている。中央だけ透明な円いガラスが窓のように嵌め込まれていて、中身がよく見えるようにレンズ状になっていた。いや、これは元々レンズなのだ。あの時、ワイバーンの目からくり抜いた角膜だと気づいたと同時に、中に入っているものを理解してハイボックは目を見開いた。
「綺麗でしょう、ママの目、ママの髪。僕と同じ色」
シンディにとっては、ハイボックに貰ったあのワイバーンの素材は何よりの宝物だった。特別なときに使うと言って、何度もハイボックに感謝の気持ちを伝えていた。特別なとき……それが今だったのだ。
瓶の中には、保存液に浸された真っ赤な薔薇が一輪。まっすぐな茎が瓶の中央で固定されており、そこにエメラルドグリーンの瞳をもつ眼球がひとつ。薔薇に貫かれて、竜のレンズごしにこちらを見つめていた。シンディの母親は、病か怪我か何かで片目は色を失っていた。美しい赤毛を長く伸ばし、前髪で顔の半分を隠していることはハイボックも知っていた。その髪は縄状に編まれ、瓶の首に巻かれて薔薇のような形状に結われて煌めいていた。
「ママに教わったすべて、僕がさらに手を加えた黒魔術のなにもかもを使った最高の技術で、ママを小さくして瓶に入るようにしたんだ」
シンディは瓶を撫でながらうっとりと呟いた。
「流石世界一綺麗なママ。小さくしたら、素敵な薔薇になったよ。これなら一緒に連れて行っても大丈夫でしょ? ねえ、クーリ」
「あ、ああ……だが、良かったのか……?」
シンディが言い争いの末母親を殺す。予想していたうちのひとつではあったが、加工して引越しの荷造りに加えてくるとは思わなかったのでハイボックはやや動揺していた。
「良かった? なにが?」
「ええと、そんな……喋れない、小さな形の母親になっても、良かったのか?」
「ママはね……近ごろずぅっと悲しそうで、苦しそうで、毎日つらいって泣いていたの。外になんて行きたくないって言ってたのはクーリも知ってたよね。だから、安全な瓶の中で眠っているのが一番幸せなんだよ」
「そうか。シンディが納得しているならいいんだ」
「それに」
「ん?」
「ママとおしゃべりしてるとき、ママが僕のために声を出してくれることなんて無かったよ。もう、何年も」
「……ふ」
「クーリ?」
つい可笑しくなって、声を上げて笑ってしまったハイボックをシンディが不思議そうに見上げる。
「ああ、いや。やはり君は素晴らしいよ。私は君のことを世界で一番愛しているよ。シンディ」
間違いない。彼は人間でありながら、魂は聖霊のものを持って生まれてきたのだ。
「私と共に行こう」
手を繋いで、森を出た。シンディの故郷の森は、ほどなくして怪異が溢れて手のつけようがない魔物の巣に変貌した。管理する魔女がいなくなったからである。ハイボックの手配により、魔生物管理局の実働隊が現代兵器を用いて森を丸ごと焼き尽くすことで怪異騒ぎは収束した。このことはシンディにも伝えられたが、彼は胸に抱きしめた『ママ』を愛おしそうに撫でるばかりで興味のない様子だった。
それからハイボックは、シンディに経済的援助や定期的な連絡を続けつつも一旦彼とは距離を置いた。母親離れさせることに若干失敗したこともあり、ハイボックへの依存もしすぎると悪影響であると思ったからである。
人間としての寿命をまっとうするまでは、せいぜい自由に生きてみればいい。一通り人間社会の醜さを学んでくればいい。シンディはそんなもので穢れない。人間の肉体が使い物にならなくなる頃、ハイボックの力で同族に……吸血鬼にして娶るつもりで待っていた。
まさか突然異国に飛び出して、さらに自ら不老不死になる方法を見つけるとは予想外であったが……今更そのくらいは『シンディは面白い発想ばかり思いつくから』とおおらかに受け止めていた。
そろそろ人間というものに失望し、人として生きることに飽きた頃合いだろう……そう思って、迎えにきたのだった。何やら穢らわしい邪魔者がいたが、何かしら対処すればいいだけのこと。
「変わらないな。君の魔力はとても原始的で、清らかで、美しい」
ハイボックは、シンディが住んでいる警察署地下の怪異収容エリアを訪れていた。こんな狭いところにシンディを……とはじめは怒りを感じていたハイボックだが、シンディは与えられた部屋を思いのままに飾り立てて楽しんでいるようだったので呆れつつも安心した。
久しぶりに、シンディの血を少しいただく。見た目が野蛮であるから、人間に直接口をつけて血を啜る行為は余程のことがない限りしないハイボックであったが、シンディだけは別だ。白く瑞々しいままの首筋に、鋭い歯が刺さった傷跡が紅い花弁のように残る。目を閉じてじっと吸血を受け入れていたシンディは長い睫毛をそっとふるわせ、大きな目を開いてハイボックを見上げる。
「そうなの? あれから触手とか、色々身体に移植したのに。ハイボックの言う『血の味』も変わったんじゃないかと思ってたよ」
「まさか。せっかく綺麗な体をあれこれ弄る癖はできたらやめてほしいものだが、そんなことで君の血は……魂そのものが穢れたりはしない。それより……」
シンディを飽きることなく見つめていたハイボックだが、不意に出入り口の方を鋭く睨んで殺気を飛ばした。
「ひっ」
ドアの向こうで掠れた悲鳴が上がった。
「ヨウ! 来ていたんですね!」
シンディが慌てて駆け寄りドアを開けると、今まで必死で気配を押し殺していた羊が縮こまって震えていた。吸血鬼のボスのような怪異に全力で殺気をぶつけられたのだから無理もない。
