大晦日のカズサに破壊された私の情緒について
2024年12月中旬、私は新型コロナに感染した。
これを書いている今(2025/01/05)は、A型インフルエンザが例を見ないほど流行している。どうも2009年に1年間で2000万人が感染したH1N1の末裔らしい。だからといって新型コロナも流行していないわけではないらしかったようだ。
コロナは若い人には無症状の場合が多いらしいが、私の場合は全くそんなことはなかった。熱は出て、吐き気はおさまらず、3日目くらいから喉が腫れて唾を飲み込むのにも激痛が走り、水を飲むのも苦痛だった。熱が上がるのも辛かった。熱が上がるたびに解熱薬のロキソニンを飲んだ。その度に熱は下がるのだが、熱が上がる時が辛くて何度も何度も嘔吐した。それが辛くて解熱薬を飲まなければ、今度は天井知らずに熱が上がった。熱が40度を超えた時はさすがに焦って解熱薬を飲んだ。丸4日食べ物を喉が通らず、3キロ痩せた。
5日目にやっとレトルトのおかゆを腹に入れた。おかゆだから大した味はついておらず、量も大した量ではなく、塩っ気が少し濃かった。そのおかゆは大層うまかった。それからは痰と咳が出っ放しだった。熱も解熱薬を入れてやっと平熱、飯も最初は粥から、次は白飯、少しずつ量を増やしていく。そんな日が5日ほど続いた。
新型コロナは解熱後5〜10日間はウイルスを排出するらしい。だから今年は帰省せず1人で年末年始を過ごすことになった。
思えば年末は毎年実家に帰っていた。だから1人寂しい年末を過ごすのは今年が初めてだったかもしれない。当時はそう感じていなかったが、私は1人で過ごす年末を寂しいと思っていた。実家に帰っても別に自室から出るわけではなかったが。それでも同じ空間に人がいるという感覚があったのかもしれない。
そんな寂しさを抱えていた年末の私に襲来したのが杏山カズサだ。
私とブルーアーカイブとのファーストコンタクトは杏山カズサのショート動画「先生、今週もお疲れさま、です#15」だ。今から考えればもう半年以上前になる。この動画で私は彼女に惚れた。”お茶に浮かぶ桜を眺めながらシャーレでお花見”というシチュエーションが私に刺さったのかもしれない。シャーレの外で燦然と咲く桜に対して、シャーレでお茶に浮かぶ数枚の花弁みたいな、本物と偽物みたいなテーマは全人類が好きなテーマであり、私も例に漏れず好きだ。約束を忘れている先生に対して、それを見越して桜茶を持ってくるカズサみたいな、そういう立ち回りに惚れたのかもしれない。
そもそも見た目で好きになったのかもしれない。声かもしれない。当時の気持ちを思い出すのは難しく、今ではカズサの全部が好きなのでどこが好きかを明確に言い表すのは難しい。だがとにかく私はこの動画でカズサのことが好きになった。そしてブルーアーカイブに興味を持ち始めたわけだ。
それから1ヶ月くらいはブルーアーカイブのショート動画を見る日々が続いた。カズサのショート動画だけでも当時すでに15本、ユウカとアリスも加えたら1ヶ月楽しむのには十分だった。そしてついにブルーアーカイブを始めたのだった。
私にとって杏山カズサはブルーアーカイブを始めるに至った明確なきっかけであり、私の日々を癒してくれた憩いであり、ブルアカの子たちの中でも明確に特別なキャラクターだった。
ショート動画の杏山カズサは彼女ヅラしてベタベタしてくるのが特徴だ。かじかんだ手を先生の顔に当てたり、その手を「先生の手であっためてよ」とか言ってきたり、お菓子太りした先生の腹に触ってきたり、なんだこの女。あまりにも俺のことが好きすぎる。
年末のカズサは彼女ヅラとかそういう次元じゃなかった。「先生、今年もお疲れさま、でした」。だが今見てももう遅いのだ。この動画は年末に見なければその真価を発揮しない。6月までの毎週カズサの動画を楽しみにしていた日々、最終回のカズサロス、1人過ごす寂しい大晦日、カズサの突然の来訪、内容自体の破壊力、これら全てが完全に合致してこその「先生、今年もお疲れさま、でした」なのだ。大晦日が終わった今見ても、その威力の三分の一も伝わらない。だから、2025/01/05時点で47万再生というのは、このカズサに情緒を破壊された人間が多くとも47万人しかいないということで、少し残念だ。
