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気分の波との付き合い方③この道一筋ではなく、フラフラと色々なことをしてみる

 1年ほど前、自分が代表をやっているCIALという会社でデザインとコーヒーの事業を大きくしようと頑張りすぎて大きな鬱の波が来てしまった頃に、神田橋語録という資料の存在を知りました。内容は精神科医の神田橋先生の、診療時のやりとりなどをまとめたものになっています。知人に勧められて神田橋先生の本は読んだことがあったのですが、双極性障害(躁鬱病)について書かれた資料が、しかもWebで全て読める状態で公開されているなんて知りませんでした。気分に大きな波がある、何となく定期的に調子がわるくなる日があるという人には、全ての人に一度読んでみてほしいなと思うくらいにはすごい内容です。「神田橋語録」と検索したら出てきます。こんな資料をまとめて公開してもらえてるなんて本当に有難い。

 1番最初にこの資料を読み始めたとき、読み進めるほどに涙が止まらなくなったことをよく覚えています。これまで自分に対して「直さなくちゃいけない。何で他の人が普通にできることが出来ないのだろう。これは欠陥だ。」と、ずっと思い込んでいたようなこと。その全てを肯定してもらえて、そのままで生きることしかできないさ。と言ってもらったような感覚になりました。

 この資料は、"躁鬱病は病気というよりも、一種の体質です。" という一文から始まります。まずこの時点で、目から鱗でした。そうなんだ、自分に起こってきたこのことは、直すべきものではなく、自分の生まれ持った性質だったんだ。そんなことさえ全然思えていなかったことに気付く。治さなくちゃいけない、普通の人がやっている普通のことを何とかできるようにならなきゃいけない。出来ないとしても出来ているように振る舞わないといけない。そうずっとずっと思い込んできた。

 これまでぼくは「この道一筋」みたいなことこそカッコいいと思っていた。他のこと全てを捨てて打ち込むこと。音楽も、コンピュータも、コーヒーも、デザインも。それに熱中している時には、それ以外のことを意識的に捨てていくようにしていました。他のことに興味を持ってしまいそうになったら、遠ざけるようなことをしていました。でもその状態はいつもあまり長くは持たなくて、どれだけ頑張っても3年ほどで必ず窮屈な気分になってきて、心が限界を迎えます。そのまま我慢して頑張って続けてしまうと、頑張った分だけ大きめの鬱状態に入っていきます。

 そんなことにも、神田橋先生は答えてくれていました。少し長いですが、再び引用させてください。
"躁鬱病の人は我慢するのが向きません。「この道一筋」は身に合いません。ずぅーとではな いにしても、「吾が・まま」で行かないと波が出ます。「私さん、私さん、今何がしたいの ですか?」と自分の心身に聴いてみながら行動することです。自分の生活を狭くしない事。 広く広く手を出す事。頭はにぎやかにして、あっちふらふら、こっちふらふらがよろしい。 やってみて良くなかったら止めたらよいだけです。生活が広がるほど波が小さくなります。 用心のためと思って、それをしないでじっと我慢していると中々良くなりません。窮屈が いけないのです。一つの事に打ち込まずに、幅広く色んなことをするのが良いでしょう。"

 いろいろなことに興味を持ってしまう。それがコンプレックスでした。そうじゃないべきだとずっと信じてきた。1つのことだけに真っ直ぐに。それがカッコいい価値観で、みんなに尊敬される生き方だ、と。でも神田橋先生の上記の文章を読んで、そうじゃなくてよかったんだと初めて思えるようになりました。そんな考え方あるんだ、みたいなびっくり仰天するような感覚でした。自分がつくり出している世界ではもう前提のことだとしすぎていて、意識の上にさえ存在していなかった考え方でした。そこから「そうか、これも自分の性質であり、特殊性だったんだ。」と思えるようになってきました。

 色々なことにどんどんと興味を持って、軽やかに分野を渡り歩いていける。その時に好きだと感じることに従ってあげ続けてさえすればいい、と。そんな楽しいことがあっていいのだろうか。そんな安心感のある生き方があるなんて。ぼくはそれまでずっとキリキリと歯を食いしばっていたことに、それで歯がボロボロになっていようと自分自身では全く気付けていなかったのでした。

 神田橋語録の文章は本当に隅から隅まで目から鱗なので全体をぜひ読んでみて頂きたいです。今日は、その中から「この道一筋ではなく、フラフラと色々なことをしてみる」ということに関して引用して紹介してみました。また気分が向いたら神田橋先生の文章を引用させて頂きつつ文章を書きたいなと思っています。

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