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身体のエッセイ5 アサノタカオ

 ※今回執筆いただいたアサノさんは砂連尾理著『老人ホームで生まれた<とつとつダンス>』(晶文社、2016年)の編集者でもあります。アサノさんによって生み出された本でした。ご自身もサウダージブックより随筆集『読むことの風』を出版しています。

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「幕なしのダンスへ」

アサノタカオ(編集者)


 関東では新型コロナウイルス禍に「東京五輪禍」がかさなり、身動きしにくい憂鬱なステイホームがつづく。

 先日、住みなれた我が家であるにもかかわらず、玄関の角で素足の小指をぶつけて怪我をした。靴下を履くのが痛い。したがって靴を履くのも痛い。サンダルで歩いても、やはりじんじん痛い。ふだんなら自宅から徒歩2、3分で行ける距離にある近所のコンビニへの道を往来するだけで、額に脂汗がにじんだ。全身から見れば足の小指というちいさなちいさな部分、しかもその先っぽが傷ついただけで、こうも不自由になるものか。

 からだが、言うことを聞かない。それはつまり言うことを聞かせたいからだという相手が突然自分の前にあらわれる、ということでもある。ふだん「健常者」という思い込みを生きる自分にとって、からだを強く意識するのは病気で寝込むときか、怪我をしたときぐらいだろう。

 翌朝、用事があって出かける支度をしていたのだが、靴下を履こうとしたところで足が痛いのを思い出した。とてもじゃないが、1時間以上かけて都会まで出かけ、あちこち歩き回ることはできない。もともと出不精の引きこもり体質で、家にいること自体は苦にならない。「すみません、足を怪我しちゃって……」と出かけられない口実が見つかり、すこしうれしい自分がいる。

 そんなステイホーム中の6月下旬、京都・舞鶴の特別養護老人ホーム「グレイスヴィルまいづる」(以下、グレイス)でおこなわれた「とつとつダンス」のワークショップに参加した。「とつとつダンス」の詳細は、このウェブマガジンのいろいろな記事を読んでもらうとして、このときはオンラインのビデオ会議システムを使って、関東在住のダンサーの砂連尾理さんと文化人類学者の豊平豪さんが、グレイスの共有スペースに集まった入所者やスタッフの方々に画面越しに呼びかけて、ことばや身振りを引きだすという趣向。その対話の様子を、僕はオブザーバーのようなかたちで、自宅からやはり画面越しに見学していた。  

 10名強のお年寄りがいただろうか。砂連尾さんらの繰り出す謎めいた呼びかけに応える人、むすっと黙っている人。からだを動かす人、じっとしている人。疑いのまなざし、喜びのまなざし、飽きっぽいまなざし、真剣に思い悩むまなざし……。突然、うれしそうに片言の英語で語りだすおばあさんもいて、なんとまあ見事に人それぞれのお年寄りたち。みっしりと人生の時間のつまった「それぞれ」が、強烈なまでに個でありつづけながら、なお同じ場で同じ画面をともに眺めることでゆるやかにつながっている。

 画面の向こう側に集まるお年寄りたちの中で、気になる入居者がひとりいた。

 砂連尾さんは手ひらを動かしたり人形を取り出したりして、「これは何に見えますか?」などと「お題」を出すのだが、そんなふうにして「お題」を出しているあいだも出していないあいだも、とにかく砂連尾さんの手振り身振りをずっと真似しているお年寄りがいたのだ。はにかむような笑顔を浮かべて、ひと言も話すことなく。手のひらをひらひらさせて。その姿に目が釘付けにされた。

 あとから砂連尾さんに聞いたのだが、この方はオンラインではない対面接触のダンスワークショップではそれほど呼びかけに応じないのに、テレビモニターを通して語りかけると積極的に同じ動きをして「踊ってくれる」という。

