文体論 造形思考 ② (上昇、下降、感動形式)
吾々は、交叉点を通り過ぎてからは、狭い路地に当たって、そのまま歩き出した。石垣の段々高くなるや、少し下る坂道を、尚も分からず、突き進んだ。車の往来につけては、隊列を乱し、整えて、それから一寸談笑して、落ち着いて、ということを繰り返した。それは少し気恥ずかしかった。目の先にある麓が、富士山のものかも判らないで行くのも、決まりが悪いし、径が曲がりくねっているのも、気まずかった。昨日、山中湖の近くの民宿に泊まって、吾々の他にも、大学時代の仲間が兎に角、集まったから、全て一緒に行動していた。昨晩は、風呂に入って、飯を食って、酒を煽られれば、全部呑んだ。そういう全体行動の最中に、私を呼んで、摘み出してくれたのは有り難かった。
或る地点まで行くと、野生公園のような何処かの自治体が管理しているのかも知れぬ、観光スポットらしき場所に着いて、その時初めて、富士山の青さを感じた。偉いものだなと思って、恐る恐る近づくと、近づいているのに、まるで巨大みたいで、それでなく地面の多少の泥濘みや、砂利の滑る感じが判然としてきて、湖で泳いでいる白鳥も家鴨も、その数疋が岸へ上がって来ているのも分かってくるのに、ただ富士山だけは動かず、変な感じに酔ってしまった。胃靠れが気になった。「雲がかかっていなけりゃね」と誰かが云った気がして、連なって「日がよければ傘になって…」というのが聞こえた気がした。莫迦と私は思った。ゆっくりと行った。雲はぴょんぴょんと癖っ毛のように跳ねてしまって、雲は傾斜をなだらかに降りようとしている。いずれも風が吹いていた。この巨躯には、精神的な靄は一切無い。青みがかった翠や、黒々しく据えたものが、未だ遠い、空虚さの隔たりを通過する時、その途中で日照を感じて、私は銀色をして感じられる。それは遥かだった。それだのに、輪郭は失わず、決してぼやけず、巌の力こぶが盛り上がっていたりするから、尚更遥かだと思う。
人の少ない方へと行けば、やがて公園の端の方に、遽造りの半島を見つけて、それは小さい小さい島だったが、吾々を惹きつけた。吾々は、如何にかして彼方に行く術は無いかと思ったが、駄目だった。丁度、ジャンプしても足りない位のもので、此方の岸とは隔たれていた。仕方がないから諦めた。半島が囲ったところに湾が形成されて、その裡で起こる、浪の様子が他とは違うので、私は気になった。四方から来る浪は、島の爪先にそのままぶつかり、勢いを失うと、縦も横も分らなくなって、次第にそれも弱まって、弱まった儘入っていった。浪は止んでいた。それは温情しかった。
旅行が終わってからというものの、私は空を見上げなければ、気が済まないようになっていた。それは単に、たまたま帰り道の夕焼けが綺麗だったと云うことや、ここ数日間溜まっていた疲れが、どっと出て、思いもしない時間に早寝して、起きてみれば、朝ぼらけであったと云うことかも知れない。何方にしても、何か変わる時点に、空を見上げているということは、それ自体を浮かび上がらせた。
上昇、下降を云うならば、上下には、何よりも?という枕詞がつく。この時空間、とりわけ時間の制約を受けずして、何々の感動ということは云えない。感動の形式は寧ろ、感動の起こりから成る造形を認識するという点では、つまり或る形の或る形という哲学的な領域に参入するものだけども、それがものの美しさに寄り添うことならば、致し方ない。その際、上昇する感動と下降する感動では異なる様相を見せる。
不断、何となしに、食っちゃ寝していても気づかなんだったが、件の旅行で富士山を見たというのは良かった。彼時、昨晩呑んだ酒で腑が萎えていた。しばらく眠られなかった。富士山が不恰好だった。そのどれもが本統に良い働きをした。別に生死を懸けた云々ということでもあるまい。誰かにこっ酷く振られたわけでもあるまい。それだのに私は、一切、絶望していないのに関わらず、辛かった。その気持ちがあったからと云うよりも、今こうして思い返してみれば、富士山の霊性にやられたように思えてくるが、そういう感情の為に富士山を彼時、見れたのは本統に良かったのだ。
彼時、富士山を見て帰ってきて、すぐ昼飯だった。食堂に入ると、後輩の何人かが、宿のおばちゃんから受け取ったカレーライスやサラダやらを配膳していて、有り難いと思った。もう俺は食うぞと云う感じで座ると、大所帯の全員が揃うわけでもないからと、何人かと雰囲気を示し合わして、食べ始めた。全く腹が減っていなかったから、綺麗な皿だなとか思ったりしていたが、食べ始めた手前、食べ物を大切にしないのはいかんと思って食った。福神漬けが入った家庭的なカレーライスだったが、カレーのルウがウイスキー臭く感じてしまって、全然食欲が湧かなかったし、胃の靠れ具合が悪化してきて、上流して、胸焼けまでするようになってきた。米が柔らかかったのも受け付けなかったし、サラダもシーザードレッシングも娑婆くて、娑婆いのにレタスの葉っぱが重く感じた。デザートの蜜柑だけはうまかった。蜜柑二つで良かった。ウイスキー味のカレーライスなんてのは最低だ。
旅行から戻ってきて、自宅の最寄りのバス停に着いた時、時刻が何時だったかは覚えてない。夕日は住宅街の翳になっていて、見ることは出来なかったが、彼方にはオレンジの光が残っていた。空の上の方は宇宙の暗闇だと云う感じで、もう直に、少なくとも数十分後には夜が来るだろうと思った。私は安堵した。その晩はすぐに寝てしまった。
昨日、例のカレーライスを食べて以来、何も食べていなかったから、朝起きた時の空腹は凄まじかった。しかし、もう胃腸の心配をする必要がないという点で云えば、それは幸福なことだった。布団の中は暖かい。顔は冷たい。鼻の先っちょが冷たい空気を捕ったものだから、思わずクシャミしてしまった。それが尾を曳いて、もう一回、また一回と止まなかった。ずるずるとした鼻を気遣って、不断の感じに戻ると、朝食を買いに出掛けた。或る径中、朝焼を眺めている時分の心情は異様であった。空もまた異様であった。しかし乍ら空は途方もなく綺麗だったのだ。