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病ませる水蜜さん 第八話

第八話全体イメージイラスト

今回からシリアス長編シリーズに入ります。初めての強敵ボス戦がんばろう!

はじめに

※ 病ませる水蜜さん 第一話』から続く一連のシリーズです。第八話は長編になる予定で、今までの話に登場したキャラクターが総出演するので全て読んでいた方が望ましいですが、特殊性癖が多いので苦手な方は別記事で『全年齢版あらすじ』を掲載しているのでそちらをご参照ください。
※このオリジナルシリーズは私の性癖のみに配慮して書かれています。自分の好みに合うお話をお楽しみください。

一『甘露花魁と白魔』

今回は 新キャラ×水蜜
一のみ【R18】です!
二から全年齢ストーリーです。
全年齢版のみ読んでも話はわかります。一は飛ばしても大丈夫ですが、読めたら読んどくとより楽しい。

昔の男との過去エピソードです。
・乱暴な性交の描写があります。
・なんちゃって江戸時代の吉原なので時代考証とかは現実のものに則していません。
ご了承いただけましたら先にお進みください。

甘露花魁と白魔

 東京が、まだ江戸と呼ばれていた頃の吉原にて。
 男たちで賑わう人混みが不意に静まり返り、裂け目ができるように人々が道を開けていく。その異様な雰囲気に、格子の奥に座している遊女たちも息を呑んだ。
 現れたのは、身の丈七尺ほどあろうかという巨大な侍であった。体の大きさだけではない。何もかもが異形であった。髪と肌は雪のように白く、血潮を透かす瞳だけが真っ赤で。それを縁取るように、顔には紅い化粧をほどこしている。口を開けばちらりと見える歯は狼のようにギザギザして鋭く、犬歯はひときわ長く伸びていた。大きな手足に生えた爪も獣のように鋭い。
 まだこの時代、怪異は比較的生きやすい環境にあった。多少不思議な容姿や力を持っていても、人間社会に混じって暮らすことができていた。しかし、この大男に関しては人間に害をなす困った行動を繰り返しており、この時代でも浮いていたし恐れられていた。
 何しろ、見た目通りに気性が激しい。言葉は通じるが説得は通じず、気に入らなければすぐに手が出る足が出る。刀で真っ二つにしてしまうことも。とにかく、何でも暴力で解決する。人間じゃ誰も敵わない怪力なので手に負えない。
 そのくせ人一倍寂しがりで構ってほしいときたものだ。彼が一番欲しいのは、ずっと寄り添ってくれる美しい伴侶。というわけで、美女がよりどりみどりの遊郭にやって来た。その腕っぷしでやくざな仕事を引き受けてやることがあり、遊ぶ金には困っていない。
 それで悲鳴を上げたのは女たちである。なにせその巨体である。そして、比例するように魔羅も化け物じみている。優しく気を遣って抱いてくれる性格でもなかった。彼に目をつけられた遊女は一晩で壊されてしまった。死んだ者はまだマシな方。二度と働けない身体になるまで抱き潰されて廃人になってしまうこともあった。
 嵐のような行為の後、夜明け前には冷たくなった女が転がっているということで……男の真っ白な容姿と好んで着ている雪柄の着物からも連想され、彼はいつしか『白魔』と呼ばれるようになった。白魔とは、人命を奪うほど激しく危険な吹雪のことである。
 白魔には、遊郭側もほとほと手を焼いていた。その白い嵐が来れば、哀れな女が一人ずつ生贄に捧げられるしかなかった。
 白魔が来る。すなわち、今夜もどこかの遊女が壊される。ここにいる誰もが知っており、華やかなはずの街は悲痛な緊張に覆われた。
 しかし、今夜は違っていた。
 その日、白魔は運命のひとに出会った。

「甘露花魁という女を出せ。刀で斬られたにも関わらず、一晩で元通りになったという女だ」
 白魔はずかずかと大見世に上がり込み、指名した花魁を出すまで帰らぬと居座ってしまった。花魁に会うには、本来ならもっと手順を踏む必要がある。だがこの怪物が人間の常識を守るはずがない。
 困った楼主は花魁本人のところに飛んでいった。哀れな花魁、華々しい遊女の頂点まで上り詰めたというのに、怪物に目をつけられて無惨に死ぬのだ。誰もがそう思った。
「いいよ。通して」
 しかし本人に悲壮感は微塵もなく、あっさり通した。この花魁はたいそう変わり者であったのだ。
 甘露花魁。一度見たら忘れられぬ、男を酔わす妖艶な美貌で有名な遊女であった。特に目を引いたのは白く輝く髪。白髪というわけではなく、瑞々しく艶やかなそれはほのかに金色に輝く。ただでさえ滑らかで染み一つない肌を若々しく照らすのだ。加えて花魁なのに気取らない、気さくな性格。童女のように天真爛漫な笑顔。それでいて、どこの大名と対面しても恥ずかしくない洗練された教養と知性。人々は彼女を「きっと狐が化けているのだ」と噂した。
 狐疑惑に拍車がかかったのは、白魔も口にした『斬られたはずなのに一晩で元通り事件』である。
 前述の通り素晴らしい器量の甘露は恐ろしいほどに人気で、あるときついに大名に身請けされることになった。しかしこの花魁、誰にも優しく愛想が良い反面、誰にも恋をしなかった。何度寝てもさっぱりとしていて、真剣に身請けを切り出し『俺の嫁になってくれ』とアプローチしてものらりくらりかわしてしまう。そんなことをしていたら人気も陰りそうなものだが、何故か彼女に熱を上げる男は後を絶たなかった。それはもう病的な勢いで。
 そんな中痺れを切らして無理やり楼主に金を握らせ、身請けを強行したのが前述の大名であった。外堀を埋めてしまえば観念すると思ったのだ。しかし甘露は頑なに輿入れを拒んだ。それでも強引にことは進み、宴が開かれることとなったが……そこに甘露を贔屓にする男たちが大量に押し寄せ暴動になるという珍事が起こった。
 大混乱の中、カッとなった大名は刀を抜いた。そして、なんと甘露花魁をばっさりと斬ってしまったのである。暴動はさらに過激になった。男たちは花魁の死体をめぐって殺しあい、心中しようとその場で腹を切る男なんかもいて、大変な死傷者数になった。町奉行が介入してなんとか鎮圧するも……なんと、斬られたはずの花魁の亡骸がすっかり消えていたのである。
 大事件は瞬く間に江戸中に広まった。後に人形浄瑠璃やらの題材にすらされてしまうのだが……それは置いておいて。さらに不思議なのはその後だ。
 なんと甘露花魁が、一晩経ったら傷ひとつなく、すっかり元気な姿で戻っていたのだ。
 斬られたという話は嘘で、強引な身請けを断る口実に一芝居うったのではないか。他の遊女を影武者にしたのではないか……などと予想されたものの、最もよく語られたのは「やはり彼女は狐がなにかで、男たちはまんまと化かされたのだ」というのであった。
 そんなわけで、甘露花魁はおかしな意味で有名人になった。今でも人気は絶えないが、皆どこか畏怖するような感情も向けていた。そこに現れたのが白魔である。
 どんな遊女も一晩で壊す武士と、斬られたのに一晩で復活した遊女、夢の対決。化け物には化け物をぶつけるんだよ。そんなエンターテイメントに吉原が沸いた。本人同士も望むところのようなので、素直に通すこととなった。翌朝どうなっているのだろうかと皆気が気でなかったが、周囲には人払いがされて聞き耳ひとつ立てられぬようにされた。というか、命が惜しくて誰一人近寄らなかった。

「ようこそ、おいでなんし」
 微笑んで出迎える甘露花魁に返事をするでもなく、白魔はずかずかと立ち入るといきなり彼女を押し倒した。
「やはりおまえ、人ではないな」
「そういう君こそ。神気が強くてくらくらしそう。どこの神社からいらしたの」
 この客は遊女を求めてきたわけではないと悟ると、甘露は早々に廓言葉をやめた。
「おれにそんなものはない。愚かな人間どもは、おれの武功を忘れ去った。今や名前すら覚えていない。今のおれは、ただの白魔だ」
「そうなんだ、かわいそうにね」
「なんだと?」
 一晩抱かれれば死ぬと言われている大男に早速組み敷かれたというのに、甘露は妖艶な微笑をたたえたまま静かな視線を白魔に向けていた。
「それでおまえは、何者なのだ」
「さあ、何でしょう。それを自分で確かめに来たのでは?」
「見上げた度胸だ。顔も評判通りだし気に入った。ただの人間でないのなら、少しは長くもつのであろうな」
 見に纏っていた豪奢な着物はみるみるうちに脱がされ、畳の上に広がり、その上に一糸纏わぬ裸体と白金に煌めく髪が横たわった。
「なんだ、女ではないのか。ほとのある男か?」
 花魁には乳房の膨らみがなく、男性器があり、しかし股を割り開くと尻の穴との間に女性器もあった。
「なんだい、気に入らなかったかな」
「驚きはしたがどうでもいい。美しくて楽しめるなら陰間でもおれはかまわん。だが、女より一層もろいのでつまらないだけだ」
「そう。それならよかった。ねえ、馬のように魔羅が大きいって本当かい? 早く見てみたいな」
 なおも挑発する生意気さに、白魔も思わずムキになり。着物を寛げて逸物を取り出すと、膣口にあてがい一気に奥まで貫いてしまった。大きな手で華奢な腰をがっしりと捕らえて逃さない。
 愛撫のひとつもなくいきなり挿入され、肉は確実に裂けていた。甘露は声にならない悲鳴を上げて仰け反る。その胸も首筋も真っ白で柔らかそうな肌、むしゃぶりついて肉食獣に似た鋭い歯を食い込ませれば鮮やかな赤が流れ出る。
 抱き心地は悪くなかった。薄い腹を撫でれば魔羅の形にぼこりと膨れて、外側から押してやると膣が締まって具合がいい。乳房のまろみは無く細身だが造形が美しい。力を加えたらみしみし音がして、容易く折れそうな儚さが嗜虐心をそそる。
「とりあえず、久々に楽しめそうだ」
 唇を舐めて嗤う。ここ最近遊郭通いをできずにおり、溜まっていた性欲を容赦なくぶつけた。
 激しく抽送するたび、白い太腿を血染めにする。雁首が子宮口まで届いて犯し、何度も何度も膨大な量の精液を注ぎ込む。これでは人間はひとたまりもない。壊れてしまって当然の、ただの暴力行為にしか見えなかった。
 だが、数刻にわたる拷問のような行為が続くと……いつもとは違う展開が待っていた。
 甘露が、感じている。苦しそうな吐息に艶が混じり、悲鳴は媚びるような喘ぎにかわる。何事かと、ふと見てみれば……散々噛み付いたおびただしい数の傷跡が消えていた。しかも、おそらく裂けた膣も治っている。血の滑りで強引に抽送していた胎内が、愛液で潤ってより心地よくなった。
 腰を引けば、白魔に吸い付いた肉襞が名残惜しげに引っ張られ。一気に押しこむと、女のような容姿に似合わぬ男根から射精して膣を締め付ける。両性の快楽を同時に得て悦んでいた。
「……は、はは」
 その壮絶な媚態に、白魔は口角を釣り上げ獰猛に笑った。
「とんだ淫乱だ。刀で斬られて無事だったのは本当らしい。傷を治してでも魔羅に喰らいつく色狂いめ。死ぬほど悦くしてやる」
「……ん」
「何だ、命乞いなら聞かんぞ」
 はくはくと口を開き、何やら求めている甘露のかすかな吐息の音を聴こうと。白魔が顔を近づけると。細く長い指のそろった両手が頬をやさしく包み込み、小さく柔らかな口が白魔の唇を吸った。
「もっと、深くまぐわって。きみ、とっても素敵……」
 口付けをして囁く、甘い甘い舌で。
 その瞬間、遊女殺しの化け物は捕らわれてしまった。永劫かなわぬ恋の檻に。

「白魔って名前なんだけど……ちょっとさあ、良くないよね。『魔』っていうのが良くない」
 一晩中、抱き潰してやったつもりなのに。甘露は髪を色っぽく乱して裸で着物の上に転がったまま、白魔の呼び方に難癖をつけはじめた。
「では、何ならいいのだ」
「雪のたとえは良いと思う。だから……深雪なんてどう?」
「みゆき、だと? おれにそんな、なよなよした響きの名を名乗らせるか」
「綺麗だと思わない? 普段使いするものはなんでも綺麗じゃなきゃいけないよ。うん、深雪に変えよう。私は雪ちゃんって呼ぶね」
「勝手に名をつけるのなら、おれにも要求がある」
「なあに?」
「おまえの真名が知りたい。甘露は楼主のつけた名だな。本当の名前は何だ」
「熱烈だね。いいよ、燃えるようなまぐわいのお礼に教えたげる」
 甘露は情事に疲れた痩躯をけだるげに起こすと、豪華絢爛な装飾の文箱を手に取って机に向かった。手頃な紙を取り出し、美しい筆はこびで描く。
「水蜜。私の名前」
「蜜か。甘露とは大層すぎる。こっちの方が舌触りが良い。おまえに似合う」
 美麗な筆跡を見つめながら話す深雪は、ここに来たときの粗雑な苛立ちが嘘のように大人しくなっていた。名前を変えて心まで落ち着かされたか、という変貌ぶりである。深雪は、すっかり水蜜に惚れていた。
「蜜」
「なあに、雪ちゃん」
「おれと、めおとになってくれ」
「やだ」
 斬られても身請けを拒んだのだ。そこまで頑なな理由はわからないが、やはり断るか。
「ならばまず遊郭を出ろ。おまえが人間ごときの慰みものになっているのは許せん」
「結構気に入ってるんだけどな、綺麗なものに囲まれて暮らせるし……あっ、じゃあさ。私が退屈になったら、雪ちゃんが攫いにきてよ。少しの間なら、外で遊んだげる。もうすぐ隣町でお祭りがあるんだろう? 連れて行ってよ」
 あまりにも自由すぎる提案に、遊郭のことにそこまで詳しいわけではない深雪でも流石に首を傾げた。
「おまえはおかしな花魁だな……籠の鳥が聞いて呆れる。いいだろう。何度でも攫ってやる。ここに閉じこもっていようが、どこに逃げようが、な」
「そうこなくっちゃ。ね、このまま後朝の別れ……なんて律儀に帰ったりしないよね? 二度寝の時間まで、もっと可愛がって?」
 深雪のたくましい胸に指を這わせ、獣のように白い毛の生えた耳に「かわいいね」と息を吹きかけた。
「ふ……っ、おれも物足りんところだった。おまえが泣いて止めろと言うまでやってみるか」

「ところで、念のため聞いておくが。まさか本当に狐ではあるまいな? おれは狐が嫌いなんだ」
「雪ちゃんも犬なのに?」
「おれは狼だ。目の腐った人間がおれを稲荷と間違えると腹が立つのだ。どこが田の神だ、どう見ても武神であろうが。で、おまえは狐なのか」
「うふふ、大丈夫。わたしは狐じゃないよ。どちらかというと蛇かな」
「なるほど、何度も白く美しく黄泉帰るおまえらしい」

 こうして生まれてしまった怪異コンビは、しばらくの間江戸の街をお騒がせすることになる。
 遊女であるのに町娘に扮装し、遊郭を抜け出して遊びに行ってしまう破天荒すぎる花魁。強引に乗り込んできては、堂々と花魁を攫っていく異形の侍。連れ立って歩く姿はどう見ても人間ではなかったが美しく、仲睦まじく遊びまわる噂が江戸中のあちこちで聞かれた。春の陽だまりのような蜜月であった。
 しかしある日突然、不思議な花魁も白い怪物も、忽然と姿を消してしまった……

