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私の中にあった呪縛

※今回は長文かつかなりデリケートな内容に踏み込んでいます。また、こちらの記事に犯罪を擁護する意図はございません。読む際にはその事を踏まえてください。

高橋「大人をなんだと思ってんだ?」
今野「寂しがり屋」
高橋「答えなくていい!」

 さて、こちらはかつて実在したお笑いコンビの台詞です。引用したのはキングオブコメディのコント「誘拐犯」からで、私は彼らのファンでした。穏やかな感じでもよく見たらブラックだったり毒もあったりする世界観でボケの今野さんの突拍子もないボケを淡々と(時々噛みながらも)突っ込む高橋さん(通称:パーケン)のコントで彼らは定評がありました。そして、このネタを披露したキングオブコント2010で優勝を成し遂げました。その時の私は本当に歓喜で潤っていたのを今も覚えています。ですが、この大会ですぐに彼らが大々的に有名人になれなかったのは少しばかり嫉妬心や悔しさはありました。今なら、救済番組は少なからず存在しますね。
でも、キングオブコメディも地道に知名度(今野さんは俳優業、高橋さんは趣味で)を上げていき、更に一定の層へと受け入れられただけでも私はそれはそれで良かったとあの時までは思っていました。
 だが、それを一瞬にして破壊した事件が起こってしまい積み上げてきたものが崩壊しました。それは2015年12月26日に起きた
高橋さんの逮捕。そして、キングオブコメディの解散。
その中で疲弊した心情を踏まえてあれから5年が過ぎた今書き連ねます。

「発端」

 私はあの時、郵便局で年賀状のアルバイトをしていました。このバイトは私にとってやりやすいものなのでサクサクこなしている中で休憩時間にスマホを確認しましたら、ニュースアプリの速報通知に書かれていたのが

彼が逮捕された情報

 あまりに突拍子もない事だったので一旦それをお手洗いに行ったり水分補給したりして考えないようにその場をやり過ごしましたが、何だか体がだるくなってしまい許可を得て横になっていました。その後、別の休憩時間で誰かがそのことで話しているのが聞こえたのは気になっていたので脳内でぐるぐる疑念が駆け巡っても、仕事が終わるまではそれについては何も考えずにいたのです。その日の労働が終わって改めて確認したら、信じがたき事実、彼の周囲が困惑したり同じファンが悲しみを表した呟きがどんどん駆け巡って来ました。勿論、あの時の私も乗っかっています。

また、この日に出演予定の番組はすぐに彼らの出演部分をカットされてその後の年末年始の特番は降板することになりました。
 この翌日、私はインフルエンザではありませんでしたが熱が出たので家で休養を取っていました。体調を崩すぐらい私はショックだったのでしょう。そして、次々と明らかになる事実にまた悲しみが込み上げてきました。なんで彼なんだよとか、ずっと前から裏切られていたんだとかやり切れない私の中にある彼への心情が安静時にも膨れ上がっていきました。重苦しい気持ちの中でしたが、一日で体調は良くなりアルバイトを最終日まで取り掛かりました。
それでも、私の中で彼について一日一日が嘆きと後悔で折り重なりすっきりしないまま彼は所属事務所を解雇されて、キングオブコメディは解散、大型賞レースの王者で最初に解散することになってしまいました。2015年12月29日のことで、こんな形の解散が起こってしまうのかと大いに悲しみながら年末年始を迎えるのは辛かったとしか言いようがありません。
 話は逸れますが、この時高橋さんはある映画に出演していましてそれがソフト化されるのかどうか気にしていましたが、展開上の都合でカットされず発売されました。その映画は感動系でしたが、事件後レンタルして見ていた私は別の涙も浮かべていました。

「経過」

 年が明けて、彼は不起訴処分にならず裁判が行われて一年以内に判決が出ました。2016年9月9日に言い渡された判決は執行猶予付き懲役刑で、控訴することもなくそのまま判決受け入れました。そして2020年9月24日に執行猶予の期限が切れましたが、彼はあれから何も罪は犯していませんでした。この時点で高橋さんは何もない一般人になりましたが、噂で再就職したと耳にしたので芸能界復帰は不透明です。
また、この中で彼の犯罪は病的な要因があると言われたり、生い立ちに関係していると推測されたりとかで彼を救うよりも穿り回している世間の有り様がありました。彼の抱える辛い過去は逮捕前から存じていましたが、それがほんの一部で実際は家族や学生生活で大いに苦しめられたいたこと、病的な要因が復活してしまう可能性も無くはないのも留意していました。
 しかし、彼を懐かしむ芸人仲間や関係者が彼の名を出すことも途絶えていません。そこまで慕われていたというのが伝わります。

「幕間」

 実は、本日2021年3月30日は高橋さんの50歳の誕生日です。この日に投稿したかったのもありますし、事件から5年がたった2020年12月26日は私はまた郵便局でアルバイトしていたので執筆のためには時間がある今にならざるを得ませんでした。また、ささっと呟くのでは字数が足りないと感じて改めてしっかり書き表したいという気持ちがあの時ずっと頭の中から離れないのもありました。あの時の呟きも載せておきますね。


