30.原罪のレクイエム
30.原罪のレクイエム
表題とした原罪とはキリスト教用語であり、色々な解釈が出来よう。私はキリスト教だろうが仏教だろうが特定の宗教への信仰があるものではない。取り敢えずキリスト教は欧米では広く信仰されていると言ったあくまで知識上の概念があるだけだ。そうした中で使われる原罪とは、人の世の苦しみ・情欲の乱れ・不毛な生・死が入ったことを示していると解されている。そしてその原罪とは、人々が神を裏切り自らの自由を不正に行使したために受けるべき神罰とされている。
私がここで述べたいのは何も宗教の話ではない。原罪と言う言葉を仏教的に言えば因果であろうし、他にも天誅や天罰と言った事もこうした範囲の言葉であろう。もちろん科学的根拠があろうがなかろうが「悪い事をしたら必ずしっぺ返しを食う」と言うような事を処世訓として私たちの先祖が残したものだ。そして私たちも道徳や社会通念、公序良俗として悪い事を行わない原動力として受け継いできた。
レクイエムと言う言葉を邦訳すれば鎮魂歌だ。原義とすれば「安らかに」というラテン語であり死者を悼む葬送曲としても知られる。要は原罪というか私たちが受け継いできた社会的道徳、道義心と言うものを「人権派」という弁護士が葬り去って来たことへのアンチテーゼでもある。
(しかし「鎮魂曲」が必ずしも正しい訳ではないという考え方もあるが、ここでは問題の本質ではない。
https://style.nikkei.com/article/DGXNASDB22005_S3A121C1000000/?page=2)
私の子どもたちの心を蹂躙してきたウソツキの絶対王者・木村ウソツキ真実の裏の顔、私からしたら親子を引き裂くその顔こそがヤツの正体と言う事をイヤと言うほど思い知らされているのだが、同じ実子誘拐の被害当事者でも木村ウソツキ真実の実態を知らないものが多い。いやその実態を知らないというよりも 表向きの顔 を人権派弁護士という「肩書」を頼りに信じ切っているものまでいるのだ。
私がこれまでに受けて来た被害、細かいあいつらの汚い手口をいちいち述べなくても私が「子どもたちと9年間会えていない」という事実からも明らかなのだが、この話をしていた時に「木村先生(←同姓の弁護士ではなくウソツキ真実そのもの)は離婚後の共同親権の推進派だから、そんな事(面会交流阻止)をするはずがない」という驚くべき言葉が返ってきたのだ。
弁護士は職業上、凶悪な犯罪加害者の弁護を余儀なくされる事がある。いくら凶悪犯とは言え検察と結託して被告をつるし上げるような事があってはならないし、自らの意思に反しても「被告の意向」に沿った弁護をしなければならない。歴史上、思想を巡る裁判であまりにも行き届いた弁護をするために「法廷でオレ(被告)の言う事がなくなる」と言わしめた弁護士がいたのだが、実際に当事者の心情まで汲み取り充実した弁護をするというのは簡単な事ではないだろう。
また異なる些末な裁判ではあるが、どんなに些末な裁判でも当事者にしてみれば「深刻な問題」が起きたからこそ法廷での判断を仰ぐ必要性に迫られるワケだ。そんな事情を誰もが抱えるワケだが、そこであまりにも粗末な主張を繰り返した弁護士事務所と対峙した方に知己がある。現代はSNSなどで個人同士が情報(と言うより自らの体験など)を発信したりすることが容易な時代となった。その中でその当事者は自らが対峙する事件の相手方代理人の弁護士事務所について「とても親切で大変お世話になった」という記述を見つけて憤慨していたのだが、確かに弁護士はあくまで依頼人の味方であり、必ずしも正義の味方ではない。
ある事件では面会交流を求める当事者の代理人となる一方で、別の事件に於いては子どもと相手方を引き離したい当事者の「意向に沿って親子関係を破壊」する事を厭わないという事も当然に起こり得るワケだ。そうであっても弁護士が他の士業と異なるのは自らの判断で依頼を断る事が可能と言う事なのだ。
