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とっくに新学期ですが卒業式あれこれ②

【2019年アメブロ記事の編集バージョンです[四角カッコは現在のつぶやき]

先日、長女の小学校卒業式がありました[2019年。現在高3]

長女は小2の後半をフリースクーラーとして過ごし、小3から地域の公立校に復帰し、小6まで楽しく学校生活を送りました。

小規模校なので、卒業児童がひとりひとり小学校時代の思い出やこれからの抱負を述べる時間があり、在校生からは卒業児の名前をひとりひとり呼び掛けての送る言葉があり、本当に素敵な卒業式でした。

しかししかし、フリースクールを知り、様々なオルタナティブ教育を知ってしまった者からすると、やはりどーしても、形式的すぎる感・格式張ってる感・おとなが主導している感が否めない・・  もう少しだけでも、自由なムードや子ども裁量がある形にならないでしょうか・・?

↓うちの子たちの幼馴染が通っている自由な学校の卒業式はこんな感じ

なんともカジュアルであたたかい卒業式ですよね。

カジュアルに対してフォーマル=形式とするならば、形式美もよいものではあると思います。凛とした空気を体感し、そのなかで普段とは違う立派な姿を見せる・・という経験は子どもを成長させる時間になるでしょう。

ただその舞台を、大人が全部おぜん立てしなくてもいいんじゃないのかな~。

じつはわが家、この「形式」を断固拒否した輩(やから)がいました。
在校生として送る立場の小4次男。普段は楽しく学校生活を送っていますが、卒業式の練習が始まるころから、その練習に疑問を投げかけての不登校状態。

「え?姉の卒業式なのに?」と思わなくもなかったのですが、次男の疑問や拒否感もわからなくもない・・。

「(練習の)意味が分からない」
「なんであんなこと言わなきゃいけないの(←呼びかけの言葉について)」と。

長女は“こなせる子”なので、教師主導の練習を愚痴ったり本番の緊張感への不安を口にしたりしつつも、卒業に向けてのカウントダウンを楽しんでいました。

そんな長女を頼もしく誇りに思いつつ、「意味が分からない、出たくない」という次男の気持ちも「それもそうだよね~」と聞くという人としての幅を試される日々(笑)。

〝両価性を内包する“とか〝曖昧さへの耐性“とか、思わず専門用語も浮かびます(一応心理士(^_^*))

3年前の私だったら、もっと複雑な思いを抱き、その思いに耐えられなかったかもしれません。姉の卒業を祝う気持ちがないのか!と見当違いの怒りを次男にぶつけていたかもしれません。(それが見当違いだということは、次男を見ていれば分かります)

でも今は、とにかくシステムエラーだよねと捉えているので冷静です。システムに乗っかれる子(長女)もいれば、乗っかれない子(長男)もいるという、ただそれだけのこと。システムに一部乗っかりつつ一部には抵抗を示す子(次男)もいる。

なので、次男のいない在校生席を見ても平気でした。

卒業生を送る気持ちに涙を流す子や次男が抵抗した「呼びかけの言葉」も一生懸命ちからこぶで叫ぶ低学年の子の姿に感動したりもできました。

人間(私?)って柔軟ですね。

それにしても、祝辞の長さだけはどーにかならないでしょうか(笑)。おひとり10分近く話されて(計っていました)×4人で、たっぷり40分。

良い姿勢を保って聞く卒業生はもちろん、在校生もよく我慢しているな~
とつくづく感心。小規模校なので、在校生は1年生から全員参列なんですよ。低学年にとっては、本来集中できる時間をゆうに越しているので、感心をとおりこして可哀想に思ってしまいます。

ひとりひとりは良いお話をしてくださっているのですが、とにかく長いっゆえにひたすら耐え忍ぶ時間になってしまうのが残念としか言いようがない。

上述の「かつやま子どもの村小中学校」の卒業式での大人の祝辞は、学園長から「長くしゃべるな」とお達しがあるそうですよ(^_-)-☆



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