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ペルーで豆腐は① はじめに

2019年とーふは突然日本の裏側、ペルーへと旅立った。

(ペルーのイメージはマチュピチュしかなかった)

 なぜか 自分のルーツ、母のルーツを見てみたいとずっと思っていた。 もう14年?も、経つのかな?父が他界したのだが、それを期に母が痴ほう症になってしまった。公的な手続きを三人姉妹でやることに。

その際初めて見たのが母の戸籍に書いてある彼女の生誕の地である。

ペルー国ワチョ市

筆で書いてある古い文字。

母はペルー生まれだった。知ってたけど。なんというか実感した事はなかった。

では母はペルー人だったのか?

ノン

では祖母がペルー人だったのか?

ノン

祖父母は日本人だった。だから母も日本人。

Not so long ago...

だいたい100年前ほど福井の農家の8番目だかの息子は腹を空かせていた。

8番目だしもうなんつーか居場所もない。貰える土地もない。

そんな青年はペルーへ大志を抱いて渡る。当時どんな謳い文句で誘われたのでしょうねぇ…。船に揺られてペルーへ。そしてワチョへ。

よく働きよく汗をかいた日々であったろう…

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(現在のワチョの田園風景)

ある時お見合い話が持ち上がったそうな。遠い日本から写真一枚で渡航して来る大々的なお見合いである。(俗にいうピクチャーブライド)

祖母は祖父に一目惚れしたそうで(写真だが) 祖母はペルーへ旅立った。こここまで書いてきてすげー劇的じゃないですかこれ。

大阪とか東京じゃなくて福井。戦前ですから、出航までだって自宅から何十時間とかかかる時代…それほど田舎の農家の末っ子には未来が見えなかったのかなぁ…。

海を渡った祖母、やっと着いたダーリン!と、思ったらなんと祖父には現地人のガールフレンドがいたらしい。その女性を蹴落とし妻の座に。太平洋渡ってきましたからね…引き返せませんし…。

画像2

(ワチョのホテルにいた馬さんたち)

そして二人は3男4女をもうけ(一人死産)仲良く二人は過ごしたそうな。

貧しいなりに楽しく過ごす祖父母ファミリー、のんびりしたペルーとは裏腹に日本とアメリカはだいぶきな臭くなってきておりました。


第二次世界大戦時においてアメリカ合衆国やアメリカの影響下にあったペルーやブラジルなどのラテンアメリカ諸国の連合国、またカナダやオーストラリアなどのイギリス連邦において行われた、日系人や日本人移民に対する強制収容所への収監政策である。1942年から1946年に亘って実施された。(wikipediaより

そう、祖父母も漏れなく収容され渡米。テキサス州の収容所に一家で収容されました。

つづく

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