内容の正当性と読んで貰うこと
これはtouya_Yのやりたい100のこと,"物理の啓蒙"に関わるかもしれない話.自身への備忘.
実際,物理の啓蒙活動なんてどこでもやられていて,それこそnoteで"物理"と検索すれば山程,投稿が出てくる.他の個人が投稿できる所にも山程ある.物理に限らず,専門的な知識をこういった個人が投稿できるプラットフォームに載せる事は投稿者にとってはとても簡単だ.皆,物理の啓蒙に勤しんでいるのか.いや違う.
そういった投稿を見ると,物理をやっている側の人間が見て,明らかにおかしいことを言っていたり単語だけ知っていてそれを使って言葉遊びをしているものが多い.もはや学術的なものではなく,散文だし,詩だ.
読者にとって,今見ている記事が学術的なものなのか,散文なのか見分ける事はかなり難しい問題だ.専門の人間は書いてある記事がどちらなのかわかるだろう.しかし興味はあるが門外漢にとってはとても難しい.なぜなら判断基準がないから.書いてある記事の論理を追うにはそこにある単語の意味を知らないといけない.だが単語の定義を逐一述べている記事はほとんどない.だからなんとなく正しいのだろうと思ってしまうのではないだろうか.
では書いてある記事の正当性を評価できないだろうか.残念だが実質できていない.プラットフォームには評価方法がある,ただの高/低評価だけでなくコメントを残せる機能がある.しかしこれは機能しない.あえて低評価をつける理解ある人は少ない.コメントなどの評価も得てしてこの評価は本文を読んだ後に見える.記事を読む前に評価やコメントを読む人はいないだろう.
個人が好きに情報を発信できることで万人が必要な時に必要な情報にアクセスできる時代になった.しかしその情報が正しいかを判断する能力が求められるようになってしまった.読者は査読のような自治のある所に行くか,万人にはアクセスできないような所に行くしかない.前者はwikiのような,後者は専門書や有料の情報などだろうか.それでも不安は残るが.
では投稿者はどうすればいいのだろうか.学術的なことを啓蒙したい投稿者も読まれなければ意味がない.残念ながら(読まれることが目的の)投稿者にはコストのかかる学術的なものを作るメリットはない.最近思うのは,読まれることと内容の正確さはあまり相関しないということだ.
読まれるためにはこんなことをやっている人が多いように感じる.正直その界隈の質を落とし,信用を落とし,結局自身の不利益になると思う.囚人のジレンマ的な様相を呈していると思う.
・過剰SEO:タグや単語を関係ないものまで多量につけるなど
・流行:イナゴ
・多産:とにかく記事を書いて投稿者の被閲覧数を稼ぐ
・挑発的表現:釣りタイトルや誇張表現
てんこ盛りはこんな感じだ.
衝撃の真実!物理の〇〇は間違っていた!?××編part***
今,〇〇が××で話題です!あれはいったいどういうことなのでしょうか!
〜コピペポエム本文〜
検索ワード:〇〇,〇〇',...,〇〇"
#〇〇 ,#〇〇',...,#〇〇"
うんよく見る.
まずは読まれるようになった方がいいのだろうか,それとも読まれるか否かはさておき正しさが読者に判断できるように書くべきなのか.自分も毎日日記のようなものを書いている.読んでもらえた反応は嬉しい.が読まれることが目的になってはいけないと今は思っている.啓蒙が目的ではないから.では啓蒙活動をここかどこかでしようと思ったら....