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「さすが」の魔力

「さすが東大生」が嫌いだ。

いつからか、そんなことを度々思うようになっていた。
最初は多分、多様性がある中でひとくくりで語られてしまうのが、個性が没してしまうのが嫌なのだと結論を出していた。

でも、最近、そもそも「さすが」自体が好きじゃないんじゃないかと、そんな感覚を持ち始めていた。でもその理由がわからなかった。

そんなおり、最近ジャンプ+で読んでいた食戟のソーマが才波城一郎の過去編に突入した。
少しネタバレになるかもしれないが、そこではその世代で敵無しな天才だった才波が、次第に天才だからと勝手に諦められたりやっかまれたりするごとに料理をするときに笑顔を見せなくなっていくという描写がされていた。

これだ。と思った。

たしかに「さすが」は褒め言葉だ。でもここに罠がある。
例えば同じ褒めるにしても「すごいですね。追いつけるように頑張ります。」というのは万人にとって嬉しいと思う。しかし「さすが○○ですね。」だけで終わらせてしまうコミュニケーションは諸刃の剣になる。

もちろん、最初のうちは嬉しい。なぜなら自分だけの能力を認められてるように響くからだ。
でもそれを言い過ぎたり、その人の属する集団として言ってしまうとそれは途端に差別になるんじゃないだろうか。差別というと響きが悪いかもしれないが、一種の仲間外れになっているのだと思う。

才波はその後学園をやめるのだが、おそらく同じ理由で孤独を感じたからではないかと思う。その証拠に極星寮の仲間が自分との勝負に負けたことをしっかり悔しがり、なにが足りなかったかを追求している姿を見て「やっぱりここが一番だ」と語るシーンがある。

たしかに天才は孤独だという。でも本当にそれはその人にしかできないことなんだろうか?多分大抵のことは絶対にある程度まで追いつけるし、どこかには同じ才能を持つ人だっているはずなのだ。

「さすが」という言葉はその対象となる人とその他の人たちに言わば線引をする。すると追いつけるはずのことも諦めたような状態になり、その人だけを才能のある側へとハブってしまう。その溝は深くなればなるほど、本来同じ立場な人々も孤高の天才と仕立て上げられてしまう。

才能はいろんな種類がぶつかり合ってこそ進化していく。決して孤高の天才はどこかで行き止まる。だからこそいい意味での「ライバル」であることをやめないでほしい。そこに線引は必要ない。

その「さすが」はその人を突き放してないか?一度立ち止まって考えてみよう。

と、まとまらないがそんなことを感じた夜だった。

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