2018/11/6 原発終着駅の富岡駅を訪れる
久しぶりの東北被災地旅の記録です。
2018年、大学1年の秋。
今まで宮城や岩手の被災地ばかり行っていたが、福島の被災地にも行ってみたくなった。
宮城や岩手の沿岸部は7年経ってある程度復興し始めた地域もあるように見えた。しかし、福島の浜通りは津波や地震だけではなく「原発」という、これまた非常に重くのしかかる別の被害を受けていた…
今回は原発付近を走っていた常磐線が運転見合わせとなり、原発付近で立ち入り禁止区域の手前(当時終着駅になった)富岡駅までまでいった記録です。
例によって当時のブログの引用なので、色々見苦しいですが、ぜひご覧ください。
***2018年11月6日***
11月6日、常磐線の現在終着駅の富岡駅へ行ってきました。
皆様ご存知の通り、東日本大震災による福島第一原発の事故のため、第一原発付近の福島県沿岸の地域は帰宅困難区域となり、今でも国道や高速道路は自動車でしか移動できません。
鉄道路線の常磐線もその被害を受けて、本来は東京から仙台まで通じているはずなのですが、現在は富岡~浪江駅間は不通となり、代行バスはあるとはいえ鉄路では東京から富岡までしか行けません。
とはいえ、帰宅困難区域にほど近い富岡町まで鉄道が通ったというのは当然喜ばしいこと。
前々から行きたいと思っていた場所についに行く機会ができたので、わずかな時間でしたが散策してきました。
いわき15時19分発の富岡行に乗車。
かつてというかほんの一年前の10月21日までは竜田駅までの運行でした。富岡駅には約6年半ぶりに電車が戻ってきたということになりますね。
広野(のち竜田)~原ノ町と浜吉田~相馬間が不通だったころと比べると明らかに時は流れ、インフラも復旧しつつあります。
以下、普通列車の中から撮影した車窓の記録をご紹介します。雨が降っていたので見づらいですがご了承ください。
常磐線は海の近くを通ります。末続などは高台にあるからか被害をまぬかれたそうですが、大きな地震が発生して、海沿いは津波の被害は大きかったので建物など相当被害を受けたようです。
とはいえ、新築とみられる家が所々に建てられていたので人が全くいない町になったというわけではないとみられます。
各駅で降りる方も見られたので需要は間違いなくあるでしょう。
広野町の復興公営住宅です。下北迫団地というそうで、昨年の10月に入居を開始したそうです。
いくつかの家には車がありますし、近くの国道では車通りもあったので、当然とはいえある程度の住民の方はいらっしゃるようです。
いわき以北では特に沿線の人口が減っている中出来た公営住宅。新しく完成したことによって活気を生み出したことでしょう。
富岡駅の近くにはたくさんの土嚢が積まれていました。
単なる工事で出てきた土なのか、除染作業なのか。
熊本や気仙沼でも見かけたので正直驚きはありませんでした…
7年たった今も復興半ばだというのを改めて気づかされるとともに、ますます復興することを祈り、応援したくなる瞬間でもありました。人知れずに復興のため尽力している方々に敬意を表したいです。
富岡町は夜ノ森など桜の名所なので、桜のマークや「がんばろう富岡町!」の文字がでかでかと掲げられていて、今も頑張っているとは思いますが、ますます「がんばれ」と思いました。
こうなってくると訪れる以外にも何かしら貢献したいのですがね…
約40分程度で富岡に到着。富岡町の玄関口です。
ちなみに富岡駅は福島第”二”原発の近くにあります。
浪江行きの代行バスとの接続がないので空気輸送かと思いきや、意外と降りた方がいました。
富岡町は比較的大きな町なので復興の拠点の一つだったそうです。実際震災前はすべての特急が止まっていたそうで。
駅のホームが3番線まである、ということはのちのち特急や、ほぼ単線のいわきから仙台間に当駅終発着の列車が来る、と考えてもいいでしょうか。
見づらくて恐縮ですが、まだまだ工事続行中で全線復旧までは遠そうな感じでした。
しばらくは2番線は未使用で、という可能性ももちろんありますが。
それでも雨の中黙々と作業をする方々には頭が下がります。
ちなみに駅の外でも駐車場建設工事をしている方もいました。
復興するのはおそらくまだまだ先のこと、それでも人知れず復興に向けて尽力されている方がいるのも忘れてはいけないこと、
くどいですが、ずっと胸に残さなければなりません。
放射線量を測る機械。
放射線は危ない、福島は危ない、住めない、とかいう方がまだいらっしゃるかもしれませんが、
富岡駅周辺では24時間外に出ている状態で1年間浴びても0.57(mSv/年)程度のようなので、人体には何ら影響はないです。
もちろん誤差はあれど影響が出てくるのは1(mSv/年)を超えたらで、それを超えることはまずないでしょう。