「付き合う相手は考えたほうがいい。他人の逢瀬を盗み聞きしようとするようなドブネズミなんかは特にな」
「あ……わ、ご、ごめんなさい……これからシンに検査してもらう時間で、早く着きすぎてしまって、覗くとかしてなくて、ごめんなさい」
羊は恐怖のあまり、通じないことも忘れて日本語で弁明を繰り返している。それをシンディが優しく抱きしめて慰めている。ハイボックには厳しい言葉が飛んだ。
「もう! クーリの本気の殺気なんてぶつけたら正気が壊れるでしょ、ヨウは不老不死になっただけで、普通の人間より繊細なんだから気をつけてよね!」
「こんなところにいるからだ」
「ヨウはこの後ボクが定期検診するの。だからどんなに忙しくても五分前には来てくれるの! 今日はもっと早かったけど、ヨウとの時間が増えるのはいいことだから……クーリはもう血あげたし、そろそろ帰って」
「は……?」
「帰ってよ! ヨウとの面会時間も決められてるの! 減っちゃう!」
「なっ……待てシンディ、これは」
シンディにはとことん甘いハイボックである。細腕でもシンディに押されれば後退せざるを得ず、さっさと追い出されてしまった。部屋の中では、シンディの甘い声が羊を慰めている。
「定期検診だと……? ああ、この警察署では怪異の診察ができるのがシンディだけだからか……しかし……」
納得いかない……そう思いつつもシンディの部屋の外で待つ。検診程度なら、少しの面会時間で済むと思ったからだ。まったく、あの邪魔な日本人にも困ったものだ。シンディは早々に連れ帰らなくては……いや、それにしても
「遅い……」
ハイボックが叩き出されてからもう数時間経った。ただの定期的な検査でそこまで時間がかかるものか、人間ドックでもあるまいし。痺れを切らしてドアに近づいてみると、中からはどう考えても検診ではない、恋人同士の睦み合いのような声が……
「シンディ!」
「わ、急に何⁈ 帰ってなかったの⁈」
「ただの検診だというからすぐ終わるだろうと待っていたんだ! 何をしているんだこれが医療行為か?」
「触診してたんだけど何か? 触手があるから直接見て触るのが一番早いんだよ! ヨウも癒される時間が必要だし……」
「や、やだ、えっちがう、ごめんなさい……ごめんなさい。き、きもちよくなんてなってな、やだ、たすけ」
羊は先ほどの殺気を浴びてから精神的に不安定になったままだったようで、再びハイボックの怒りを受けてパニックに陥っていた。触手に触れられてヌルヌルした裸身のまま錯乱している痩せた体は生まれたての仔山羊を想起させる弱々しさで、ハイボックも流石に哀れみを覚えて殺気を収めた。
「帰って。次に会う日程は僕が決めるまで無しで。しばらくヨウをケアしなきゃいけなくなったからね」
「……はあ」
シンディは相当頑固者だ。一度こだわったことは絶対に曲げない。長い付き合いでそれを知るハイボックはついに諦めてその場を去った。早急に怪異対策課に話をつけねばと苛立ちながら。
ハイボックの気配がフロアから消えたのを確認した後、シンディは羊に自分の白衣を被せて手近な椅子に座らせた。
「落ち着いてきましたか?」
「は、い……すみません。取り乱してしまって」
「クーリが悪いですよ。強い怪異じゃあるまいしオトナゲない。あんな脅かすようなことをして。おおげさなところがあるんですよね。昔から」
ハイボックのことをかわいらしい響きの愛称で呼び、昔のことを思い返すシンディの横顔は子どもっぽく見えて、心から気を許しているように見えた。どうして、そんなことでもやもやするのだろう。羊は何も関係ないのに。
「シン、あなたにとって……ハイボックさんはどんな存在なんですか」
口に出してから、聞かなきゃ良かったと後悔する。
「ええ……? そうですね、ひとりで寂しいときに声をかけてくれて、子どもで何もできなかったボクに色々教えてくれた……お兄ちゃん? みたいな感じですかね」
ほら、やっぱり聞かなきゃよかった。
落ち着いているように見せかけて、暗灰色に濁った瞳はしきりにあちこち迷子のようにブレ続けている。羊のただならぬ様子を察したシンディは、行為が中断されたまま放置されているせいだと判断した。羊の頭が混乱している間にも関係なく、膣は疼いて発情し続けていた。羊の心理的外傷は性欲と深く結びついている。それで余計に羊のパニックが収まらなくなっていたのもあり、シンディは改めて触手を伸ばし羊の股ぐらに擦り付けた。
「……っや、やめて」
「どうして? このままじゃ落ち着きませんよ」
いつもなら、戸惑いながらも快感を求めて受け入れるのに。異常を感じる羊の反応を注意深く観察しながら、シンディは淡々と原因を探ろうとする。
「やめ、やめなきゃ……こんなこといけない、非常識すぎるでしょう。ハイボックさんの反応が正常ですよ。ただの検診とか言ってしょっちゅう職場でセックスしてるなんて頭おかしいですよね?」
急速に理性ある人格で武装しはじめた。羊は表面上取り繕うのが異様にうまいが、頭の中はまだハイボックへの恐怖で散らかったままなのはシンディに見抜かれている。
「必要な行為ですよ? ヨウはセックスによる愛情表現が不足すると心も身体も異常が現れますから。ボクもヨウと触れ合えて気持ちいいという下心があるのは否定しませんが」
「……っ」
まったく否定できなかった。この行為を必要としているのは羊だ。シンディも喜んではいるが、セックスしなくても困りはしない。困るのは羊の方だ。