深雪と水蜜
蜜月のひとコマ

***

 礼くんは最初から、私を独占できないって諦めて付き合ってくれている。物分かりが良くて助かってるのに、何か物足りなく思う。身勝手すぎるよね。
 もしも、あのまっすぐな目で、まっすぐな想いで、彼が私を独り占めしたがったら……どれだけ熱くて痛くて、苦しいだろうって。想像して、悦びを感じてしまう。だから私は悪い化け物なんだね。
 もしそんなことになったら。礼くんもあのひとみたいに、最悪を選んで穢れてしまう。私を殺そうとして、死ぬより辛い呪いを受けて、永劫のたうち回る。そんな目に遭うひとは、二度と出してはいけないのにね。
 かわいそうな雪ちゃん。
 でも、ありがとう。うれしかった。
 私の永遠を、終わらせようとしてくれたあなた。

二『武神襲来』

 まだ暑さも残るが、礼たちの大学では学園祭の準備が始まることで秋の訪れを感じていた。『神実村おこし協力隊』も教室をひとつ借りることができたので、村の紹介パネルや写真、お土産の展示を行うことになり忙しく準備を進めていた。
「なんかなー……」
「どうしたの? 水蜜さん」
「華やかさが足りない……というか……もっと面白くしたいというか……」
 一番手伝っていない水蜜が難癖をつけはじめた。
「華やか……って言ってもさあ……」
「村自体が地味なのでどうしようもないのでは?」
「はっきり言っちゃうな郷美先生。観光協会会長なのに」
「事実ですからね。冬になると無駄に雪が降る、ただの山奥の村なので」
「うー……ちょっと他のサークル見てくる! 飾りつけのアイデアをパクる!」
「せめて参考とか言って!」
 水蜜が一人で教室を飛び出して行った。その背中を見送りつつ、礼と郷美は一旦休憩することにした。
「蜜ちゃんもすっかり大学生活に慣れましたね」
「一時はどうなることかと思いましたけどね……」
「これも寺烏真さんが辛抱強く蜜ちゃんに付き合ってくれているおかげですよ。あんなに楽しそうな蜜ちゃんを見るのは僕が子どもの頃以来かもしれません。ありがとうございます」
「いやいや……俺も大学入って色々やってみたいことあるし、その合間にちょっと振り回されてただけですよ」
「ふふ、その調子なら大丈夫そうですね」
「何がですか?」
「僕はね、村を出て一旦蜜ちゃんと離れた期間があって良かったと思っているんです。あのまま閉鎖的な村で彼と二人だけで過ごしていたら、いずれ何かが破綻してしまったと思います」
「ああ……」
 初めて神実村に行って、水蜜と会話したとき。苦々しい笑顔を浮かべながら、郷美が言ったことを思い出す。
『この人だけはやめておきなさい。愛すれば愛するほど返してくれるけど、彼はたくさんの人にそうしているんです。あなただけ特別にはなれませんよ』
 水蜜は、恋人や伴侶だけはもたないと一貫していた。だから、どんなに親しくなっても友達止まり。誰と関係をもとうが、ある日突然姿を消して他のところで他の人と暮らそうが、誰にも咎める権利が無い。
「初恋だったって、言ってましたよね」
「そうですね。とはいえ小学生のころの話なので、それが恋なのか、ただ年上のお姉さんに憧れていただけなのかはあやしいですけどね。それが危うかった。自分の気持ちに整理がつかないまま彼しか知らずに、依存していたら。寺烏真さんに助けを求めるようなこともできなかったでしょうし、結果として不幸になったと思うんです。僕も、蜜ちゃんも」
「俺は……まだ、わかんないです。整理もついてない……と思います」
「若いのですから当然ですよ。ですが、相手が相手ですからね。手酷い火傷をする前に、困ったらいつでも話してください。年長者として少しは役に立てれば」
「ありがとうございます」
「来年になれば寺烏真さんも二十歳ですからね。大学の近くに僕のお気に入りのバーがあるんですよ。一緒に行きましょう。内緒話もしやすいところですから」
「行きつけのバーってやつだ、カッコいいなあ! 楽しみです」

 どうしようもなく水蜜に一目惚れしてしまって、頭じゃわかってるのに無茶なこともして。どんなに振り回されても、苦労しても。水蜜と結婚するだとか、そういうゴールが無いのはわかっている。
 今は楽しいけど、例えば大学卒業後はどうなるんだろう。今の部屋は卒業と同時に引き払って、進路に合わせて引っ越すつもりだ。そのとき、水蜜はどうするのだろう。またどこか知らないところへ去っていくのだろうか。
 いや、まだ大学一年生だというのに、進路だとか就職だとか考えても仕方がない。今は大学四年間をどうするか考えないと。礼はそう思い直し、休憩を切り上げようとした……そのとき、かなり焦った様子の仁が教室に駆け込んできた。
「大学の中に、不審者が入ってきた! すごいデカい男! それで……佐藤さんが、そいつに絡まれてた!」
「警察に連絡します。長七さんたちは……」
「仁、どこなのか教えて」
「おい、礼!」
 礼は仁の手を引いて走り出した。水蜜の気配なら、多少近づけばわかる。助けに行かないと……その一心で身体が動いた。それから、なんだか無性に嫌な予感がしていた。

 水蜜は別の教室で、他サークルを冷やかしていたらしく。元々展示準備中で雑然とした教室内はさらに踏み荒らされ、酷い有様になっていた。礼と仁が駆けつけたとき、水蜜は見知らぬ男に首を掴まれてほとんど宙に浮いていた。
「ヤバいって、身長二メートルくらいありそうだよあいつ……カタギじゃなさそうだし」
 仁の言う通り、一目で異様とわかる大男だった。身長だけでなく、筋骨隆々でもあるので幅も厚みもある。胸元や腕がキツそうな濃い色のシャツに黒のスラックスというシンプルな服装だったが、一際目を引くのは真っ白な髪と肌だ。いわゆるアルビノなのかもしれない。水蜜を見つめていた鋭い眼光がこちらを見た。瞳は鮮やかな赤色だった。
「……あ……」
「礼?」
「神霊だ」
「嘘だろ……?」
 霊感の無い仁も先日教えてもらった。礼が「神霊だ」と言ったら絶望のサインだ。人間は神に勝てないからである。仁は震え上がり、当然のように礼と一緒に逃げるものだと思っていた。
「……でも」
 水蜜が捕まっている。助けないと。神霊相手に無謀だとわかっている。だが、礼に水蜜を置いて逃げるという選択肢はなかった。
 礼がパーカーのポケットをまさぐると、長い数珠が出てきた。これは礼が一人暮らしすると決まったときに父が贈ってくれたもので、普段から肌身離さず持ち歩いている。徳の高い僧侶でもある父が心を込めてくれた代物なので、それを持っているだけで一般人でも悪霊を寄せ付けない優れものだ。礼がつけるとそれだけで除霊の力が増す。神霊に効くとは思えないが……。それを手にぐるぐる巻きつけると、礼は大男に向かっていった。
「礼! やめろ!」
 仁の静止は遅れ、礼は男に接触する。数珠を巻いた手が、水蜜を捕まえている腕に触れた。
「……ぅあ熱っ……!」
 大きな破裂音がして、数珠が切れて散り散りに飛んでいった。何やら焦げ臭くなって……なんと、大男の片腕が吹き飛んでいた。しかし、彼は眉ひとつ動かさずこちらを睨んでいる。やはり人では無い……相当危険な存在だ。礼は水蜜を背負うと、一目散に逃げ出した。
「早く出て! できるだけ遠くに逃げて!」
「郷美先生!」
 礼が大男に向かっていった間に、郷美が駆けつけていた。水蜜を抱えた礼、仁の三人を教室から出すと、郷美はその場に残って教室の出入り口を塞いだ。室内には郷美と、謎の大男だけが残った。
「間もなく警察が来ます。大人しくしていてください。いくら怪異とはいえ、実体がある以上警察は無視できないのでは?」
「……チッ……法力の類か……あの餓鬼は坊主か? 小賢しい真似をする……」
 男は失った片腕を見ながら不機嫌そうに呟く。そして腕に力を入れると……一瞬にして、腕が元通りに生えていた。握り拳を作って動くのを確かめた後、郷美の方を向く。ずかずかと距離を詰めていった。
「それでこちらは蜜の……神巫か何かか? 同じにおいがするな。だが」
 何の警告も、手加減もなく。大男の太い手が振り下ろされ、郷美を殴り飛ばした。なす術なく吹き飛ばされて地面に倒れ伏す。
「……っ、う……」
 圧倒的な体格差の上、郷美は小柄で高齢でもある。容赦なく暴力を振るわれたらひとたまりもない。腹部付近に当たったらしく、身体を丸めて動けなくなっている。
「老ぼれに過ぎる。隠居してせがれにでも任せておけばいいものを」
 復活したばかりの手で髪の毛を掴んで無理矢理身体を起こさせる。そして、もう片方の手には……いつの間にか、立派な日本刀が握られていた。
「おまえは首を持っていってやる。故郷で飼っている人間なら、蜜も特別可愛がっているはずだからな」
 刀は重厚な金属の輝きを放っている、間違いなく真剣だ。頭を持ち上げられて首筋を晒され、郷美は絶望に目を閉じた。
「ミユキいぃぃ!」
 そこに割り込んできたのは、憎悪に満ちた少年の怒号。玄翁を持った少年が現れ、刀を叩いて軌道を狂わせた。その一方で、出刃包丁を持った少年が郷美の髪を切り引き離した。
「お前が惨たらしく死ねば母様が泣く。人間が神霊なんぞに楯突くな、大馬鹿者が!」
「幸梅さん、杏寿さん……」
 助けに入ったのは、水蜜の息子である双子の兄弟だ。人間擬態も解き、真っ赤な長髪を揺らして兄の幸梅が最前に立つ。その後ろで弟の杏寿が郷美を庇った。
「小虫かと思えば、またなます切りにされに来たのか。餓鬼ども」
 大男を前にして、双子はひどくふるえていた。必死で対峙しているが、怯えを隠すこともできず必死の形相だ。しかし、それ以上に凄まじい憎悪を大男に向けており、それだけでなんとか立っている様子であった。
 そうしているうちに、教室の外が騒がしくなった。郷美が通報した、警察が来たようだ。
「ふん。面倒なのが出てきたか。全部切り捨てても構わんが、余計な連中を呼びそうだからな……今日のところは一旦退いてやろう」
 持っていた刀は消えていた。命拾いした三人に伝言し、男は悠然とその場を去っていった。
「餓鬼ども、蜜に伝えておけ。日を改めて来る。そうだな……今の蜜は随分多くの人間の世話になっているようだ。別れの挨拶も済ませたいだろうから、一週間はくれてやる。だが蜜、おまえのことは必ず攫う。どこにいてもな」

 満身創痍の郷美が、立ち尽くす双子に尋ねた。
「あれは……ミユキ、とは、まさか」
「そうだ。あいつは……以前我々の体をバラバラに切り裂き……母様の首を斬った、誰よりも憎き仇。母様は、あれを『深雪』と呼んでいた……」

三『警察庁霊事課の男』


「深雪っていうのは、私がつけた名前なんだ。本当の名前は誰もわからない。本人も忘れちゃったって。自分が誰かもわからない、故郷がどこかもわからない。誰にも大切にされず、信仰されず、暴れ回って怖がられるだけの武神。それが、あの雪ちゃんってわけ」
 教室を逃げ出した三人は建物自体からも出た。正門から警察がやってくるのを確認してから、避難してざわついている学生たちに混ざってひとまず休んだ。わけがわからず荒い息を整えている礼たちの横で、水蜜が話している。
「私が江戸の吉原にいたことがあるって話は、前にちょっとだけしたよね」
 水蜜と深雪は、そのときに出会ったのだという。怪異同士気が合って、ほとんど毎日会っていた。深雪は水蜜を遊郭から攫うように連れ出しては、江戸の街で遊んでいた。
「今の礼くんと私みたいな感じだったな。あのときは平和で、楽しかったんだけど……」
「じゃあ佐藤さんの江戸時代の元彼ってこと? ストーカー? 痴話喧嘩が傍迷惑すぎるんだけど」
 仁が心底呆れた表情で言う。
「まさか、水蜜さんの蠱惑体質があいつにも効いたのか? 神霊なんだろ、あいつ」
「わからない。信仰を失って弱ったところに私と会ったのが良くなかったのかもだし、雪ちゃんは元々寂しがりで乱暴だったからいずれそうなる運命だったのかもしれない。とにかく、ある日突然手がつけられないくらいに暴れだしちゃった。梅ちゃんと杏ちゃんが守ろうとしてくれたけど、バラバラに斬られて消えちゃって」
「あっ……それって」
 水蜜が首のチョーカーを外す。ずっと瑞々しいままの赤い縫い跡が、ぐるりと首を囲ってそこにあった。
「そのあと、私も首を斬られた。隙をみて逃げ出してきたけど、神霊がつけた刀傷はちっとも治らなくて今もこんな状態。つい最近も、もげてタヌキに盗られたでしょ」
 水蜜が力無く笑う。
「凄まじい執念だな……江戸時代からってことは、数百年ずっと水蜜さんを追いかけてるってことじゃん。ここにいるのもヤバいのか? 大学内の人、全員避難させることは……」
「すみません、寺烏真さんと長七さんでしょうか」
 救急車が大学の敷地内に入ってきていた。救急隊員が礼たちのもとにやって来る。
「はい!」
「郷美先生からお名前伺ってまして……今から先生を搬送するので、付き添いお願いできますか」
「えっ、郷美先生が救急車で……!」
「正ちゃん……!」
「お怪我はされていますが意識はあります。これからすぐに入院すれば命にかかわることは無いと思います」
「わかりました。俺が付き添いで行きます。礼は先生の娘さんか奥さんに連絡を。豊島先輩は今日は他県の大学だっけ……ともかくみんなに知らせて、佐藤さんと後でタクシーで追いかけてきて」
 仁がすかさず立ち上がった。
「それから……佐藤さんからできるだけ話を聞いておいて。次いつ深雪ってやつが来るかわかんないからな」
 仁は水蜜の方に冷たい視線をちらりを向けた後、救急隊員の指示に従ってついていった。
「正ちゃんが……どうしよう、私、わたしの、せいで」
「とりあえず落ち着いて水蜜さん。救急車で病院に行けば郷美先生と仁は安全なはずだ。俺たちは、深雪が追いかけてきたときのこと考えないと……」
「その必要はない。奴は一週間待つと言った」
「あれも侍の神だ。頭は悪いが約束を違えることはすまい」
 音もなく、幸梅と杏寿が水蜜のもとに戻って来た。
「郷美は一発殴られた。老ぼれゆえ骨が心配だが、人間の医者で治せる怪我しかしていない」
「そっか。郷美先生を助けに行ってくれてありがとう。お前らも怖かったよな」
「侮るな! と、言いたいところだが……くやしいがその通りだ。こんなにも恨んできた怨敵であるのに、対峙した途端……足が竦んで動けなくなった。情けない限りだ」
「よし、俺は連絡取れるとこ全部取ってくる。それにしても、一週間か……どうしたらいいんだろうな」
 途方にくれる礼たち。
 そこへ、スーツ姿の若い男性が一人近づいてきた。
「寺烏真さん、でしょうか」
「はい……あなたは?」
「警察の者です。みなさん、これから郷美教授のところに行かれますね? 病院にお送りしますので、私も病室へ連れていっていただけませんでしょうか」

