俳句鑑賞ログ①
Twitter(現X)でツイートしていた鑑賞のログです。10句ずつ、不定期に追加していきます。
鉄格子の門の向こうに無花果がたわわに生っていて、つい手を伸ばす景。あっさりと詠んでいるけれど、白い手首の内側の血管とむちっとした赤黒い無花果の対比に生々しい生を、鉄格子の冷気で手首の内側がひやりとする感覚は微かな死を想起させる。
料理を始めた頃「適宜」や「少々」に「わからん!」と本気で腹を立てていた。いつの間にか適当にできるようになったが、それは料理への苦手意識が消えた時期と同じだったと思う。山笑うの大らかさが好き。たまに少々しょっぱくても良いのだ。
赤くてつやつやとしていて元気いっぱいの苺の柔らかく繊細な部分。傍目から見たら元気いっぱいで輝いて見えるの思春期の子供たちの傷つきやすさを思う。パックにぎゅっと詰まって苺同士で傷つけあっているのもまた切ない。香りだけは甘やかだ。
ぎゅっとなる。もう動かしがたい過去を想って泣くことは、ひりひりを外に出しながら己を癒すための、甘美で優しい営みなのだと思う。だからもうその昔話は甘味を蓄えた冬苺みたいだけど元は「痛い」や「悲しい」や「辛い」があったことも忘れてはいないよ。
飛行機が苦手だ。まず落ちることはないし車の事故より死亡率は低いと頭でわかっていても、毎回大変に手汗をかく。公園で遊ぶ時「飛行機」と子が嬉しそうに空を指差す先の、あの飛行機でもきっと誰かが大量に手汗を掻いているんだろうな。
木と人の命の長さは違い過ぎる。もしかしたら町や国や文明よりも長生きする木もいるかもしれない。ラピュタや進撃の巨人のラストを思い出す。もう誰もその想いを知らなくてもその想いが嘗て存在した事実は消えない。季語がひたむきで愛おしい。
電車から見える釣堀といえば市ヶ谷だろうか。出先からの直帰、まだ明るい時間帯、いつもの帰路とは違う電車に乗っている時のどこか晴れやかで気楽な感じ。とても好き。「かな」とのんびり詠嘆の後に「♪」マークを勝手に見ちゃうくらいルンルンだ。
この沈黙には緊迫感がある。茹でたてのブロッコリーが冷めるまで、つまりそこそこの時間、ずっと張り詰めているのだ。だが深刻なものではなく、ブロッコリーが食卓に上る平和な日常の中のちょっとした緩急の一部なのだろう。そう信じたい。
満員電車に詰め込まれて運ばれて労働してまた詰め込まれて運ばれる。自分で選んだこと。そうするしかないんだよ。みんなそうしてるんだよ。やだやだと言いつつ流れに身を委ねる。そんな日々が永遠に続く気がする。でもそれはきっとポンと現れる。
日頃より浅蜊の調理は最も身近な殺戮だと思っている。冷凍庫から出す時は生きててくれと願い鍋ではさあちゃんと死んでくれと思う身勝手さ。たまに開きが半端なものがいる。こじ開けてしっかり殺す方が誠実なのかもしれないと思う自分が少し怖い。
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