中央線のワキ臭おじさんと酒臭おじさん
1.
異変に気がついたのは、ちょうど中央線の青梅特快が水道橋に差し掛かったところだった。何やら香ばしいにおいが鼻につき目が覚めた。
僕はやっちまったか、と思って、慌てて自分のわきを嗅ぐ。
ところが、臭いはしなかった。そうだ、僕は東京駅でガラガラに空いた始発に乗り込んだ後、すぐにワキに男性用デオドラントを、塗って塗って塗りたくったんだった。
実はここ数年、僕は時々臭うワキのニオイに悩まされてきた。
僕のワキは、汗をかいてそのまま放置すると、ムワッとしたニオイを放ち始める。もちろんニオイが出る前にデオドラントを塗れば問題ない。
でも、汗をかいてニオイが出るまでの時間が以前よりも短くなって、しかも強くなっている気がするのだ。僕もおっさんになったということなのか...。
僕は隣を見た。
隣には、眉間にしわを寄せた不機嫌そうなおじさんが、腕組をして座っていた。よく見ると、彼のワキは薄っすらと湿っており、間違いなくニオイはこのおじさんのわきから発生していた。
僕は黙って席を立ち、別の場所に移動しようとする。
ところが、そこで初めてギョッとした。
僕が寝ている間に、いつのまにか車内が超満員になっていたのだ。
その殆どがカップルや親子連れ。もちろんどの席も空いていない。
考えてみれば、その日はゴールデンウィークの前半のお昼前。休日の家族のお出かけにはピッタリの時間だった。
しまった。。
実はその時僕は前日から今朝まで仕事でほとんど寝れず、ふらふら状態だったのだ。とてもじゃないけど、目的地の青梅まで、席を離れて立ってるはちょっと無理。黙ってニオイに耐えるしか無い。
おじさんの左隣の人はどうしているのだろうと思って見た。マスクを付けた女性が鼻をすすっている。こういう時の鼻炎は正直ちょっと羨ましい。
僕はしかたなく、再び寝ようとした。ところが、一度ニオイが気になりだすともう寝ることは出来なかった。口で呼吸をしようと頑張ったけど無理。読みかけの文庫本をカバンから引っ張りだすが、全く集中できない。
僕はイライラした。
ちょっと不快な臭いがするだけで、まさかここまで気になるとは...。
申し訳ないけど、もしニオイを自覚しているなら、となりに座らないでよ。
そう思った時、ふと疑問に思った。
このおじさんは、自分の臭いを自覚してるんだろうか。
経験者だからわかるけど、自分のワキのニオイって意外と気が付かない。
家の中のニオイと同じで、自分のニオイを自覚できないのは、鼻が麻痺してしまっているからなのだそうだ。
でもいくら麻痺していても、自分のワキに鼻を近づけると流石に臭う。でも、逆に言うと、近づけないと臭わないわけで、それで「大したニオイじゃねーや」とタカをくくってしまい、周りにはニオイをばらまいて無事死亡するのだ。
でも、もし無自覚なのだとしたら、普段このおじさんの家族はなんにも言わないのだろうか?みんなバンバン言えばいいのに。僕なんてボコボコに言われるぞ。
・・・ていうか、なんなんだこの威圧感...。
彼の場合は逆に、周りの人が怖がって指摘できないだけなんじゃないかと思った。実際「あなた臭いです」なんて言ったら、いきなり歯を2本ぐらい折られてしまいそうだ。
そもそも、一体何に対してイライラしているんだろう?
こんな晴れた気持ちいい日なのに。ワキを臭わせてムスッとしてるのってかなりイタいと思うぜ?どうせ臭わせるのなら笑顔でニオイを撒きちらしてよ。
とその時、ふと思った。
もしかして、自分が臭いからイライラしているんじゃないのか?
ならば、僕の持っているデオドラントを渡せばすべて解決するんじゃないのか?彼がデオドラントを塗れば、彼自身、ワキのニオイがシトラスの爽やかな香りに置き換えられ、イライラは解消。僕もまわりの人もみんなハッピーになれるじゃないか。おっ、まじでいいんじゃないのか。
とはいえ、いきなり渡すのは、「あなた臭いです」と言っているのと同じで失礼な気がする。ならばここは僕が自分に塗って、相手の反応を見てみるのはどうだろうか。僕も同類です、ワキ臭いです、と示して、相手が興味を示せば渡せばいいのだ。犬が仲間にケツのニオイを嗅がせるのと同じだ。
そうと決まれば即実行。
僕は自分のデオドラントを取り出して、ワキに塗りだした。
なんか・・・余計なことをしたような・・・
2.
