人生において一番の難問はコミュニケーションだと思う
なんだか根暗なタイトルだけど、いつも頭の中で転がしてるネガティブシンキングじゃなくて本当にそうだなという気がしてきたのでまとめてみようと思う。
個人的な僻みとして、「恋愛はどんなことより難しい」とかいうものではなく、真にそうなんだろうと思う根拠。
今日ツイートで見かけたのだけど、「努力は夢中に勝てない。努力する時点で向いてない。」って言葉。
ほんとにそうだなぁという気がしている。
もしかしたら多少の才能の有無とかあるかもしれないけど、でも多分才能はそれができることじゃない。
それを好きになれることなんだと思う。
そうやって自分に向き合っていくことは、昔から「好きこそものの上手なれ」って言葉があるように上達していく。
もしかしたら効率のいいやり方を知ってる人とかがまわりにいて、ちょっと成長速度がはやくなる人もいるかもしれない。
でもそれはやっぱり、夢中でやってる人のかける時間と、熱意と、集中力にいずれは負けてしまう。
だから、こういうことの才能って、他者が介在していなくても正直できる。よく天才の孤独さが語られることがあるが、そもそも他者の介在がそこまで深く才能に関わっているならこんな話は出てこないような気がする。
だけどコミュニケーションは違う。と、思う。
だってまったく同じ人間はいないから。
環境、バックグラウンド、何が好きなのか、どういう教えを受け、自分で学んできたのか、そのすべてが重なり合った「人の思考」の種類は天文学的数字になることは間違いない。
もちろんコミュニケーションがうまい人はいる。でもそれは大多数に共通しているなにかにささる言い回しとか接し方をよく知っているからにすぎないと思う。こう見ると他のこと同様、なんだかシステマチックに聞こえて、なんだ同じじゃんとなるかもしれないが、この大多数というところがポイントなのだ。
技術とかスキルとか、そういうものはコツは千差万別とはいえ、それは「自分」にあったものがどれかという話だ。自分を完全に把握するのは難しいとはいえ、感覚は自分だけのものだ。そこへの集中力があがれば精度が増していくのはそうだと思う。
一方コミュニケーションの対象は他者だ。自分では知覚できないものに様々な推測をたてながら精度をあげなければいけない。しかもその答え合わせは厳密には永遠にできない。相手の示す反応、言葉がすべて本当だとは限らないからだ。気を遣われての嘘かもしれないし、本人のバックグラウンドになさすぎて判断がついてないかもしれない。
無論、こんなことを書いてきたがだからコミュニケーションを諦めようと言いたいわけではない。
だからこそ、永遠の問題としていきたいということだ。
角度は変わるが、今研究テーマに据えているのはデザイナーとエンジニアのコミュニケーションUIだ。
正直、効果的なものがあるかどうかもわからない。現在リリースされてるプロダクトにないものを見つけられるかもわからない。でもこの難しさがあるからこそ、取り組む価値のあることなのだろうと
なんだかそんなもっともらしいことをいいつつやる気を出そうとしている。
まぁここまでの文章も戯言なのかもしれないけど、今日もそんな感じで思考をめぐらせていく。