シェア
石さまざま
2024年11月10日 10:28
はじめに本稿『可能性の哲学』は、ある意味で言えば織田作之助『可能性の文学』と相通じている。それは題目を似せてつけたわたしにその原因の一端があるだろうが、ひとつ内面から沸々と湧き出てくる素直な言葉であったと思うのだ。日本における近代エゴの問題はあるときから非常にデカダンの雰囲気を醸し、われわれはその空気に収まるうちにユーモアや冷笑、はたまたそれら全てによる諦観をみずからの拠り所に据えたのである。畢
2024年7月20日 15:46
人間という存在の不安定さのために苦難したことがある者ならば、絶望という感覚を知っているだろう。登山者でもゆらゆら散歩する者でもいいが、たとえばもしもあるとき、わたしは目を覚まして、もしくは夢の中で、視界が暗いことに気づき、しかしながらわたしは歩いているのではないかということを朧げにそう思ったとする。また全身の感覚が徐々に快復しているように思えてきたとしたら。わたしは地面が土であると思った。耳鼻はお
2023年12月20日 14:34
吾々は、交叉点を通り過ぎてからは、狭い路地に当たって、そのまま歩き出した。石垣の段々高くなるや、少し下る坂道を、尚も分からず、突き進んだ。車の往来につけては、隊列を乱し、整えて、それから一寸談笑して、落ち着いて、ということを繰り返した。それは少し気恥ずかしかった。目の先にある麓が、富士山のものかも判らないで行くのも、決まりが悪いし、径が曲がりくねっているのも、気まずかった。昨日、山中湖の近くの民宿
2023年12月15日 11:08
<はじめに>兼ねてから、文学における表現の理論を確立してみたいという一心であったが、同じくして、文章というものに決定的な意味を持たせるということの危うさとの間で、私は非常に悶々としていた。というのも、こうやって物を書いてみれば、私はあくまで物を書いているのであって、心なるものを書いているのではないという気がして堪らなかった。元々、表現に際しては、ただ一枚の紙の上で、事物が兎に角、静止していて、
2024年1月24日 12:36
まえがき本筋に入る前に、なぜ題目に思考ではなく、思想と表記しなければならなかったか。思考と思想という言葉には如何なる違いがあるのか。何れだけの射程の違いがあると云うのだろうか。一般に思想と云う時、我々はあの悍ましかったヒトラー政権を思い起すのか?それともスターリンを思い起すのか?将又、それに追従してしまった国民の失敗を呼び起こすのだろうか?尤も俗的にも、この言葉の意味を捉えるならば、思想とは危
2024年3月15日 12:20
われわれは知の形式を分類することができる。いかようにも分類することができる。哲学の系譜や潮流から言っても、様々な学派が存在するというのは、もはや自明であるかのように思われてくる。科学や宗教、文学、日常のあらゆる生活の中でも、まとまったカテゴリーを形成してきた。それらカテゴリーが人間の思考にとって役に立ち、反対に役立たなくなったものは、時代の選別を経て、時に廃止されやがて衰退の一途を辿るのだというこ