僕のニオイへの我慢の限界はすぐに来てしまった。
しかも気のせいかどんどんニオイがきつくなっている気がする。
それで、仕方なく席を立つことにする。どうせ座っていても気分が悪くなるだけだし、疲れているけれど我慢して立ったほうがマシだ。
ふと前を見ると、新聞をワキにはさみ、ワンカップ大関を飲んでる帽子を被った、みるからにだらしなさそうなおじさんがいた。
昼間っからかなり出来上がっているのがわかる。頬が赤い。目もトロンとしている。その目が、僕と合った。僕が席を立つと、彼はおっという表情をして、こちらに向かって歩いてきた。
僕は、となりの車両に行こうとドアに手をかける。
その時だった。
強烈な酒臭い臭いが鼻の奥を直撃した。
それはビールに日本酒、焼き鳥、にんにく、もともと臭い胃の匂いなど、いろんなものが混ざり合ってグロテスクな斑模様になったような、最悪なニオイだった。
いくらなんでも臭すぎだろ。僕は思わず振り返る。
そこでハッとした。
このおっさん、あのワキ臭おじさんのとなりに座ろうとしている。。
僕はこの酒臭おじさんが、ワキ臭おじさんのニオイを嗅いで悶絶しているイメージが頭に浮かんできて、思わずニヤけてしまった。もしかしたら、ワキ臭おじさんのほうも身悶えするかもしれない。うわー、これは見てみたい!
そこで別車両に行くのをやめ、あわてて斜め向かいのドアのすぐ横に位置取り、文庫本を読むふりをしてこっそり二人を見た。
ところが...
あれ、二人の間に距離が空いてる...。
いつの間にかマスクを付けた女性がいなくなっていた。
おじさん、酒が臭くて隅にどいたのだろうか。それとも単に隅っこが好きなだけなのかな。いずれにしてもちょっとガッカリだ。
いや、でも、そんなことより....。
なにやってんだよこの酒臭のおっさんは...。
こんな混雑している時によくここに新聞置けるよな...。
僕はこの見た目通り、期待通りのおっさんのだらしなさが、だんだん面白く思えてきた。
でも、逆にだれも座れなくしたほうがかえっていいのかも、と思いなおす。そこはいわば戦場なのだ。もしここに誰か座ったら最後、たちまちワキガと酒のニオイの総攻撃でボロボロにされてしまうだろう。
と、その時
このおじさん、何かに気がついたようだ。
僕は思わず吹き出しそうになった。
キタキタ。きっとワキのニオイに気づいたんだ。
そしてその推測はすぐに確信に変わった。
その証拠に、
酒臭おじさんが頭を垂れて寝だしたが、
よく見ると
一生懸命口で呼吸をしていた。
おそらくニオイを感じないようにするためだろう。
うわー、面白い。僕はニヤニヤしっぱなしだった。
いくら酔っ払って息が臭くても、となりに別の悪臭があれば、普通の人と同じような対策を取るんだということが面白くてたまらない。
それにしても、いったいあの酒臭おじさんはどれ位耐えられるんだろうか。ニオイも時間が経つにつれてきつくなってきてるし、あんまり長くは耐えられないような気がする。
ところが。
しばらく経つと、おじさんはじっとして動かなくなった。
しばらく観察していたが、頭を垂れた姿勢のままピクリともしない。
まさか、本当に寝たのかな...。
でも、あのニオイの中で眠るなんて僕には信じられない。
もう少し観察していたが、結局僕は諦めて文庫本を読み始めた。
ところが、数駅進むごとに、だんだん僕の疲労が溜まってきた。
そして新宿を越え、中野を越えたあたりから、とんでもない睡魔に襲われた。
昨日寝てなかった分の眠気が一気に押し寄せてきて、本も読めず、立ったまま意識が朦朧としはじめた。
ね、眠すぎる...
僕は席を立ったことを後悔していた。
これだけの眠気なら、あのニオイの中でも寝れたんじゃないのか...?
僕はちらっとあの席を見る。
なっ・・・・
なに爆睡してんだよ!