 礼たちが郷美の病室に着くと、郷美はベッドの上で上半身を起こしており元気そうだった。
「正ちゃん!」
 泣きそうな顔をして水蜜が駆け寄った。
「ごめん、ごめんね……」
「蜜ちゃんが謝ることじゃないでしょう。僕は大丈夫でしたから。ね」
「礼、そちらの方は?」
 郷美に付き添っていた仁が、礼の後ろに立つ見慣れない男性を見つけた。
「お怪我されて大変なところを失礼します。わたくし、警察庁霊事課の者です。郷美さんにお話をお伺いしたく参りました」
 そう言って手帳を掲げた。二十代後半くらいで、黒いアンダーリムの眼鏡にスーツという真面目そうな服装。傷んだ黒髪に目の下のクマがやや陰気な印象の青年だった。
「れいじか? 刑事課じゃなくて?」
「おや……あなた方は怪異にお詳しいと伺っておりましたので、霊事課のこともご存知かと思っておりました。失礼しました。霊は幽霊の霊です。平たく言えば、怪異案件専門の警察が私たちです。『怪異対策課』と呼んでいただいても構いません。いわゆる霊感のある方向けの名乗りは、こちらになります」
 男性は名刺を取り出して郷美に手渡した。礼たちも郷美を囲んで覗き込んで見た。
『警察庁 怪異対策課 
  郷徒 羊 』
 怪異のおまわりさんなんているんだ、と感心している仁の横で、郷美の顔色が変わった。
「郷徒……さん……ですか」
「はい。お察しの通りです。私はあなたの知る郷徒家の者です」
 礼もピンときて息を呑んだ。水蜜は無表情で郷徒を見つめていた。
(礼、何? 郷美先生の知り合い?)
(えっと……郷美先生と同じ村出身の人みたい)
「今回、怪異・通称『根くたり様』に関わる案件ということで、怪異対策課の中で唯一神実村にルーツがある私が担当に選ばれました。ただ、村に住んでいたのは私の祖父母までで、私自身は村のことはほとんど存じ上げておりません」
「そう、ですか……」
「祖父母も現在施設におりまして、認知症が進行しており村のことを訊くことはかないません。ただ、昔一度だけ聞いたことがあります。郷美家の方に危害を加えてはいけないと。何があっても」
「……ご家族は村を出た後普通に暮らしている、とは聞いて、ましたが」
「あの、大丈夫ですか郷美先生……顔色悪いですよ」
 何もわからないまま気遣う仁の隣で、礼にはその原因がわかっていた。
 少し前に神実村を訪問したとき、郷美と二人きりになってはじめて語られた過去の凄惨な事件。犠牲者の少年の名前が『郷徒 毅』だったはずだ。当時九歳の子どもだった郷美は彼に虐められており、ある時酷い暴行を受けた。それが『根くたり様』の怒りに触れ、郷徒毅は『祟り』に遭って死体となった。詳細は不明だが、毅の切り落とされた頭部を郷美少年が持っていたという凄惨な光景は村全体を震撼させたという。
「僕は、問題ありません……それで、貴方はどういったご用件でいらっしゃったのですか」
「無論、貴方を襲撃した怪異についての情報収集です。他にもお伝えしたいこともありますので、体調が優れないようでしたら日を改めましょうか」
「いえ……お話を伺います」
 明らかに郷美は動揺している。負傷した身体には毒だろうに、気丈にも郷徒に向き直った。
「先生……俺も一緒に聞きます。俺は郷美先生と一緒に『根くたり様』を助けるのに協力しています。村の人じゃないけど、俺も関係者です。いいですよね?」
「寺烏真さん……」
「寺烏真 礼さん。現在『根くたり様』を自宅で保護しているのでしたね。わかりました。同席していただいてもよろしいでしょうか」
「はい」
「俺はいない方がいいかな……もうすぐ先生の親戚の人が来るって聞いたから、ちょっと見て来るよ」
 仁は席を外した。個室の病室には郷美、礼、水蜜と郷徒が残った。
「単刀直入に申し上げます。あなたたちは『根くたり様』が人間のふりをして大学生として活動するのを許容していた。これは異常なことです」
 なんとなく、こんな日が来ることは予感していた。
「実際、こうして事件が起きてしまいました。郷美さんも今回は無事で済みましたが、またあの怪異個体『深雪』が襲撃してくれば命の危険もあり得ます。大学にいる他の方々に被害が無かったのも、たまたま運が良かっただけですよ」
 郷徒の言う通りだ。このまま水蜜が人間社会の中で生活していれば、また深雪が襲ってきて被害が拡大してしまう。
「我々は怪異専門の国家公務員です。怪異を見つけた以上、野放しにはできない。本日をもって『根くたり様』……あなた方が『水蜜』と呼んでいるその個体もこちらで収容します」
 おそらく、郷徒は以前から水蜜を……神実村から出て来て大学にいることを知っていて、調べ尽くしている。でなければ、こんなに迅速に現場にやって来るはずがない。収容する機会を伺っていたのだ。そして今日、派手に被害が出たので堂々と動くことができるようになった。
「『根くたり様』は一旦こちらの施設に隔離します。『深雪』の収容も完了次第、最終的には神実村の社を国管理にし根くたり様をそちらに移します。村の方には『郷美家の関係者』と説明した職員を派遣し、表面上は村に変化のないように配慮いたします。郷美さんが現在行われている村の観光促進活動も引き続き行っていただいて構いません。むしろ支援させていただきたいです。村がオープンになるほど怪異の神性は弱まりますからね」
 郷徒の提案は何も間違っていない。国が管理する怪異対策のプロがいるなら、一般市民は従うべきで。
「郷美家の方は、正太郎さん以外は村に関わりがない、行ったことすらないと伺っております。正太郎さんは敢えてそうしてらっしゃるのですよね? ご家族を怪異から守るために。もう大丈夫です。我々職員と口裏を合わせていただけましたら、後はこちらでうまく処理します。今後怪異と縁を持たぬようお守りします」
 そう言われてしまっては、愛する妻や娘、孫の陽葵たちのため、郷美も引き下がらざるを得ない。そして、部外者の礼が反抗する理由はもっと無い。
「でも……そうなった場合、蜜ちゃんは……根くたり様は、今のように大学に通えなくなるのですよね」
「当然です。あなたもこうして被害を受けているでしょう。今までこうならなかったのが奇跡だったのです。人間にも怪異にも精神的な改変を行う危険レベルの高い怪異です。ただちに隔離すべきだ」
 わかっては、いるけれど。このまま水蜜を引き渡すのが悔しくてたまらなかった。それは礼も郷美も同じ気持ちだった。
「その前に、根くたり様には深雪の収容作戦に参加していただきます。深雪は根くたり様に執着しています。早急に隔離し、再襲来場所をコントロールしなければ新たな被害が出る」
「そうするしか、深雪を止める方法はないんですか。水蜜さんを囮にして誘き寄せるなんて……」
「蜜ちゃん、僕は……今の僕では、何も」
「正ちゃん! 顔真っ青だよ!」
「正太郎!」
 その時病室に飛び込んできたのは、夜見桃子だった。三〜四十代の美女に見えるが、実は郷美の従姉にあたる女性だ。
「あの……貴方は」
 真っ青な顔で礼に寄りかかっている郷美。その前で平然とした顔で立っている知らない男を、桃子は睨みつける。
「警察庁の郷徒と申します」
 怪異を知らない人間には、普通の警察のようにふるまうようだ。
「郷徒……さん」
「もしや貴女も、神実村の方ですか」
「ええ、昔の話ですが……夜見という名はご存知かしら」
「すみません……私はあまり村に関わりがなく、失礼ながら存じ上げません」
「そう……断絶したとて語り継がれるまでもないのでしょうね、夜見は。郷美ならともかく」
「姉、さ」
 苦しげに助けを求めてくる郷美の様子を見て、桃子は厳しい表情で郷徒に向き合った。
「彼は怪我人です。傷に障るので今日のところはお引き取りいただけるかしら。若い貴方には関わりのないことで、理不尽でしょうけど……貴方のその姓が、彼を苦しめているのよ」
「……わかりました。出直してきます」
「待って」
 声を上げたのは水蜜だった。
「私が警察について行けばいいんでしょ。そうすれば正ちゃんや礼くんたちはもう危なくない。これでいいね?」
「ご協力感謝します。では」
 郷徒は水蜜を連れて病室を出て行った。

「……姉さん」
「正太郎……大丈夫、もう大丈夫だから……」
 郷美は憔悴しきっている。今はとても、水蜜の今後について考える余裕などないだろう。
「桃子さん。すみませんが、郷美先生をお願いします。もうすぐ奥さん達も来るって言ってましたが……今の先生を落ち着かせられるのは、桃子さんしかいないと思うんで」
「あなた、まさか郷徒家とのことも知って……」
「あの、全部じゃないんですけど。先生から」
「そう。正太郎、この子に話したの……まさかとは思ったけど、もう……。わかったわ。奥様たちの対応も私に任せてちょうだい。娘さん一家とも仲良いくらい、付き合い長いから」
「郷美先生、水蜜さんのことはどうか俺たちに任せてください。っていっても、今はできることは無いけど……ただあいつの言う通りにはさせないようになんとか考えてきます」
「ごめんなさい……どうか、よろしくお願いします……蜜ちゃんは、僕の」
「わかってます。俺だって、こんなの納得できない」
 礼は病院を出ることにした。
「礼、これからどうするの」
 桃子と一緒に病室に戻っていて、水蜜が郷徒と共に去っていくところを見ていた仁が礼を呼び止めた。
「一旦家に戻る」
「郷美先生に、佐藤……水蜜さんのこと、任せろって言ってたけどさ。礼がこれ以上何するのさ。もう警察に預けたからいいんじゃないのか」
「先生にはああ言うしかないだろ……! ごめん、とりあえず帰る」
 足早に病院を去る礼を、仁は苛立った表情で見つめていた。

四『武神収容作戦』

※年齢制限するほどでもないですが、暴力的・残酷な描写があります。ジャンル:ホラーなので一応……


 いつの間に用意していたのか、商人から奪い取ったという豪邸の奥深くには立派な座敷牢があった。身内に狐憑きが出たので用意したのだとか。しかし彼らは一族すべて皆殺しにされた。ただ、ちょうどいい家が欲しかった。そんな深雪の横暴のためだけに。
 座敷牢に収容されるはずだった者はよほど大切にされていたのか、格子を除けば客室にもできるようなきちんとした部屋だった。さらに深雪が遊郭から水蜜の持ち物を持ち込んだので、花魁の部屋をそのまま牢の中に切り取ってきたような状態になっていた。
 水蜜は座敷牢の中で、動きにくい華美な着物を着せられ、細い足首に鎖を繋がれていた。
 水蜜が嫌でも人を惹きつけてしまう体質であることは、深雪も知っていた。水蜜が誰にでも優しく、愛嬌を振りまくのも見ていた。それでも自分が一番彼に近いのだと、さっさと老いて死んでしまう人間どもとは違うのだと。余裕をもって受け入れていた時期もあった。深雪の力があればいつでも抜け出せるのに、必ず遊郭に帰るのも気に入らないが許していた。
 だが、それも限界が来てしまった。長い間、二人で仲睦まじく過ごす時間が積み重なっていくたびに。水蜜を独占できないことへの不満が抑えきれなくなってしまった。
 きっかけは本当にささいなことで。遊女としての水蜜……甘露花魁への身請けの誘いは相変わらず殺到していて、それにうんざりしていた水蜜が「一人くらい、試しに受けてみようか」と何気なくこぼした、そのたった一言だった。「どうしておれの求婚は許さないのだ」と怒り狂った深雪によってあっという間に監禁された。
 今は、毎日深雪が訪れる以外には誰とも会うことはかなわず、高いところに小さく開いた窓からかろうじて昼夜の感覚を得るばかりである。
 こうして独占欲を拗らせた男に監禁されることは初めてではなく、水蜜にとってはよくあることだった。しかし、相手が人間ならば長くても寿命で死ぬ。それ以前に生活が破綻する者が多く、隙を見て簡単に逃げ出すことができた。しかし今回は相手が悪すぎた。不老不死の神霊相手に我慢比べなど、何百年かかっても終わらない可能性だってある。水蜜は途方に暮れていた。

「母様……母様」
「……! 梅ちゃん、杏ちゃん……」
「しっ……静かに。奴は地獄耳です。鼻もきくからあたりに香を焚いて誤魔化していますが長くは保ちません」
「ああ……この香りはそのために」
 水蜜の息子である双子の少年、幸梅と杏寿が故郷から駆けつけてくれた。なんとか屋敷に忍び込むことに成功し、水蜜を救い出そうとしていた。杏寿が持参した道具で鎖を外し、鍵を壊す。水蜜は重い着物を捨て、薄く透けた襦袢のみを纏い屋敷の最奥から外に向かって足音を隠しながら急いで歩いた。
「そろそろ正面から深雪が来る……俺たちが時間を稼ぐのでどこかに身を潜めておいて、隙を見て勝手口から逃げてください」
「で、でもそれじゃ二人が危険すぎる」
「あんなのとマトモにやりあう気はありませんよ。僕らも適当に切り上げて逃げますから、とにかく遠くに離れてください」
「わかった……無理はしないでね……」
 それが、幸梅たちと交わした最後の言葉だった。

 小さな部屋の押し入れに潜んで、必死に息を潜めている。いつまでもこうしてはいられないのに、怖くて動けなかった。屋敷全体を覆うくらいの、凄まじい殺気。本気で神が怒ったときの重圧。
「ここか」
「ひ……っ」
 襖を突き抜けて、水蜜の眼前に刀が飛び出した。それは血に塗れて赤黒く汚れていた。襖が乱暴に取り払われ、深雪に引き摺り出された水蜜は畳の上に倒れ伏した。顔を上げて、恐る恐る深雪を見ようとする。目を合わせるのが怖かった……しかし、その前に、彼が何かを手に持ってぶらさげているのが見えた。美しい真紅と、光り輝く金色の。絹糸のように美しい長い髪が。いっしょくたにされて、乱雑に掴まれていて。
「……ぁ……ああ……」
 水蜜が、ひきつった悲鳴を上げる。それは愛する息子たちの頭部だった。
「おまえに見せてやるために、顔だけは残しておいた。今から四肢と同じように、塵芥にしてやる」
 無造作に落とされた小さなかんばせが二つ。唖然とした表情のまま転がって……大きな足に踏み潰されて、何だったのかわからなくなる。
「次はおまえだ。おれから逃げるのなら、物言わぬ人形にした方がましだ。餓鬼どもも耐えきれなかった神の刃、おまえであってもこれで首を落とされれば無事では済まんだろう」
 血塗れの大きな手が、水蜜の手首を折らんばかりに強く握った。