「これは怪異になったせい、体質のせいですから。治療のひとつですよ。レンに家族のように愛されていても、満足できなかったのだから仕方がないじゃないですか」
「満足、だなんて、そんな……蓮さんには十分、よくしてもらって」
「そうやって社会の常識で納得したふりをして、自分の欲から目を逸らしているだけじゃ解決しませんよ」
「わかってますよそんなこと!」
羊のものとは思えない、ヒステリックな大声が地下の窓の無い部屋に響いた。自分で叫んだ声に自分で怯えて、半狂乱になった羊はシンディの作業台へ縋るように手を伸ばした。乱雑にメスを掴み、少しの躊躇いもなく自らの下腹部に突き立てていた。一瞬の出来事であったこと、感情の表出が平坦であることが常である羊の怒鳴り声に怯んでしまったことからシンディはしばらく固まっていたが、超回復能力が間に合わないほど自らの子宮を切り裂き続ける羊の自傷行為を認識して即座に止めに入った。
「ヨウ、やめて」
「……こうすると、しばらくは不快な発情がおさまるんですよ。その場しのぎだけど」
「こんなことをしても、問題は解決しない。悪くなるだけ」
「賢いシンにはそんなわかりきったこと聞いてませんよ」
羊の手を止めようとメスごと掴んだシンディの手も切り裂かれていて、したたる血が羊の胎に空いた穴に流れて混ざっていった。羊はそれをぼんやりした目で見下ろしながら、血塗れのメスと白衣をシンディに返して、ゆっくりと身を引いた。追いかけようとするシンディを、明確に意志を持って突き飛ばした。
「ヨウ」
「私を殺す方法を発明できたら声をかけてください」
「ヨウ、待って。ごめんなさい、ボクが悪かったです。何か間違えた。なおしますから、だから」
「それ以外の話は、もうしません。検診も必要ない。観察や実験が必要なら、ご自由にどうぞ。研究も好きなところですればいい。ハイボックさんにイギリスで大きな研究施設を作ってもらったほうが捗りますよ、きっと」
「待って……どうして……ボクを拒まないで、ヨウ」
力無くへたり込むシンディを置いて、羊はさっさと身支度を整え去ってしまった。これ以降本当に、羊はシンディと仕事以外のことで会話しようとはしなくなった。
二『霊事課は踊る』

警察省霊事課、通称怪異対策課。怪異に関する事件だけを扱う、一般にはあまり知られていない『怪異専門のお巡りさん』。規模はまちまちだが、全国の警察署の日の当たらないところで活躍している。
シンディや羊が所属しているのはとある地方都市の警察署で、二大勢力である東京、京都を除くと比較的規模の大きい怪異対策課として知られる。その理由は、特殊な怪異を数名、実質怪異対策課のメンバーとして対等に扱い働かせていることにある。その特異性は民間の霊能者にまで伝わるほどだ。『不老不死の元人間』であるシンディと羊もまた、実年齢と見た目の若さのギャップが強くなるほど有名人になっていく。すでに六十年経過して『老いない』という点は証明されており、全国から興味深い対象として認識されていた。
そんな『訳アリ』なチームを率いている現在のボスは寺烏真玲央(てらうま れお)五十八歳の凛とした女性だった。苗字からも察せられる通り、彼女は郷徒羊が居候している禎山寺の住職・寺烏真鈴愛の妹である。三姉妹の末っ子として生まれ、長女の鈴愛が寺を継いだことでどのような職業についてもよくなった玲央だが、先代の住職であり父親である寺烏真蓮からは強力な除霊の能力を受け継いでいた。幼い頃から気の強い性格で、悪霊にも物怖じせず立ち向かっていたため、怪異対策課に入るという選択肢は自然と目の前にあった。
怪異対策課での任務は命の危険もあるということで、父親からの反対もあった。それでも怪異対策課に入り、課長になるほど頑張ってきたのは。霊感以外の仕事能力も優秀だからと、京都の怪異対策課などから引き抜きの誘いがあっても頑なに地元に居続けたのは。玲央にとってとても大切な理由があった。
「あっ、署の入り口にいる交通課の友達からメッセージが! 今、金髪のすごいでかい人が入ってきたって。いよいよですね!」
「あんたら勤務中になにしてんのよ……まあ、今日は見逃してあげるけど」
目に見えてそわそわした様子の郷美成道を課長らしくたしなめているが、玲央も緊張を隠しきれない様子だった。
「今日はハイボックさん、通訳の方も連れてきてくれるそうです。良かったあ、さすがに同時通訳はプロじゃないから自信なくて。それに今日は大事な話だし」
「でも通訳されない部分もあるでしょうから、成道くんは後ろの方でさりげなくハイボックさんの独り言とか聞いてみて。表向きの会話は私がする」
「わかりました。でも大丈夫ですか? 本物の吸血鬼ですよ。おっかないなあ」
「そのためにおれが駆り出されたのだろうが」
「深雪様!」
いつの間にか玲央の横に二メートルの大男が立っていた。彼は深雪という名で、白狼の神霊である。六十年前、彼も訳あって怪異対策課管理下となった。長年郷徒羊と組んで怪異事件の捜査をしている。現在ではこの警察署の守り神と噂され、霊感の無い他の課の警察官たちからも信仰されているほどである。過去の記憶も居場所もなかった深雪のために禎山寺の敷地にお社が建てられたこともあり、寺烏真家とも深い縁がある。
「たしかに、におうな。嗅ぎ慣れないが神霊のものだ。異国では神と呼ばれんらしいが、もし日本に居着いていたら確実に社は建つだろう」
