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🌸🌺講和記念婦人とこども大博覧会(1952年)🌺🌸
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今回の記事は、『大阪関西万博』論の続き になります。
先日テレビで、戦後すぐの大阪で開催された『婦人とこども大博覧会(1952年)』について扱われており、初めて知ったその出来事に興味が湧き、突如筆を執る運びとなりました。
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▢🌸🌺講和記念婦人とこども大博覧会(1952年)🌺🌸
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『婦人とこども大博覧会』は、終戦後間もない1952年の大阪・天王寺で、日本の主権回復(『日米[サンフランシスコ]講和条約)という日本の再出発、あらたな門出を祝うため開催されましたが、
これは婦人ならびに、日本の将来を担う子供のため行われた博覧会でした。講和記念館、婦人館、産業貿易館、NHKテレビ館、こども館などが会場内に立ち並び、
また大阪城公園にも別途会場が整備され、そこには交通館、航空館、観光郷土館などが建てられました。
私は1970年大阪万博の前の日本で開催された博覧会については、まったく知らなかったので、1月10日放送の『newsランナー』は昭和の社会について、より深く知るきっかけになりました。
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◆サンフランシスコ講和条約 1951年
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1951年にアメリカ・カリフォルニア州で締結された『サンフランシスコ講和[平和]条約』は、正式には日本国との平和条約と言います。ただ、歴史の授業でその呼び方を聞いたことはないですね。専ら前者の呼称で統一されているようです。
SF条約(San Francisco)と呼ばれることもあるみたいですが、個人的には昭和期を通しては大阪万博に代表されるように、20世紀における『未来像』は宇宙開発などにおいて常にSF染みていたため、この条約が締結された地名が感慨深く思われます。
この条約により、第二次大戦後の日本の主権が承認され、日本と連合国との間の「戦争状態」が終結したとされますが、逆に1951年までその状態が続いていたことが、今更ながら驚きです。
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1950年代は現時点では丸々歴史のなかの世界です。現代とは共通点より相違点の方が多いと思います。
そして、その時代の日本を実際に潜り抜けた人々の経験には、畏敬や感嘆の想いしかありません。近年いくら不況だ、不確実な時代だと言っても、政治・経済的な困難さは、当時に比べると格段に改善されており、比較になりません。
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▢国際花と緑の博覧会(1990年)
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先日書いた『大阪・関西万博』の記事では、大阪市内で行われた『国際花と緑の博覧会(1990年)』は触れていませんでしたが、
今回の『講和記念婦人とこども大博覧会(1952年)』の記事の中で扱うことにします。
位置づけ的には、大きな『大阪万博』や『大阪・関西万博』の間に、中規模の『婦人とこども大博覧会』や『国際花と緑の博覧会[花博]』があるのだと思います。
『婦人とこども大博覧会』は、1952年の戦後昭和の開始時期に位置しますが、『花博』は1990年開催であり『平成開始(1989年)』や『IT革命(1990年頃)』の時分に相当します。
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◆花博記念公園鶴見緑地
『花博』自体大阪以外ではあまり知名度がなく、その会場跡地に整備された『花博記念公園鶴見緑地』も、大阪市内以外の人はあまり知らないことかと思います。
私は大阪市内生れ・住みなので、鶴見緑地は庭みたいなもので長年親しみがある存在です。時代の変遷という論点で言えば、ここ数年の間に、
『なにわっこランド』に整備されていた巨大遊具が、老朽化から次々と撤去されたことが重要です。
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巨大な恐竜の遊具は、冒頭の『婦人とこども大博覧会』の写真を想起させます。正直いつからあったのかは分かりませんが、
私は幼少期を通して、学校の遠足や家族の行楽で鶴見緑地を訪れていたので、その不在でかつてのにぎわい、人気の消えた鶴見緑地の一帯が、寂しい限りです。
当たり前に存在していた巨大遊具の数々は、バブル期の圧倒的な日本の経済力を背景にしたものだったのでしょうか。
これからの『未来社会』で子供達に夢を届けるためには、『高齢化社会』であるからこそ、このような90年代の街づくりも必要になってくると思います。
調べてみると、全国にはこれに似た巨大施設をもつ公園も多くあるようです。その修繕・維持や、場合によっては新築も可能な限り行われていくことが重要です。