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怒りの代償

 あのウィル・スミス騒動から約一ヶ月が経った。
 アニメやドラマなどで登場人物がビンタする・喰らうシーンが出るたびにネットの実況界隈では「ウィル・スミス」とコメントが流れてくるようになった。この現象はもうしばらく続くだろう。

 この騒動をニュースで知ったとき、率直に言って私は「ウィル・スミスはなんでこんなに批判されているのか」「社会的制裁はやりすぎなのでは」と思っていた。
 周知のように、この騒動に対しては様々な意見が出ていたが、自分の考えは変わらないだろうと思っていた。

 しかし、つい先日。GW初日のことだ。
 以前勤めていた会社の元同期グループでオンライン飲み会をしていたときだった。参加者のAが「愚痴を聞いてくれないか」と話題を振ってきたのだ。

 Aは今の会社に入社して4年になる。
 この間半年前に入社したBという女性に新しい仕事をレクチャーしてくれと先輩に言われたそうだ。
 Aが愚痴りたい、と言ったのはこのレクチャーでの出来事である。
簡単に言うと、Bの態度に苦言を呈したら逆ギレされてちょっとした騒動になったようだ。

 BはAと同じ世代らしく、30代だろうとのことだった。Bは性格は明るいし、悪い人ではないのだが、入社歴に関わらず自分よりも年下にはタメ口になることがあるらしい。
 他にも目上に対して角が立つ言い方をすることもあるようで、真面目なAにとってはそこに違和感があるらしく、これまで必要以上に話しかけるなどはしていなかったようだ。

 入社当初も一度彼女にレクチャーしたことがあるようでその時は特に問題がなかったようだ。
 ただ、今回レクチャーする仕事は、今までとは少しむずかしいところがあるようで、実際、Bは「はあ」「へえ?」など釈然としない相槌を打っていたようだ。
そこでAが、「ここまで大丈夫? ついてこれてる?」とその都度聞いたようだ。
また、Aとしては時間が決まっているレクチャーで必要なことをすべてBに教えきらなくてはならず、テンポよくいきたかったようなのだが、どうでもいいことでつっかかってきたようだ。
「どういうこと?」と聞くと、あまりにもどうでもいいことなので説明し難いといったAは掛け算で例えてくれた。

 例えば、「3と5をかけると答えは15だ」と説明をしているときに「5と3をかけると…」とAがいうと、話を遮って「今、5と3をかけるっていいました? 3と5をかける、ですよね?」と指摘してくるらしいのだ。
 
 実際の小学校の算数の時間では、かける順番が重要かもしれないが、ここは職場だ。どうでもいい。
「3と5をかけると15になる」において、重要なのはこの2つの数字を掛けると答えが15ということであって、順番はどうでもいいのだ。
 
 つまり、Bは上記の例えのように、どうでもいいような細かいところをことごとくAにつっかかって指摘して時間を潰してきたようだ。
 Aが言わんとしていることを、飲み会メンバーはすぐに察した。
 教えてもらっている立場でどうでもいいことで話を遮って目上のAに指摘してくるBの態度は、正直社会人としてはよろしくない。
 
 休み時間ならまだしも、業務中だ。もしかすると、Bにとって目上というのは年齢だけを意味しているのかもしれない。正直その認識もどうかと思う。

 ことあるごとに、そんな調子で話を遮られ普段温厚なAの堪忍袋の緒がとうとうキレてしまった。

「いちいち、そんなことで騒がないでくれないかなぁ?」

 多少言葉尻に苛立ちを現しながら、AはBに苦言を呈した。

 するとBはこういったのだ。

「そんなふうに言わないでくださいよっ!! わたしだってわからないから聞いてるんじゃないですか!!」

 質問する側にも態度というものは必要である。特に謙虚を重んじる日本人であるならば。
 Aから話を聞く限り、他の新人にレクチャーしたときのように

「ここはこうでいいですか?」
「もう一度説明してもらってもいいですか?」

といったことを今回のレクチャーでBから言われたことはないとのことだった。

Bからは、理解してるんだかわかっていないんだかの曖昧な返事と、話を途中で遮られ、どうでもいいことで指摘されたという無礼な態度を取られただけだ。

逆ギレしたまま、ヒートアップしたBは職場にも関わらず、ヒステリックに喚き散らしたそうだ。Aいわく、「本当にヒステリックだった」ようだ。

レクチャーは自席で行っていたため、Aにレクチャーするよう指示した先輩社員も近くでやり取りを聞いていたようだ。騒ぎを聞きつけて、仲裁に入ったが、呆れて黙って聞いていたAに対して、Bは「バカにして!」とずっと騒いでいたようだった。先輩社員が止めてもなお騒いでいたようだ。
なるほど、確かに年齢の割に落ち着きがない。