意外に知られてはいないが、弁護士の行為で被害を負ったとしても、その事について弁護士が責任を問われる事はない。ややこしい話ではあるが、近年の新型コロナ禍で被害を受けた事業者へ政府が補助金を交付する事業を行ったが、昨今に制度の不備を突いて補助金を不正に受給したとして逮捕者が続出している事が報道で伝えられている。ここでは制度の不備とは言うが、新型コロナ禍で事業者の蒙った被害の補填に際して、その迅速性は欠かせない。そのため、欧米とは異なりデジタル化が非常に遅れたこの国では、多少の不備はあろうとも給付を急ぐため不正防止は後回しとしなければならなかったという事情がある。
こうした法の不備を突いた不正を社労士など他の士業が行った場合、その資格者はペナルティを課せられるのであるが、弁護士に於いてはそのペナルティが免除となるのだ。一応は懲戒請求が行われ、そこで処分を判断されるといういわゆる弁護士自治と言われるものである。新型コロナ禍の補助金請求では万が一の不正があっても社労士などのペナルティが一時的に凍結された。これは処分を恐れて社労士が手続きを代行できないとなると迅速性が損なわれるための一時的な措置だ。もちろんこれは不正をやって良いという意味ではない。一方で弁護士の場合は法の条文の解釈上の問題など言い訳のしようもある。
確かに弁護士が処分を恐れて当事者の主張を信じることが出来なければ本末転倒であろうが、それすらも「悪用」するのが現代の弁護士なのだ。
自らの信念かどうかはいいとして、この木村ウソツキ真実は実子誘拐被害者の団体、離婚後に子どもに会えなくなってしまった現行の制度の被害者でもある別居親を前にして講演まで行ったというのだ。
実子誘拐が蔓延する中、どのようにすればいいのかを冷静に判断する事は難しい。
そうした団体へ顔を出して「営業活動」に励む輩もいるが、その程度の事は仕方があるまい。共同親権の重要性の発信を続けている古賀礼子なんかが代表例だ。彼女自身、「数度」の離婚経験者でもある。古賀と言う姓は出生名でいわゆる旧姓と言うやつだ。現在の法律名というか戸籍上の本名は稲坂らしいが、3人の子の父は異なる男性であり姓は全て異なる。家裁に申し立てて姓を変更する事も可能だし、古賀礼子も弁護士であるから手続きが分からないという事はあるまい。
子どもの父親の事を尊重し、その親子関係を重視しているから姓を変えないとすれば確かな理由にもなろう。古賀礼子自身、当事者団体からはウラで「養育費乞食」などと揶揄されてはいるが、養育費は子のためのお金であり、それが適切に使われているのであれば非難される事でもない。またその事で古賀礼子が元夫である子どもの父親と面会交流について十分に行ってきているとすれば良いだけの事だ。
離婚するという事は何らかの事情がある。そうは言っても親子は親子。それは自分だけでなく、相手方も同じであるし、相手方がいたからこそ生まれて来たのだ。
人として当然に求められるのは倫理だ。最近ではロシアがウクライナへと侵攻という暴挙があったが、戦争と言うものはどんな時でも否定されなければならない。それでも戦争と言うものが起きるワケであるし、双方に言い分と言うものが必ずありどちらもが「自分の方が正しい」と言う。やむを得ず戦争となるとしても、戦争が絶対悪という事実に些かの疑問もない。戦争で犠牲になるのは庶民なのだ。安全な場所から指揮する「お偉方」ではないのだ。国家の指導者層もその程度の事は知っていよう。庶民はどちらの側であれ被害者でしかない。戦争に例えると大仰な事かも知れないが、そこで命を奪われる庶民も親がいてこそこの世に生を受けるのだ。その親と子の関係を奪う愚行は戦争と比較して同じように「あってはならない事」ではないのか。
