憂国考察記事#17-23 A Scandal In British Empire(2)
【関連作品】
「シャーロック・ホームズシリーズ」:『ボヘミアの醜聞』(A Scandal in Bohemia)
「憂国のモリアーティ」5ー6巻:#17-23 A Scandal In British Empire
「憂国のモリアーティ」第17-23話で、シャーロックやマイクロフトたちの部分は#17-23 (1)で触れた。いよいよThe womanについて考察したい。
「シャーロック・ホームズシリーズ」でThe womanといえば、アイリーン・アドラー。ホームズにとって特別な女性だ。原作シリーズの3作目『ボヘミアの醜聞』に登場する。
“シャーロック・ホームズにとって、彼女はいつも「あの女」である。別の呼び方をするのは、これまでほとんど聞いたことがない。彼女は、ホームズが「女」に分類した情報の手前に居座っているので「女」と言えばそれは彼女のことなのだ。しかし、彼はアイリーン・アドラーに愛のような激情はいっさい感じていなかった。”
「憂国のモリアーティ」では、マイクロフトがアイリーンを「あの女」と呼んでいる。この呼称の使い方がとてもうまい。
原作ではワトソンが冒頭から彼女を故アイリーン・アドラーと記している。つまり、ワトソンが記述している時点でアドラーは死亡している設定であり、ホームズが呼んでいる「あの女」はもうこの世にはいないということを示しながら物語をつむいでいく。
一方、漫画では最後に「あの女」から「あの男」に変わる。シャーロックは「あの女は死んだ」という言葉をかみしめながらも、自分に声を掛けてきた「あの男」は新たな生を受けたアイリーンだと気付く。だから、シャーロックは作中でほとんど「あの女」という言葉は使わない。生きていて、女ではなく男として生きていることを知っているからだろう。この作品では、原作とは違うifを提示してくれたように思う。
結末を先に書いてしまったが、物語の中身についても考察したい。まず、アイリーンがボヘミア王に扮してシャーロックを訪ねてくるところから。
原作では、本物のボヘミア王が下手な変装をして221Bを訪ね、ホームズからすぐに見破られてしまう。このくだりを知っていたからこそ、アイリーンが自ら変装してシャーロックに会いに行っていたとは思わなかった。ホームズが特別な女性と出会う有名な物語を読み込んでいる原作ファンをだます巧妙な仕掛けだった。
便せんからホームズとワトソンが差出人はボヘミアのドイツ人であると推測する場面は原作でも描かれている。原作で2人は正解にたどりついていることになっているが、漫画では見事にアイリーンの仕掛けに引っかかってしまっている。だが、「あの女」ならばそれくらいやってくれるかもしれないという妙な期待が原作ファンにもあるので、221Bの住人が女性に知恵比べで負けても全く問題ない。
竹内良輔先生の優しさなのか、入浴シーンより前のコマに、ボヘミア王がアイリーンであると分かるヒントが隠されている。それはボヘミア王が221Bを後にしたときに言った“Goood-night, Mr. Sherlock Holmes”。これは、原作でアドラーが若い青年に扮してホームズにあいさつした場面の台詞なのだ。この台詞を見た瞬間、まさかボヘミア王はアイリーンだったかと気付き、やられた!と、とても悔しくなった覚えがある。この悔しさはしばらく忘れまい。
アイリーンだと気づかずに依頼を引き受けたシャーロックとジョンはアイリーンの家で発煙筒を使ったウソのぼや騒ぎを計画する。この手口は原作と同じ。原作ではホームズは自らの正体を明かさず、牧師に扮してアドラーの家に入り込み、ワトソンは窓の外から発煙筒を投げ込む役割を担っていた。原作では2人の作戦自体は成功するが、アドラーのほうが一枚上手で、ボヘミア王に頼まれていた写真を手に入れることはかなわなかった。漫画ではそもそもボヘミア王の依頼自体がウソのため、当然ながら最初の作戦は全く通用しなかった。221Bを爆破するという捨て身の策を敢行することで、シャーロックは2回目の作戦を成功させ、アイリーンが隠していた書類を手にする。
さて、作戦を成功させたシャーロックは自分ではアイリーンを守ることができないと悟り、いまだ正体が分かっていない犯罪郷に頼ることを考える。原作ではあり得ない話だが、漫画ではシャーロックとウィリアムの関係がただの宿敵にとどまらないからこそ実現する。ウィリアムらモリアーティ一味は公にはアイリーン・アドラーを抹殺し、全く別の人物としてMI6で雇うことにした。Mとミス・マネーペニー、Qが出そろったMI6でただ一つ足りないもの。世界で最も有名なスパイとのコラボレーションがここで完成する。アイリーンはジェームズ・ボンドと名乗るのだ。この仕掛けにはもう脱帽するしかない。
第二の人生を歩むと決めたアイリーンは若い青年に扮して221Bの前を通り過ぎ、シャーロックにこうあいさつする。「おやすみなさい、ミスターシャーロック・ホームズ」と。これほど完璧な台詞と終わり方があるだろううか。「憂国のモリアーティ」第17-23話は、原作ファンを喜ばせるのに十分過ぎるほどに素晴らしい構成だった。竹内先生と三好輝先生に最大の賛辞を贈りたい。
※MustangJoeによるPixabayからの画像