しかもよく聞くといびきまでかいている。なんという憎たらしさ。
僕は寝ている人を見て、こんなに憎たらしい気持ちになったことはない。
僕は周りを見渡した。
車内の混雑はピークを過ぎたものの、相変わらずまだ大勢の親子連れが通路に立っている。
ああ、とにかく座りたい。
このままでは立ったまま寝てしまいそうだ・・・
僕は意識を保つために、何かに集中しなければと思った。
そうだ。それなら、このワキ臭おじさんがどこまで行くのか推理しようじゃないか。コナンばりに名推理をかましてテンションアゲアゲにするのだ。
改めておじさんを観察する。
まず気になったのが、席の上の棚に置かれたリュック。側面のポケットには水筒も刺さっている。どうもアウトドアかピクニックに出かけるつもりのようだ。
水筒は少し奇妙だった。リュックはどう見ても、大人用だったが、その水筒はデザインが小さめで、ピンク色。まるで女の子向けの水筒だ。このおっさんの趣味なのか?
いずれにしても自然の豊かなところに行くんだろう。ということで、僕の結論は自然豊かな奥多摩あたり。奥多摩は青梅より先。
ということは、僕の目的地よりももっと先ということだ。
この結論で僕はすっかりサゲサゲになった。結局この二人を張ってても座れないじゃないか。それにこの二人を観察していても、もう面白くないし、別の車両にいって、他の席が立つのを待ったほうがいいかもしれない、と思い直す。
その時だった。
わきの臭いおっさんがおもむろに立ち上がり、網戸の上のリュックを手にとったのだ。電車はちょうど西立川に停まるところだった。
えっ、まさか。西立川?・・・もしかして昭和記念公園?
推理が外れたのもショックだったが、それ以上に西立川が意外で驚いた。
昭和記念公園は西立川にある巨大な公園だ。広い芝生。大きな遊具。二人乗りのレンタサイクル。とても気持ちのいい公園だが、どちらかというと家族や友人同士で行くイメージがある。おっさん一人で行って楽しいんだろうか。
ところが。
僕の横に母と娘が座っていたのだが、その二人が立ち上がり、このおじさんに近づいてきた。
「大丈夫?わすれものない?」
えっ!?もしかして夫婦?
この女の子はおじさんの子供!?
そして、その時背中に電流が走った。
色々なことが一瞬でばっと分かったのだ。
まず水筒。あの水筒はこの子の水筒だった。お父さんが娘の水筒をもっていたのだ。
そして席。なぜバラバラに座っていたのか?
それはもう当然ニオイ以外に考えられないだろう。
きっと子供か奥さんかが臭いと言って、それで一人だけ席を変えたのだ。
多分その際に奥さんとちょっとしたケンカになったんだろう。それであんなにムスッとしていたのだ。これで全部の説明がつく!
僕はこの考えにテンションアゲアゲどころではないぐらい興奮したが、同時におじさんに同情せずにはいられなかった。
いくら対策をとればニオイを軽減できるとはいえ、体質によってはニオイを押さえるのが難しい人もいる。忙しい日々をくぐり抜け、ようやく掴んだ子どもと遊ぶ楽しみが、自分のワキのニオイのせいで台無しになるなんて悲しすぎる。
もし僕に子供ができたらどうしようと考えてしまう。僕は絶対に、「お父さん臭い」と言われたくないと思った。
本当に、もしニオイがいまより何段階もひどくなるようなことがあったらどうしようか。もう何でもする。ワキ毛は剃る。酒も断つ。
などと考えていた時、それらの考えをぶっ飛ばす光景を見てしまった。
は・・・?
え、ちょっとまって。
お父さんのこと臭くないの?
もし、子供がお父さんのことを臭くないと思っているなら、すべての前提が崩壊する。夫婦も喧嘩していたわけではなさそうだ....。
じゃあ、単に席が空いてなくて、バラバラに座っただけってこと?
3人は仲良く外に出て行く。おじさんは眉間にしわを寄せたままだが、普通にめっちゃ笑顔で笑っていた。
あれは怒ってたりイライラしてたわけではなく、普段の顔ってこと?いつもあんな怖い顔してるの?
なんか急に腹が立ってきた。あんなにおじさんに同情してたのに、むしろ子供に対して「お父さん臭いって言えよ!」と思った。そして推理が外れたと知り、どっと疲れが吹き出した。
もうだめ。もう眠い。
目がもう、ほとんど開かない。
でも、もう大丈夫。あのおじさんの座ってた席があいたのだ。
ようやく休める。
長かった。
・・・・・・・なっ
おまえなんなんだよ!ふざけんなよ!!
僕は叩き起こしたかったが、そんな勇気はなかった。僕は振り返り、母子が座っていた席に座ろうとする。が、そこもすでに誰かに座られている。
僕は隣の車両に入り席を探すが、見つからない。
ああ、青梅まで40分。あと40分・・・。