宮嶺望は寄河景にとっての「特別」だったのか:『恋に至る病』考察
!!本記事には『恋に至る病』の全編に渡るネタバレが含まれています!!
『恋に至る病』は斜線堂有紀先生による、先日発売された作品です。
『青い蝶(ブルーモルフォ)』という参加者は最終的に自殺してしまうというゲームのマスターである寄河景と、そんな彼女を観測し続けた宮嶺望という二人の物語。
『青い蝶』は、ロシアで始まったといわれている自殺教唆ゲーム『青い鯨』を下地にしているものでしょう。
本記事では、『恋に至る病』という作品、そしてそのヒロインである寄河景というキャラクターを理解するために、自分が考えた内容をメモとして残しております。
!!以下ネタバレです!!
・「消しゴム」と根津原による「いじめ」について
寄河景という人物を考えるにあたって、どこかに軸足を置かないと考えがまとまりません。最後に提示された「消しゴム」は、少なくとも景があることをした、もしくはそれに関与していたことを証明するものです。ですので、まずはここから芋づる式に疑問を検討していきます。
もったいぶることでもないですが、この「消しゴム」は根津原によるいじめのスタートサインとして、最初に盗まれたものです。(p.33 最初は小さな消しゴムだった)
これは、端的に言って景が根津原による宮嶺への「いじめ」に、何かしら関与していたことを示しています。しかし、よく考えてみるとこの「いじめ」のスタートにはいくつかの違和感があります。
①「いじめ」の開始時期
消しゴムが盗まれたタイミング=「いじめ」が始まったのは、「校外学習の翌週」です。(p.33 それは校外学習の翌週から始まった。)曖昧な書き方をされているので、やや混乱しますが、景は公園での「事故」から「一週間経っても」学校に来ていませんでした。(p.27)
「翌週」というのが景が学校に復帰してからなのかはやや不明瞭ですが、記述の順序を考えれば「景が学校に帰ってくる」⇒「消しゴムが盗まれ、いじめが始まる」という流れになります。これだけでも、「消しゴム」の件に関して景が関与している可能性は非常に高いです。
しかし、これだけでは、復帰した景の姿を見た根津原が、そこから宮嶺をいじめるようになった、という可能性もあります。(消しゴムを持っている時点でかなりグレーですが)ただ、そもそも宮嶺を根津原がいじめるようになったこと自体が、景の意図するところだったのではないでしょうか。
②根津原が宮嶺をいじめる理由は、実はない?
根津原が宮嶺をいじめるに至った理由は、「その時、僕は初めて事態を把握した。(略)根津原あきらは景のことが好きなのだ。(p.45)」とあるように、「根津原が宮嶺に嫉妬しているから」と終始語られています。
しかし、そうすると「景がケガから復帰してくるまでいじめなかった」というのがやや違和感あります。インフルエンザで景が休んだ際にいじめが露骨になり、「根津原もまた、景にいじめのことを隠していたのだろう。(p.36)」とあることを信じるのであれば、景が復帰したタイミングでいじめを始めているのとやや矛盾しているように感じます。
また、それだけでなく、「根津原が宮嶺に嫉妬しているからいじめられている」という根拠は、遡ってみると景の口からしか語られていません。用具室の件ですら、根津原がやったかどうかについては客観的な証拠がありません。
と、すべて景が根津原の気持ちを代弁する形で宮嶺に伝わっています。跳び箱に閉じ込められた際も、あの日は宮嶺は根津原に会ってさえいないのです。
ここまでの疑問や矛盾を総合して考えると、「景が根津原を誘導して宮嶺をいじめさせた」という以外に辻褄が合わなくなってきます。根津原は基本的に発言も少なく、淡々と宮嶺をいじめています。「根津原は殆ど義務のように虐め、僕はどうにかそれに耐えた。」(p.53)と宮嶺が感じていたのは、真実それが根津原にとって「義務」になっていたからかもしれません。