Bによれば、Aが聞いてきた「大丈夫? ついてこれてる?」が失礼だとのことだった。
バカにしている、というのだ。

捉え方は人それぞれだ。
Aとしては、悪意はなく純粋に理解度を確認したかったようで、「わからない」と言われればもう一度説明するつもりだったようだ。

確かに、普段から「合わない」とは感じていたのは事実だが、レクチャーは誰に対しても同じ教え方だ。嫌いだからわざとそんな聞き方はしないとAはいっていた。これまでもAは同じように、他の人たちにOJTしてきたのだ。

それを聞いていた飲み会仲間が「それをいうならBこそ、先輩のAに対して話を遮って指摘するのはマナー違反じゃないのか。学生じゃあるまいし」と言っていたが、まさに正論である。

Bが退社した後、先輩社員からは何度も頭を下げられ「まさかあんなに騒ぐなんて、Bさんにはまだこの仕事を教えるのは早かった。面倒なことに巻き込んで悪かった」と言われて少し救われた思いをしたそうだ。

Aは、これまで自分も色んな職場で先輩たちに「ついてこれてるか?」と言われてことがあるが、失礼だと感じたことはないといっていた。

私もこれまでバイト先や会社で同じようなことを言われたことがあるが、特に失礼だと思ったことはない。
Aは温厚な性格だし、彼がどんな感じで言ったのか想像でしかないが、私が知っている彼のイメージからして失礼だとは思わない。

口調にもよるだろう。
頑固一徹のラーメン店主に「おまえ、大丈夫か? 今の説明ついてこれてるか?」といわれると、臆してしまうかもしれないが、
森本レオ(トーマスのナレーション)に言われると、「はい、大丈夫です!」「すみません、わかんないです」とか言えそうなものである。
Aは後者のイメージだ。

正直、飲み会メンバーのほとんどがもっと厳しい言い方をされたこともある。なかには「メモをとるぐらいなら覚えろ!」と女性社員に言われたこともあるツワモノもいた。(これは厳しい)
今の御時世、こんなことを書くと炎上するかもしれないが、Bのようにこれしきのことで失礼だなんだと職場でわめくようでは、このさきやっていけないと思う。

結局、Aはなんの注意をされることなく、Bのレクチャーは先輩社員に引き継がれたそうだ。
Bは先輩社員から「謙虚さも必要である」と高校生でも言われないような社会人マナーをこんこんと説され、今も働いているようである。
30代子持ちとは思えない癖の強さだ。
一部社員からは「ヒステリック」と避けられているとのことだった。

Aも飲み会では「正直、言葉を変えればよかった」と反省していた。
先輩も面倒なことを引き起こしてくれたと思っているかもしれない、と笑いながら言っていたが、Bに対してはもう関わりたくないというのが本音だそうだ。

私もそんな人とは関わりたくない。

このAの愚痴を聞いて、ウィル・スミス騒動を思い出した。
言葉の配慮が足りなかったクリス・ロックは一切お咎め無しで、その後もMCの役目を全うしたと周囲から絶賛され、無礼だ、とビンタを食らわしたウィル・スミスはご存知、大変な代償を払うこととなった。

私はこれまでウィル・スミス寄りの意見であったが、Aの話を聞いて少し考えを改めた。
Aがクリス・ロックで、Bがウィル・スミスと置き換えると見方が変わってくるのだ。
確かに、オスカー授賞式という名誉ある舞台にも関わらず、ビンタ(喚き散らした)ウィル・スミスもといBが大人気ないと言われるのは仕方がないのかもしれない。
家で「なんだあの野郎!」と怒りを発散させることだってできたし、SNSで「あれは傷ついたな」とコメントしたっていい。

とにかく、あの場で怒りをコントロールできなかったことに周囲は非難したのだろう。
授賞式のために盛大な準備をした人もいるだろう。この日を楽しみにしてきた人たちがほとんどだ。
彼一人のビンタ行為がその華やかな会場の空気を凍らせてしまったのだ。
そう考えると納得がいく。

クリス・ロックはビンタされても掴みかからず、殴り返さなかった。
Aも職場で言い返さず、(呆れて言葉が出なかったのもあるが)ずっと黙ってBが喚くのを聞いていたようだ。そのおかげかどうかしらないが、Bがなにか職場で一人ひたすら喚いているなんとも異様な光景だったそうだ。
正直妙齢の大人のやることではない。

ただ、あのクリス・ロックの発言は行き過ぎである。
反省は必要だ。

日本でもアンガーマネジメントという言葉が認知され始めている。
怒りは権利であるが、場所を選ばないとウィル・スミスやBのように代償を払うことになる。

 


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