年末カズサは、これまでのショート動画と比べても異常に距離が近い。後半は顔の面積が画面の70%を超えている。瞬間だけ見れば90%超えてるんじゃなかろうか。あまりにも近すぎる。私は1人で寂しい大晦日にこれを浴びて情緒を破壊されたが、今初めて見たとしたらその距離の異常さにむしろこちらが引いてしまうのではないかと考えている。それでも、「先生、今年もお疲れさま、でした」を見ていない諸君は、1人で寂しい大晦日を過ごしている自分を想像しながら見てほしい。
大晦日という一年の終わりを1人で寂しく過ごしている自分を想像しながら見てほしい。全人類、始まりよりも終わりの方が情緒を感じるものだ。そんな情緒ある日を、一緒に過ごす誰かもおらず、年越しそばならぬ年越し豚汁うどんを食べに、17時くらいに、晩ごはんにしては少し早いな、とか考えながら丸亀に行ったら普段より早く営業終了してて、帰りに薬局で箱積みされてる赤いきつねを買って餅突っ込んでお湯入れて、YouTubeで幕末志士のマリオ3の実況動画を見ながら(若干のコロナの残り香の息苦しさを感じながら)麺をもさもさ食べて、することもないからツイッターを眺めてたらブルーアーカイブ公式からカズササムネイルが投稿された時を想像しながら見てほしい。
では、私の情緒が破壊された場面について語っていこう。私が情緒を破壊された場面は3つだ。
まず、カズサが来てくれた場面。私にとってカズサが特別であるという点はすでに論じたが、そんなカズサが大晦日に来てくれたという事実がすでに私の情緒を破壊していた。最初は声だけ、そして全身を映し、隣に座る。この一連ですでに私の心は有頂天だった。
そして、カズサがシャーレに来た理由を話す場面。テレビ見ながらふと先生のことを思って、元旦も行ったから大晦日も行ったほうがいいかなと思って、極めつけは「重いなんて言わないでよ?」だ。お前みたいな女好きにならない理由がない。
なあ、それって自分が重いってことを自覚しながらシャーレまで来てるってことなんじゃないか?先生に会いにくる理由が、全然理由になってないってことを話しながら自覚してるんじゃないか?それがさ、「重いなんて」って言う前の、ちょっとした唸りとか、視線が妙に外れたりとか、そう思ったら指クルクルしながらちょっとテンション高めに「年の始まりから終わりまで〜、ってね?」に繋がってるんじゃないか?もう認めようカズサ、君は先生のことが好きなんだよ。先生のことが好きだということを隠しながら事実を語ろうとするから、理由になってない理由を先生にも自分にも言い聞かせなきゃならないんだ。
そう考えると「重いなんて言わないでよ?」は、自分の説明が説明になっていないことを暴露する発言であり、これはもはや告白に等しいんじゃないだろうか。あれは告白だったんだなカズサ。先生気づかなくてごめんな。このあと突然キス顔してくるんだが、「重いなんて言わないでよ?」がI love youならば、あれはキス顔じゃなくてキスだったということか……。先生6日経ってようやく気づいたよ。
極めつけは、「もしかして先生、1人で寂しかったの?」「私が来てよかったねぇ〜、先生?」「寂しい年越しになんなくてよかったんじゃない?」だ。そうだ、そのことに私は気づいていなかったが、私は1人で寂しかった。コロナにかかり、実家に帰らず、1人寂しい年越しになるはずだった。そんな折のカズサ動画の投稿と、そして私の心を見透かしたようなカズサの言葉で、私はカズサのことしか考えられなくなった。カズサが来てくれてよかったと思った。最終回でもうカズサは2度と来ないと思っていた。ユウカのショート動画もアリスのショート動画も後から追加されたためしがなかったから、余計にそう思った。だから年末にカズサの動画が投稿されるなんて夢にも思っていなかった。
カズサの動画のBGMはMidnight Tripなのだが、これがまたいい。狙っているのか偶然なのかはわからないが、BGMのサビに動画の一番の見どころがくるように調整されているような気がする。最初はカズサが来たことを認識して、カズサが話をしてくれて、そして最大の見せ場がきて、最後には「先生、今週もお疲れさま、です」で終わるのが「先生、今週もお疲れさま、です」の恒例なのだが、BGMもそれに合っている気がする。「もしかして先生、1人で寂しかったの?」「私が来てよかったねぇ〜、先生?」「寂しい年越しになんなくてよかったんじゃない?」の場面も、Midnight Tripのサビに合致している。