③公園で負った景のケガに関する違和感
上記のように景は宮嶺に対して、「根津原は景を救った宮嶺に嫉妬している」という「物語」を刷り込んでいます。となると、その根底にある公園で景がケガをしたときのことも怪しくなってきます。
「あの子がトイレに行っている間に、凧を隠したのは私だよ。」(p.248)と景本人がほのめかしているように、あの一連の事故は「宮嶺に景を背負って救わせる」というシーンを作るために、景が意図したものだったのでしょう。それは、景の怪我に関する描写にある違和感からも伺えます。
公園で怪我をしたさい景は「足が痛い」ことを強調しています。右目が失明しているかもしれないにも関わらずにです。その後判明した通り、景が負っていた足の怪我は捻挫程度です。さらに違和感があるのは、宮嶺がお見舞いにいったシーンのこと。
公園では足を強調していた景が、このシーンでは傷を負った顔のことを強調しています。勿論、当時は足が折れたと思っていて、後々自分の顔を見てショックを受けた…と普通に解釈することもできます。
しかし、冒頭の宮嶺のモノローグがこのことを否定してくれているように思います。
景と同じく、片目に怪我を負った宮嶺は、視界をうばわれることの恐怖を語っています。捻挫程度の痛みに比べたら、片目を失明しかかっていることのほうがショックなはず。それでも「足」と強調していたのは、「宮嶺に景を背負って救わせ」て、根津原がいじめるきっかけを作った、のではないでしょうか。
このように考えてみると、少なくとも公園の一件から、寄河は筋書きを立てていたのではと考えられます。
★用具室の一件についての疑問
用具室の件に関しては、根津原の取り巻きであった天野という生徒が「お前が、お前の所為で、寄河に――」(p.43)というセリフを残していますが、この発言は妙に違和感があるのですが、今のところ上手くここを解消できていません。
続く言葉は順当に考えれば「寄河に『いじめのことがバレた』」のように思えるのですが、「宮嶺のせいで、景にいじめのことがバレた」というのは、いじめてる相手に言うセリフとしては何か違和感があります。というか、いじめがバレた⇒景を跳び箱に閉じ込める、というのは、バレたくなかった景に対してやることとしてはあまりにも本末転倒な感があります。
根津原本人ではなく天野という取り巻きであることから、景が宮嶺の思考を誘導するために、この状況を作ったとは思うのですが…果たして…。
・善名美玖利の行動と景の死について
根津原のいじめの次に、景によって意図されていたのではと感じるのは善名美玖利の行動です。彼女は一度、学校の屋上から投身自殺を図ろうとした際、景の説得によって命を救われました。
しかし、物語の終盤で彼女は、「私、景が居ると生きたくなっちゃうんだよ。」(p.267)と述べ、景をナイフで刺し、その後投身自殺を果たします。これは景と宮嶺の「賭け」という観点で見れば「景の勝ち」です。負けた宮嶺は「どんなことがあっても景と一緒にいる」ことになります。
景は善名美玖利に関して、「私の言葉で生き残った人間なら、私が殺してあげないと」(p.265)と発言しています。作中を通して「流されて死んでいく」人物がほとんどの中で、彼女は「流されて生きて、流されて死んだ」もっとも流されていた人物ともいえるかもしれません。
善名美玖利に刺された景は、その状態で「ブルーモルフォ」の完璧さを疑っていませんでした。景は、善名美玖利が自分を殺し、そのまま自殺することまで折り込み済みだった…と考えると、上記「どんなことがあっても」という内容には景の死もすでに含まれていたことになります。
死後の世界を信じているのかと問われた景は、はぐらかして宮嶺に質問を返し、宮嶺は「死後の世界は信じてるよ」(≒「聖域」はないけど?)と答えます。そこで景は「なら、きっとまたそこで会おう」(p.186)と言う。
エピローグで宮嶺は「僕がブルーモルフォのマスターとして裁かれたら、僕は地獄に落ちるでしょうか」(p.292)と入見に尋ねます。