 また、高橋さんの生い立ちなどを受け止めていましたがこちらを抽象的にしますと、大人になる前に「孤立」が深まってしまいある日突然自制心のタガが外れてしまったという訳になりますね。大人になってから幼少期の傷を埋められる人がいる一方、それが出来ない人もいますね。悲劇を繰り返さないためのケアやサポートが充実していくべきだと求めています。
 さて、ここまで淡々と述べられましたが、ここから先の本題は私の身勝手な心情に入ります。この5年間私がどう思っていたのか今まで言えなかった分書き乱れるのをご了承ください。

「呪縛」

 さて、今回の本題に入ります。解散という事実から私の心は曇るようになって次第に演芸で笑うというのが難しくなりました。そこまでこの事件は私を深く傷つけたのです。また、判決そして執行猶予期限切れ、私はその時気持ちが晴れやかになったとは思えず、むしろ虚無感で胸の中が一杯になりました。耐え忍んだ先が何もないのもあってか、先述の社会人復帰は喜ばしくても心の片隅にある復帰を望むのは諦めた方がいいと考えました。なぜそうなったのかは次で詳しく教えます。
 また、それよりも深刻だったのが彼が逮捕されてから年が明けると様々な芸能ゴシップが今まで以上に飛び交うようになった現実でした。本当に大事なことについて考えるよりも目先の失態に噛みつくようになった世間に私の精神の疲弊は加速しました。こう言った情勢に疲れたので彼の復帰を望まなくなった起因の一つで、それはまだあります。
それから、大いなる力で世界中に癒やしで一杯にするのかあるいは突然怪獣が現れて世界を滅亡するのかと言った両極端な妄想と言う形で現実逃避に走りました。現実逃避だけになったのは自分自身さえも信じられなくなったからです。それで、命を絶つことも考えなくなりました。その為、政治や社会問題に関心は得てもこんな思想に浸っていたので無味乾燥な思いを持っていました。
 ここで踏みとどまればよかったのですが、事件から何年も経つと更なる妄想に掻き立てられて、彼を人間扱いせず怪物化もしくは神格化するようになってしまいました。それがもう一つの起因です。妄想が悪化しても自分自身の命に対して何思わないまま、日々淡々と過ごしながら「絶望」や「滅亡」を知らず知らずの内に神のように崇めていました、それは自分が「怪物」を操る信徒として、あるいは「神」の言うがままに動く使徒として世界を蹂躙して楽しんでいて最終的に自分が生き残れている妄想の中でです。人間扱いしない面から、騒動を起こした人物の生命を奪う妄想も躊躇なく何度も繰り返しました。
有名な誰かが悪いことをしても、別の有名な誰かが亡くなっても何も感じなく捉えて過ごしていき、自分はいずれ悪役として生きるんだと妄信していました。ちなみに、「ノストラダムスの大予言」は世代ではなかったので流行っていた当時は存じておりませんでしたが、「マヤ文明の予言」は世代どんぴしゃだったので恥ずかしながら陰で期待していたのです。
 けれども、それは今となっては単なる「呪縛」に過ぎませんでした。

「遡及」

 「呪縛」、私の中では「願い」がいつしか負の感情が増幅したもので、その崇拝が無意識に行われているのは良くないと感じて親友に同じ相談を繰り返しても解決したと思った束の間直ぐに復活してしまうために、答えになるはずの言葉が単なる錯覚と捉えてしまいました。自分の中の「絶望」がそこまでしつこかったのは、前章に少し触れたオカルトにちょっとだけ踏み入れていたからです。といっても、来たる「滅亡」を待つのではなく己から実行しようとしていました。
けれども、前章のような妄想しているだけで頭が一杯なので自分から発する以外気づかされることはありませんでした。さて、このような書き方ですと高橋さんの事件で大いに心が傷ついたかというとそうではなくて、自分が好きな芸人が悲しい形で解散してしまうことを目の当たりにしたのは初めてではありません。
 私が最初に目にしたのは極楽とんぼ、今でも加藤さんがあの番組で号泣していたのは覚えています(それから、再結成したものの別の問題で逆転現象が起きたのも少なからずショックでした)。次はソーセージ、こちらは大まかにいえば最終的に分裂(アキナとジュリエッタ)したのですが、トリオとして売れてほしかったと時折妄想します。これからも立ち直れたことも書きます。
キングオブコメディの後ではトップリードも、また解散ではなく休止状態になった芸人も全員ではないですがグループでのネタや掛け合いが見られなくなるは少々痛ましいものでした。復活した方々もいますが、それが出来るのはごく一部だからこそ感動するんだと冷ややかな思想にも陥りました。

