ノノガファイナルのYURIの歌詞について話したい
はじめまして。普段は日本語教師・現代文講師・英語講師をしています。
自己紹介もそこそこに、オーディション番組No No Girls(以下、ノノガ)の話をさせてください。
ノノガ最終審査
ノノガの最終審査が、先日Kアリーナ横浜で行われました。
最終審査では、ファイナリスト10人がちゃんみなの曲をアレンジし、ソロパフォーマンスを披露します。
ファイナリストのパフォーマンスはどれも素晴らしかったのですが、ここではYURIの歌詞アレンジの巧みさについて書きます。
YURIのパフォーマンス
YURIがパフォーマンスしたのは「ハレンチ」。
YURIはこの曲に独自の歌詞を追加しました。
神は綺麗な花から摘んでいって
腐った花ほど長く生かす
水をやっても波は止まって
呼吸を枯らして憂き目を見た
苦さも知らない子どもながら焼きついて
お父さん聴いてる?褒めてよ!
I can do for you.
花
パフォーマンス冒頭、YURIは百合の花を手にして「愛に憶えがあるから花を描いたの」
と歌います。
これはハレンチの元の歌詞です。
その花のイメージとも重ねるように、自作詩の部分では
「神は綺麗な花から摘んでいって」
と、美しいものから死んでしまうこの世の不条理を歌います。
水
その花のイメージのまま
「水をやっても」
と続けます。この段階では花に水をやる姿が目に浮かびます。
波
ところが、「水」を受けて次に登場する単語が「波」です。
「水をやっても」から「波は止まって」へと展開していくのです。
ここがすごい。
「波は止まって」は静謐な空間を想像させます。
たとえば冬の早朝、しんとした空気のなかで、揺れずに広がっている湖の水面。
水をどれだけ注いでももう波が立たない、という表現から、止まってしまった時間や、静かな死のイメージが連想されます。
同時に、この波は心電図の波形や人間の中を流れる波(血液や鼓動)と捉えることもできます。
必要不可欠な「水」をやっても、その「波」が止まってしまう。
この心電図のイメージから翻って、「水をやっても」が点滴に繋がれた病人の姿にも重なります。
「水をやっても波は止まって」
もし凡人が死について歌詞を書いたなら、
「綺麗な花から摘まれていく」という冒頭の花のイメージに引っ張られて
「水をやっても花は散って」
になるのが普通だと思います。
これでも十分に死のイメージは伝わってきますが、表現としてはありきたりですね。
しかしYURIは「花」から繋がってきた「水」のワードを「波」へと展開させつつ、同時に死も表現しています。
それによって詩の表現に奥行きが生まれています。
この展開の方向性は独創的です。
再び、花
そして、
「呼吸を枯らして」
です。
「声をからす」という表現は耳馴染みがありますが、「呼吸をからす」という表現はあまり使われません(ちなみに声をからすは「嗄らす」と表記することが多いですが、嗄らすは常用漢字ではありません)。
けれど、ここに「枯らす」という動詞を使うことで、大きなモチーフである「花」との関連が生まれているのです。
非常に芸術的な展開のある詩です。
詩の良さと弱点
ここまで詩の意味を解釈してきましたが、詩は込められた意味だけでなく、その言葉の描き出すイメージが重要だと思っています。
もし意味を伝えることだけに注力するのであれば、死を予感させる「呼吸を枯らして」も「呼吸が止まって」と説明的に書けばいいんです。
でも、「呼吸を枯らして」と言うことで、詩の冒頭から出てくる花も連想させ、イメージに幅を持たせることができます。
そうして広がっていく景色こそが詩の美しさ、面白みだと思います。
一方で、このような詩の表現は日常的に使用される言葉の語法とはズレていることがあるため、意味がハッキリ伝わらないことがあります。
言い換えると、たとえばライブでは、意味がストレートに届くキャッチーな言葉のほうが、その場にいる人に響きやすく、観客を巻き込みやすいのです。
特に今回のような一度限りのパフォーマンスにおいては、歌詞カードを読み込むこともできないので、こういう独創的・詩的な表現は評価されづらい面があると思います。
「お父さん聴いてる?褒めてよ!」
そういった懸念を吹き飛ばすのが、このあと叫ぶように続く
「お父さん聴いてる?褒めてよ!」
です。
父を亡くしてから大人になりすぎてしまった、と番組内で明かしていたYURI。
閉じ込めていた感情を解放するようなこの真っ直ぐなフレーズをぶち込むことで、それまでの詩の芸術性をいったん脇に置いて「会場に思いを届ける」という離れ業をやってのけています。
この恐るべきバランス感覚。
"I can do for you."
そして最後に
"I can do for you."
と力強く言い切ります。
I can do for you.は「私はお父さんの代わりができる」という意味だと解釈しています。
"I can do it for you"と言おうとしてitを飛ばしたのでは?という意見がちらほら見られますが、私は聞こえた通り"I can do for you."と考え、doを自動詞の用法で解釈しています。
自動詞のdo+forには、「〜の代わりになる」「〜の代役をする」という意味があります。
例)This Rock will do for a hammer.
この石は金づちの代わりになる。
亡くなった父に対して、
「私はあなたの代わりができているよ」
と伝えているのだ、と考えると、直前の
「お父さん聴いてる?褒めてよ!」
とも繋がるのではないでしょうか。
(I can do it for you.で捉えている方がもしいれば、どういう解釈か教えていただきたいです)
まとめ
繰り返しになりますが、YURIのこの詩の一番の凄さは
「お父さん聴いてる?褒めてよ!」
よりも、むしろそこに至るまでの、
花→水→波→花
というイメージの展開にあると思っています。
これだけ独創的な詩的展開力のあるYURIが「父を亡くした人」として消費されるのではなく、ひとりの表現者として正当に評価されることを願っています。
あわよくば、今後もいくつも詩を書いてくれたら嬉しい限りです。
そしてデビューしたHANAのメンバーを含む、ノノガの皆に幸あれ!