「賭け」に負けた宮嶺は「どんなことがあっても景と一緒にいないといけない」。それは即ち、「死後、景と同じ地獄に落ちるため、景と同じ罪で裁きを受けないといけない」ということかもしれません。
ここで残る疑問は、景は宮嶺を、彼女の死後罪を自ら請け負ってくれる存在(スケープゴート)となるよう誘導したのでしょうか。
・果たして宮嶺望は寄河景の『特別』だったのか
著者の斜線堂先生があとがきで示されている大問があります。「誰一人として愛さなかった化物か、ただ一人だけは愛した化物かの物語であり、寄河景という人間そのものを謎としたミステリーです。」
正直、あれこれ考えてみたものの自分としての結論はまだ出ていません。ただ、「『特別』だったのでは?」と思う自分なりの理由を留めておきます。
①「景」「宮嶺」というアンバランスな呼び方
景の宮嶺に対する発言で引っかかるのは、転校直後に挨拶で失敗しそうな宮嶺に景が助け舟を出した、次の日の会話。
ここ以外でも景は妙な言い回しをするのですが、「そこで特別になっちゃうよ」という一文には奇妙な響きがあります。文の大意としては「みんなそんな風に呼ばないから浮いちゃうよ?」ということになるのですが、それにしてはちょっと持って回った言い方です。
「そこで」というのは「『寄河さん』と呼んだ段階で」ということだとすると、「呼び方なんかで特別にはなりたくない」という意味にもとれます。また、宮嶺のことを下の名前(望)で呼ぶのは作中で両親だけ。「景」は自分のことを「みんなも呼ぶからと」下の名前で呼ばせるのに、恋人になっても宮嶺は「宮嶺」のままです。
これは裏を返せば、「呼び方以外の部分で特別になった/なりたい」という気持ちが景の中にあったからでは?と考えています。それがどんな形かはさておき…。
②右目の傷
「公園の事故」については、景が「宮嶺に景を救わせるため」に仕組んだことだと思われることは言及しました。この際、右目のことよりも「足」を強調したことがその理由としましたが、ここにはもう一つ重要な理由があるのではと思っています。
それは、「右目の傷」に関しては、景の意図したものではなかったのでは?というものです。
というのも、景の目的は「根津原に、宮嶺が景を助けているシーンを目撃させる」というもの。目を危険に晒す必要はないはずなのです。結果として、景の悲劇性が増した姿は、根津原を誘導するのに一役かったのかもしれませんが。
右目の傷については、こんな描写がされていました。
これは端的に言うと、景とキスをするとき、宮嶺にはこの傷の名残が見えていたということです。
また、修学旅行で二人っきりになった際、景は「宮嶺は綺麗な顔をしているね」(p.78)とも言っています。「ううん。そんなことあるよ。それに」と続けた景は、何を言いかけていたのかは定かではありません。
眼帯の下にある傷を見たのは、(両親と医者を除けば)おそらく宮嶺だけ。その名残を感じ取れるのも宮嶺だけ。宮嶺は景にとって、自分の中の瑕疵を知っている唯一の人だったのではないか。
…とあれこれ考えてみたのですが、正直咀嚼しきれない部分も多く、どちらかに結論を持っていこうとすると、どちらかの違和感が増すという部分もあります。
案外、景は宮嶺に一目惚れ、自分と同じ罪を背負って死後も同じ場所にいるために、すべての筋書きを用意していた、という方がしっくり来るかもしれません。
いずれにせよ、ただ一つ確かなのは寄河景という人物が、どこか人を惹きつけてやまないということ。
きっとまたどこかで、彼女のことを思い出してしまう。
余談:
「蝶」と言われて思い出すのはやはり「バタフライエフェクト」で、些細なきっかけが遠い未来に大きな破滅を生み出すという点で、この作品のモチーフにはふさわしいように感じられます。
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