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『流水、ここからここに』 前編

未発表の短編小説を、先んじて定期購読限定で投稿しています。前編は400字詰め原稿用紙12.5枚の分量です。この文章の最後から、文庫本想定の縦書き版のPDFもダウンロード頂けます。内容のSNSへのシェアはお控え頂けると幸いです。


『流水、ここからここに』 前編



 月

 水を一口で飲む女性。それが、ぼくが覚えている香取さんのことについての記憶の、最も大きな印象を占めていた。
 香取さんと初めて知り合ったのは、一年と半年前だった。香取さんはパン屋のレジでぼくのひとつ前に並んでいて、お釣りを落としたのを拾って渡したのが最初の短い会話だった。お釣りを受け取った香取さんは、
「お昼ごはんですか?であれば、近くの公園で食べませんか?」
とぼくに言った。唐突だなと思ったが、ぼくはそのあたりの適当なベンチに座って食べようと思っていたくらいだったので、香取さんの提案に了承することにした。ぼくもパンの会計を済ませてから、公園に向かって香取さんと並んで歩き始めた。
 香取さんは、淡いクリーム色のワンピースを着ていて、女性の平均よりも少し身長が高く、滑らかな曲線を描く枝のようにすらっとした人だと思った。そのとき香取さんは、全体の淡い色合いの服の印象とは不釣り合いだと思えてしまうくらいに、派手で大きな赤色のイヤリングをつけていた。今でもそのイヤリングの鮮やかな赤色の残像が頭に思い浮かんでくることがあるくらいに、なぜだか今でもぼくの記憶に残っていた。
 池がある公園の木々は、くすんだ黄色から深紅色に変わっていくところだった。ぼくたちはベンチに座り、パンを食べ始めた。
 香取さんはおもむろに鞄から大きな水筒を取り出した。透明な液体をコップに注ぎ、ごくごくと喉で音を立てながら一口で飲み干した。香取さんは飲み干したコップにまた、なみなみに透明の液体を注いで、ぼくに向かって差し出した。ぼくが困惑していると、香取さんが、ぼくの黒目を捉えるようにじっとピントを合わせて、言った。
「水、飲む?」
ぼくは少し迷ったが、うなずいてから、ひとまずそのコップを受け取った。香取さんが、ぼくがコップに口をつける前にすかさず囁いた。
「一口で飲んでね。」
なぜ一口でなければいけないのだろう。とはいえ、ぼくの方に絶対に一口で飲まないという理由もなかったので、そうしてみることにした。
 コップを口につける。思っていたよりもコップは底が深く、飲み干すのに時間がかかった。ぼくがごくごくと水を飲んでいる間、二人の間にもちろん会話はなく、ぼくの首の内部の中心あたりで喉が水を運ぶ音が鈍く小さく響いているだけの時間が流れた。ぼくは居心地がわるくなり、腹に力を入れるようにして、香取さんにもらった水をできるだけ速く一口で飲み干した。

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