残ってる 実行編
起きないといけない日は一分刻みで5回分のアラームをセットしますが、今回もそれで置きました。時刻は4時、家人は誰も起きていないので起こさないように主観浮かれたワンピースに着替え、前日に塗りそめたかき氷いろの爪のいちごシロップ感にほくそ笑んで、外に出ます。
明けた引き戸から覗く外は思った以上に暗く、それでいて一歩踏み出せば寒く、完全に夏が終わったことが分かります。私の記憶では、朝4時ってもう少し明るかった気がします。じゃあ、その記憶っていつだったか、などと考えながら少し歩きます。答えは思いだせません。その日の服装は「残ってる」感と快適さの両立に悩んだ末、長袖のワンピースを選びました。なんと銀色なので、きっと物理的にも眩しいことでしょう。外を歩いている限り、長袖のワンピースを選んだのは恐らく正解に思われました。夏の夜特有の蒸し暑さが無く、空気も冷えて、時折風が吹いてきて、などと、指さしでひとつひとつ、夏の死亡の要件を数えながら駅に向かいます。
15分ほどの道のりですが、駅に着くころには東の空が少し明るくなっています。その場所になんというか「境目」があるように思いました。唐突な私あるあるで恐縮ですが、私、境目のあやふやなものに大変な魅力を感じがち、と言うのがあります。それと言うのは二項対立のうちの、どちらでもないその間のもののことです。つまり、私がぼんやりと昏く青い空に見入るあまり、しばし足を止めてしまったのは、朝と夜の対立の、その曖昧であるように思ったからでした。あやふやは安心します。あやふやがそこにあるというだけでちょっと救われます。そうしていると何だかこれをずっと見ているだけでもいいような気がしてきますが、本来の目的は「残ってる」であることを思いだし、再び歩きはじめます。そうでした、私は電車に乗るために歩いてきたのでした。
朝5時前の改札は外の暗さと相俟って煌々と明るく見えて、人通りもまばらにありました。まじりっけのない始発を享受したかったので、その時あった中で一番早い時間の電車に乗り、当然のように隅の席に座り車両の全体を満遍なく眺めます。車両にはふたり乗っていて、恐らくこの早い時間からどこかに行く人ではなく前日に終電を逃した人なんだろうと察しがつくような、くたびれた印象を受けました。かと言って私の方もとてもじゃないけどスッキリした様子ではなかったと思います。と言うのは私の体と脳が理想とする睡眠時間は最低でも7時間なのに対して、この日の私は4時間少々しか眠っていません。とにかく気合で起床した私の体の統制は鈍行の柔らかい椅子に座った途端眠気に乗っ取られてしまって、「ああいけない、ちゃんと享受しなくては」と頭を振りながらも、始発で帰るってこういう感じか、というリアリティもまたありました。行って帰ることが目的なのでそう長い時間乗っている必要はなく、重い頭を持ち上げて電車を降りれば、改札を出るとぼんやりと水色だっただけの東の空が明るくなっています。
曖昧さはこちらの方があるかもしれません。あれに似ています。印刷物に水をこぼしてしまった時に、黒いインクが溶けて、余白に虹色が広がる感じ。滲んでいる、と言うのが近いような空に見えました。駅周辺から恐らく出勤するのであろう人々が歩いてきて、本格的に一日が始まる予感があります。この時間になると、瞬きの度に空が明るくなっている気がします。曖昧が次第にはっきりとしていくのがもったいなくて嫌でした。いやだな、と思いました。明確な何かに向けてというよりはぼんやりとあたり全部に向いていました。
そんなつもり無かったのに、「いやだな」と思い始めると色々なことが堰を切って零れだします。溢れそうなのを、まだ早いと押し込めて、来た時と反対側の電車に乗れば、行きよりずっと人で埋まった車両で銀色のワンピースとピンク色の爪が浮いていました。そう遠くない場所から場所まで乗るだけの時間は行きよりも長く感じます。なんだか早く降りたい、と思って少しして、「この場にいたくない」という方が正しいなと思い直しました。車窓の私は明らかに場違いで、ふざけた格好に見えました。かき氷いろだと思って塗った爪が電車の照明の下にある時、どうしてああも品がなく見えたんでしょうか。また、いやだな、と思いました。
誰も降りない電車からただひとりホームに降り立つともう眠くも疲れてもなく、どちらかと言えばこれからの一日が長いことが理由で気分は高揚している、と言っても良かったでしょう。だらだら映画を見ることも、小説を読むこともできます。充実の一日になる事は請け合いです。
だとしたらなんでこんなに虚しいのか?それは私の中には何も「残って」ないからだろうな、とすぐにわかりました。最寄り駅の改札の前はよそよそしいし、浮かれたワンピースは眩しくて、いちごシロップに似せたネイルは少し剥がれて、夏は寒々しいのに、私の中には何もないのです。私の中には「あなた」がいないから、一夜明けても残る熱なんかないしそれがのろしを上げることもないために、皮膚一枚隔てた内側が冷え切って、虚無感と空腹感があるだけです。「あなた」は「私」を始発で帰らせないでしょう。なぜならその時の「私」は寒くて暗くて空腹だからです。そんなところに「私」を「あなた」はそのまま放り出したりしないはずです。
すっかり明るい空にはしかし朝焼けの名残りで赤い雲が浮かんでいます。最寄駅からの道を歩きながらも、この日2時間かけてやったことは「残ってる」のガワをなぞっただけで、何の本質も伴っていない行為に過ぎないことに私はすっかり気づいていました。まがい物を口に含むとかえって本物を渇望するようになってしまうもので、例えるならレバ刺しの代わりにと買ったレバ刺しこんにゃくで、かえって今は無きレバ刺しを強く思うようになってしまったように、似非「残ってる」を摂取してしまったせいで本質の伴った「残ってる」への飢餓感に近い憧れを強めることになりました。
これを書いている9月12日、実行から4日経って尚物質的な空腹とは違う、精神性の飢餓感は依然として私の中にあります。恐らく何かによって埋まるのでしょうし、何によって埋まりうるかもうすうす分かるのですが文字にしたり口にしたりするのはみっともない気がします。他人の口や筆跡からなら恐らくそんなこと思わないのに自分だとそうでないのが不思議です。
「残ってる」に近づこうとしたら、より隔絶を感じる結果になりましたが、これはむしろ正しい距離を把握したということではないか。これが私にできる精一杯のポジティブです。得てして、ぼんやりとした憧れに対してむやみに距離を詰めようとするのが必ずしもいいわけではないということ。これを皆さんに覚えて帰って頂きたいものです。それでは皆さん、いい秋をお過ごし下さい。