「そうね。実際、彼は千年以上怪異と戦って人間を守護してきた功績を讃えられて貴族の地位や広い領地を王様から与えられたりもしたらしいわ。昔ほどではないけど今でもお城やある程度の土地は持ってるらしいから、日本に住もうなんて言い出したら雷轟様も黙ってないと思う」
「……ふん。気に食わんな」
誰よりも敵視している神の名を出されて、深雪は忌々しげに近づいてくる気配を追っていた。
「そのハイボックさんが、郷徒さんのこと嫌ってるんですよね。確認しますけど、今日お休みですよね?」
「ええ。なんでも『どうしても一人にしてほしい』ってお寺からの外出申請も出して早朝から出ていったらしいわ。どうしたのかしら、別にこういうことは初めてじゃないけど。でも良かった。もし出勤日でも、ハイボックさんに会わないようどこかにしまっておくつもりだったし」
「神霊並みの力を持つ異国の怪異が、なぜ独楽鼠ごときを敵とみなすのだ」
「えーっと……どうも、ハイボックさんはシンが好きみたいなんだよな。シンは郷徒さんにべったりだろ。嫉妬してるわけ」
「頭がおかしい」
深雪が真顔で言うものだから、成道も玲央も思わず噴き出してしまった。
「うん、いや、そうだね」
「おまえたち、そんな奴に真正面から会うつもりか。狂人に話が通じるか。もっと広いところに呼び出せ。おれが叩き斬れば早い」
「落ち着いて深雪様。穏便に、ね」
深雪が怪異対策課に居着いて半世紀ほど。彼は少しだけ変わった。いや、元々狼は群れの仲間を大切にするという。バディとして信頼するに至った羊、彼が慕う禎山寺の子孫。人間は見分けがつかないと誰彼構わず傷つけていた昔と違い、守ってやろうと思える人間が増えたようで。玲央たち寺の三姉妹のことも幼少期から守ってくれていた。
「特におまえ」
玲央を指さして言う。
「何処にも嫁がぬと決めたおまえに生涯悪い虫がつかぬようにと、おまえの父親からも願われている。あの男は小賢しくはあったが、おれの首を落とした男だ。その娘に不埒な怪異が近づいてはおれも気分が悪い」
「私は男に守られて生きるつもりはないわ。私は好きな人を守る方になるって決めたもの。でも心配してくれてありがとう。正直怖いから、横で立っていて。深雪様くらい大きいって話だから、きっとすごい威圧感ね」
「っと……お出ましみたいですよ」
成道も玲央も霊能者家系のサラブレッドである。『この部屋に近づいてきている』その時点で気配を感じ取って緊張した面持ちへと変わった。気配を隠す必要の無い、強大な怪異特有の自信の表れでもあった。深雪も怪異相手ならと人間擬態は最低限に、耳が本来の狼の姿に戻っているのも構わず臨戦態勢で立っていた。
怪異対策課のオフィスへ、凄まじい威圧感の大男が入って来た。長い金髪を背に揺らし、鮮やかな紅い瞳をまっすぐ前に向けて堂々と歩み寄ってくる。所作は上品だが恐ろしさは隠しきれない。玲央は意を決して前に出た。手筈通り、成道はその後ろについた。そのさらに後ろに深雪を留めておく。荒事は避けたい。
「はじめまして、ハイボックさん……怪異対策課課長の寺烏真玲央です」
視線を逸らさず気丈に振る舞いながら玲央が挨拶する。彼女の前に立ったハイボックはその厳しい真顔を少し緩めて微笑した。
「……っ、え……」
玲央の意思に反して、彼女の手が動く。
「誠実なお嬢さんのお出迎えに感謝して、ひとつ良いことを教えよう。吸血鬼とはあまり無防備に目を合わせるものではない」
身体の横にきっちりと下ろしていた玲央の片腕が持ち上がって、手の甲をハイボックに差し出した。その手をハイボックの手が優しくとり、長身を屈めてお辞儀をしながらキスをするふりだけした。
「日本人の女性は特に触れ合いに慣れていないと聞く。ジョークにしては怖がらせすぎてしまっただろうか。申し訳ない」
「ハイボック様は、これは挨拶がわりの戯れであると仰っています。吸血鬼に対して無防備に目を合わせると危険である、とご忠告されていらっしゃいます」
唖然としていた玲央に対して、ハイボックの横に静かに現れたもう一人の見知らぬ男が日本語で話しかけてきた。赤みがかったブラウンの髪を長く伸ばし、一本の三つ編みに束ねて肩にかけている。ハイボックの横では小さく見えるがそれなりに長身の、スマートな立ち姿の男性だった。肌の色や彫りの深い顔立ちから西洋人であるように見えたが、彼の話す日本語は流暢だった。
「失礼。わたくしはジョシュアと申します。わたくしも魔生物管理局の所属ですが、本日は通訳としてハイボック様に同行させていただきました」
「そ、そうでしたか。すみません。驚いてしまって……」
「無理もありません。むしろ、かなり落ち着いていらっしゃるのでわたくしもハイボック様も驚いているくらいです。貴女は随分人ならざる存在に慣れていらっしゃいますね。ハイボック様の偉大な魔力に対面して冷静に話していられる人間の女性というのはそうそういません。流石、日本の魔生物管理局たる怪異対策課のボスを務められるだけのことはある」
「いえ、そんな」
「ミス•レオ。私は君を困らせるために来たわけではない。後ろの彼にも……」
玲央に何かしたのかと後ろで身構えていた成道だが、ハイボックが何を言っているのかわかっていたので深雪を抑える方に専念していた。そんな成道たちを見ながら、ハイボックは続けた。
「危害を加えようなどと思っていない。だから、そこのウェアウルフの殺気をなんとかしてくれないか」
