トーンポリシング
国外のメディアが取り上げるまで、この国では事実上黙殺されてきた故・ジャニー喜多川氏の性加害問題。
芸能界ではいわゆる「枕営業」というような事が取り沙汰されては闇に葬られてきたが、その問題を振り返るにあたって新会社の副社長に登用された井ノ原氏の会見で「落ち着いていきましょう、子どもが見ています!」と報道陣に呼びかけた言葉がSNS上では「トーンポリシングではないか」と指摘されている。
事の成り行きを今さら説明するまでもなく芸能事務所としてのジャニーズはこの問題では明確な加害サイドであるのにもかかわらず、問題を起こした側がこのような発言をするのはいかがなものかと感じる。
確かに感情的な遣り取りは不毛になりがちであろうし、もう少し言うならば記者は国民の知る権利を代表するプロフェッショナルであって当然に落ち着いた冷静な対応が求められるという人もいる。しかし、今回は明らかにNGリストなるものの存在がバレてしまったように、的確な質問をするジャーナリストを加害者側が「排除」していたのであり、そもそも加害者サイドが一方的に決めた「ルール」なるものに従う必要などグローバルスタンダードに照らしても従う必要は全くない。さらに、当事者同士に紛争がある場合、特に被害を受けた側が本当に落ち着いて冷静に対応できるものであろうか。
少し前に「保育園落ちた、日本死ね」という投稿が随分と話題になった。この国の政府が少子化対策であったり女性活躍推進と言った看板を掲げていても実際に育児環境が整っているとは言い難く、その事を怒りに任せてと言っては何だが待機児童問題を非難する内容である。しかしながら「死ね」とは言葉遣いが悪いなどと主張内容ではなく表現方法を非難する声も上がった。
「トーンポリシング」に於いては発信する側は無意識なのであろうが固定観念に基づいた差別的感情がその根底にある。「女性は感情的だ」あるいは「あの人種は怒りっぽい」さらには「自閉症の人は癇癪を起しやすい」などと無意識のうちに相手にレッテルを貼って否定する傾向がある。欧米ではこうした行為は差別問題として扱われる。まあ「女がいると話が長くなる」というような発言をして随分と叩かれたエセ政治家の喜朗くんもいたが、双方の間に紛争が生じるような場合、「トーンポリシング」のような状況が生じてしまうと確実に議論の質は低下してしまう。
一般的に、ここの対応は極めて難しい。強い口調で訴えて来た相手に対し「その言い方は良くない」「そんな態度では話にならない」として退けてしまっては問題の解決は遠のいてしまう。そのため裁判では双方に弁護士が就き、最終的な判断を行う裁判官と言うものが存在する。しかし現状はこうした弁護士や裁判官がこの「トーンポリシング」の最先端にいると言う事を知っている方はどれだけいるのであろうか。
もっと身近な例でいうと「子どもの養育」に際して親の側から「トーンポリシング」に該当する事を決行やってしまいがちである。幼い子どもが何か自分の思った事が上手くいかないとかんしゃくを起してしまう事は往々にしてある。まあそうした子どもの態度に親としては注意をしなければならない事は子どもの成長にも欠かせない事である事は言うまでもないが、子育ての教科書というか育児の専門書には必ず子どもに注意しつつも、その子どもが「かんしゃくを起こすに至った経緯」については十分に耳を傾けよと言うような事が書いてあるはずだ。
要は「子育て」レベルでもそうした注意がなされるのだ。だからこそ裁判のような紛争では弁護士や裁判官がいる。ところがその弁護士や裁判官が「トーンポリシング」の最先端にいるという恐ろしい事が起きているのである。
話し方であったり態度や感情と主張している内容は全くの別物であるはずだ。特に追い詰められた被害者としては強い言葉でないとその声すら封殺されてしまうように感じてしまう。
「保育園落ちた、日本死ね」という待機児童問題、この事は随分と長い間取り上げられながらも一向に解決へ向かう事はなかった。当たり前だが待機児童問題は当事者としても数年が経てば解決というよりも当事者ではなくなってしまう。要は問題があっても先送りされがちな課題であった事も政治家からしてみれば「票にはなりにくい」ものであったのであろう。
そこに丁寧で礼儀正しく「適切な表現」で待機児童問題を述べてもそれまで認知されなかったものが、「リアルな感情」とともに伝えられたからこそ共感を呼び注目を集め待機児童問題解決への前進につながったのではないだろうか。
