旅行
ドタバタと走り回る彼女を見ながら、僕はそわそわと天井を眺める。
「待ってね、あともうちょっとで準備できるから」
「焦らなくていいよ、時間なんて気にしなくていい」
僕たちは今日旅行にいく。ずっと待ち望んでいた旅行だ。僕は物心ついてから、いや、生まれた瞬間から、ずっとこの出発の日を待っていたと言っても過言ではない。
そこにひとりでいくのは寂しかった。少し遠出になるから、いくなら愛する誰かと一緒にいきたい。そう思い続けて、やっと彼女に出逢えたのだ。大学生の時知り合って交際を始めてから、卒業と同時に結婚した。もうあれから五年も経つのかと思うと吃驚する。
初めて彼女に「一緒に旅行にいこう」と言った日に、酷く驚いた顔をされたのを覚えている。「私も、ずっとそこへいきたかったの」と。僕たちはしばらく無言で見つめあって、やがて腹を抱えて笑った。「偶然だね」と、嬉しさ、喜び、愛おしさ、全てが混じった笑いだった。何故自分が笑っているのかも分からないほど僕たちは笑いあって、キスをした。幸せだった。もちろん、今も。
「見て見て、この服かわいいでしょ」
「うん、かわいい」
「楽しみだからお気に入りの服着ちゃった」
「……それ、僕たちが初めて会った時に着てた服だよね」
「覚えててくれてたの?もう忘れてると思ってた」
「僕が君のこと忘れる訳ないだろ」
真っ白なワンピースを身に纏い、やだ~と少し赤くなった顔を手でパタパタと扇ぐ彼女を見て、ウエディングドレスを着ているみたいだ、と思った。恥ずかしいのでもちろん言わない。
「よし、準備できた!もうあとは口紅だけだよ」
たったっと彼女が小走りで駆け寄ってくる。
「どの口紅がいいかな」
たくさんの種類の口紅が入ったポーチを僕に見せてくる。ひとつひとつ蓋を開けて色を見て、一際目立つ血のような鮮やかな赤を選んだ。
「わ、派手なの選ぶね~」
「ワンピースが真っ白だから、唇は真っ赤なくらいがちょうどいいよ」
「そこまで考えてくれてるの?うふふ」
「当たり前だろ、今日は特別な日なんだから」
沈黙。
「ねえ、はやくこっち来て」
彼女が僕の目の前に来る。彼女の目線が20cm上がる。
「僕が塗ってあげるよ」
「うん」
彼女の手から口紅を受け取り、するすると唇に滑らせる。薄い唇が、血に塗れたように赤く染まる。
「はい、できた」
「どう?かわいい?」
「うん、かわいいよ。世界一」
嬉しそうに笑う彼女を目に焼き付ける。
「これで準備できたね」
「そうだね、……ちょっと緊張するな」
「どうして?」
「初めていく場所だから、道とかわかんないよ」
「大丈夫だよ、僕がいる」
「はぐれたりしない?」
「大丈夫、僕がずっと手を繋いでてあげる」
「ほんとう?」
「ほんとうだよ」
彼女にゆっくりと輪をはめる。
左手の薬指でお揃いの指輪がきらきらと光っている。
ゆっくりとキスをした。
「口紅、おそろいになったね」
「ふふ、なんか新鮮」
「僕、君に出逢えて良かったよ」
「私も」
「僕は世界一の幸せ者だ」
「うん、私も、世界一幸せ」
手を繋ぐ。
少し冷たい僕の指先に、彼女の熱が伝わる。
「じゃあ、いこうか」
「ずっと離さないでね」
手を繋ぎ、一生離れないほど強く指を絡ませる。
「愛してるよ」
「うん、私も愛してる」
僕たちは笑いあい、首元の縄に手を添え、足元の台を蹴った。