東山動物園のコアラと後藤真希さんのこと
愛知県名古屋市の新市長の広沢一郎氏が、新たな政策(と呼ぶのにも疑問がありますが、一応便宜的にそう呼びます)のひとつとして、「東山動物園のコアラを抱っこできるようにする」というものを掲げているのを、ご存知でしょうか。
目的は観光促進のため、とのこと。
つまり観光でお金を儲けるために、コアラを抱っこできるようにする、ということです。
わたしは元々動物全般が好きですが、ここ数年で特にコアラを好きになりました。コアラ好きのみなさんがSNS上にアップしてくださるコアラの画像や動画を毎日楽しく見ては、目を血走らせながらいいねをしています。健康上の問題で、直接動物園にコアラを見に行けたのは数えるほどですが、そのかわいらしさに救われて毎日生きています。
東山動物園は、1984年に日本で初めてコアラの飼育を開始した動物園のひとつであり、1986年には日本で初めてその繁殖にも成功。現在も10頭のコアラたちが暮らす、日本のコアラ飼育において重要な役割を果たしてきた動物園です。
現在、東山動物園を含めた日本の動物園で、コアラを抱っこできるところはどこにもありません。
理由はいくつもあります。
コアラはとても繊細でストレスを感じやすい動物だから。コアラは1日のうち20時間近く眠り、起きている時間がとても短いから。コアラには鋭い爪があり、抱っこはコアラと人間の双方にケガの危険があるから。
このようなことが一般的に言われていることです。
しかし、「なぜコアラを抱っこしてはいけないのか」そんなことは、そもそも考えるまでもないことです。
たとえばコアラがめちゃくちゃ図太い性格で、一日中起きていて、爪が生えていない動物だったとしても、わたしたちは、みだりにその体に触れるべきではありません。
なぜならコアラの体はコアラ自身のものであり、コアラの意思に反してそれに触れることは、コアラの権利を侵すことだからです。
コアラたちは、動物園で飼育されている時点で、すでにストレスを感じています。しかし、絶滅危惧種であるコアラを守り、種を保存していくために、動物園は必要な施設です。コアラが来園してからのこの40年間で、いかにコアラにストレスを与えずに飼育していくか、その生態の研究もさかんに行われてきました。動物に関する教育や啓発という面でも存在意義はあるでしょう。わたしは動物園に暮らすコアラを見たのをきっかけに、コアラが絶滅の危機に瀕している現状について知り、保護活動への募金を始めました。そして、もっとシンプルで根源的なひとつの学びを得ました。他者の命はすべて尊重しなければならない、ということです。
他者の命を尊重するって、どういうことでしょうか。わたしは、その意思、身体、権利を脅かしたり、傷つけたり、奪ったりしない、ということだと思います。
コアラは、飼育に必要な範囲を超えて、不特定多数の人間に触れられることを望んでいません。望んでいないことはさせない。それはコアラでも人間でも同じです。その原則を守らなければ、わたしたちはいずれ、自分の意思や身体や権利が脅かされることを、他者に許すことになります。これは大袈裟な話や飛躍ではありません。
「本人の意思に反することはしない」「勝手に体を触らない」ということは、様々なハラスメントや加害が横行する現代社会に生きるわたしたちが、今もっとも大切にしていかなければならないことのひとつだとも思います。
人間は、コアラより強い力を与えられ生まれてきました。その時点で、コアラに対して人間がすることは「守る」以外にないのではないでしょうか。少なくとも、コアラを政治の道具にして、傷つけることではないはずです。
現在東山動物園は、オーストラリアのニューサウスウェールズ州との間に、コアラを抱っこさせないという取り決めを交わしていますが、広沢氏は、オーストラリアの中でもコアラの抱っこを許している州と提携して、新たにコアラを借りたり譲り受けたりするかたちで、抱っこを実現させたいと話しています。
つまり、コアラと一旦交わした約束をわざわざねじ曲げてまで、「抱っこ用の」コアラを用意して人を呼び、お金を儲けたいということです。あまりにもグロテスクです。これが命の軽視でないなら何なんでしょう。虫も花もコアラも人も、他者に命を都合よく使われていいはずがないんです。絶対に許せません。
コアラの命を守るため、わたしたちの命が等しく守られる社会を実現するため、わたしはこれからも広沢氏のコアラ抱っこ政策に断固として反対していきます。できる範囲で、何か具体的な行動も起こせたらと考えています。
わたしには今、もうひとつ怒っていることがあります。
後藤真希さんの新しい写真集に対する、主にSNS上でのネガティブな反応についてです。
昨日の朝、X(旧Twitter)を見ていたら、元モーニング娘。の後藤真希さんの新しい写真集に収録されている写真がいくつか流れてきました。
服は着ているものの、バストトップを含めた胸のかたちが露わになっている写真でした。率直に、とてもきれいで素敵だと感じました。もっと率直に言うと「ゴマキおっぱい超きれいでいいな」と思いました。つまりすごく魅了されたということです。