ところが木村ウソツキ真実は「再三にわたる嘘をついてまで」私とその子どもたちの関係を破壊する愚行を犯しながら別居親団体で共同親権を掲げ集客目的に講演を行う。いったい頭の構造はどのようになっているのであろうか。その内容も他の事件で宿泊付きの面会交流を勝ち取りましたとする自慢話がなされていたのだが、それは木村ウソツキ真実の果敢な実績なのであろうか。
面会交流が実施されるケースでも、頻度や時間が不十分というものが多い事は事実である。穿った見方かも知れないが十分な面会交流を行う事で子どもが相手方になついて戻ってこなくなるといったあらぬ心配から、監視付き短時間という事に固執するものもいる。そしてこの国の裁判所もそれを認めてしまうのが現状だ。(親権の有る相手方がこう言っています!で終わり。だからこそ、相手方は木村ウソツキ真実を通して平成26年/2014年7月7日に私から親権を騙し取ったのだ。しかし「記憶にない」らしいが)
そのような中でどの程度の頻度かは別にして宿泊付きの面会を認めさせたと言う事は確かに大きな前進と評価は可能だ。実際に宿泊付き面会となると拒否する同居親も多いのだが、別居親としても宿泊付きを譲れない事情もある。私の知人は実家が遠方(九州)で進学時に上京し首都圏で就職したのだが、両親(子どもの祖父母)は九州在住のままだ。子どもたちの祖父母でもあり高齢という事からも頻繁な上京は難しい。子どもの夏休み期間などに里帰りというのが合理的だ。如何に航空利用が身近となった現代でも日帰りの強行軍は子どもにとって大きな負担でしかない事も明白だ。ところが宿泊を拒否されれば祖父母と孫の交流は絶たれる。
宿泊付き面会の認容は弁護士の手柄というよりも、「同居親である親権保有者が認めるかどうか」でしかないのだ。子どものためにも宿泊付き面会が必要と言う事を同居親に認めさせたと言う事は確かなのだろうが、その背景も何も分からないまま事実だけで評価する事は当然に出来ない。
そしてそれ以上に木村ウソツキ真実が別居親団体で講演という二枚舌。私にとってその事実こそが心を蝕む事実なのだ。面会交流を否定するロジックに当事者同士が高葛藤とされるものがあるが、その「高葛藤を呼び込むのは子どもに会わせないその姿勢」なのだ。私が精神的に不安定として木村ウソツキ真実らの猛攻撃を受けてきたのだが、不安定の要因は子どもに会えない事だ。その状況を相手方と結託して作り上げておきながら、共同親権を掲げて別居親団体での講演を利用して集客を図る二枚舌のマッチポンプ。よくもまあ、このウソツキ弁護士のことを知れば知るほど人格と言うものの欠片すら感じない品性下劣な輩であることは間違いない。
動物愛護に於けるまやかし。ここにも色々有るのだが、例えば警察犬。現代の技術を駆使すれば麻薬犬などを育てるより機械的なセンサーの方が余程精度が高いのだという。もちろん機械センサーで判別するよりも警察犬を鎮座させておく視覚的効果と言うのはあろうが、そもそも愛護の精神から見て不要な事だ。警察犬を廃止となるとその育成などに従事する者の失業などの問題があるが、不要かつ動物のストレスで成り立つものなど何の意味があろう。単なる「利権」でしかない。
動物虐待サイトなるもの、当然に動物愛護の精神などと言う以前の問題で人としての倫理に反する事は誰に目にも明らかだ。木村ウソツキ真実のやってきた事、それは子どもの虐待にほかならず、戦争や動物虐待サイトとまるで同じ事でしかないのだ。
でっち上げの数々を用いた「自称」人権派弁護士による親子の引き離し。これはこの国で跋扈する犯罪の中でも誠に許されざる大罪であることは言うまでもない。
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