「本日、ハイボック様は魔生物管理局の一員としていらっしゃるのであり、吸血鬼としての力を振るって主張を通すつもりはございません。レディを心配する気持ちはわかりますが、聖霊のボディガードをもう少し下がらせていただけませんか」
「深雪様のこと言ってんだよ。話し合いに来ただけだからそんな喧嘩腰になるなって。俺たちはもう少し離れて見ていよう」
成道に言われ、深雪はハイボックを睨みながらも何も言わずに姿を消した。成道のすぐ横に気配は感じるので、何かあればすぐに飛び掛かるつもりなのだろう。
「話はすぐに終わる。まずは確認したい。シンディをイギリスの魔生物管理局で引き取ることに関して、貴女がた……怪異対策課に反対意見はあるのか」
「ありません」
玲央は即答した。成道も頷いた。
「元はと言えば六十年前、リンリィさんは魔生物管理局の一員だったのですよね。古巣に戻るだけなのを我々が止める理由なんてありません。以前は人間で、今は怪異という違いはありますけれど。その辺はハイボックさんがなんとかしてくださいますよね。怪異だからって、彼が不当な扱いを受けるなんて無いですよね」
「それは絶対にありえない」
ジョシュアが被せるように答えた。ハイボックに通訳せず自身の判断で答えているジョシュアに首を傾げた玲央には恥ずかしそうに、慌ててハイボックへ玲央の発言を伝えた。
「うちの部下が失礼した。貴女の心優しい気遣いには感謝する。しかし彼の言う通りだ。書類上シンディは怪異として魔生物管理局に収容されるが、私の方でシンディには怪異研究者としてのポストを用意する。怪異を知らぬ人間向けのダミーの戸籍も用意できる。そういったものも、要望があれば見せることができるので安心して欲しい」
「私どもとしては、そこまで詳らかにご説明いただいてはますます拒む理由などありません。何かこちらで必要な処理があれば協力します。とはいえ、海外とのやりとりは主に東京の怪異対策課管轄ですので、やはりウチでできることは何も。話が進まないのは、その」
「……ヨウ・ゴウト」
ジョシュアが玲央の話したことを翻訳した後、最後にぼそりと呟いた。忌々しげな表情で。
「なあ、通訳はちゃんとやってくれねーと困るな」
黙って話を聞いていた成道が口を開いた。彼はアメリカの大学で若者に囲まれて英会話を身につけており、イギリスの高貴な紳士に話しかけるだけの語彙は持ち合わせていない。無礼な言葉遣いを承知で、直接口を挟まずにはいられなかった。
「シンのイギリス帰国が進んでねーのは他でもない、シン自身が拒んでるからだ。それ以外になんもねーよ。郷徒さんはむしろ、シンに一生懸命説得してくれてんだ。故郷に帰って、ハイボックさんと暮らすのがシンにとって一番幸せなんだって」
それに対してジョシュアが嘲笑うように返した。
「あなたがたの前ではそういうポーズをとっておいて、裏で何かしている可能性は高いでしょう。口では何とでも言える。怪異の生殖欲を著しく煽るという淫らな血さえあれば……」
「ジョシュ」
ハイボックが口を開いた。怒鳴り声ではないが、怒りを感じる低い声。それと同時に怪異特有の殺気が電流のように一瞬走り、ジョシュアはたちまち青ざめてハイボックの足元に平伏した。
「も、申し訳ございませんハイボック様……!」
「私の部下が大変な無礼を。どうかお赦しいただきたい。私も理解している、シンディの我儘で困らせているということは。そして、日本の方々にシンディを説得してほしいとも思っていない。何もしてもらう必要はない。必要なことは、すべて私が……」
「何をしてるの⁈」
オフィスの外でばたばたと慌ただしい足音がして、間もなくシンディが飛び込んできた。地下の怪異収容室から急いで駆けつけたからか、怒っているからか、白い頬が紅潮している。
「シンディ様……!」
ハイボックの足元の床にへたり込んだままなのも忘れて、ジョシュアはシンディを恍惚とした表情で見上げていた。そんな彼には目もくれず、シンディはつかつかとハイボックの方へと歩み寄った。
「レオたちは関係ない! 虐めたら許さない」
「落ち着けシンディ。私はただ、そこのジョシュの非礼を叱っただけだ。ここの怪異対策課にはぜひご挨拶しておこうと立ち寄った。魔生物管理局の者としてな」
ハイボックは応接用のソファに悠然と腰掛けたまま、かしましい子どもをなだめるように言った。
「それとも、君の今のボスが清らかで美しい乙女だから、先ほどの魔力の発露で彼女に襲いかかったと勘違いしたのかな。嫉妬なら愛らしいが……」
「何をわけのわかんないことを言ってるの。怪異対策課の人を脅したって無駄だし間違ってる。僕が、イギリスには行かないって言ってるんだ」
「私を侮っているなら仕置きが必要だな」
「……っ」
ハイボックの大きな手に掴まれると、シンディがどんなに暴れようがびくともしない。鋭い爪が二の腕に食い込み、白衣にシンディの血が滲む。
「今はまだ、日本への別れの時間をやっているに過ぎない。人間にとっては六十年は長いほうだからな。だが私もそこまで気が長い方ではない。準備が整ったら、私と共に帰国してもらう。それは絶対だ」
たちのぼる鮮血の香りだけを愉しみ、ハイボックはシンディを掴む手の力を緩めた。わざとらしく飛び退いて睨みつけてくるシンディに、ハイボックは甘やかすことなく険しい表情を返した。
「誰彼構わず人間を襲い、口元を汚して貪り食う下級吸血鬼と一緒にしてくれるなよ。私は紳士でありたい。シンディはそれをわかってくれているはずだが……これ以上わからないふりをして困らせるなら、人間たちのイメージ通りの恐ろしい化け物のように振る舞わざるを得ない。君もまだ、元人間としてのマナーは守っておけ」
