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死と祈りと。ボルタンスキーとマグダラのマリア
※「ハニカムブログ 」2019年10月7日記事より転載
ボルタンスキーが創り出す空間は、聖域だ。
先日、国立新美術館で行われた大回顧展「Lifetime」は、地下聖堂やカタコンベのようだったし、
今、表参道のエスパス ルイ・ヴィトン東京で行われている「アニミタスII」は、天空に近い位置にポツンと建てられた礼拝堂のようだ。
「アニミタス」とは「小さな魂」の意味であり、チリでは亡くなった人の魂を慰めるために道端に作られる小さな祠のことでもあるという。
今年の5月。
マグダラのマリアの足跡を辿り、イスラエルから南仏を訪れた。
「ミグダル(マグダラ)」というガリラヤ湖の北西岸にあるマグダラのマリアが生まれた町。
そこは風と水と岩しかないような。静謐な土地だった。
マグダラのマリアが33年祈り続けたという、サント=ボームの岩山の洞窟。
さらに、その岩山の頂上にポツンとある小さな祠。
膝をついて祈るだけの、本当に小さな小さな空間が、岩山を登りきった限りなく天空に近い場所にあった。
でもそこは孤独な場所、という感じではなく。
周りにはラベンダーやローズマリーなど南仏のハーブや草花が生い茂り、マグダラのマリアが、祈りの静けさの中に幸せを見出していたことがありありと感じられる場所だった。
奇しくも「Lifetime」の会場で観たボルタンスキーのインタビューで、彼のインスタレーションについてこんなことを言っていた。
「展覧会は南フランスの教会みたいなものだ。いつも扉が開かれている。
中に入ると誰かが腕を動かしていたり、匂いがあったり音楽があったり。
何かが起きているけれど、何が起きているのかはわからない。そこに行って5分座って何かを考え、また教会の外へ出て日常に帰る。」
日常の中にある、小さな祈りや思考。
「アニミタスII」では二つの映像が映し出されているけれど、その一つ「アニミタス(死せる母たち)」は、イスラエルの死海で撮影されている。
フランス語では死海を現す「Mer Morte」と「死せる母たち」の「Mères Mortes」は同じ発音だそうだ。
マグダラのマリアの旅のとき、死海にも訪れているのでこれもなんだか縁を感じる。
「アニミタスII」の空間に入ると、まず枯れ草の匂いが鼻につく。
床一面に枯れ草が敷き詰められ、ドライフラワーになった小さな弔いの花束が点在する。
表参道のルイ・ヴィトンというハイエンドな場所と、その匂いのコントラスト。
窓の外には、大都会の景色。
そして隣にある教会の十字架が見える。
死海のほとりで、瀬戸内海にある森で。
ボルタンスキーが生まれた星の配置で吊るされた無数の風鈴が、ちりんちりんと音を立てる。
朝の死海の映像では美しい薄紫色の朝陽やカラスの声。
夜の時間は、ほとんど何も見えない。
ただ、ただ無に帰っていく。
「風鈴の音は日本独自のもの。目には見えないけれど、風のように私たちのまわりを取り囲む亡霊のようです。風も特別な力を持つ、不思議な存在です。ときに家を倒すほどの力があるのに、見ることはできません」
「人が死ぬと魂はしばらく残っているけれど、ある期間を過ぎると消えてしまう。私たちがその人のことを忘れてしまって、誰も思い出さなくなると完全に消えてしまうのです。私の作品も何年かの間はそこにあると思いますが、そのうちに風で風鈴は倒れてしまい、なくなってしまうでしょう。でもそのあとに"神話"が残ればいい。人々が私の名前を忘れてしまっても、こんな作品があったという記憶が残ればいいと思っています。」(Casa BRUTUS ボルタンスキー インタビューより)
先日、ほとんど話したことはないけれど知っている、という人が亡くなった。(と、風の噂で知った。)
そんな風に微妙な距離感がある関係性の人が亡くなると、軽い衝撃を受けると同時にとても不思議な感覚に陥る。
ある瞬間、一人の人の命が絶たれてしまったというのに、悲しさよりも神聖さの方が先に立つ。
たくさんの人が今までも生きてきて、これからも死ぬ。
そのサイクルに還っていくことを、ただ受け止めるような。
感情があるような、ないような。
「自分が死ぬ」ということに対しても、明るく健全に日々を過ごしつつも、いつ死んでもいいように生きているようなところもあって。
「痛い」と「苦しい」がイヤだな...という感覚くらいしかない。
できれば、マハーサマーディ的に自ら呼吸を弱めていって肉体を離脱したい(笑)
死んだ後のものは全部、躊躇せずに捨ててもらってかまわない。
私は「死」に対して淡白なのかな、と思ったりする。
といっても、実際余命がわかったらジタバタ騒いだりするんだろうけれど。
それでも、「あの人」が、死んだら。
私は嘆き悲しむだろう。
肉体と肉体で関わりたいという、この世への最後の執着。
五感と五感で関われる。その肉迫した喜びこそが今生の幸せ。
それが失われてしまうのが、悲しい。
だから「いきる」を大事にする。
「いきる」感覚は自分だけのものだと思う。
他の人たちの「いきる」の感覚は、知り得ない。
自分以外の人の「いきる」は、どんな感覚なのか。
それが知りたくて、アートを見るのかもしれない。
■ 小松ゆり子 official web site
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