……

「う……う、怖い夢を見ちゃった。嫌な思い出……こんな窮屈なお部屋に閉じ込められてるからだと思うんだよね」
「そうですか」
 郷徒の返事はそっけなく。
 水蜜は怪異対策課に保護・収容され、県警の建物の地下に密かに作られた怪異収容のための区画にいた。水蜜に火を噴いたり壁をすり抜けたりという特殊能力はないので、普通の人間が軟禁されるような窓の無い部屋に閉じ込められていた。生活に必要な設備は最低限整えられており、質素なビジネスホテルのような一室だった。しかし監視用に分厚いアクリル板の壁がはめ込まれた一面があり、その向こうで郷徒と彼の部下が交代で見張りをしていた。
「退屈だなあほんとに。ねえ郷徒くん、きみもこっちにきてちょっと遊ばない?」
 透明な壁を挟んで、水蜜と郷徒はマイクで拾った音声を介して会話ができる。
「そうやって部下も誘惑しましたよね。やめてください。まあ、対策課の人間は必要最低限の霊感を備えていますから、誰にそうしたところで無駄ですが」
「そういう悪巧みじゃなくて、普通に遊びたいだけなのにー」
「会話でしたらご自由にどうぞ。私のようなつまらない男に話しかけたところでご不満かもしれませんが」
「ふうん、自分がつまんない男なのは自覚してるんだ」
 初対面の人にも馴れ馴れしすぎるくらいの水蜜が、郷徒に対してはやや棘のある態度を見せていた。さらに、先ほどの悪夢で機嫌も最悪らしい。
「ふふっ」
「何か、面白いことでも」
「いやあ……まさか郷徒程度の一族にこんな雑に扱われるなんて、一昔前の村じゃ誰も信じなかっただろうなって。今になって笑えてきた。郷美の当主すら差し置いて、だよ」
 感情の読み取れぬ目、口角を微かに上げただけの虚な微笑でくすくすと笑う。
「ああ……神実村のことですか。村の方々にとって郷美家の威信は現在も重要なのでしょうね。ご安心を。あなたを故郷の村に収容するプロジェクトの責任者も私ではありますが、郷徒家の血筋である私の存在は村の方に伝えません。郷美さんと夜見さんの反応からして、私は歓迎されない人間であるようなので」
「もう雪ちゃんを捕まえた後のことを考えているの。楽観的すぎない?」
「あなたは、我々があの『深雪』という怪異を収容することができないとおっしゃりたいのですか」
「逆に聞くけど。君たちは本気で雪ちゃんを捕まえられると思っているの? どうせ退屈だし、君たちの作戦でも聞いてみようかな」
「確かに情報共有は必要ですね。私は実行部隊ではなく、当日は『根くたり様』と後方で待機することになりますが」
「あーのーさー。私は『根くたり様』そのものじゃなくて、あくまで器なの。佐藤さんって呼んで」
 怪異対策課として諸々調査済である郷徒は、彼が真名とする『水蜜』という名をすでに知っている。だが、最近作ったばかりの偽名を提案されるとは随分と嫌われているらしい。敵意を向けられることに慣れ切っている郷徒は「では、佐藤さん」と素直に返した。
「先ほど申し上げた通り、私は直接神霊との交渉ができるほどの技量は無いので後方にいます。別に編成した実行部隊が深雪と接触します。我々怪異対策課はそんなに人数はおらず、実戦はほとんど外部の方にお任せしているんです。全国の霊能者、僧侶、神職、陰陽師、悪魔祓い等の方々と連絡をとり、対策する怪異に応じて最適なメンバーに依頼・編成して作戦を進めていく形になります。私はあくまでマネジメント役ですね」
「ほうほう」
「ですので、ここからは実行部隊から聞いた作戦内容をそのままお伝えします。深雪は自身の本来の名前やルーツを忘却し、無差別に暴れています。ですのでこちらである程度在り方を提案し、穏やかな神として形作っていくのだそうです。神職経験者の隊員によると、外見の特徴からして稲荷神系統の可能性が高いと。それで、廃社になっていた稲荷神社を改装し、新たにそこの神として収まっていただけないか……とお願いするそうです。話を聞いてもらうために、妖狐などの対応に詳しい陰陽師もサポートするようですが……」
「稲荷……妖狐……」
 水蜜はポカンとした後、思わず噴き出し大声で笑い始めた。
「今の話のどこに爆笑要素が?」
「あはは……ははは……ひぃ、もう、傑作だよ。つまらない男とか言ってごめんね。相当いいもの持ってるよ君。最低に滑稽だ」
「その言い方ですと、我々の作戦には大きな欠陥がある……。そうですね」
「いいよいいよ、やってみれば。ああ、雪ちゃんはどんな顔をするのかなあ!」
 若干二十五歳の郷徒ではあるが、彼も警察官の一人。ここまでわかりやすい反応をされれば、水蜜が何か重要な情報を知っていて敢えて隠していることくらいわかる。
「深雪についての情報で、あなたは何か伏せていることがありますね。そちらも共有していただけると助かるのですが。我々も命懸けなので」
「そうだねえ、死ぬねえ。でも私は、君たちが雪ちゃんに絡んで死なずに済む方法は知らないよ。細かいことまで懇切丁寧に教えてあげる義理もないし。勝手に割り込んできて、勝手に私を正ちゃんや礼くんから引き離して独りにした。だったら勝手に死ねよ」
「……っ!」
 部屋の奥のベッドに腰掛けていたはずの水蜜が、一瞬にして郷徒の目の前に立っていた。透明な壁を挟んで、顔がかなり近くにある。パイプ椅子に腰掛けている郷徒を見下ろし、長い髪で半ば隠れた顔は端正なものだ。しかし、見開いた大きな目は闇夜のように深く、三日月のように嗤う唇は血を透かして紅く。白い肌はやけに無機質に見えて、この世のものではない不気味さを感じた。それに気圧されながらも、郷徒はあくまで冷静に睨み返す。
「ではなぜ、大人しくついてきたのですか。私たちの作戦に同行しようとしているのですか」
「だってこうしないと、正ちゃんや礼くんが困るんだろう。普通の善良な人間は警察には逆らえないんだから。だからしばらくは付き合ってあげる。でも、もうすぐ来るのは……雪ちゃんは、人間同士の些細な力関係なんて関係ない、災害みたいなモノだよ」
 異様な威圧感に耐えきれず目を逸らした郷徒に、水蜜は心底哀れんだ視線を落として続けた。
「ああ、でも郷徒くんには生き延びてもらわないと困るなあ。私は雪ちゃんに攫われて、またどこかに監禁されちゃうだろうから。だから、君には伝言をお願いしたいんだ」
 大事なことだからね、と子どもに言い聞かせるような口調になる。水蜜はいつもの陽気な様子に戻っており、壁さえなければ郷徒の頭を撫でそうですらあった。
「礼くんに伝えてほしいんだ。『私は待ってる。きっと助けに来てね』って。絶対伝えてよね。約束だよ」
「我々には『深雪に殺される』と断言しておきながら、寺烏真さんを呼び寄せるのはなぜですか。彼を命の危険に晒してもいいんですか」
「礼くんならできるよ。雪ちゃんを討伐できる。口先だけで説得するのでも、服従してやりすごすのでもなく……ね」
「……」
「君はわからなくていい。とにかく生き残って、礼くんたちに繋げてくれればいいんだ。よろしくね」
 人を惹きつけてやまない笑顔を作り、小首を傾げてみせた。

 そして、一週間後。
 約束通り深雪が水蜜の元にやって来た。怪異対策課は周辺に被害を出さぬよう郊外の廃墟に作戦本部を配置。水蜜をそこに移動させて迎え撃つ。
 有名な神社で神職の経験がある者、代々陰陽師の家系である者、普段から除霊を請け負っている寺の僧侶の三名が実行部隊として深雪と接触。深雪がどのような怪異であっても、大体対応できるであろう面子だ。そして神職の者が事前の打ち合わせ通り、彼のための神社を用意すると提案。人間から忘れ去られた神霊の深雪にとって、信仰を獲得できる絶好の機会である……はずだった。
 もうすぐ水蜜に会える、と機嫌が良かったのか、嫌々ながらも立ち止まって話を聞きはした深雪であったが……話の途中で「今、おれを狐と言ったか」と激怒。実行部隊三名は一瞬にして斬殺された。
 作戦は、大失敗に終わったのだ。

「……っ、く……」
「斬るのはダメだよ、もうそのくらいにしなよ、雪ちゃん。この子は殺しちゃいけないんだ」
 郷徒は全身打撲の大怪我を負って倒れていた。刀で斬られはしなかったものの、容赦なく殴る蹴るの暴力を浴びてしまった。おそらくあちこち骨が折れている。
「何故だ、蜜……このような貧相な男を気に入っているのか。先ほども楽しそうに話していたな」
「もう、いちいちヤキモチ妬かないの。そういうのじゃないよ。みんな死んじゃったら、ここで起きたことがなんにもわからなくなっちゃうでしょ」
「む……そうか。人間が何人束になって来ようが構わんが、おれに下らんことをほざく愚かさを知らしめれば二度と来なくなる。無駄な時間が省ける。蜜の言う通りだ」
「そうそう。だからもうやめにしよう。動けないみたいだしさ。……おーい、君、大丈夫?」
 白々しく気遣ってみせる、一見慈愛に満ちた微笑みに吐き気がした。こんなにあっけなく深雪をなだめることができるのなら、人が死ぬ前に対応できたのではないか。最後の一人である郷徒が瀕死に至るギリギリまで、わざと何も言わず放置したのではないか……!
「これは正ちゃんが痛い目にあったのに、さらに辛い思いをさせちゃったぶん。おしおき」
 身を屈めて郷徒の耳元で囁く。
(この怪異……はじめから我々の味方になるどころか、命を弄ぶ気で……!)
 その邪悪さに悪態をつきそうになるが、深雪の目の前で水蜜を罵ればいよいよ命が無い。黙って奥歯を噛み締める郷徒をよそに、水蜜が「さあ、行こうか」と深雪の血塗れの剛腕にたおやかな腕を絡めた。
「おまえは相変わらず美しい。だがその地味な装いは何だ。喪服か? 洋装も嫌いではないが、花魁のような綺麗な色にしろ。無いなら買いに行かせる」
「いいんだよ、今はシンプルな白とか黒が気に入っているんだから。他でもない、君が私の髪を首ごと神刀で斬ったからだよ。今でも中途半端に治らなくて、髪も半分真っ黒なまま。わかってる?」
「ぐ……」
 躾のなっていない犬を嗜めるように。水蜜が唇から紡ぐ声だけで、手のつけられない荒振神が背中を丸める。
「私は素直について行くんだから、もう人間や物を壊すのはやめて。そのくらいお願い聞いてよ」
「ふん。また人間を甘やかして。理解できん趣味だが良かろう。おれの手持ちの金は、おれが稼いだ金だ。奪ったものではない。それで買うから着替えろ」
「はいはい。わかったよ。昔みたいにやくざ者の用心棒でもして暮らしていたの?」
「どんな時代になろうと、人間は力と恐怖で従わせる。簡単でいい」
 気まぐれに破壊された人々の骸を背に、二人の怪異は睦まじく歩き去る。去り際に水蜜が少し振り返って「約束、ちゃんと守ってね」と言い残した。無力すぎる怒りに身を焦がしながら、郷徒はついに意識を手放した。

現代服の深雪×水蜜
体格差が好き。

五『礼と仁と、先輩たち』


 深雪の襲来からちょうど一週間。再度やって来ると予告された日。礼は薄暗い自室でじっと目を閉じていた。インターホンが鳴る。のそりと立ち上がって玄関へ向かい、ドアを開ける。
「よかった、まだ家にいた。もうどこかに探しに行ったんじゃないかって、急いで止めに来たんだ」
「仁……」
 仁の顔はいつも通り優しく笑ってはいるが、どこかぎこちなかった。
「今日、警察の人たちが対応した結果を電話してくれるって、郷徒さんから言われてるから……家にはいるよ。それからは、どうするかわかんないけど」
「どうするもないでしょ。結果を聞いて、それでおしまいじゃん」
「俺は、まだ……」
「なあ、礼」
 玄関先、ドアは開けっぱなしで。部屋の外と内で、隔ったそれぞれに二人は立ち尽くしたまま。
「お前さ、海で教えてくれたよな。神霊ってやつは、人間じゃ敵わないから逃げるしかないって」
「……」
「でもなんで、今回は逃げないんだよ。礼は怪異のことにすごく詳しくて、危ないやつは冷静に避けてきたじゃんか」
「でも、このまま水蜜さんを放ってはおけないよ」
「じゃあどうして、栄さんは助けなかったんだよ」
 海辺の村で、蛸型の神霊に攫われたまま帰ってこなかった青年。彼がどうなったのか、続報はなく。彼の妹と礼は連絡先を交換していたが、彼女からの既読通知も来なくなって久しい。結局、礼はあの兄妹に何もしてあげられないまま……
「――っ! お前……!」
 掴みかかる礼。それにも動じず、険しい視線を返す仁。
「礼ならわかるよね。俺は『栄さんを助けるべきだった』なんて言ってない。俺が言いたいのは、佐藤さんを……いや、水蜜さんを、人間の礼が命懸けで助ける必要あるのかってことだよ。水蜜さんだって、一応郷美先生の村の神様なんだろ」
 確かに、水蜜からもほのかに神霊の気配がある。深雪のように圧倒的な力は持ち合わせていないが、その深雪に首を斬られてもいまだに生きているあたり只者ではない。
「神様にはお願いするしかないんだろ。だったら、昔から知り合いで、簡単に殺されたりしなくて、神様の気持ちもわかる水蜜さんが説得するのが最善なんじゃないのか。他の人間に被害が出そうなら、警察の怪異対策課がなんとかしてくれる。それでいいじゃん。俺、何か間違ってる?」
 仁が言っていることはもっともだ。それでも。
「わかってる。でも、それでも……俺は、このままじゃいけないって思ってる。何か、しなきゃって……」
「何をだよ!」
 普段は温厚な仁が声を荒げて怒った。幼い頃から親友の礼ですら、そうそう見ない姿だった。
 前に彼をこんなに怒らせたのはいつだっただろうか。小学生のころ、危険な悪霊に目をつけられたとき? あのときは、霊が見えない仁には嘘をついて先に帰らせた。そのあと一人で除霊しようとして失敗して。いよいよ死にそうというときに、礼の兄を連れてきてくれた仁のおかげで助かった。涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま、仁はものすごく怒っていた。
「郷美先生の怪我の具合聞いたか? 先生は、一発殴られただけって言ってた。先生は痩せてるしお年寄りだけど、それでも、一回殴られただけであんな……あんなことができる化け物のところに、礼が行くのなんて絶対許さない」
「仁……ありがとう。でも、ごめん……」
「だから! なんでだよ! なんでわかんないんだよ!」
「仁がすごく心配してくれてるのはわかるよ」
「じゃあ、どうして!」
 今度は、仁の方から礼につかみかかって……でもその手の力は、みるみる弱まっていって。礼の胸に額を押し当てて、絞り出すように言った。
「くそっ……俺、嫌いだよ……礼に、こんなことさせる……水蜜さんが憎い……」
「おいおい、礼が仁君と喧嘩なんて珍しいな」
 低いがよく通る大きな声が、二人の間を通り抜けた。二十代後半くらいの男性が、マンションの廊下をゆっくりと近づいてきていた。
 礼と揃いの、からりとした下駄の軽快な足音。真っ黒な法衣を纏った、明らかに僧侶とわかるいでたち。反面、首から上は僧侶らしからぬいかつい髪型。鋭いツリ目と、黒子のある口元に余裕ある笑みを浮かべている。
「元気そうで、ひとまず安心したけどな」
「兄貴!」
「蓮さん! どうしてここに?」
 寺烏真 蓮。礼の実兄にして、次期住職の現役僧侶。もちろん寺生まれで霊感が強い。礼よりもずっと。
「可愛い弟が『助けて』なんて連絡してきたから、爺ちゃんに仕事全部投げて飛んできたぞ。後で親父にブッ飛ばされる覚悟決めてきたんだ、沢山感謝しろよな!」