「トーンポリシング」は(例え無意識であっても)相手に対する偏見や見下す気持ちがある場合、或いは相手に対する理解や共感が欠如する場合に於いて往々に発生するとされている。まさに裁判官様にたてつくものは「排除する」という感情論である。
「話し合いは冷静であるべきだ」という事は必ずしも否定されるものではないだろう。しかしながら「感情的にならざるを得ないその背景」へ目が向かないのはなぜであろうか。少なくとも子育ての教科書に書いてある程度の事をどうして私のような一般市民が上級国民である弁護士や裁判官に対して発信しなければならないのであろうか。
言ってみれば調停や審判、裁判という場で「トーンポリシング」が起こる要因は既得権益の維持と結論する事が容易だ。話し合いの主導権を相手から奪い、本当に必要な議論を避ける。そしてそれを「合理的」と称する。
加害側と被害を受ける側で立場が対等と言う事は絶対にあり得ない。
私の事件で言えば子どもに会いたいと願う母親と、絶対に会わせたくないとする父親。
こうした問題の当事者それぞれにその背景は異なるのであろうが子どもに会えない立場にあるものにとって「ゆっくりと冷静に落ち着いて」などと悠長なことは言ってられない。
感情的では建設的な話し合いにならない、誰もがそのように言うのであろう。私の友人も「気持ちは分かるが落ち着いた方がいい」と忠告してくれる。そこで私の感情を理解出来るのは同じようにあってはならない親子断絶の被害者だけである。もちろん親子断絶の被害者だからといって全てを理解できるものでもないだろう。
特に紛争の相手となる相手方の代理人弁護士は無意識のうちにではなく明らかに「意図的に」トーンポリシング、言うなれば「議論のすり替え」を行ってくる。
その悪逆非道な弁護士というのは親子断絶と言う家族を破壊する事を平気で行いながら「子どもと家族法律事務所」なる羊頭狗肉な看板を掲げ人権派を標榜する木村「真実」というこれまでに幾度も登場した輩だ。真実と言う名が聞いてあきれるウソとゴマカシのペテン師と言っても過言ではない。
その手口を書き始めるとキリがないのであるが、私が申立人として提起した調停は直接の面会交流を求めるものであり、それ以外の何物でもないことぐらい誰が見ても理解する事は難しい事ではない。それまでの調停・審判に於いては子どもたちとの直接の交流は認められておらず、認容されたのは写真や動画を相手方から送付する事や子どもたちに誕生日やクリスマスにプレゼントを送付する間接交流と言われるものだけであった。
現在はその間接交流を含めた全ての交流を相手方は身勝手な理屈で一切行えていない状況にあるが、取り敢えず当初は定期的な写真送付は行うことはできていた。その事に社交辞令でもあるが写真送付などについて「ありがたい」と述べた事がある。トーンポリシングと言うよりそこは「揚げ足取り」であろうが事もあろうに「申立人も間接交流がありがたいと述べている」として直接の面会交流を否定する材料に取り上げてくるのだ。そもそも間接交流で十分と考えるならわざわざ面会交流を求めて調停を行う必要はない。そのままでは「子どもと会わせたくない」相手とすれば「写真さえ送っておけば会わせなくてもよい」としてくることが目に見えていた。こちらとしても子どもと会える事が何よりも重要であり、少なくとも裁判所に命じられるのであれば間接交流についても従ったように、わずかな時間・回数であっても妥協せざるを得ないと考えるのではないかというささやかな希望でしかない。
そのようなことで感情を逆なでされ子どもに会えないままでどこまで冷静とか落ち着いてと言われて人間の感情は耐える事が出来るのであろうか。そこを「我慢比べ」などと忍従出来る人などどれだけいるのだろうか。
調停や審判、裁判そのものが裁判官の当たりハズレのゲームのようなものだという話はよく聞く。そんなものの当たりハズレで親子が引き裂かれていく。世界に冠たる!とかいうこの国の多くの欠陥のうちの1つがここにあるのだ。それでもこの国では大して問題にもならない。ジャニオタだか何だか知らないが未だにジャニーズ事務所ありがとう!などとのたまう「思考停止」のロボットが跳梁跋扈する国、日本。炎天下の中のマスク強要という実態も含めて「人権」という概念すら理解できないロボット民が大多数を占めるこの国の群衆がまさに「劣等民族」と揶揄される所以だろう。