ハイボックはスマホを取り出して何やら確認した後、次の用事があるからとその場を締めた。玲央に再度恭しく礼をし、縋り付くようについてくるジョシュアを引き連れてその場を去った。シンディには「すぐに気持ちの整理はつく」と言い残して。
「か、帰ったぁ……」
ハイボックの気配が完全になくなったことを何度も確認してから、成道がへなへなとソファに沈み込んだ。啖呵を切ってみたものの、吸血鬼の殺気はかなり怖かったらしい。玲央も疲れた様子でその隣に座った。
「オフィスが壊れるかと思ったわ……」
「それより玲央さんですよ! 襲われるかと思って……でも俺じゃ絶対勝てないし……」
「奴がかんたんに女を喰う鬼ならおれが出ていた。生娘を好む神霊は多い。だから斬らせろと言ったのだ」
深雪が姿を現し『それ見た事か』と言いたげに不機嫌な唸り声を上げた。
「吸血鬼は処女の血を好むって本当なの?」
「少なくとも彼は童貞処女の人間を至上としていますよ。大人になってもそのままの人間は尚のこと好ましいはずです。レオが、クーリにとって尊敬すべき淑女と看做されて良かった……本来はもっと人間を見下してます。だから怪異対策課には来るなと言っておいたのに」
「えー、じゃあシンディが日本で童貞卒業したのめちゃくちゃ怒られた?」
シンディと羊がしょっちゅう睦みあっているのは怪異対策課内で周知の事実である。
「いえ、残念ながら。ボクが男性としての機能を取り戻し、愛する人とセックスまでできたと言えばクーリはガッカリして、ボクのことなんて忘れると期待して即お知らせしたんです。でもダメでした。触手は怪異から移植したただのパーツ、腕を増やしたようなものでナニをしようがセックスではないと」
「ギリギリセーフ……いやアウトだろ。そんな屁理屈でシンを無垢判定するなんてやっぱりベタ惚れなんだな」
「私がろくでもない男とお付き合いせずに済んだのは、父の親バカと羊さんへの一途な想いがあったからだから。私たちが命拾いしたのは羊さんに感謝ね」
「玲央姉ちゃんは相変わらずだな……うん。まあ、そういうことだからシン。ふるさとでも達者でやれよ。良かったじゃないか、あんなハイスペックかつ不老不死の彼氏が迎えに来て。通訳も召使みたいな感じだったじゃん。贅沢に暮らせるんだろうなー」
「ジョー? ボクに協力してくれる、はずでは?」
わなわなと震えるシンディに対して、成道は力無く微笑んだ。
「できることなら協力、するぜ? でもさ、現状無理なんだよ。シンしかいないんだよ、ハイボックさんを止められるのは。もしハイボックさんが力づくでシンをイギリスに持って帰るってなって、そこで俺たちができるのは、羊さんを守ることだけだ」
成道の発言に玲央も頷いた。
「羊さんのこと好きで、離れたくないのはわかるよ。でもシンが抵抗すればするほど、恨みは羊さんに向くんだよ。あの通訳の奴見ててわかったよ。ハイボックさんは叱ってたけど、内心は同意見だったはずだ。羊さんが邪魔で仕方ない」
「そんな……ボクが嫌だって、言ってるのに。ボクが」
「それでも罪を背負い込んでくれるのが羊さんなんだよね。だから好きになったくせに、シンディも」
「羊さんのことを思ってくれてるなら、お願いだからハイボックさんを怒らせるようなことをしないで。別にいつでも会いにくればいいじゃない。羊さんは禎山寺にずっといるんだから」
「そんな……いやだ、ヨウと離れたくない。だめなんです、今ヨウを置いて行ったら、取り返しのつかないことに」
腕の傷がじくじくと痛み、大きな目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。どうしたらよいのかわからず、シンディは塞ぎ込んでしまった。
彼の不安が個人的な恋愛感情によるものだけではなく、もっと大きな怪異インシデントに繋がってしまう不吉な預言であったことは、この数日後に判明することになる。
三『冷たい繭(おり)』
郷徒羊はその特異体質を活かして、怪異専門の警察官として働いている。特異というのは不老不死や超回復だけではない。そうなる前から彼には『好餌』という特徴的な血があった。読んで字の如く、怪異から好ましい餌に見える体なのである。時には丸齧りされそうになるが、最も多いのは『つがい』として子作りを強要されること。つまり、怪異に強姦されやすいという嫌なモテ体質なのである。
羊はその身体を躊躇いなく寄せ餌として利用し、潜伏する怪異を炙り出すことで地域の安全に貢献してきた。彼自身怪異との戦闘能力は非常に弱く、時間稼ぎ程度しかできない。生きたまま齧られても、乱暴に犯されてもじっと耐えて時間稼ぎをする。そんな過酷な仕事を淡々とこなしていた。
羊がそうなるまでには、様々な痛ましい要因があった。物心つく前に父親はいなくなり、母親からは育児放棄。そんな彼が九歳のころ、五歳年上の少年と友達になり気にかけてもらえるようになった。羊は彼を兄のように慕い、実親よりも信頼していた。しかしその信頼は最悪の形で踏み躙られることになる。二次性徴を迎え著しく大きくなった少年はまもなく青年となり、溢れ出る性欲をあろうことか幼い羊に向けた。公園の薄汚い公衆便所裏で、ただただ痛いだけの性行為を強要されたのが羊の初体験だった。
