ある文章への嫌悪感が消えた
見かけるだけで少し嫌な気分になっていたある作家さんの文章への嫌悪感が消えた。
それどころか、今はその人の文章が好きでさえある。
この人は自分と同じことを感じていて、自分の持つ身体感覚に近い語彙を用いて文章にしているとさえ感じるときがあるくらいには好き。
誰かに嫌悪感を抱くとき、それは許せてなかった自分の中にある何かに反応しているんだと思った。
その人への嫌悪感が消えたのは、自分が元々持っていたある要素について一年前くらいから徐々に赦してあげれるようになったことを思い出したからだった。
怒りは鏡なのかもしれない。自分の中にあるものが反応する。
これまでは、怒りや悲しみから生まれる強い感情もひとつの原動力だと思って肯定したくなることも多かった。
それが活動のエネルギーになることも少なくないからだ。
だけど、手段としての激情は必要なかったんだなと今は思う。
強い感情ほど、本能として自分を守るために、無意識に強く働いている。
感情は、自動的に働く生命保護装置のようなものだ。
激情に頼らなくても生きていけるようになったとき、それは祈りみたいな澄んだ哀しさや怒りになってくれるのかもしれない。
自分の感覚を赦してあげるということは、悲しさや怒りの感情の、その根元に向かって降り続けてあげること。
だから、どれだけ自分を赦してあげることが進んでも、根本にある哀しみや孤独がなくなることはないんだと思う。
そしてむしろ自分の中にあるものを赦してあげれるほどに、哀しさも孤独感も増してくる。
その哀しさはじわっと滲みてくるようになるというか。じっくりと味わえるようになるというか。深い井戸に入っていくような感じになっていくというか。
そうなったとき、悲しさや怒りは、祈りと同じになってくれる。
その感覚があるほどに、もっと自分がつくりたかったものに自然と導いてくれるようになってくれるような気がして、心地いい。
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