後藤真希さんは現在39歳。後藤さんがモーニング娘。に加入した13歳の時、わたしは11歳でしたが、とにかく、キラキラの金髪が眩しかった記憶があります。田舎者の小学生だったわたしは、東京にはこんな今時の、おしゃれでかわいい女の子がいるんだ!と衝撃を受けました。新たなスターの登場に大興奮しましたし、クラスメイトの多くも男女問わずすぐに後藤さんに夢中になりました。
わたしや多くの人々にとって伝説のアイドルである後藤さん。同世代の彼女が40歳を前にして、あの美しいスタイルをつくったボディメイクの努力をまず尊敬しましたし、カメラの前で笑う後藤さんの堂々とした態度や飾らない表情にも、心惹かれました。わたしもこんな風に美しくなりたいと思ったし、同時に、たとえ美しくなくても、いつかこんな風に胸を張って笑えたらいいなとも思いました。
でも、Xのタイムラインには、ネガティブな反応がたくさん流れてきていました。いろんな表現がありましたが、その多くは、まとめると「昔キラキラのアイドルだったゴマキが、落ちぶれて整形と豊胸をして変わり果てた姿になり、性的なヨゴレ仕事をしているのが悲しい」というものでした。
ここには、いくつもの差別と偏見と蔑みが重なっています。わたしはこうした言い分について、ひたすらに醜いと思いました。
順番に確認していきます。
まず、仮に後藤さんが本当に整形や豊胸の手術をしていたとして、それを他人にどうこう言われる筋合いは、全くないということです。
後藤さんの身体は、言うまでもなく後藤さんだけのものです。後藤さんがそれをどんな風に変えたとしても、その手段のひとつとして整形や豊胸などの手術を選択したとしても、そんなことについて他人が意見する権利はありません。すごくシンプルで、当たり前のことです。
次に、身体を見せる仕事は必ずしも性的な消費を目的としているわけではないということです。
先に述べたように身体は自分のものですから、自分のものを使ってどういう表現をしようと、基本的には自由です。
身体の露出については、法に触れず、公共良俗に反しない範囲で行われるべきだと思いますが、「後藤さんが後藤さんの作品として発表した写真集に、バストトップのかたちが分かるショットを収録した」というのは、必要十分な配慮がなされた表現だと思います。(今回もっとも話題になったバストトップのかたちが分かる何枚かの写真は、何者かが写真集をスキャンしてネット上にアップしたことから流出しました)
服を着る時(あるいは着ない時)、わたしたちはみな、性的に消費されることを目的にそれを選択するでしょうか? そういう場合もあるかもしれません。そうでない場合もあります。それと同じです。
たとえば、後藤さんが、自分の努力の末につくられた自分の現在の身体を、写真集というかたちで残したいとか、広くみんなに見てほしいとか、それを見ることで美容やボディメイクを頑張るぞ!と思ってほしいとか、そういった性的ではない動機から、バストトップのかたちが分かる衣装を選択した可能性だって十分にあるわけです。それは後藤さんにしか分からないことです。
そして、性的な仕事はヨゴレ仕事ではない、ということです。
人は決して、どんな仕事をしているかによって、差別されたり、判断されたり、蔑まれたりするべきではありません。
性的な仕事をめぐっては、法律、経済、健康、倫理、様々な面で問題があり、それはもちろん解消されていかなければなりませんが、その事実と、職業としての価値や意義は分けて考えられるべきです。
写真集に対してネガティブな発言をしている人は、後藤さんの意思と身体と権利を脅かしている。「悲しい」という表現で悪意をぼやかしながら、彼女自身の選択を非難することは、彼女が身体を露出することよりもずっと有害で邪悪な行いだとわたしは思います。
「男はこういうの見て興奮しているだろうけど、同じ女としては悲しい」という意見も目にしました。
流行りの話題に乗じて、男女の対立を無意味に煽るつまらない言い分です。わたしは女ですが何も悲しくありませんし、むしろ勇気づけられました。勝手に女を代表しないでください。
「母親が乳首出して子どもがかわいそう」と言う人もいました。後藤さんと後藤さんのお子さんとの間のできごとは、他人には知ることができません。表面に見えているわずかなことだけに基づいて、人をかわいそうと断ずることなど、誰にも許されていません。
お子さんが後藤さんの表現をどう捉えるかは、お子さん自身の価値観や人格、後藤さんとの関係次第であり、「うちのお母さんっておっぱいきれいでかっこいいな」と思っている可能性だって十分にあります。「子どもがかわいそう」と言う人は、子どもの存在を引き合いに出して、自分のネガティブな感情にもっともらしさを持たせようとしているだけです。そのような見ず知らずの他人の卑劣な非難の態度こそ、お子さんを傷つける可能性があると知るべきです。
コアラ抱っこ政策と、後藤さんへの中傷(あえて中傷と言い切ります)、ふたつのできごとを通して、他の人(コアラ)がどう生きるかはその人の自由なんだということを受け入れられない人が多すぎる、と感じています。自分が何にでも関与し、判断し、決定する権利があると思い込んでいる。そんなことはないんです。別々の命なんだから。
みんなして、自分で自分を息苦しくさせて、生きづらくさせている。すごくバカみたいです。そういうのを見ると、めちゃくちゃ腹が立ちます。もうみんなでせーのでやめませんか。わたしはやめようと思います。