ジョグジャカルタ思い出し日⑪|西田有里
おばあちゃんの日本語
ルジャールじいさんの奥さんはカルジアさんといって、ルジャールさんよりは4~5歳年上の姉さん女房だ。家族にもご近所さんにも「バ・ウティ」と呼ばれていて、これはジャワ語でおばあちゃんと言う意味の「バ・プトゥリ(Mbah Putri)」が変形した幼児語のようなもので、日本語で言ったら「ばあば」みたいな感じか。
ルジャールじいさんの家の壁には白黒の昔の写真がいくつも飾ってあって、若い頃のおばあちゃんの写真は細身の体にバティック布をビシッと巻いていたジャワの伝統衣装の着付けがよく似合って、まるでお土産屋さんに売っているポストカードの写真のようだった。数年前に足を怪我して以来、自由に歩けなくなってしまって歩行器につかまって狭い家の中を移動するくらいしかできなくなってしまったけど、昔はバティック布を売る仕事をしていて、お客さんの所へ商品を届けにいく時は遠方でもどこでも歩いていったものだと話してくれた。
最近は日がな一日応接間にしている部屋の長椅子にぼーっと腰かけていることが多い。それでも、朝早くから長い髪をきちんと結い身だしなみを整えて座っている姿には、壁にかかっている昔の写真の面影が感じられる。今は孫にお小遣いをせびられている優しいおばあちゃんという感じだけれど、長く一緒に暮らしているラストゥリさんによると、おばあちゃんは気が強くて昔はかなりおっかない人だったとのこと。確かに、何か用事をしてほしい時など、おばあちゃんは細身の体には似つかわない大声で「トゥリー!」と叫んでラストゥリさんを呼びつけるのだが、昔からずっとそんな感じだったのだろう。
生まれも育ちもジョグジャカルタの王宮近くの村であるおばあちゃんが、たまにジョグジャカルタの昔の町の様子などを話してくれるのが私はとても好きだった。特に私が好きだったのは、ジョグジャカルタの先代のスルタン(ハメンクブウォノ9世)の話だ。インドネシア独立宣言が行われた当時、混乱した民衆が大勢王宮前広場に押し寄せて大騒ぎになった。当時はまだラジオも一般に普及していなかったら、多くの人が情報を求めて王宮広場に集まったのかもしれない。怒号が飛び交い大混乱に陥る群衆を前にして、まだ少女だったおばちゃんは恐怖を覚えたという。そこにスルタンが姿を現した。すると、たちまち群衆は水を打ったかのように静まり返った。パニックに陥っていた群衆は、スルタンから発せられるオーラにあっという間に気圧されて、すっかり落ち着きを取り戻した。あの時のスルタンの姿はすごかった、と先代のスルタンに心酔しているおばあちゃんはこの話をことあるごとに繰り返しした。インドネシアの歴史をその時代を生きてきた人の話から感じられる醍醐味もさることながら、おばあちゃんのしゃがれた声で繰り返し語られるスルタンの話を聞いていると、それがまるで影絵芝居ワヤン・クリの物語の一場面のようにも感じられてうっとり聞いてしまう。
年のせいで少し忘れっぽくなっているおばあちゃんは、最近毎日出入りしている私の顔と名前は覚えてくれていたけど、日本出身ということは時々忘れてしまうようで、毎回私の出身を聞いては日本だということに驚いて、その度に日本がインドネシアを占領していた時の話をしてくれた。日本がインドネシアを占領していた時代、おばあちゃんは小学校高学年くらいの年で、毎朝学校で君が代を歌わされたり日本語の挨拶を唱えさせられたりしていたとのこと。他には、トウゴマの木から採れるひまし油を貴重な燃料として日本軍が管理していて、勝手にこの木に触ったら酷い罰が待っていたというような話などもしてくれた。そして、最後にはいつもにっこり笑って、今も大好きでよく覚えている曲なのと言って「おうまのおやこは、なかよしおやこ、いつでもいっしょに、ぽっくりぽっくりあるく~」と歌ってくれるのだった。マタラム通りはしょっちゅう馬車が通る。マタラム通りを行く馬の足音と、おばあちゃんのしゃがれた声で歌われる日本語の「ぽっくりぽっくり」が重なって蒸し暑い空気に溶けていく。日本の過去の行いを聞く時のいたたまれない気持ちと共に、「ぽっくりぽっくり」を今でも時々思い出す。
ちなみに、ルジャールじいさんにも覚えている日本語無い?と聞いてみたところ、「バカヤロ」とのことだった。当時からやんちゃでしょっちゅう「バカヤロ」と言われていたのだな、ということが手に取るように分かる。
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