二次性徴もまだのうちに性暴力を受けた貞操観念は歪みきっていた。自身を『怪異専用の公衆便所』とまで言い捨て、躊躇いなく危険な怪異の前にも身を投げ出す。その一方で、性行為により快感を感じるたびに激しい自己嫌悪に襲われ吐き気がおさまらなくなる。淫乱になりきる自己防衛すらできなかったのである。食事もまともにできず、夜も眠れない。どうして生きていかなくてはならないのか、そればかり考えていた。
警察官となってから巻き込まれた怪異事件で幾度となく死にかけたのも、社畜そのもので事務仕事の残業を自ら抱え込んでいるのも、彼にとって精一杯の自殺行為だった。生きていくのは苦しい、だが自ら終わらせることはできない。できれば少しでも人の役に立つ生贄になって消費されたい。そんな彼の願いは虚しく、羊からは命以外の何もかもが奪われていった。身寄りは全て亡くし、孤独となった。
ある事件でついに、致死量の呪いを受けて瀕死の重体となった。そのときも『役に立って死にたい』その一心で生贄に志願し、そしてやり遂げた。ようやく望みが叶った、そう思った。呪いで苦しみながらの死だったが、羊の精神は凪いでいた。やっと、やっとこの世の地獄から解放されると。
しかし羊は『死』すら取り上げられてしまった。他でもない、羊を誰よりも愛していると自負するシンディに『生きてほしい』と強要されて。
目覚めた直後の羊はシンディを恨んだ。そのまま死んでしまいたかったと泣き叫ぶほどの闇を抱えながら、しかし羊は強制的に不老不死にされたのでどうしようもなかった。その後、彼の心を癒すため平穏な生活が何十年と与えられ多少はマシになったが、今でも彼の暗く沈み切った心が完全に晴れたことはない。
少し前までは、セルフネグレクトを繰り返す羊に愛のある叱責をしてくれる男がいた。家族愛すら知らない羊を自宅である寺に受け入れ家族同然に接して、迫り来る怪異からも守りながら羊の自己犠牲を止めさせようと努力し続けてくれた慈悲深い僧侶がいた。赤ん坊に教えるように、一から人間としての在り方を伝えなおした。羊は彼に密かに恋をしていて、彼の言うことはなんでも素直に聞いた。彼に大切にしてもらえた自分なら、大切にしてみようかと思っていた。
だが、彼は死んでしまった。何のことはない。ただ天寿を全うしただけ。八十代まで生きた彼は健康的に長生きした方だ。羊は彼と二歳しか違わなかったが、不老不死であるので二十代の青年の姿をしたまま彼を見送ることになった。葬式で羊の姿を見た人間たちは、羊のことを不気味な怪異だと思った。『たとえ不老不死になったとしても、羊さんは人間だよ』そう言い続けてくれた人は、物言わぬ棺の中。彼は悪くない。だが、思ってしまった。置いていかれたのだと。こうして羊は完全に怪異と化してしまった。
(蓮さん……)
愛したひとの名を何度も心の中で呼びながら。羊は独り、スクーターに乗って山中をひた走っていた。
ツーリングは、羊のはじめての趣味だった。蓮がバイクの後ろに羊を乗せて美しい景色を見せてくれたのがきっかけだった。それから何度か蓮は羊を誘って様々な道を走った。
しかし彼が寺を任される住職になったこと、そして年齢的な理由もあってバイクを手放すことになった。そのとき、羊は思い切って自分のバイクを買うことにしたのである。蓮のような大きなバイクではなく、こじんまりとしてレトロなスクーターを選んだ。蓮は「この方が羊さんらしいや」と微笑み、ツーリングに必要なグッズを全て羊に譲った。何十年も経って買い換えたものも多いが、長持ちするものは今でも蓮のお下がりを使っている。
羊には少し大きめの防寒具を身につけて感じる暖かさは、蓮の背中にしがみつく温もりに似ている。飛ぶように走るバイク、無防備でいたら切り裂かれそうな冷たい風、それから守ってくれる大きくてあたたかい存在。老いて出歩くのも一苦労になった蓮のため、羊ひとりでツーリングに行って撮ってきた写真を見せたこともあった。下手な羊の話をゆっくりと、優しい眼差しで聴いてくれていた蓮。あのときの縁側も、泣きそうなほどあたたかかった。
外出申請を出して一人の時間を得た羊は、山奥にあるダムに辿り着いた。蓮と立ち寄ったことのある食堂跡の廃墟を眺めたり、色々と寄り道をして心のあとしまつをしているとモタモタしてしまって、ダムに着いたころには黄昏時だった。
空は燃えているようで、ダムの水面は金色に輝いている。その眩しさに向き合いながら……あのときは夕日ではなく朝日を見たのだと、記憶を反芻する。初めて蓮に連れられて、わけのわからないままここに来た日。『もやもやしたとき、一人でここに来るんだ』そんな特別な秘密の場所に連れてきてくれたのだと、無謀にもときめいてしまった。でも、その自惚れがここまで羊を生かしてくれていた。
「このダムの下に、村が沈んでいるんです。沈む前のことは何も知りません。しかし想像してしまうんです。どんな村だったんだろうって。そして、その生活が失われたことを無性に寂しく思います。そのくらい自分勝手で、どうにもならない悲しみを感じたとき。ここで無心になると良いと、教えてもらったんです」
はっきりと口に出して確認する。何よりも大切な思い出が忘却で霞んでいないかと。
「こんなところまで御足労いただいて申し訳ありませんでした。ハイボックさん」
羊が一方的に話しかけていたのは……音もなく羊の背後に現れていたハイボックだった。日本語でも構わず話しているのは、羊が何を言っているのかは態度で伝わるだろうこと、そしてもはや彼との会話は必要ないということを示している。これは対話ではなく、ダムに向かって叫ぶのと変わらない……羊自身のための言霊なのである。