 ワークショップ見学後、はじまりもなければおわりもないこのふたりの不思議な関わり合いを反芻するうちに、「幕なしのダンス」ということばがふとひらめいた。

 このことばは、戸井田道三の『幕なしの思考』(伝統と現代社、1971年)という本のタイトルから来ている。戸井田さんは1909(明治43)年生まれ、能狂言の評論家として知られるが、そのほかにも民俗・料理・服飾・演劇・映画など多様な分野で批評活動を展開した在野の思想家。ひらがなの多い平明な文体をもちいるところが特徴である。かれは幼いころから病弱で、青年期には結核を患い長く療養生活をつづけた。享年は73、比較的長生きしたほうだと思うが、生涯弱さを抱えっぱなしだった自らの「からだ」をフィールドにして、メルロー=ポンティの哲学など現代思想の成果なども参照しながら、きわめて独創的な身体論の著作も残した。

 さて、『幕なしの思考』はそんな戸井田さんの「テレビ論」である。能狂言などの伝統的な演劇には必ずはじまりがあり、おわりがある。つまり幕があがり、幕がおりるという「区切り」の構造があり、それが、われわれの歴史や社会についての伝統的な考え方に強く作用しているという問題意識がここにある。ちなみに開会式ではじまり、閉会式でおわる五輪というお祭り騒ぎこそ、典型的な「幕ありの思考」の産物だろう。そいうことを批判的に踏まえた上で、戸井田さんは「幕なし」というメタファーを使って戦後のテレビ文化の新しさを指摘する。

「日曜も祭日もなくのべつ幕なしに働いている。」などと誰もがいう。その幕なしなのである。……テレビは日常の中で日常を流す時代をはじめてひらいた。すべてが途中なのである。この新しい時代に対するとき祭りで訓練された古い思考装置では適合しかねるものがある。もし従来の思考を幕ありとすれば、新らしい思考は幕なしなのではないだろうか

 ここでの戸井田さんの発言は、お茶の間を舞台にして家の中の日常茶飯事を描くテレビの「ホームドラマ」を、視聴者がお茶の間で鑑賞するような状況を前提にしている。演じる側と観る側が、そして公的で社会的な領域と私的で家族的な領域がのべつ幕なしにつながり合う、いまだかつて日本の人びとが経験したことがない事態、とかれはみているのだ。本書にはこんなことも記されている。

私にとっての今日は昨日の延長にすぎない。今夜眠りにつくとき、明朝はまた私としてめざめるであろう。何も歴史として記憶に残るものはない。ひとは、これを日常という。のべつ幕なしなのだ。今夜眠りにつき、明朝めざめなかったら、周囲のひとは私が死んだというだろう。しかし、私にとっての死はない。……私にとって私があるのは、いつも途中だ

 戸井田さんには、自身の「老い」を手掛かりに記憶と忘却のメカニズムを省察した『忘れの構造』(筑摩書房、1984年)という名著があるが、こちらにも考えを深めるためのさらなるヒントがありそうだ。

 ともかく僕は、「とつとつダンス」のワークショップを見学して、砂連尾さんのからだとあのお年寄りのからだが、ビデオ会議(テレビ電話)という映像と音声の遠隔通信技術を媒介にして、「のべつ幕なし」に共振するダンスのあり方に驚嘆したのだ。そして戸井田さんのことばを連想しながら、幕があがりもしなければおりもしない「枠組み」としてのPCやテレビのモニーターの四角い画面の意味について考えた。ふたりのからだのあいだでは、なぜリアルな対面接触では応答関係が生まれず、オンラインの画面越しでは応答関係が生まれるのか。モニーターの四角い画面は、いわば「仮面」のような役割を果たしているのではないだろうか。そこに人間の記憶と忘却の構造はどう関わるのだろう? 「思い出は身に残り、歴史は消えて跡も無し」と世阿弥は言っていたそうだが、さて………。

 「幕なしのダンス」について、怪我ゆえに言うことを聞かないからだでおこなう考察は、とりあえずここまで。

 「血が出た! 痛い! 歩けない!」と、痛みの感覚を共有できない家族を相手に大騒ぎしていた足の小指の痛みも、数日たって自然におさまってきた。近所のコンビニよりもう少し遠く離れた図書館やスーパーまで行っても、不都合は感じない。明日には打ち合わせなどの用事のために、靴を履いて遠出ができてしまうのではないだろうか。そう思うとやや残念な気持ちがこみ上げるが、今日は今日、明日は明日、からだのことを都合よく思い出したり忘れたりする、のべつ幕なしの日常があるだけ。戸井田さんが言うように、そこに歴史として記憶に残るものは何もない。

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