 タイミング良く蓮が来てくれたおかげで言い争いは中断し、三人はとりあえず部屋の中に移動した。礼と仁の間には気まずい空気が流れていたが、その間に座った蓮がこれまでのいきさつを聞いているうちに幾分か冷静さが戻ってきた。
「ともあれ、礼が一人で抱え込まずに小生に連絡してくれたのは大正解だったな。礼が首を突っ込むにはヤバすぎる案件だ。親父にバレたら大学辞めさせて、実家に戻すと言われかねんぞ? 兄ちゃんとて本当はそうしたいところだが……今回は特別、内緒にしてやる。今日だって『礼に会いたくなったから行く』としか話してないから安心しろ」
「うん、ありがとう」
 兄に素直に感謝を述べる礼は、平素より幼く見えた。妙に達観した雰囲気の無い、十代の少年らしい年相応の笑顔。仁はどんな礼でも好きだが、地元でよく見せていたこちらの表情の方が好きだった。
「それで……蓮さんから見て、深雪って奴はどんな感じですか。いくら蓮さんでも祓えない……ですよね」
 仁としては、兄からも礼を止めて欲しかった。しかし、蓮の返答は意外なものだった。
「対応はできるぞ」
「できるんですか⁈」
「礼、親父から貰った数珠は残ってるか?」
「ああ、全部は拾いきれなかったんだけど……」
 礼は、あのとき弾け飛んだ数珠を極力回収していた。蓮は数珠の残骸を一粒手のひらに載せて様子を見ると、何やら確信して頷いた。
「これはな、親父が礼を守るために法力をこめておいた特製の数珠だ。悪霊の類を浄化する効果がある。だが、効果はそれだけだ」
「どういうことですか?」
「悪霊には効くけど、神霊は想定してないってことだ。神霊は見たら逃げろって教えてるからな。もし神霊にこれを当てても、何も起こらない」
「えっ、それじゃあ……」
「これを当てたら焼けたようなにおいがして、爆発して腕が消し飛んだんだよな。数珠からも役目を終えた気配がする。悪霊から礼を守るという役目をな。だからそいつは神霊じゃない。悪霊だよ」
 兄の発言に、礼はかなり驚いていた。
「マジかよ……俺には神霊に感じられたんだけどな」
「礼がそう思うのも無理ないよ。深雪本人も自分が悪霊になってるなんて思ってないかも……いや、信じたくないのかもな」
「悪霊になった?」
「たぶん、元は神霊だった。それが何らかの理由で穢れ悪霊になったんだろう。だが腐っても元神霊だからな、人間にとってかなり危険な存在なのは変わりない。礼が神霊だと思ったのは厳密には間違いだが、危険な相手として警戒した判断は正解だった。今の礼だけでは祓えないだろうからな」
「……」
 自身の未熟さに落ち込み黙ってしまった礼を、蓮は笑いながら励まして頭をくしゃくしゃ撫でた。
「礼は坊さんになるつもりなくて、親父の修行も受けてないだろ。普通は礼くらいの知識と技量で十分すぎるくらいなんだよ。神霊に近い悪霊なんてそうそうお目にかかれるものじゃない」
「でも実際いたじゃん……」
「だから、兄ちゃんを呼んでくれたんだろ。任せろって、小生は親父の跡を継ぐために容赦なく鍛えられたプロだぜ。遠慮なく甘えてくれ」
「兄ちゃん……頼んで良かった……」
 いつの間にか『兄貴』呼びが『兄ちゃん』になってるし。仁は真顔で兄弟を見つめていた。
 小学生か中学の初めごろまでは確か『兄ちゃん』呼びしていたと思う。今になってこれが出るときは、大きめのお願い事をしたいときだ。まさに今だ。礼はいつもはかっこつけてるくせに、歳の離れた兄の蓮には無自覚に態度を変える。蓮は相変わらずチョロい。礼がちょっと可愛く甘えれば一発で言うことをきく。そもそもスマホのメッセージひとつで仕事も放り出して即駆けつけてくる時点でお察しだ。仁すら引くほどのブラコンなのだ。
「兄ちゃんが一緒なら楽勝だよな、ありがとう兄ちゃん! 愛してる!」
 ていうか、昔から蓮さん限定のこの甘えん坊キャラが憎い。だって可愛いすぎるから。恥ずかしくないのかよ十九にもなって上目遣いであんな目大きくして、俺だって愛してるなんて言われて抱きつかれてみたいよ。
 とまあ、仁の荒れ狂う心の声はこのくらいにして。
「まあ落ち着け礼」
「まず蓮さんが落ち着いてください」
「小生はいつだって冷静に礼の可愛いさを目に焼き付けているが? いや、話はそこじゃなくて。正直、『対応はできる』だけで楽勝ではないぞ。そのへんの悪霊のように完全に祓えるとも思っていない。力を削いで、その間に水蜜さんとやらを救出するくらいが現実的なんだが……もし徹底的に叩きのめすならなあ……『少しでも神霊の要素があって』『相当な覚悟決めた殺気を深雪に向けられて』『深雪からの攻撃を避けられる身体能力のある』協力的な怪異の知り合いでもいれば話は別だがな。そんな都合のいい奴が……」
「いる」
「いるのかよ」
「おい、出てきていいぞ」
 礼が部屋のクローゼットに向かって声をかけた。すると中から少年が二人出てきた。
「赤いのが梅で、黒いのが杏だ。水蜜さんの息子」
「礼……お前、DV男に追われてる上にシンママでもある怪異と同棲してるのか……」
 兄が弟の爛れた生活を嘆いている。この双子の父親が礼であることは、蓮と仁には黙っておいた方がいいだろう。大変なことになりそうだ。
 ともあれ、双子の存在は最近復活したものであり、郷徒の調査網にはまだ入っていなかった。そのため礼の自宅に隠れたまま、怪異対策課には連れて行かれずに済んでいたのである。
「お前ら、大好きな母様が連れて行かれて、このまま押し入れに籠ってるなんて言わないよなあ?」
 水蜜が去って以来、すっかり意気消沈してしまっている二人に礼が発破を掛ける。
「当然だ……あの深雪の首を落として肉片の山に変えてやれるなら、どんな手を使ってでも構わん」
「だが、今の僕達の実力では……」
「よし、じゃあこの坊主の立てる作戦に乗っちゃくれないか、童子の姿だがそれなりの神霊だとお見受けする」
 蓮が双子の肩を両手で抱き寄せ豪快に笑った。
「ふん、礼よりはまともな坊主のようだ」
「昔から坊主というものは清廉ぶって腹黒いと相場が決まっています。敵にすると鬱陶しいが、深雪を痛快に陥れてくれるのなら協力しましょう」
「よし、決まりだな。じゃあまずは……」
 礼のスマートフォンの着信音が鳴り響いた。すかさず応対する礼を、他の面々が固唾を呑んで見守っていた。電話を切った礼は、深刻な表情でため息をついた。
「怪異対策課の人たちの作戦が失敗して、水蜜さんが深雪に連れて行かれたって……霊能者の人が三人亡くなって、郷徒さんも入院だって」
「そんな……」
「で、水蜜さんから去り際に伝言で……助けに来て欲しいって」
 正確には『礼に助けに来て欲しい』との伝言だったが、仁の手前そこはぼかした。
「はあ⁈ ふざけんなよ、プロが三人も死んでるのにか」
「まあ落ち着け、仁君」
 激怒する仁を宥めつつも、蓮は口元に手をやって思案していた。
「それにしても、対策課の集めた精鋭が……珍しいな」
「兄貴、怪異対策課知ってたの?」
「礼には話したことなかったか? 小生も親父も依頼されて出張したことあるぜ。坊主に限らず、神社の関係者から陰陽師、有名な拝み屋とか、日本では珍しいけどエクソシストとか……なんでもありの人脈だからほとんどの怪異に対応できるんだかな。余程最悪な地雷を踏んじまったんだろう……さて、小生も気合い入れなおさないとなあ」
 蓮は自身の頬を両手で叩いて気合いを入れた。
「蓮さん、この状況でやる気なんですか?」
「やってやるさ。礼の頼みってのも勿論あるが……神霊が味方について元神霊殺し、怪異対策課のいけすかない連中をだし抜けるとありゃ男の意地ってのもあるわな」
「はあぁ……この兄弟は……!」
「仁君もいい加減観念しとけ。礼はやると決めたら聞かんのは仁君もよーく知ってるだろ」
「そうですけどね! こういうところが嫌い! で、俺は何すればいいんですか蓮さん」
「仁……! ありがとうな!」
 ついに仁が折れた。それに感激した礼が思い切り抱きついてきて……これは蓮がブラコンで馬鹿になるのを笑えない、俺も相当たらし込まれてるな。と思う仁であった。
「よっしゃ、足並み揃ったところで作戦開始だ! しばらくは遠くに移動することは無いと踏んでるが、急いで準備するぞ。礼と仁君にはちょっと頼みたいことがある。小生は双子君たちと打ち合わせだ。準備が完了したら一旦ここに集合。やるぞ、元・神霊殺し!」

***

 礼と仁は大学に向かった。まっすぐ向かったのは、郷美の研究室だ。部屋の主が入院中のため、当然のように施錠されていた。
「そりゃそうだよな……今から病院行って郷美先生に鍵貸してもらえるかな?」
「学生課に事情を話して……でもどう説明すれば」
「何を騒いでいる」
「豊島先輩!」
 背後から声をかけてきたのは、郷美ゼミ所属の四年生・豊島だった。ゼミ長にして郷美からの信頼も厚い彼は、研究室の合鍵を預かっている。今の礼たちには救世主だ。
「お願いします、研究室に入らせてください」
「待て、郷美先生は現在どうなさっているんだ。救急車で病院に運ばれたとしか聞いていないんだ」
「今は奥さんが看病されていると思います。骨折しててしばらく入院になるとは思うんですが、意識はあるし命に別状は無いとのことです。ただ、精神的に参ってるらしいからスマホとかはご家族が預かってるんじゃないかと」
「豊島先輩も奥さんの連絡先はご存知でしたよね? 多分普通に連絡とって大丈夫ですよ。様子聞いてお見舞い行ってあげてください。豊島先輩と会ったら先生もきっと嬉しいですよ」
「そう、か……」
 豊島の険しい表情が、安堵でわずかに緩む。彼の郷美への敬愛は自他共に認めるすさまじいもので、その奥に恋慕すら隠している。郷美が暴行を受けて救急車で運ばれた、とだけ知らされてこの一週間、気が気では無かっただろう。
「それで……そんなに急いで、研究室で何をする気だった」
「それが……」
 礼がこれまでの経緯を説明した。
「郷美先生を襲って水蜜さんを連れ去った怪異……深雪って奴を、俺たちでなんとかしようと作戦を立てています」
「怪異専門の国家公務員が返り討ちに遭った相手をか」
「怪異対策課に足りなかったのは、深雪に関する情報です。水蜜さんは郷徒さんにあまり良い印象を持ってないみたいだった。だから知ってることもどうせ教えてません」
「そんな態度で助けて欲しい、などと……怪異というのは本当にわけのわからん連中だな。本当に救いにいく意味はあるのか?」
「その辺りは帰ってきたら郷美先生や俺たちでガッツリ怒るべきですね。救いに行く意味は……俺が水蜜さんを助けに行きたい、ってのが一番だけど。このままじゃ、郷美先生も落ち込んだままだし。水蜜さんは、先生の大事な親友でもあるから」
「はあ……寺烏真、お前は大概煽るのが上手いな。私にも協力しろというわけか。で、何をしろと」
「欲しいのは、研究室の中にある郷美先生のメモです。水蜜さんから長年話を聞いた記録です。その中に、深雪をなんとかする手がかりがあるはずなんです」
「本人に聞ければ早いんですけど、入院してますからね……でもさ礼、研究室の中って本も資料もとんでもない量だったよな? しらみつぶしに探して行ったら時間がいくらあっても足りなくないか?」
「長七、ここにいるのが誰だと思っている。郷美先生が直近で必要とされる文献や書類を把握し、書庫を整頓しておくことは他でもない。私の役目だ。書類やデータの位置は大体把握している」
「す、すごい……!」
「インタビューのメモ扱いか、佐藤との会話は私的なものだと判断するなら日記的な記録に混ざっているか……何ヶ所か心当たりはあるが、そういうのはおそらく紙の資料だからパソコンで検索はできない。探すのは力仕事だぞ。時間もかかる」
「そのために仁についてきてもらいました。男三人がかりで探しましょう」

 礼の狙い通り、郷美は水蜜から聴いた話を事細かに記録しており、ある程度時代順に整理もしていた。深雪と行動していたであろう江戸時代付近の記録が確認されたときはにわかに盛り上がり、あとはひたすら深雪に関する記述を拾う作業にとりかかった。
「あとは、深雪が今どこにいるかなんだけど……」
「奴ならわかりやすく棲みついているだろうが。繁華街の雑居ビル。あからさまに反社会的な連中が入居しているので有名なところだな」
 あっさりと豊島が返したものだから驚いた。
「なんで知ってるんですか⁈」
「繁華街って、ここから結構離れてますよね」
「あんな異様な殺気、街のどこにいてもわかる」
 伏目がちになれば、金色に透ける長い睫毛が碧眼を覆う。よほど強く感じとっているらしい、心底不快そうな表情だった。
 豊島は祖父が悪魔祓いの家系で霊感が強いとは聞いていたものの、感知能力の高さは礼を超えているらしい。嬉しい誤算だ。
「同じところを中心に外出したり戻ったりを繰り返しているから、そこが根城で間違いないだろう。もう少し近づけば佐藤が監禁されているかも気配で確認できるかもしれん。明日行ってみる」
「豊島先輩、あんまり危ないことしなくていいですよ」
「私単独でなら顔も知られていないから問題なかろう。私に悪魔を祓う力はない。敵意も悟られないはずだ。目下敵視されているのはお前らだろうしな。で、どうだ。この資料と奴の位置情報。それだけあれば勝算はあるのか」
「あります。もう少し準備は必要だけど」
「すぐに遠くに逃げることはないだろうが、急げよ。私に出来るのは気配の感知くらいなものだが、遠慮なく使え」
 礼にはいつもぶっきらぼうな物言いだが、芯に誠実さがあることはよくわかる。いい先輩だ。
「私が母方の祖父と会ったのは幼い頃に数えるほどだが……こんなことなら、つまらん御伽話だと思っていた悪魔祓いの話も、ノウハウの詰まった文献らしき古本の山も継承すべきだった。今猛烈に後悔している。郷美先生を傷つけた悪魔を、この手で灰にして海にでも撒き散らしてやりたかったものを……!」
 とてもいい先輩だ。郷美先生ガチ勢すぎて、たまに……しばしば、激しすぎる以外は。
 礼も想像はしていたものの、豊島はすさまじい怒りを内に秘めていた。深雪が大学を襲撃したとき、彼はたまたま用があって少し遠くにある他の大学に出かけていたのだ。急いで戻ってきたころには現場は警察によって封鎖されており、郷美を搬送する救急車のサイレンが遠くに響くのみ……そのときの豊島の心情は察するに余りある。
「ありがとうございます、豊島先輩。ちょっと兄貴に電話して深雪の居場所のこととか共有してきます! ついでに何か飲み物買ってくるんで!」
 ばたばたと研究室を出て行く礼を、少し疲れた表情の仁と豊島が見送る。