そもそも日常生活で放射線を全く浴びない場所など無いし、レントゲンだの飛行機の宇宙線だので一時的に高放射線は浴びることがあるので、今の段階で恐れすぎる必要は全くありません。
ちなみに、茨城県東海村の原子力科学研究所の展示館にも行っていたので、その記事もまたご紹介します。
駅の外にはさくらすてーしょんKINONEという売店食堂や、富岡ホテルというホテルがありました。
三陸わかめそばをいただいたところ非常においしかったのでまた行きたいところ。
三陸といえば今は牡蠣が旬ですよね。それも食べたいな。
【2019/2/13 追記】
執筆当時は知らなかったのですが、
富岡駅の近くには、東電が原発についての資料館を建設したり、津波から避難するよう呼びかけ続けて殉職された警察官が乗っていた壊れたパトカーが展示されているそう。
また行かないといけませんね。
代行バスもいつかはなくなり、途中で無残に切られた路線図もつながることでしょう。
それも近いうちに。
大野などの途中駅は通過となってしまうかもしれませんが、浪江や原ノ町、相馬といった福島県の北東の地域が仙台だけでなく、
いわき・水戸・東京まで鉄路でつながると明らかにアクセス向上、少しだとしても住民の方が戻ってくるという方もいるのではないでしょうか。
もちろんそんな簡単な話ではないとは思いますが、常磐線という長大路線の完全復旧は日本(東北)にとって確実に一つの大きな進歩といえるはず。
常磐線が復興のシンボルとなるよう願います。
***
富岡町のことは震災が起こるまで何も知らなかったので単なる被災地としか思っていなかったのですが、
鉄道が開通することで明らかに町のアクセスが向上し、将来はまた活気づくだろうと思います。
鉄道が町の復興に一役買うことを願っております。
全線開通した際には東京仙台の乗りつぶしの旅の途中で、富岡ホテルに泊まってみたいなとひそかに思っております。
******
正直に言うと、当時の自分があまりに楽観的というか、本当に東北の明るい希望しか見えていなかったんだなと感じる。もちろんそれはそれでいいことだが、希望を信じるだけで問題はたくさん残っているからいまだに問題は解決しないのである。
福島県は現在は常磐線こそ全線復旧したが、原発被害によっていまだに立ち入り地域や居住できない環境があったり、正直いまだに復興とは程遠い地域だと思っている。
駅の周辺だけ立ち入りが許可されても、まだまだ立ち入り禁止なところも多く存在する。
特急列車が東京から直通し、大野や双葉といった避難区域だった駅にも止まってはいるけど、需要があるというよりも復興のシンボル的要素の方が強いと推定する。
もちろん福島県産のものだからって放射線が今も土壌に残っていることはないし、ちゃんと検査しているので食べても全く問題ないどころか、とてもうまいのに、いまだに本気で風評被害を信じている人もいるらしく、福島の先行きは重いように思えてしまう…
(かつて福島県産のご飯や円盤餃子を食べたことがあるが、思い出補正を含んでも、今まで食べたお米の中で一番おいしかった)
宮城や岩手は少しずつ復興に向けて人々が頑張っている印象にあったが、放射線などそもそも人の力で解決するのが難しいほどの課題が、いまだ大量に残る福島が本当に復興するのはいつだろう…
とはいえ悲観的なことを嘆いても何にもならないので、せめて東京の学生として出来ることをして応援したいと思う。
ちなみに、2019年9月に代行バスに乗って富岡よりも北へ行っていたので、その記事もいずれ紹介する。
***
最後に、当時の記事には書いていなかったけど、原発資料館や発電所がある茨城県東海町にも途中下車していたので、写真を紹介して終了とします。
ターミナルでもない地方の駅にしてはものすごく大きな作りで驚きました。
原発のお金があるからか、綺麗な駅舎を建てる余裕があったのでしょうか。
道路名が原電通りとか原研通りになっていて、原発関係のものが道路にまでなっていました。
そこまで原発は地域に根差しているのでしょうか。
ちなみに東海の隣駅の「大甕駅」は難読のため「大みか駅」になっていました。
「東海村をつぶすな原発はいらない」という看板がありました。
もちろん原発はあったほうがお金は得られますが、原発は危険という考え方も理解できます。
電気の需要と供給が全くあっていない。
だからといって、火力発電や風力水力地熱などの発電が安全安心ですべての人にとっていいというわけでもなく。
主に環境問題や資源問題、騒音など人的問題が絡みます。
原発に限らず発電関係には色々な面で問題が起きてしまいます。
そして原発資料館。
当時のメモが残ってたので、共有しときます。
入場料無料にしては良い感じで、いろいろと学ぶことができました。
駅からやや離れてますが、こちらもぜひ。
***
以下が私が当時書いたブログです。