「人間」

 そんな感じで荒んだ感情を秘めたまま2020年を迎えて、その年は自分のやるべきことから逃げないで行こうと決意はしました。けれども待っていたのは、祭礼に浮かれるはずの世界が急激に絶望に叩きのめされる現実でした。ほとんど家の中にいる上に家の中でやるべきが可能な上に家族が職を手放すこともなかったので、私は家族を含めて外形上は無傷でした。
でも、望んでいた「絶望」とは違っていたのは次第に明らかになりました。いつも以上に無理矢理「希望」を生み出され、その裏で踏み台にされる生け贄、なんとなしでもなく似たような事がまた繰り返されていると感じていました。でも、そんな時でも根本的に求めていたのは自分で生み出した「呪縛」による救済です。
 でも、辛い世界になってから自分は何も解決することがない思想に取り憑かれていたと気づき、事件から5年が経っていました。
その頃には自分が考えているのはなんてちっぽけなこと、好きな芸人がちゃんと活躍して、元気でいて、潔白であれと愛のある願いが知らず知らずの内に憎悪で出来た「呪縛」になってしまうと考察するようになれました。愛は末恐ろしいですね。ここで一番大事なのは「自由」になりそうですが、それも同一なので「存在」していることに感謝した方が良いと思い、「人間的解放」を考えるようになりました。「怪物」や「神」では「人間」の世界を救えられない、世界を救えるのは「人間のヒーロー」だと私の中で浄化されました。
それは「呪縛」に取り憑かれているときに読んだ小説スティーブン・キングの『ミザリー』が「呪縛」を解きたいきっかけで、最近は映画、『仮面ライダービルド Be The One』、『シン・エヴァンゲリオン』、『ブリグズビー・ベア』(見た順)、漫画『呪術廻戦0』も取り入れたからです。あくまでも私の経験での話です。
それに付随して「人間的解放」で肩書きや人望よりもその人自身そのものは何かを重視するようになりました。これは一つで収まりきらないのでかなり困難だと分かっていますが、今活躍している芸人がもし何かあったとしても「人間」としての私はそんな風に考えるようにします。ここまで書くとキングオブコメディと決別したいのかと思われそうですがそうではございません、あくまでも終わってしまった存在がまだ生きていると現実を見られなかった自分と決別したいだけです。他に終わってしまったり、いなくなってしまったりした存在に対してもそう呑み込みました。
 それで高橋さんやら他の方も今は「人外的存在」から「人間」として見れるようになりました。「人間」としての自分を取り戻せた私は冒頭の台詞が深く身に染みてきました。自分の中で「悲哀」を肯定できたからです。でも、前述のような「人間」もとい「芸人」として何も罪を犯していなかった世界での高橋さんやらも妄想してしまいます。それは「呪縛」が弱いときからありましたが、今思うとこれも別の形の「呪縛」だと認識しました。「芸人」だけでなく他の職種の方もいつかは「人間」に還ると悟れて今は妄想する頻度が低くなりました。
「人間」として立ち直れたならば、他の政治や社会問題も行動に移せなくてもほっとこうとは思えなくなりました。よく社会の闇を引っ張り出して「これが現実だ!」と高らかに叫ぶ人がいらっしゃいますが、私からにしては「これも現実だ。」と申したいものです。「人間」になれた私はこの世界を強く絶望しなくなり、「人間」をずっと「人間」として認識できる「曖昧さ」が絶滅しないように生きることを誓いました。

「後書」

 まずは、ここまでお読みくださりありがとうございます。私もこんな長文になるとは思ってもいませんでした。ここで、本編で書きそびれたことをいくつか紹介します。
 浄化されるまでの思想に陥った根本は、自分の中で他者を自分と同じくらいの値に無意識に引きずり落としたいという凶暴さが合ったからだと思いました。でも、それを抑えているだけで他者への攻撃はしなくても根本的解決になっていなかったので今回浄化されて良かったと捉えています。
 他に、「人間的解放」はあくまでも「生産性」や「意味」から来ているものではありません。それだったら、こんな長文でしたためてはいないはずですが、「人間」に求められる条件が厳しくなっているのも現実ですのですね。また、自分は「普通」ではありませんので書いていく内に彼に重ねてしまうこともありました。「人間」と何度も繰り返しましたが、そもそも「人間」とは一体何なんでしょうか。私もまだ分かりません。
また、「孤独」と「孤立」を履き違えていたのも実感しました。「孤立」が「怪物」を生み出して、「孤独」は「人間」ではないと出来ないと悟りました。ただ、全ての事件に当てはまるわけではありませんね。
 一番大事なことですが、私は重たい過去を持っているなど関係なしに人間が他者を侵害して自己主張する事自体はしてはいけないと考えています。それが許される社会になってしまったら、混沌で収まりきらない地獄絵図になっているでしょう。それに関して、加害者と被害者のどちらが可哀想かあるいは偉いのか決めつけるのも私は不愉快と感じています。でも、前述のような未然に防ぐか更生のサポートも必要だと思いますが、それ以前に何も悪いことをしない方がいいとも思ってしまう私の矛盾感は解消されていません。そもそも、悪意が溜まる居場所があるのも問題ですね。
 他にも色んな事を述べていたかったのですが、蛇足になるのでここまで削りました。最後に大事な別れの挨拶で締めさせて頂きます。
「今まで楽しかった、ありがとう。どこかで元気いると思うけど、さようなら。」

「参照」



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糖花兆子
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