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20220825ワークショップ①砂連尾

開催日時:2022年8月25日 13:30~15:30
場所:グレイスヴィルまいづる-東京(Zoomオンライン)
内容:
4人の参加者とそれぞれ1対1で砂連尾さんとワークショップ。
1.Aさんと1対1で20分程度
2.KTさんと1対1で20分程度
3.Kさんと1対1で20分程度
4.AKさんと1対1で20分程度

***
砂連尾理(ダンサー・振付師)

 ほぼ毎回参加してくださっているキュートで笑顔が素敵なKさんは、この日も私の顔を画面越しに見るなり身を捩りながら、微笑んで私を迎えてくれました。姿勢を正し、お互いの顔を正対させながら画面越しに向き合った時にはKさんの顔はもう既に満面の笑みです。その顔につられて私の顔も自然と綻びます。

 この日は、そこからあまり言葉も交わさずに、いつものミラーリング(お互いの動きを真似し合う)のダンスを、いつもと同じように15分ほど行いました。90歳を超えたKさんが座ったままとはいえ、このダンスを15分も続けられることに毎回驚かされます。果たして私が90歳を超えた時に(超えれるかどうかは別として)同じような動きをKさんのように出来るでしょうか?

 さて、ワーク後、この日のKさんとのダンスでのやり取りを映像で見返してみました。Kさんといえば笑顔という印象ではありましたが、改めてKさんの微笑みの多さに気づかされます。そのパターンは大まかに以下のような流れになっていました。

・動き→微笑み→動き

・(動き+微笑み)→動き→(動き+微笑み)

・(動き+微笑み)→ちょっと大きめな微笑み→動き→(動き+微笑み)
  又は
・(動き+微笑み)→動き→ちょっと大きめな微笑み→(動き+微笑み)

 Kさんの微笑みのパターンはいくつかあって、私の動きが可笑しいから笑ってしまう微笑み、そんな可笑しな動きを行なっている自分に可笑しくなって笑う微笑み、そして何だかよく分からない二人のやり取りを楽しんでいることからくる微笑み。同じ微笑みでも、Kさんの笑顔にはそれぞれ異なる微笑みがその瞬間瞬間にあるのだなと感じました。

 この日のミラーリングのラストはお互い静かに顔を前後に揺らす、「うなづきの交換」のような動きになったのですが、その静けさに耐えかねたKさんの笑いでこの日のやり取りは終わりました。それにしてもこの日のKさんは何度微笑んだことでしょう。その微笑みの中には破顔という言葉がふさわしいほどの綻んだ顔、そしてそのほころびが全身に広がっていくようなそんな微笑みが画面に充満していました。

 この日のKさんの微笑みを見ながら、私は鷲田清一さんがモンテーニュの文章を引用して顔について言及されていた次の一節を思い出しました。

〈わが国の乞食が真冬にシャツ一枚でいるのに、耳まで貂の毛皮にくるまっている人と同じように元気なのを見て、誰か或る人が、乞食の一人に、どうしてそんな我慢ができるのかとたずねたところ、乞食は答えた「旦那さまだって、顔はむきだしだ。私は全身が顔なのだ」。〉(モンテーニュ『エセー』)
 
 もしこういう言い方がなりたつとすれば、だれかの脚が、だれかの背中が、だれかの手の甲が、そしてだれかの身のさばきや佇まいが、その人の〈顔〉であると言えるような局面がありうるということになる。〈顔〉ということでわたしたちが見ているもの、ふれているものとは、よくよく何なのか。

鷲田清一『〈ひと〉の現象学』(筑摩書房、2013年)

 私と踊っている時のKさんは笑顔になっていくことで、顔の境界がどんどんと崩れその佇まいそのものが〈顔〉、又〈笑顔〉になっていく。そして、その全身に広がった微笑みから生まれる波動に私の身も踊らされているのかもしれないと今回のセッションからそんなことを考えました。

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