見返せば、カズサが来るのはいつも夜だった。大晦日に来たのも夜だ。Midnight Tripという曲名になんとふさわしいことか。
カズサが来るのはいつも夜だった。金曜の夜に来て、1週間の終わりに疲れを労ってくれた。時には労ってくれないこともあったけれども。だから、一年の終わりに、大晦日に、一年頑張って、寂しく過ごす先生を、労りに来てくれるのはむしろ当然というか、逆にそうあるべきだった。果たしてカズサはそれが当然であるかのように年末に私を労わりに来た。「用事がなきゃ来ちゃダメなの?」
なぜカズサが年末に来てくれると気付かなかったのだろうか。動画のタイトルは「先生、今週もお疲れさま、です」だったんだから、「今年もお疲れさま、です」があってもおかしくなかったはずだった。むしろなぜ「今月もお疲れさま、です」がないんだ。あるべきだろ、1ヶ月の疲れを労るカズサが。……1ヶ月の疲れを労るカズサがないのは、週の終わりはその週の疲れを抜くための特別な日の感があるが、月の終わりは別にそんなことないからだ。だが年の終わりは違う。大掃除、大晦日、年越しそば、その年の穢れを落とし、次の年を清く迎えるための行事、いわば年の疲れを抜くためのものだ。そんな日こそ労りにふさわしい。むしろカズサが来るのに最もふさわしい日だ。
私は毎週カズサに労られていたことに気づいていなかったのだ。あれだけカズサに癒されてきたのに。労られてきたのに。「先生、今週もお疲れさま、です」と毎動画毎動画言ってくれていたのに。カズサが遊びに来たように見せていたから、いやカズサ自身も遊びに来ていたと認識していたから、私はカズサに労られていると気づいていなかったのだ。遊びに来たカズサに私が対応する、そういう関係だと誤解していた。本当は私を仕事から解放するためにカズサが遊びに付き合ってくれていたのだ。
思い返せば一番最初の動画からそうだった。疲れている私に帰り支度させる内容だ。私が一番好きな15番目の動画もそうだ。仕事でカズサとの約束を忘れている私に桜茶でリラックスさせてくれる。彼女はまるで猫だ。仕事の邪魔をしてくる猫のようだ。私が週末遊びに来る彼女に構っているのではない、仕事から逃げる私が構われていたのだ。そのことに気づかない私は、大晦日に来てくれたカズサにこう言う。「どうしたの?」。そりゃ「用事がなきゃ来ちゃダメなの?」だろう。
そもそも誰か来るかもしれないからって理由で年末にシャーレに残っている先生も先生だ。寂しい年越しになるのが嫌だったのだろうか。それともカズサが来ることがわかっていたのだろうか。どちらにせよ、寂しい年越しにならなくてよかった。カズサが来てくれて嬉しかった。
たぶんもうカズサがショート動画で来ることはないのだろう。「重いなんて言わないでよ?」、ほとんどI love youまで言わせて、キス顔させて、画面の顔率90%超えて、年越しを一緒に過ごした女と、これ以上何を語ることがあるだろうか。「先生、今年もお疲れさま、でした」は、カズサショート動画の集大成だ。もうカズサがシャーレに遊びに来ることはないが、これまでの労りを胸に、これからを生きていくことができる。
私は今嘘をついた。カズサは後一度だけシャーレに遊びに来る。「週末の残業権」。4thアニバーサリーにてVR「先生、今週もお疲れさま、です」で、5分間遊びに来るのだ。俺は一体どうなってしまうんだろうか。3分の動画でこれだけ狂ってたら、5分のVRとか浴びたら一体どうなる?発狂死?
日曜の17:30のチケットは確保した。日曜の午後に4枚二次抽選も申し込んだ。あとはインフルエンザに感染しないように厳重に気をつけるだけだ。コロナにはかかったがインフルにはかかっていない。どうせならインフルにかかりたかったが、こればかりはウイルスの気分次第だ。現地にたどり着くのが最も難しいイベントはいくつかあったが、今回もその一つだ。これがフラグにならないことを祈る。