羊とハイボックは言葉の壁があって、きちんと会話をしたことがない。だが、文書でなら密に気持ちを伝えられると思った。羊は魔生物管理局の資料を読み漁り、そして見つけたのだ。ハイボックは何らかの方法で不老不死の人間を殺すことができる。完全な死でなくとも沈黙させる、眠らせる、封印するといった方法を知っているということを。羊はそれに関連するイギリスの事件記録、自分に関する重要な怪異事件記録を抜粋・英訳してハイボックに依頼メールを送信した。それはハイボックにとっても利になる提案で、あまりにうまい誘いだったので罠を疑われるほどだった。しかし羊の決死の訴えに嘘はないと判断したハイボックは、羊の立案した作戦に乗ることにした。ダムで待ち合わせる以前に、二人のやりとりは完結していたのである。
ハイボックは機会を伺っていた。羊が怪異対策課からも禎山寺からも離れて一人きりになる瞬間を。そして二度とシンディの目の前に現れ惑わすことがないよう、始末するつもりだった。
羊は『逃げない、抵抗しない』意思を伝えたくてその場に跪いた。手は上げるか、どうしようか悩んだが両掌を合わせて目を閉じ合掌した。瞼の裏に、世界一偉大な僧侶の合掌する姿を想い出しながら。
「シンディの憂いを断つためならば、そこまでして見せるというのか」
ハイボックが異様なものを見る目で羊を見下ろし呟く。シンディが羊に固執する理由を垣間見た気がした。羊もまた、異国の魔女の血を引く哀れな人間だったのだろう。ハイボックは納得しつつも激しく憎悪の念を抱いた。やはりこいつだけは、シンディの側にいて欲しくない。
無抵抗の意思を示してから、羊は防寒具を脱いで軽装になり懐から一本のメスを取り出した。シンディの研究室から拝借してきたが、そもそも怪異対策課の備品なので許してほしい。拳銃は管理が厳しいのでここまで持ち出せなかったし。と頭の中で言い訳していたら、なんだかおかしくなってきた。この期に及んで、怪異対策課の皆に怒られる心配をするなんて。これから、もっと怒られることをするのに。
ちっぽけなメスも、か細い腕も、ハイボックにとっては指先一つでへし折れるもの。だから、彼に対しての敵意にはなりえない。自分がどう見ても最弱な存在で良かったと思いながら……羊は、手にしたメスの刃先を自分に向けた。何も躊躇うことなく、喉を掻き切った。真っ赤な夕焼けを背に、血飛沫が噴き上がって金色に煌めいた。
……
…………
ありえない
こんなことはあり得ない。畜生!
ハイボックの理性が、ほんの僅かの時間ではあるが、奪われた。消し飛ばされたのだ、羊の『好餌』の血で。血飛沫から舞い上がった濃い芳香がハイボックに届いた瞬間、抗えない衝動に襲われてしまった。次の瞬間、吸血鬼は牙を剥き出しにした。その細い頸にぱっくりと開いた艶めかしい傷めがけて喰らい付いていた。
怪異を狂わせる稀血の人間というだけなら、そこまで珍しい存在ではない。しかし、羊は不死の超回復能力を会得しているがゆえに、大量出血だけではなかなか死ねない。だから『獲物の死』というストッパーが無く、しつこく狂気を煽ってくる。ハイボックが羊へ向けていた憎悪の感情は暴力衝動に書き換えられた。まだ動く、まだ息をしている。まだ忌々しい呻き声が聞こえる。激しく苛立ち、何度も肉や骨を食い千切った。枯らす勢いで血を吸い尽くした。数えきれないほど姦淫の罪を犯した穢らわしいはずの血は喉が焼けるほど甘く、強制的に美味と認識させる呪いじみた味がした。
ハイボックほどの強い精神力が無ければ二度と戻ってこられなかっただろう。なんとか正気を取り戻したときには、羊が身につけていた薄い着衣は残っていなかった。全身何度も噛みちぎられたか、爪で裂かれ握りつぶされたということだ。血の回復は追いつかなかったらしく、蝋細工のような青白い裸体が転がっていた。人間であれば即死レベルの貧血のおかげで、羊はなんとか気絶することができたらしい。それも束の間のことで、死による安息は得られないのだが。
「悪魔だ」
ハイボックが心の底から悍ましく感じたモノ。それを表現するには、その単語しかなかった。両手と口元は羊の血でべったりと濡れ、振り乱した金髪もところどころ赤黒く固まってしまっていた。羊以外、誰にも見られてはいない。だがそんなことは問題じゃない。見ていた者がいれば誰であろうと殺している。
千数百年もの間、怪異から人間を守護する騎士として、英国紳士の模範と言われるまでに積み上げてきたハイボックの高貴な誇りが、一瞬にして陵辱された。極東のちっぽけな人間一匹ごときに。
「こんなモノが、私を、シンディを……」
ぐったりと動かない羊の首を掴んで持ち上げる。気を失っているので反応は無い。だがその表情はつい先程まで八つ裂きにされていた者とは思えないほど穏やかで、むしろ普段より柔らかく笑ってすらいた!
「真性の悪魔だ。外なる混沌の海を喚んで大地を枯らす、世界そのものへの毒だと、貴様は自覚しているのか……?」
返事は無い。だが、自覚なんてしていないのだろう。だからタチが悪い。自分が弱いと思い込んで、世界中の悲劇を集めたような顔をして。
「ここで、確実に始末せねばならない。苦しみもなく、望む場所で眠れるようにしてやる。だからもう、二度と、その姿を見せるな」
なんとか冷静さを取り戻しながら、ここに来た目的の作業にとりかかる。郷徒羊をこの世から消し去るために。
第三話へ続く