「……長七」
「え、はい」
「そろそろいつもの愛想のいい顔に戻せ。得意だろう、私と違って」
「先輩……?」
「寺烏真が心配でたまらないのはわかるがな、流石にその取り乱しようはただの男友達の域を超えている。怪異が恋敵とは運の悪い男だな、お前も」
「はあ……先輩にはお見通しですか。参ったな……」
「図星か? 半分冗談のつもりでかまをかけてみただけだったんだがな」
 豊島先輩も冗談とか言うんだ……と苦笑いしたきり、黙り込む仁に話しかける豊島の声は平素よりやや柔らかい響きだった。
「すまない、カミングアウトする気がないのはわかっている。ただ、あまりに酷い顔をしていたものでな」
「そんなに酷いですか」
「寺烏真も意外と鈍いというか……いや、あれは知らない素ぶりが上手い狡賢い方か」
「多分後者です……ああ、でも狡いんじゃなくて、俺が度胸無いから気遣ってくれてるんですよ。あいつ、優しいから。エグいくらい」
「似ているかもしれないな」
「そうかも」
 誰が、という主語を省きつつも。二人は納得して頷いた。
「こうなったら、あの傍迷惑な怪異に巻き込まれてやろうじゃないか。いよいよ奴の非人間ぶりが極まってきたら、寺烏真も案外愛想を尽かしてお前に落ちるかもしれんぞ」
「いや、無いっすね」
「無い、のに諦めないのか」
「それは豊島先輩には言われたくないなあ」
「寺烏真の結婚式に呼ばれたときは酒くらい奢ってやる」

「お待たせ……ってあれっ、豊島先輩と仁……なんか仲良くなってない?」
「そうかもね」
「寺烏真と違って可愛げのある後輩だからな」
「えー、俺も混ぜてくださいよ。寂しいなあ」
 仁は普段通り、爽やかな友人の装いを取り戻していて。引き続き三人で着々と準備を整えていった。

六『武神討伐作戦』

 かつて、水蜜を監禁して逃げられそうになった深雪は激昂した。勢いのまま、神気の篭った刀で水蜜の首を斬り落としてしまった。
 静まり返った一室で、深雪は黙って水蜜の首を見下ろしていた。ただ眠っているかのように目を閉じているかんばせは、命を断たれても美しく。深雪の意識は水蜜への愛、執着、憎しみ、怒りに満ちており、足元で動くはずのないものが蠢いたことに気づかなかった。
 首を斬られた時に一緒にばっさりと切り落とされ、畳に散らばった髪。白く絹糸のようなそれはひとりでに一ヶ所へ集まり、縄のように撚り合わさった。太い一本になるとみるみるうちに表面の質感が変化し、一匹の白蛇に変化した。蛇は深雪の脚にすばやく巻きつき身体を這い上る。あっと声を出す前に口の中に飛び込んでしまった。それは神性を帯びた水蜜の体の一部、凝縮された呪いの塊であった。
 深雪は呪いを喰らって穢れてしまった。
 どんな傷を負っても平然と立っているような逞しい武神が、三日三晩のたうち回るような激痛を呪いはもたらした。その間は苦痛以外何も感じられず。なんとか平静を取り戻したころには、彼の前から水蜜は消えていた。水蜜は死んでいなかったのだ。なんとか首と体をつなぎ、命からがら逃げ延びた後だった。
 水蜜は神実村に逃げ帰った。深雪は水蜜の故郷の話を大して聞きたがらなかったため正確な場所を知らず、追ってくることがなかったのはせめてもの救いであった。
 当時の神実村に、霊感の優れた者は一人もいなかった。弱った水蜜の姿を見られる人間は、頼みの郷美家にも産まれておらず。ふるさとを息子たちに任せきりにして、しばらく江戸で遊び歩いていた報いか……一抹の寂しさを抱えながら、社に籠ってひたすら回復に専念した。なんとか出歩けるようになり、久しぶりに交流できた人間こそ、幼い頃の郷美正太郎であった。実に百年以上の時が経っていた。
 その後の水蜜については、正太郎や礼が知る通りである。首には今でも傷が残り、少し力を入れれば外れてしまう脆さのまま。どんな傷でも綺麗に無くしてしまう水蜜に、唯一残った傷跡となった。深雪を呪うために使われた髪も元通りにはならなかった。長さは取り戻せても、首の傷を境に下半分だけ黒く染まってしまった。生前は黒髪であったので気にしていないと、本人は言うけれど。

「本当にすまないことをしたと思っている」
 何色になっても艶やかに煌めく、その長髪を武骨な指先が掬い上げ口付ける。巨体を丸めて素直に非を認める、深雪の様子に水蜜は目を丸くした。
「驚いた。雪ちゃんがこんなに素直にごめんなさいするなんて。この百余年のうちに何があったのさ」
「おまえのいない世の中があった」
 水蜜を見失った後、深雪は全国を彷徨っていた。弱りきった水蜜を気配で追うことはできず、しらみつぶしにそれらしい村を見て回った。虚しく孤独な日々だった。
 水蜜が元気になって、街まで出てきたことでやっと感知することができた。すぐに駆けつけて、繁華街にあった雑居ビルを占拠。暴力団関係の事務所だったが深雪の暴虐に敵う人間はおらず、使い走りとして水蜜の居場所を調べさせられる始末だった。それで大学にいることを知り、ついに水蜜に手が届いたのだった。
 そして今もそのビルを根城に、攫ってきた水蜜を口説き落とそうとしている。水蜜は逃げ出すような行動はせず、大人しくしていたがそれだけだった。深雪がどれだけ想いを語ろうと、怒りもせず喜びもせず。ただ静かに微笑んでいるばかりだった。
「殺せなかったのは幸運であった。もしあのままおまえが、あっけなく死んでいたら……おれはこうして詫びることも叶わず、死んだも同然になっていただろう」
「そんなことないよ。雪ちゃんには他にも良い出会いがきっとあるって。私がいなくてもさ」
「そんなことを言うな」
 人間の頭を片手で握り潰せる、大きな掌が水蜜のたおやかな手をとって握り込む。指先の神経まで気を遣い、力を絞って、全身全霊の優しさを伝える。
「蜜、おれの伴侶になってくれ」
「だからそれはダメって言ったでしょ」
「二度とあのような愚行は犯すまい。一人で出歩かせるのは心配だが、籠の中に仕舞い込むのもやめる。気に入った人間を飼うのも……腹は立つが我慢する。他にもおれの嫌なところがあるなら言え」
「あのね、私は雪ちゃんが嫌いだから拒んでるんじゃないよ。雪ちゃんのこと、今でも大好きだよ。愛してる」
「だったら何故……!」
「雪ちゃん以外にも、誰に言われてもそうだよ。人間の婚姻に無理矢理付き合わされたことはあるけど、それも死んだらそれまで。全てを捧げたことは一度もない。だって……みんないつか、わたしをおいていくから」
「おれは違う」
「そうだね、雪ちゃんは人間とはちょっと違った……だけど。結局同じなんだよ」
 水蜜は、深雪に握られた手をそっと振り解いた。
「君はいずれ滅ぶ。もしくは滅ぼされる。だから、それまでなら。愛し続けようと思っているよ」

 突然、深雪が膝をついた。何故そうなったのかわかっていないようで、驚きながらも無理矢理力を込めて立ち上がった。まるで深雪の体だけ重力が何倍にもなったような負荷が掛かっている。
「結界だねえ」
 水蜜には影響が無いようで、結界の気配を探りながらきょろきょろと辺りを見回している。
「線香くさい……坊主の仕業だな。おれの腕を吹き飛ばしたあの小僧か」
「礼くんかなあ……あの子はお坊さんになる修行はまだしていないらしいから、こんなスゴいことできないと思うけどなあ。この短期間でマスターできたのか、それとも……」
「チッ、なんでもいい。とにかく術者を殺せば、この気色の悪い結界はなくなるだろう。ふてぶてしい奴だ、すぐ近くに気配がある。さっさと斬り捨てる」
 来い、と水蜜の手を引く。どこかに隠しておくとまた消えてしまうかもしれない、側に置いて守りながら戦う方がずっと安心だ。深雪の揺るぎない戦闘能力への自信が伺えた。当然のことだ、相手は取るに足らない人間なのだから。

 礼と蓮の二人は、ちょうど深雪たちの真上――ビルの屋上に陣取っていた。
「おう、来なすった」
「大学で見たのとは少し見た目が……人間じゃなくなってるけど。あれが深雪だ。間違いない」
 礼は郷徒の伝手で怪異対策課の権限を借り、こっそりビルに侵入していた。その前にビルの周りを結界で囲い、先手を打つことも忘れなかった。
 深雪は人間を侮っている。そこがわずかな勝機に繋がっている。
「なるほど確かに、元はさぞ立派な神霊でいらっしゃったのだろうな……礼が間違えるのも無理はない。だが、今は違う。神性の大部分を失って悪霊に堕ちかけてる。いや、ほぼ堕ちてるなあれは」
 すさまじい憎悪の念を放つ怪異を前にしても、蓮は飄々とした態度を崩さない。礼と並び立つ彼はまだ若く、僧侶としてはまだ貫禄に欠ける青年であった。だが、その実力は確かなものだ。
 姿を現した深雪を観察しつつ、袖に隠れた手で印を結んでいる。並の悪霊であれば、蓮が結界を張った時点で消滅しているはずだった。しかし深雪は一度は膝をついた重圧を跳ね除け、術者を探して的確に近づいてきた。猛獣に捕獲用の強力ネットをかけたが、かけたそばから引きちぎられそうになっているようなものだ。それに対して蓮は、リアルタイムで破られた結界を修復し続けている。辛うじて最低限の拘束を保っていた。おかげで、深雪の視界に入っても襲われずに済んでいる。
「やっぱ、すげえな兄貴は……あのさ、俺もやっぱり親父に修行頼もうかと思ってるんだ。大学はきちんと卒業してからにするけど。寺は継がないにしても、兄貴くらい人を守れるようになりたい」
「礼は好きな仕事選べばいいのになあ……ヤバいぞ、親父の修行」
 口では止めつつも、可愛い弟から憧れの視線を向けられ悪い気はしない。蓮はだらしなく目尻を下げて喜んでいた。
「うん……地元を離れて怪異と関わらなきゃいいって思ってたけど。違ってた。俺は、生きてる限りこういうことに関わらなきゃいけないみたいだから」
「そうか……礼も大人になったんだな」
 兄は可愛い弟の成長に目頭を熱くさせた。
「兄弟最期の別れはもう済んだか?」
 深雪が口を開く。
「あの小癪な数珠を作って小僧に持たせたのは貴様か」
「あれは親父が作ったもんだな」
「ならば父親までまとめて連れてこい。随分と小僧を可愛がっていると見える、年若い者から順に首を刎ねてやろう」
「親父が子供のお守りにと作った数珠程度で腕が崩れる『悪霊』がデカい口叩いたな。小生が出るのすら過剰戦力なのをわからせてやる。可愛い弟を虐めるクソ野郎だ、その馬鹿でかい煩悩ごと消滅させてやるから覚悟しろよ」
 深雪にかかっている重圧が増す。礼たちと対峙したまま、深雪は再び動けなくなった。
「礼、こうして抑えておけるのはそう長くない。次の手順は頼んだぞ」
「ああ。兄貴がくれた時間、無駄にはしない」
 礼だけが前に歩み出た。
「こうしていつまで時間を稼ぐつもりだ。おれが動けるようになったら、即斬り捨てられる運命は変わらぬものを」
「そいつはどうかな。兄貴に時間を作ってもらったのは、お前の残りわずかな神性を引っぺがすためだ。お前がハッタリかましてるだけだってことを証明して、力を削ぐ」
「何……?」
「お前、自分の過去のこと何も覚えていないんだろ。どこで生まれたのか、どう信仰されたのかもわからないのに、自分を勝手に武神だと信じてる。その馬鹿げた思い込みを正してやるって言ってんだよ」
 礼も蓮も、あえて無礼で挑発的な態度をとり深雪を煽っている。これも作戦だ。神様として敬う態度はとらない。あくまで『ただの悪霊』として扱うことで相手を同レベルまで堕とそうというのだ。下手をすれば激怒した深雪に一瞬で命を奪われかねない、無謀な作戦なのだが。
 深雪が身動き取れないのをいいことに、礼はさらに捲し立てた。

