情報はあふれるほどに

 情報はあふれるほどに、実は何かがわからなくなっているのではないか。という不安にときにかられる。
 TVやラジオ、新聞がなかった時代のことを私は知らない。生まれてものごころついたときには、TVやラジオ、そして、新聞は暮らしの中にあった。
 あ、そうだ。一年近く病院に入院していた時代には、TVの時間は制限され、読み物の制限もされていたので、ラジオしか、情報の入手先がない時代は確かにあったな。
 そのときは別にして、年を経れば経るほど、TVや新聞にふれる時間はながくなり、自分で情報をとりにいくことを学び、本を読むようになった。そして、その先に、パソコン通信がはじまり、インターネットが日常化、そして、この10年近くはSNSが日常的になってきた。そして、情報にまつわる行動がより変化してきた。
 そもそも「情報」は得ようと思う行動に基づいて得ることができるようになるものだ。何もしなければ、「情報」を得ることはできない。そして、その情報については自身の行動に依るところが多く、自分の興味やくらしの世界に基づき、得ることができる。これは大前提で、そのことをインターネットやSNSはより強化することによって、出している記事やニュース、商品、そして、情報を選んで、プッシュしている。
 そういう意味では、情報を広く得ようとおもうものにとっては、戦いになる。そういったインターネットやSNSも含めて、いかにその「差し出されるモノ」の囲いを突破して、「あたらしいもの」に出会うか。
 しかし、この戦いはかなり厳しいなと感じるようになってきている。気がついてみると、かのグループとの情報の取り合いになってしまう、量の勝負になってしまい、貴重な時間というリソースを収奪されてしまう。一日に、かなりな時間をインターネットやSNSに奪われてしまうのでは、本末転倒になる。それこそ、人間のそういった行為そのものを、プログラミングできる人たちが、別のプログラミングで抗じるほうが合理的にみえる。しかし、それは、またその世界を別に構築することになる。
 情報が増えれば増えるほど、不安になる。その不安は大切なものなのかもしれない。自分が得た情報は、数え切れないほどの「情報」になる前の「チリ」のうち自分が情報にできるだろうものの中のわずかなものでしかないという覚知を促す。その覚知こそが、次へ向かうモチベーションとイノベーション(心)を奮う。


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