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才能と、種の起源

 数年前から、ひとりひとりが持っている個性のようなもののことを「才能」と呼ぶようになった。

 才能という言葉は、ときにとても暴力的だ。「あの人は才能がある」「あの人には才能がない」そうやって才能という言葉が、相対的な基準として人を比べるものさしのように使われることをよく見かける。自分がそんな冷たい「才能のものさし」を頬に押し当てられることを想像すると、それはものすごく無慈悲なことだと感じて、そして悲しくなる。

 だから「才能」という言葉を使うことには抵抗もあるのだけど、今はそれ以外に伝わりそうな呼び方を思い付いていない。才能は本当は「ある・ない」という相対的な判断ができるものではなく、それはみんなに生まれ持って与えられていて、そしてそれぞれが違う色を持っているもののような気がする。一人一人が全く違う色を持って生まれていて、それでいて似たところばかりで、だからとても美しかったのか、と感じることがある。

 家の本棚を眺めていて、大学生のときに何となく読んだ、ダーウィンの種の起源の文庫本がふいに目に留まった。それぞれの命に必ず違う個性がある、つまりランダム性を持って個体が生まれてくることは、種の起源がそれをすでに裏付けていたのではないかという思いが頭に突然に浮かび上がった。昔に読んだページの遠いおぼろげな記憶と、最近浮かんでいた雲のような思考がつながった瞬間だった。

 そして、自分の才能を発見していくことは「意思による意識の変容」みたいなことと、密接に関わっているのではないかと思う。そういうトピックについて、しばらく興味を持っている。デザインの中でも長らくアイデンティティデザインという分野に取り組んでいたり、小説や絵を描いていることも、このことが根本にあるのかもしれない。

 人には意識の底に岩盤のようなものがあり、その岩盤の上に信念を据えて日々の生活を生き抜いているのではないかと思う。仕事、恋愛、家族、全ての自分の行動や思考が、その岩盤の上で行われている。その岩盤は、無意識と意識のちょうど中間にあるもので、氷山のように埋もれた無意識の塊を、海面に一角の姿が現われた意識に変換している弁のような役割になっているのではないか。

 例えば、「他者を助ける」ことを信念としている人が、友人を積極的に助けたいと考えていて、誰かの役に立っていることをより実感できる仕事を選んでいく、ということがあったとする。

 そしてその人は恐らく、社会の中で「助けられていない誰か」を目撃すると、そのことにすごく悲しくなったり、怒りを覚えたりする。それがその人自身の行動力の源になっていたりするのだと思う。

 そういった信念が人生において一貫した方向性への原動力をもたらしてくれる一方で、その信念が逆に心の底で望んでいた理想の姿になっていくことを阻んでいた、ということがよく起こっているように感じる。

 例えば「他者を助ける生き方をしよう」という信念を強く育ててきた人が、幼少期には積極的に母親のお手伝いをする子供だったとする。

 そもそもお手伝いを積極的にするようになったのは、お手伝いをする=他者を助けるということが、母親との関係性をよりよくしていくためのとても重要な行為だと発見していくという、発達の過程がある。

 発見する体験の積み重ねが、「他者を助ける」ことによって大切な人とつながれる、という信念を育てることにつながっていく。そしてその信念の強さが、その人がいつも見せる率先的な優しい行動だったり、温和な表情だったりとして表出していく。

 そして、その信念を裏返して別の言葉で表現するなら、それは「誰かを助けられている自分でないと、大切な人とつながれない」という考え方でもあることを同時に意味していることがあったりするのだと思う。

 例えば恋愛では、この信念が「助け甲斐のある」相手に安心感を覚える性質として現れることがある。相手のことを守ってあげられる立場に自分がなれる恋愛関係を構築することが多かったり。

 または逆に、恋人という唯一の存在の前でだけは「とことん身勝手にさせてくれる人」を求めたくなる、ということもあるかもしれない。みんなの前ではとても利他的で優しい人が、家庭の中ではすごく身勝手に振る舞っている、ということも例えばこういったことから起こっているのだと思う。

 これらは一見逆のことのように見えて、同じ岩盤から発露している現象なのではないかと思う。人間は常に内面に自己矛盾を抱えていて、それを分離させることで社会性と個別性のバランスを保って生きている。

 常に相反する面があり、目に見えている振る舞いだけで「キャラクター」みたいなものを判断して人を理解することは不可能だなと感じることが多い。矛盾した二面性を掘り下げていくことで、初めてその人の本当が見えてくる。

 そういったことが、無意識と意識の間で自動的に変換され、その人の望む現実と、そして望まない現実をも作り出している。その信念の強化がある限界に達したときに、人は大きな変化の必要性に直面する。

 その岩盤のようなものを自覚することが、同時に、自分の才能を自覚するということになるのではないかと思う。そういうことに触れられた瞬間に、僕はとても感動する。すごく嬉しくなってしまう。涙が出てくることさえあるくらいに。

 そういう瞬間に触れられるような活動や仕事を、もっと増やしていけたらいいなと思う。自分の才能をもっと社会に還元していきたい。我ながら亀のように遅い歩みだな自分は…と思いながらも、段々とは近付いているんだと思う。それを喜びながら、生きていたい。

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