「まず、お前が神じゃないという証明からしてやる。郷美先生は、水蜜さんから長年話を聞いていた情報を元に深雪、お前がどんな神だったのかルーツを知ろうとしていた。全国の色々な神様の言い伝えを調べて、神としての本当の名前を見つけようとした。だが、見つからなかった」
 郷美は日本有数の民俗学者で、日本の土着信仰に関しての知識で勝る者はそうそういない。そんな彼でも、深雪の正体に辿り着けなかった。誰の、どこの記録・記憶にも残っていなかった。
 人間に忘れ去られ、信仰を失って長い時間が経った神霊は神の形を保てなくなるはずだ。だが深雪は、自身の信念で神霊であり続けようと耐えていると思われる。凄まじく強靭な精神だ。だが……彼を動揺させることができれば、その最後の砦も崩れ去る。
「探しても無かったのが証拠……それだけじゃスッキリしないよな。だから、もう一個面白い話をしてやる。見つかったんだよ、江戸時代のお前についての記録が。唯一、現代まで残る言い伝えが。だがそれは、信仰による神性を得られるようなものじゃなかった。どんな内容だったと思う?」
 深雪の後ろで、水蜜が心配そうな表情で佇んでいる。それを見ただけで、礼の恐怖心は和らいだ。そう、怖いに決まっている。少しでも深雪に行動を許せば、礼は即死する。だが、礼は精一杯のはったりで嘲笑い、深雪をさらに挑発する。『神様は人間と同レベルに怒ったりしない』と、深雪の格を貶めるために。
「狐の夫婦」
「……?」
「江戸時代の有名な作家が書いた物語。男を次々狂わせる、謎の花魁の正体は妖狐。町娘に化けて遊郭を飛び出し、江戸の街を騒がせる。それに振り回されるは、同じく妖狐が化けた侍。狐の夫婦が人間のふりをして仲睦まじく過ごす様子を、見守る人間たちの目撃証言を集めた形式で描いたほのぼの話だってさ。随分と可愛らしく見られてたもんだな、深雪ちゃんは」
「っ……!」
 そのとき深雪に湧き上がった激しい感情は、狐と間違われ愚弄された怒りに非ず。それを見抜いているのか、後ろにいた水蜜が笑って言う。
「ふふっ……狐に間違われるの、懐かしいね。それも二人揃って。あの頃の人間たちは、そんなふうに私たちを見てたんだ。ねえ、雪ちゃん」
 確かに、幸せだった。満たされていた。長続きしない、束の間の夢だったとしても。自らの手で終わらせてしまったのだ。一時の激情に任せて、壊して台無しにした。
「夫婦にはなれないし……あの頃とまったく同じには戻れないけどさ。私たち、また穏やかに過ごせる関係に戻れないかな」
「……だ、まれ……黙れ、黙れ黙れ黙れ!」
 凄まじい後悔。ぶつけようのない怒り。
「とっくに自覚してるんだろ。戦う力を振るったことに後悔するなんて武神じゃない。一人の誰かに愛されたいと願うなんて、神じゃないんだよ」
 礼は確信した。深雪が放っていた神気が消えている。今ならわかる。兄の言った通り、もはや彼はただの悪霊だ。今まで必死に取り繕ってきた神の粧いが、完全に剥がれ落ちていた。
「人間の餓鬼ごときが……姑息な真似を……!」
「ああ、俺は修行もしてないただの一般人だよ。刀持った怪異と正々堂々一騎打ちなんてするわけねーだろ」
「そこまでおれを畏れておきながら、何故ここまで命知らずなことをする」
「水蜜さんが、俺に『助けて』って言ったから。で、俺も水蜜さんのこと好きだから。それだけ」
「……渡さぬ」
「礼、そろそろ下がれ! こいつ開き直りやがった、もうすぐ突破される……!」
「わかった! 頼むぜ、幸梅、杏寿!」
 間もなく動き出そうとしている、深雪の前に立ち塞がったのは二人の少年。礼が挑発して注意を引いているうちに水蜜を連れて、蓮の背後まで保護し終わっていた。礼も蓮と水蜜がいるところまで下がり、後を託した。
「トドメを刺すのはお前らの役目だ」
「言われずとも。母様の仇は我等が討つ」
「どんな切り札があるかと思えば……そんな餓鬼どもは、一時の盾にもならんぞ」
 深雪が脅せば、また怯えて動けなくなると侮るも。今の彼らは一歩も退くことなく、勇敢な表情を崩さなかった。礼は二人に全幅の信頼を寄せ、最後のひと煽りを浴びせかける。
「知ってるか? こいつら今は俺の息子なんだぜ。あんたは水蜜さんの可愛い子どもたちを目の前で殺したらしいが、俺が水蜜さんと共同作業して子どもを復活させたんだよ。どっちが一緒にいて安心するかなんて、誰が見ても明らかだよなあ?」
「もう、礼くんたら……」
 片手で水蜜の腰を引き寄せ、躊躇うことなく中指を立てる。そのジェスチャーの意味を深雪は知らない。しかし、全力で侮辱されていることははっきりと伝わっていた。
「……殺す」
「ああ、つくづく気に触る小僧だ。早く死んでほしい」
 貴様もそう思うだろう? こればかりは気が合うな。だが今ここで殺されるのは深雪、貴様だけだ。死ね。
 そう吐き捨てるのは、赤く燃えるような髪を靡かせる少年・幸梅。
「確かにあやつは生意気、僕も大嫌い……でも今はそれを上回って気分が良いです。みるも無惨に朽ちはてた武神が、今やただの悪霊。人間の小僧ごときに言われたい放題。無様、無様」
 漆黒の肌の奥、黒曜石のごとき眼球を輝かせて嘲笑うのは幸梅の双子の弟・杏寿。
 二人ともかつては深雪になす術もなく敗北し、この世で唯一愛する母を守れず、そのうなじに刃を振り下ろされるさまを見ていることしかできなかった。頭の骨まで砕かれて、原型のわからない肉片にされても。床にころがった眼球に焼きつけられた光景は今も忘れていない。
 水蜜とまったく同じ、夜空の如き紫の瞳が四つ。まっすぐに深雪を睨んでいる。
 幸梅の持つ出刃包丁が光を帯びて、鮪を解体する包丁のように大きく長くなっていく。
 杏寿の持つ玄翁も光りながら膨れ上がり、スレッジハンマー並みの大きさになった。華奢な少年の身体に似合わぬ怪力で軽々振りかざすと、深雪に向かって突進した。
 まだ身体が思うように動かない深雪の、まずは腕を殴りつけて刀を落とす。振り抜いてからすかさず返して大きく振りかぶり、上から思い切り振り下ろして脳天をしたたかに打った。事前に蓮による加持で悪霊退散の力を付与されていた武器は、果たして深雪に有効な一撃を加えた。
 だが、腐っても元武神である。普通の人間であれば西瓜のように頭蓋を砕かれるような一撃、それを肉体の強靭さのみで耐えた。倒れることなく膝もつかず、ただお辞儀をするように上半身が前に傾いただけときたものだ。つくづく化け物である。
 しかし、杏寿としてはそれでよかった。彼の攻撃は、兄に繋ぐトスに過ぎないのだから。首を垂れる深雪の真上には、すでに幸梅が天高く飛び上がっていた。
「長く、永く屈辱に這いつくばる日々であった」
「母様の痛みを知れ」
 落下しながら、もはや刀のような包丁を力一杯振り下ろす。狙いは絶対に逸らさない、ただ一点、憎き敵の太い首筋を狙って。
 幸梅が、深雪の首をばっさりと斬った。

 深雪の首は重力に任せて地に落ち、巨体はうつ伏せに倒れた。そして、そのまま動かなくなった。
「やった……やれた……のか?」
 幸梅と杏寿が近づいて観察するが、深雪が動く様子はない。見開かれたままの瞳は虚で、意識があるかどうかは定かではない。
 切断面からは、その純白の容姿からは想像もつかないような、悍ましい黒色の液体がどろりどろりと溢れ出ていた。水蜜からの呪いで蝕まれ、身体の中身はとっくに悪霊化していたことが白日の下に晒された。
「死んだ……わけじゃないんだよな」
「かつての母様と同じで、一時的に動けなくなっただけだ。今のこやつがどれくらいで立ち上がるかわからんが……しばらくは無様に転がっているだろう。しかし、郷徒の餓鬼が仕切っているという人間どもの『怪異対策課』とやらは本当にこやつを封じておけるのか? 信用ならんな……」
 幸梅たちも、何故か郷徒家に厳しい。戸惑う礼をよそに、蓮はてきぱきと後片付けをはじめていた。
「小生たちが集めた情報を提供すれば問題なかろう。僧侶なり陰陽師なり、強力な悪霊に強い人は小生なんかよりスゴい先輩方がいくらでもいる。それに、深雪とやらも誇り高い武人だったようだからな。一度敗北した相手にはそれなりに敬意を払ってくれるはずだ。復活したところで、再び暴れるような真似はしない。そう信じたいが……」
「みんな、ありがとう。あとは私に任せて」
「水蜜さん?」
 礼の後ろで状況を静観していた水蜜が前に出て、深雪に近づいた。首を切り落とされ動いたり話したりすることは不可能でも、深雪から水蜜のことは見えていたらしい。深雪の体から流れ出る怨念の気配が、微かに和らいだように感じられた。
「ごめんね雪ちゃん。寂しかったんだよね」
 黒い泥のような血で汚れた白い髪を、水蜜の細い指先が撫でる。
「雪ちゃんほどの神霊に、わたしの蠱惑体質なんて効くはずなかった。でも、雪ちゃんはすごく寂しがりやだったから。お酒に溺れるように、自らわたしの力を受け入れて、狂ってしまったんだよね」
 今更何を言っても、許されることではないけれど。
「わたしは今でも、雪ちゃんのこと大好きだよ。それは本当だよ。だから、穏やかに、静かに生きていこうよ。もう、怪異が目立っていい時代じゃないんだ」
 水蜜はしゃがんで手を伸ばし、深雪の頭部を持ち上げた。頭だけでも相当な重さだ。服が汚れるのも構わずに両手と胸でしっかりと抱きかかえ、甘い甘い声で囁いた。
「雪ちゃんはずっとわたしを感じていたいんだよね。大丈夫だよ、ほら。お互い首を切られておあいこってことでさ。わたしたち、お揃いね」
 額にそっと口付けられ、深雪の瞼がゆっくりと閉じていった。返事は何もなかったけれど、今後はもう少し穏やかな存在になってくれるのではないか。一同そんな気がして、やっと緊張の糸が解けた。
 蓮と礼は二人並び、生首を抱きしめて陶然と微笑む妖しい立ち姿の怪異を眺めていた。
「まったく罪な美人だね、神様をあんなふうに誑かし、堕としちまうとは……」
「これ、やっぱり俺たち、壮大な痴話喧嘩に巻き込まれただけなんだよなあ」
 深雪の頭部は持参した急拵えの首桶に収められ、とりあえずしばらくは復活できないと見込んで簡単なお札を貼った。身体は大きすぎるので、適当に布を被せてそのまま。怪異対策課に電話して、礼たちの仕事は完了。
「雪ちゃんには、話すだけじゃ永遠にわかってもらえなかったと思う。戦って負けたから納得してくれた……と思う。みんながここまで追い詰めてくれたおかげだよ。本当にありがとうね」
 いつも通り朗らかに笑う水蜜に、礼も呆れて文句をこぼす。
「兄貴が手伝ってくれたから良かったものの、俺の手に負える事件じゃなかったよ? これ……死にそうなことを気軽に頼むのはもうやめてよね」
「気軽には頼んでないもん! 礼くんの他に頼める人いなかったんだ……」
 はじめて会話したときと同じだな、と礼はそれ以上怒れなくなってしまう。
「それにね、礼くんだからできたんだよ。礼くんだから手を貸してくれた人がたくさんいて、その中の誰が欠けても上手くいかなかった。梅ちゃんも杏ちゃんも口ではああ言ってるけど、礼くんのことは気に入ってるみたいだもの。だから頑張れたんだと思う。礼くんのそういうとこ、みんなに愛されてるところが大好き」
 そう言って、水蜜が礼に抱きつこうとしたところで……不意に礼の体が後ろに引かれて空振りに終わる。
「この場は一件落着! 仁君たちも心配して待ってるし、さっさと対策課に引き継いで小生たちは撤収だ! 本日の英雄様たちが寝ちまったから、礼、どちらか一人おぶってくれ」
 幸梅と杏寿は勇ましく戦ったが、内心ではよほど怖くて疲れていたらしい。張り詰めていた気が抜けて、二人仲良くもたれあって眠ってしまっていた。蓮が手のひらを打って大きめの音を立てても起きる気配はない。が、礼と水蜜がいい雰囲気になりかけていたのは見事に打ち破られた。礼には元々効いていなかったが、水蜜が放つ蠱惑の気が綺麗に祓われている。
「えへへ……礼くんのお兄さんにもいっぱい感謝しないとねー。それに色々聞いてみたいなあ。子どものころの礼くんの話とか」
「一晩中語れるが覚悟はできてるか? 礼は見ての通り今でも最高に可愛いが、昔は身体が小さくて手足も細くてな。しょっちゅう女の子と間違われては、クソ雄怪異が神を偽称して嫁に欲しいとかエロい目で見てきたもんだ。そのおかげで小生、怪異祓いの修行には困らんかったが……そういえば、逆に婿に欲しいと寄ってくるような訳アリ子持ちの怪異対策は経験に乏しいかもしれんなあ。試してみるか?」
「や、やっぱり悪い虫だと思われてる〜! わたし、怪しいモノじゃないです〜!」
「そこの神霊だか何だかわからんアヤシイ姐さんには、聞きたいことが山ほどあるんでね。言われなくても礼の部屋までついてくるんだろうが、一先ず休んでからまとめて全員説教だ。礼もな。きっちり絞ってやる」
「兄貴、水蜜さんは男だよ」
「は? 余計にややこしくなったな……なんだかなあ……やはり親父に言ったほうが……いや……なんかもう……今更スッパリ縁を切れる相手じゃないんだろうな」
「うん……そうなんだよ……わかってくれて嬉しい」
「礼よぉ……お前、恋人の趣味悪すぎるぞ。兄ちゃんは悲しい」
「恋人じゃねーし、友達だし! 友達は助けたいじゃん!」
「はいはい、そういういうことにしとくわ……いつか『人間の』恋人が現れて礼の怪異モテモテ体質をなんとかしてくれますように。兄ちゃんの胸にはいつでも飛び込んできていいんだぞ?」
「……うん、一人暮らしこれからも頑張るね」
「冷たいなあ」
 ともあれ、一件落着。たぶん。

七『変わらない日々へ』

【兄の憂鬱】
 礼が、世界一可愛い、小生のたった一人の弟が。大学なら実家から通えばいいのにと説得し続け、恥を捨ててじたばたしたが留めきれず、泣く泣く信じて送り出した大切な弟が。まだ一年も経っていないのに、変な怪異の恋人に魅入られてガッツリ居候されていた。
 正直、即座に引き剥がしたい。礼が調べた言い伝え通り、あれが女狐ならさっさと祓っていた。たとえ礼に恨まれたとしても、失恋の傷が癒えれば納得してくれるはずだ。だが、そうはいかなかった。礼がずるずると関わりを持ち続けているのは『惚れたから』だけではないことは、小生もすぐわかった。
 あの怪異、いかにも無害で無力でか弱いですと振る舞ってはいるがしっかりと神性を保っている。深雪のように人々に忘れ去られ、徐々に悪霊や動物霊、妖怪もどきに弱体化していく神霊が珍しくない中、あれは地元からの信仰を集めてしっかり地盤を固めている。おそらく分霊の類であろう、息子たちも揺るぎない神霊である程度には。
 よって、無理やりには介入できない。礼も来年二十歳だ。もう大人なのだから、恋愛感情とか厄介な怪異案件だとかは自分自身でなんとかすると信じている。

 だが、なあ……お社持ちの神様ではあるが、純粋な神霊とも言い難いんだよな、あいつ。
 深雪の……元は由緒正しい神様だったのであろう清らかな神体の中を、あんなにも悍しく腐らせる呪い。正直見たこと無い状態だった。
 礼に妙なものがくっついてることは、おそらく親父たちも気づいてる。だから小生が突然飛び出したのを爺ちゃんは二つ返事で引き受けてくれたし、親父も見てみぬふりをしたんだろう。さて、帰ったらどう報告したものかな。
 礼が逞しく成長していってることは誇らしいけど。小さい頃から良い子すぎたから、ちょっとはヤンチャしてみろとは思ってたけど。兄ちゃんは、こんな恋路の手助けなんかしたくなかったよ。

【武神のあとしまつ】
 深雪は、一週間ほどであっけなく復活した。
 怪異対策課は一時騒然となったが……目覚めた深雪は周りの状況を把握した後は「蜜としか話さん」と言ったきり……収容されていた地下施設を破壊することなく、大人しくしていた。
 水蜜と定期的に面会できることを条件に、深雪は人間や周りの物をむやみに攻撃しないことを約束した。
 たまたまではあるが、彼がこの街の厄介な暴力団を一掃してくれたそうで、通称マル暴と呼ばれる一部の警察官からは感謝の声すらあったそうな。江戸の街では用心棒のようなことをして金を貰っていたこともある深雪は、きちんと話せば人間にも協力的だった。水蜜と会える時以外は暇だからと、怪異対策課の仕事の手伝いすらするようになったのだとか。
「蜜がどうしようもなく尻軽なのは赦してやるほかあるまい。そういえば、蜜はおれより随分若いのだった。人間からの儚い愛情に期待するなど、じきに虚しくなる。それまで待っておいてやる」
 恋に狂っていることを除けば、少し気難しいだけのまっとうな神様なのだった。

 一方その頃。水蜜は深雪を宥める見返りに、怪異対策課に収容されず自由に生活する権利を得た。
「私はこのまま礼くんと暮らすよ。大学にも通い続ける。君たちにはもう着いて行かない。雪ちゃんが大人しくしてくれているの、誰のおかげだかよーく考えてね。 雪ちゃんは逃げようと思えばいつでも逃げられるよ。私が『今時は警察の味方になっておいたほうがいい。綺麗な信仰も集まるだろうし』ってメリットを説明してあげたから平和なんだ。わかるよね」
 いつもの朗らかな笑顔だが、淡々と捲し立てる水蜜はかなりの迫力があった。
「さあ、答えて。私はもう、好きなところに帰ってもいいんだよね」
 水蜜も無理やり収容するというのなら、深雪を暴れさせて二人で脱走する手もあるのだぞ……という圧力は明確にあったので、郷徒も首を縦に振るしかなかったのだろう。彼の立ち位置については少々同情する。

