人生最高の幸せを抱きしめながら、私は絶望し号泣した
この出来事を文字にするには、あまりに苦しく辛いものです。いまだに産婦人科の看板は直視できないし、児童相談所の前を通ると涙が滲む。
もう6年経つというのに、不意に思い出しては胸に太い杭を打たれたように痛むのです。
それでも、私と同じように嘆き苦しんだ人のために、今まさに助けを求めている人のために、もしかしたら同じ苦しみを味わわなければならない人のために、少しでも私の体験がどこかの誰かに寄り添えたらと思います。
2019年1月。とても晴れた日の朝に、私は赤ちゃんを出産しました。
とても可愛い女の子で、母子ともに健康。ごくごく普通の出産でした。産んだ後は気持ちがハイの状態で、食事も喉を通らず眠くもない。私の身体から出てきた新しい命に、ただただ感動していたのです。
そして翌日からは母子同室。おむつの替え方や母乳のあげ方、ミルクのあげ方や沐浴の仕方などを実地で学びます。可愛い我が子との24時間生活は、とても過酷で楽しいものではありませんでした。
母乳推奨の産院だったので、お腹が空いて母乳を求める赤ちゃんを前にして母乳マッサージ。けれども赤ちゃんはほんの少し咥えただけて、またすぐに泣き出します。咥えさせ方が悪いのだろうかと試行錯誤を試みながら、次こそはちゃんとやるぞとミルクを飲ませる。それが延々と続きました。
新生児は3時間おきにミルクを飲ませてくださいとの教えに従って、きっちり3時間にスマホのアラームを設定して、眠れなくても目を閉じる。3時間しても起きない我が子をどうにかして起こそうと、足の裏をくすぐってみたり身体を刺激してみたり、色々として起こし、乳首を咥えさせてからミルクをあげていました。
今考えても、どうしてこの時の私は「3時間」にここまで囚われていたのか分からないのです。ただいつも頭にあったのは、「4時間以上空いたら、脱水になってしまうかもしれない」という強迫観念でした。
けれど、少し考えれば分かったはずです。機械でもない生身の人間が、ピッタリ3時間でお腹を空かせて起きるはずがないのです。そして更に私は、母乳マッサージ→授乳→ミルク→オムツ交換→寝かしつけというサイクルに時間がかかりすぎていて、どんどん3時間がずれ込んでいることに気づいていませんでした。
渡された授乳スケジュール通りの時間に、授乳させなければいけない。そうしないと死んでしまうかもしれない。けれど、子どもにしてみたら「さっき寝ついたばっかりで、まだ眠いのに起こさないで」という状態。それなのに私は、どうして起きないの?と不安でいっぱいになり、何度もナースコールを押しました。
人は食事をしなくてもある程度は生きられます。けれど、睡眠を取らないとさまざまな弊害が起こるのです。例えば、自律神経の乱れやホルモンバランスの乱れ。出産後の女性ホルモンはゼロというところに、睡眠不足が追い打ちをかけるのですから、不調になって当然です。
どうしたら上手に授乳できるの?どうしたら起きてくれるの?どうしたら……
そのうち食事が摂れなくなっていきました。頑張って食べても残してしまう。夫に頼んで栄養補助食品を買ってきてもらっても、ひとくちかじるのが精一杯。とにかく母乳をあげるためにも水分は摂らなくちゃと、それだけは頑張りました。
そして退院前日。
私は助産師さんの前で、我が子を抱きながら号泣しました。
怖くて怖くて、ここから出たくない。里帰りはしていましたが、母はパートで働いていたので日中は私と子どもだけ。そんな怖いことはできない、私ひとりでこの子を見られない、何かあったらどうしたらいいか分からない。
この時にはもう限界がきていたのです。助産師さんは私の状態を察してくれて、保健師さんの家庭訪問を早くできるよう申請してくれました。退院して1週間くらいで保健師さんがきてくれた時には、いらっしゃいませも言わずに泣きついてしまったのです。
この保健師さんも私の状態を察したのか、仕事用のラインのアカウントを教えてくれました。このつながりがなかったら、今私はこの世にいなかったでしょう。なぜならその夜、私は恐ろしいことを思いついてしまったのです。
この子と一緒に死のう。
新生児と心中なんて恐ろしいことを、よく考えたなと思います。子どもを置いて自分だけ死のうとは、何故か思いませんでした。
私が死んだらこの子も周りもとても苦労する。だから一緒に死ななくちゃ。
ここまできて、かすかに残っていた理性が私の指を動かしたのです。ラインで保健師さんに連絡をし、もう無理だと伝えました。このままではこの子を殺してしまう。望んで授かった自分の命より大切な存在を、心の底では守りたかったのです。
そこからは早かったです。
私は精神科を受診し医療保護入院。子どもは児童相談所預かりとなりましたが、ちょうどコロナの時期だったので、新生児ということを考慮して里親さんのところへ連れて行かれました。
自分が望んで行政の力を借りたけれど、離れ離れになった時は身を引き裂かれるような思いでした。こうして書いている今、涙が頬を伝います。忘れることなど一生できないでしょう。
「では、この同意書にサインしてください」
入院して治療するにあたり、色々な書類にサインしました。指が震えて上手く書けなくて、私はとんでもないところに来てしまったと怖くなりました。
今ならまだ帰れるかもしれない。そう考えても、今更どうしようもないのです。このまま帰ったところで赤ちゃんは帰ってこない。「入院しなかったんですか?じゃあお返しします」とはいかないのです。
こうして私は着の身着のまま、コンタクトさえも入れずメガネで、しかもクロックスという格好で入院しました。
それから1ヶ月。
私は精神科病棟で暮らし、無事に退院。里親さんから赤ちゃんを返してもらい、実家で半年の歳月を暮らして夫の待つ自宅へ帰りました。
人生の中で1番長かった1ヶ月をどう過ごしてきたのか。今後少しずつお話していきます。
1つ言えるのは、助けを求めなければ終わりだということです。自分で思考できないと思ったら、必ず助けを求めてください。
私は過去の自分の行動のおかげで、今は毎日愛する娘と暮らしています。