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原理なんて所詮そんなもん

こんなことを書くと現役に怒られるかも知れないが、原理なんて所詮そんなもんだ。何が言いたいかと言うと、「原理はただの書物であって、真理そのものではない。」ってこと。それは、原理自体にも書かれてある。そう言ったことを、ここではツラツラ書いていきたいと思う。

原理は真理の一部分

ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない。時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである。

総序

この引用にハッキリと書かれてある通り、「原理講論は、真理の一部分」である。この書物は、1950年代に文鮮明氏によって書かれたものであって、その後、公言社で発売されてから、一度も改変されていない。変わったとすれば、何故か3色刷りにされたことくらいだ。その時代から今に渡って進められる摂理の中で、より深い解釈が出てきたり、より広い視点で見た解釈が出て来ていると思う。それが、一つは「み言葉」として、語り継がれるものだろう。(自分は、食口個人それぞれが掴み取った神体験や啓示なども、「み言葉」と同程度か、それ以上の価値があるものと信じている。)だから、自分たちは、決して原理を絶対視してはならない。原理は真理の一部かも知れないが、真理それ自体ではないからだ。

不完全だからこそ価値がある

「この本の内容は絶対であり、真理の全てだ。」と、締め括られていた方が、原理の絶対性を示せて、信仰を教える者にとっては楽だと思う。ただ、敢えてそうせずに、原理自体の不完全性を自分で示すこの本は、正直であり、むしろ誠実な本だと自分は感じる。仮に、原理がそれ自体のみの正当性を主張する内容であった場合、それ以外の書物や宗教は全て「間違い」となってしまい、排斥の対象となる。もし、そういう本だった場合、そもそも自分は学ぶ気にすらならないだろう。自ら不完全性を示す書物であるからこそ、自分はこの本から学ぶ価値を感じるのだ。

おわりに

この内容、原理を学んできた人からしたら、「そらそうだよね。」って分かり合えると思うんだけど、そうじゃない人多すぎない?笑。特に、公職者で頭が凝り固まった人ほど、理解してくれない気がする。まぁ、別に僕自身も自分が絶対正しいなんて思ってないけどさ、そもそも原理がこう言うスタンスだからこそ、超宗教という概念が生まれると思うんだよねぇ…(´△`)

(※これらは全て、一個人の感想です。)

2025/1/8

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