 全身あちこち骨折し、それなりに大怪我を負った郷徒であったが……最低限の治療が終わるとすぐさま退院し、礼たちの元にお礼と今後の相談に訪れた。怪異対策課がブラックなのか、郷徒が社畜体質なのかはわからない。
 諸々の対応をまとめると、こうなる。
 怪異『根くたり様』こと水蜜は郷徒の定期的な監視のもと、礼と郷美が管理するという特例扱いとなった。礼たちが水蜜に気に入られており、水蜜は深雪に気に入られているという間接的な繋がりで二人の怪異を繋ぎ止める。礼と郷美は、怪異対策課の協力者となった。
 それに関連して、礼は卒業後の就職先がほぼ内定してしまった。郷徒から、怪異対策課へのスカウトをされたのである。礼が怪異対策課の一員となれば、怪異対策課が水蜜を管理していることになるという強引な処置である。
「前に私の手帳も見せましたね。表向きは正真正銘本物の警察官です。国家公務員試験に合格した扱いになるので、どこでも胸を張って言える職業ですよ」
 とは郷徒の弁。
「怪異に対抗できるかどうかは生まれ持ったものに左右されますから。人材が見つかれば国も死に物狂いで確保にかかるんです。寺烏真さんは自力で怪異を視て、対処までできますよね。こんな才能がある方はごく稀なんですよ。是非助けていただきたい」
 とも。
 礼は最初かなり戸惑った。しかし深雪の起こした一連の事件を振り返り、前向きな返答を返した。正式な答えは家族と相談してから、四年生になった頃にとしておいた。
「でも、除霊を仕事にするからには俺も半端にはしません。就職するにしても、卒業後数年間待ってください。実家の寺で、親父に修行つけてもらってきます。得度も正式に受けます」
「得度ってなに?」
 郷徒からの誘いを隣で心配そうに聞いていた水蜜が、たまらず声を上げた。礼は安心させるよう、優しく笑い返して答える。
「ちゃんとした坊さんになるってことだよ。兄貴が寺を継ぐから俺はいいかと思ってたけど、やっぱりちゃんとしとく。今みたいな半端者じゃなく、もっと強くなって水蜜さんも、他の大切な人たちのことも守るよ」
「今の状態で十分お強いと思いましたが、まだ半端者ですか。これはすぐに、私は貴方の部下になってしまうでしょうね」
「当たり前でしょ」
「水蜜さん、郷徒さんにやたら当たり強くない?」
「礼くんにこれからも守ってもらえるの嬉しい! でも、大学生のうちはいっぱい遊ぼうね〜」
 何がともあれ、礼は大学一年生なのに就活失敗の心配は無くなってしまった。ちなみにこれは未来の話だが、ここで話し合った将来のプランは大体その通りになっていく。

「……とまあ、郷徒さんから聞いた話はこんな感じですかね……つまり、もう大丈夫です! 神実村おこしサークルとかも再開していいって。大学祭に間に合って良かった。なにより、郷美先生が退院できて安心しました。これで完全に一件落着ですね!」
「ええ……本当に寺烏真さんたちには何もかも任せきりで。ありがとうございました。感謝してもしきれません。僕は何もできなくて……」
「いやいや、郷美先生が長年水蜜さんの話を聞いてこまめに記録したり調査していてくれたおかげで、深雪の対策が完璧にできたんです。ね、豊島先輩!」
「寺烏真の言うとおりです。我々は郷美先生のお導きに従って動いたに過ぎない。そしてあの不届きな悪魔は警察の監視下、二度と娑婆には現れない。それだけのことです。今は喜びましょう。悪魔による災いが過ぎ去ったことを」
「そう、ですよね。ありがとうございます、豊島さん」
 郷美は既に講義も再開しているものの、まだ歩くときに痛みがあるそうで可能な限り豊島が腕を貸していた。いちいちもたれ掛かるのに郷美はひどく申し訳なさそうにしているが、豊島にとっては役得なので遠慮なく甘えていいと思う……とそこにいる全員が思っていた。
「そうそう! 正ちゃんが元気になってよかったー」
「まあ、何もかも元凶は佐藤さんなんだけどね」
「えー、仁くんはひどーい」
「俺はまだ、個人的には許してないから……」
「どうした、仁?」
「んーん、なんでもない。過ぎたことは何言っても仕方ないし」
「長七さんの言う通りですね。前向きに思考しましょうか。まずは学園祭に向けて、仕上げの話し合いから」
「そうそう! 私ね、村の展示をもっと見てもらうアイデアできたんだけど!」
 水蜜が勢いよく手を上げた。

 そして迎えた、学園祭当日。
 神実村おこしの展示コーナーは地味な立ち位置ながら、思ったよりも来場者が多かった。
「よう礼! 結構忙しそうだな」
 大学内で神実村の配布物を持っている人が意外と見られ、気になった仁が様子を見にやって来た。
「まあな。忙しいっていっても、配布するパンフレットの補充くらいしかすること無いけど」
「何か面白いことやってんの?」
「それがさ……水蜜さんが描いてきた村の『ゆるキャラ』の絵を急遽キーホルダーにして配ってみたら、可愛いって意外と人気出て……」
 何やら複雑な表情の礼が差し出したアクリルキーホルダーを受け取ると、仁もなんとも言えない表情になった。
「あの……これって」
「『ミユキチャン』だそうです」
「ええ……」
 水蜜は何かと器用らしく、描かれていたのはほどよく可愛らしく描かれた白い犬のようなキャラクターのイラストだった。が、目の周りや口元に施された赤い化粧には嫌というほど見覚えがある。同封された台紙には『神実村の冬に深く積もった雪をイメージしています』と、もっともらしいコメントがつけられていた。
「こんな可愛いキャラが『深雪』としてある意味信仰を集めてしまったら、本体の深雪はどうなると思う?」
「いやあ、本人とのギャップがエグすぎない? まさか……本体もこれにつられてかわいくなる……とか?」
「そうなったらいいけどな。でも大体正解」
「絵を描いたのが蜜ちゃんなのも重要ですね」
「郷美先生! いいんですかこれ」
「まあ、非公式キャラということで……人気が出たら村議会でも話題にはしてみます」
 水蜜の突拍子もない思いつきに、郷美は案外面白そうに対応していた。
「これもある意味偶像なので、人々の関心を集めたら深雪の信仰になりますよ。こうして集めた力が、ダメージ回復中の深雪の身体を埋めていくのでしたら、性格も少しは丸くなるのではないでしょうか」
「そういうものなんですか……じゃあ、ある意味あいつの力を削いでることになるのかな」
「そもそも『深雪』という名前も蜜ちゃんがつけたあだ名だったそうなのですが……忘れてしまった真名の代わりにしてしまうなんて、深雪の方は余程ぞっこんなんでしょうね。そんな健気な彼に対し、蜜ちゃんは神性を取り戻す手伝いのつもりでこの企画を出したのか、それとも意地の悪いお仕置きのつもりなのか」
「わっかんないですね……佐藤さんの考えてること、ワケわかんないな」
「わかんなくていいよ。怪異の考えてること真面目にわかろうとしても意味ないし、いいことないぜ」
 その後、ミユキチャンのグッズは各種SNSのオカルトマニアの間で地味に話題となり、神実村の旅館に女将さん手作りのぬいぐるみが飾られたりするのだが。深雪は神実村に行く機会が無くスマホの類も持たないため、本人に知られるのはかなり後のこととなった。バレた頃には手遅れで、深雪の耳のケモノ度が少し上がってふわふわになっていたとか。

【雪の降る日に】
 波乱に満ちた秋も過ぎ、礼たちは冬休みを迎えていた。
 幸梅と杏寿は相変わらず礼にはつんけんした態度をとっていたが、深雪との戦い以降少しだけ好意的になった。
 深雪を抑えておく条件として『水蜜が定期的に会いに行く』というルーティンが追加されたのだが、そのために水蜜が外出している間の双子は寂しそうだった。
 今までは水蜜がいないときはクローゼットに篭りきりだった彼らだったが、徐ろに出てきて礼にゲームの相手をしろと強請るようになったのは大きな変化だった。不安を共有しようとする程度には、礼のことを信頼するようになったようで。礼も弟ができたようで嬉しく(実年齢は双子の方が遥かに年上だが)相変わらず口の悪い二人には言い返しつつもきちんと相手をしていた。

「神実村の冬といえば牡丹鍋なのだが」
「そういえば旅館でもご馳走になったなー。こっちで猪は買えないから豚肉を味わってくれ。味噌味にして少しでもそれっぽくするか?」
「それはどうでもいいです。コンビニに寄って食後のアイスも買いなさい」
「コタツでアイス希望とは、神様たちも随分と俗っぽくなったな。神性落ちるぞ」
 吐く息は白く。別に何か特別な日でもないが、今日は昼過ぎから全員暇だったから。礼と水蜜、幸梅と杏寿の同居組四人でのんびりスーパーへ買い物に行った。夕飯はちょっと豪華な鍋を囲むのだ。
「えへへ、今日の私たち、家族みたいだね」
 水蜜が満面の笑顔で言う。寒さのせいか、礼の心に不意にささくれができてちくりと傷んだ。
 本当に、わけのわからない奴。あんなに熱烈にプロポーズしていた深雪も受け入れず、礼ともあくまで友達だと言っているくせに。今夜だって、コタツで鍋食べて、アイス食べてしばらく遊んで、風呂入って、すぐ就寝……とはいかないだろうに。
「水蜜さんさあ、性格悪いよねえ」
「なんだよ、急に」
「昨日帰ってくるまでだって、随分長いこと深雪と過ごしてたじゃん。楽しかった?」
「礼くん、寂しかったの?」
「寂しかったよ。あのさ、俺は止めないけど、いきなりは寂しいから……その時になったら、早めに教えてね」
「何を?」
「また深雪と暮らすことにしたらってこと」
「えっ、何でそうなるの!」
「嫌だぞ母様、あいつだけは嫌だ!」
「彼奴は猟犬として使うならいいが、家に置くにはやかましすぎます。毎日首を斬りたくなる」
「しないしない、雪ちゃんとは住まないったら! 礼くんも、どうしてそんなこと言うの?」
「だって良い条件じゃん。少しずつ神性も取り戻してるみたいだし、相変わらずすごく強いみたいだし。暴れてるときは怖かったけど、落ち着いたら案外話せる奴だったし。水蜜さんにはベタ惚れで、なんだって言うこときいてくれるんでしょ? 俺はあと百年もしないで死ぬよ。その前に五十年くらいしたらお爺さんだし。あいつは何百年でも待つって言ってたじゃん」
「……妬いてるの?」
「そうだよ」
 あっさり認める。
「俺だって、水蜜さんのこと好きだし。わかってたけど、実際神霊を目にしてみたら悔しかったんだよ。俺はあくまでこの時代の遊び相手なだけで、水蜜さんの一生にとっては一瞬の暇つぶしでしかないって、改めて思って。拗ねてるだけだよ。ごめん」
「謝らないでよ」
 皆でゆっくり家に向かう帰り道、水蜜だけ足が止まる。
「……どうして泣いてんの」
「私の在り方が、人間から見たらヘンなのはわかってるよ……でも、今は礼くんが一番好き。一緒にいたい。礼くんがいるうちは、絶対他の人に心変わりしたりしないよ。雪ちゃんも大好きだけど、今は……ええと、ええっと……ごめん、ごめんね。お願い。嫌だよ……お別れするようなこと言わないで。礼くんと、離れたくない……」

「馬鹿者が。母様を泣かすな」
 幸梅が礼の後頭部をはたいた。
「痛って……なんだよ、もう」
「今この瞬間だけでも、母様からこんなにも寵愛を賜る光栄さを噛み締めもっと全力で喜べ。一人の人間風情をこんなに大切にすることは滅多に無いのだぞ。神実村の人間でもないお前は特に珍しい。それ以上に何を望むというのだ」
「だめだよう梅ちゃん、これは私が悪くて……」
「ううん、わかってるよ水蜜さん。深雪は昔からの大事な友達で、助けてやりたいと思っただけだもんね。かといって、あいつと夫婦に間違われるような生活に戻れるかっていうとそうでもない。今は俺ん家が一番居心地いいなら、それでいいよ。未来のことは未来に考える。変なこと言ってごめんな。俺が悪かったって」
「はあ。本当に物分かりが良過ぎて気持ち悪い」
 杏寿がため息をついた。
 幸梅もなんとも言えない顔をしている。
「は? じゃあどうすればいいんだよ」
「なまじ胆力に優れて母様の蠱惑に狂わぬばかりに、正気のまま苦しむか。難儀な小僧だ」
 深雪のように狂って理不尽な暴力に走り、水蜜に剥き出しの感情をぶつけられたらまだ楽だったのかもしれない……などと。ほんの少しだけ思ったこともあったが、礼は明確にそれを否定した。今はこれでいいのだ。水蜜のよくわからないところからは目を逸らして、ただ寄り添っていればいい。たぶん、礼の水蜜に対する想いはそのうち恋ではなくなるのだ。郷美がそうだったように。それが何年後か、何十年後か。他に好きな人ができたりするのか。まだ何もわからないけれど。
「でもね……礼くんはなんでも許してくれるからちょっと怖かったんだ。前も我慢させちゃったこと、気になってて。安心した。怒りたいときにちゃんと怒ってくれて」
「なんだよそれ。怒ったら泣いちゃうのに」
「変だよねえ。私もよくわかんないや」
「俺はさ……あっ」
 頬に触れる、冷たい感触。
「うわっ、雪降ってきた。クソ寒いなーとは思ってたけど! みんな早く帰るぞ!」
「待て、アイスがまだだ」
「わかったから! ほら、水蜜さんも早く」
「あ……うん」
 手袋でふかふかの大きな手が、水蜜の手を取る。
 水蜜は怪異だ。寒さでどうにかなる身体ではなく、去年は雪の中でも夏物のワンピース一枚で平然と立っていた。だが今冬は、礼によってしっかり防寒具を着せられていた。華奢な指先まで革製の手袋に包まれていて暖かい。
 凍える季節に、暖かい方が心地良いのは水蜜とて人間と変わりない。水蜜の正体をわかっているのに、できるだけ暖かくしようと気遣ってくれる礼の想いにぬくもりを覚える、この心も。人間のころからそのままなのだと、水蜜は信じていた。
「愛してるよ、礼くん」
「……うん」
 礼が水蜜に一目惚れしてから、もうすぐ一年になる。

【一巡目 おわり】

『一巡目』って何?
という話

『病ませる水蜜さん』シリーズはまだまだ書きたいことはたくさんありますが、今回の話で一旦区切りです。というのも、作中時間経過しないタイプの世界観なので(サザ⚫︎さん形式)季節順に進むストーリーはこれで一巡みたいな感じでして。以降は好きな時系列で自由に書きます。

もしここまで読んでくださった方がいらっしゃいましたら本当にありがとうございます。

おまけ漫画

第八話が完結してからの時間軸設定の漫画やイラストなど。

十年前の寺烏真兄弟
ハジメテの話

次 第零話

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