散文6


哲学者の書籍に焦点を当てて、AIからはたくさんのことを教えてもらった。AI記事は不評ではあるが、個人的にかなり勉強になっているので助かってると思う。

反AI派の努力信仰。AI推進派の効率主義について考えていた。努力信仰の価値観では人そのものが書くこと、創作することに価値を置く。その為、努力信仰を重視する反AI派と効率性を重視するAI推進派とは相容れないだろうと考える。彼らは「人間が苦労すること」に価値を置くからだ。一生懸命な姿に感動を覚えることが大事であり、作品がどれほど優れていようと関係ないので、汗水垂らして生み出したものに価値を置くのである。そして、それを一つの美徳と考えるのなら、効率化や無駄を省くことは苦労したことにはならず、愛情が感じられない為、評価に値しないのである。

もしも、彼らの中に「作品に対して(正当に)評価を下す」といった思考があったなら、人であれAIであれ、作品(結果)が評価の本質であるはずだろう。彼らは効率化を楽することとみなし、それに対する感情的拒否をあらわにする。そして、作品よりも、人物や努力(過程)を評価する。過程を主観的に評価していることに気づかないので、効率化を「ズル」や「不正」として考えてしまうのである。つまり、成果物における人物や努力は過程や一要素でしかなく、見ているところが作品でないならば、本質ではないと言いたいのである。

ところで、AIの学習と、人の学習に本質的な違いはないと思う。学習とは情報を取り込み、蓄積し、組み合わせることである。そこに「苦労」の有無は価値には入らない。情報収集そのものに違いがないとするなら、人がAIに勝つ術はないと考える。なぜなら、AIは人間の数百年分、数千年分を短時間かつ「効率的」に学習しているからだ。努力でいうなら(もちろん、苦労も含めて、情報の処理や学習の時間も含めて)AIのほうがよっぽど努力していると言ったほうが正しいだろう。人が一歩一歩進む時間や手間を超越して、学習(努力)していることを考えると、AIが生成した作品はその学習量ゆえ、既に人の領域を超えている。

 もしも、反AI派が楽をしていると考えてしまうのなら、その考えと事実に対する矛盾の可能性を一度認識する必要があるだろう。恐らく、それを書いたところで拒否されることは目に見えているので、人間というのは難しい生き物だなと考えるわけである。

しかし、その「人を超えた存在」から、学習する機会があるということは、視点を変えれば、とてもワクワクすることではないだろうか。つまり、その便利さ優秀さゆえに、なんでも教えてくれるわけである。もちろん、AIにも苦手なことがある。例えば、過去データにない新しい考え方であったり、臨機応変な対応、季節要因やトレンドのミクロ的な要因などには弱い。これらを無視してAIに結果を尋ねると誤情報(ハルシネーション)を起こす可能性がある。それに、ハルシネーションと人間の嘘や勘違いにあまり違いはないと、常々考えている。つまり、嘘をつきたくてついているわけではない。勘違いや嘘があればその都度訂正すればいいだけであり、それに、AIと人間のどちらも嘘をついている可能性もあるのである。

思うことは「言葉は現実をありのまま投影できたことはこれまでに一度もない」と言うことだ。つまり、言葉そのものに嘘や虚構が本質の内にあるから、言葉が真実をありのままに語ることはできないのである。それはこの世の誰にもできないと俺は思う。しかし、真実的なものを語ることができる。その真実的なものを信用するかどうかは、各々の主義主張に任せたいと思う。知性はもっとも自由なものだからだ。

この激変する時代に、AIの価値にいち早く気づき、遊ぶように学ぶことは、我々の大きな可能性である。反AI的な価値観に固執することではなく、新たな知への扉として、知的冒険を深めることほどワクワクすることはないのではないだろうか?


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