泉御櫛怪奇譚 第十七話
第十七話『ツキ跳ね掴め 桜兎櫛!』
原案:解通易堂
著:紫煙
――貴方が最初に挑戦した思い出はありますか?
私立小学校への受験、習い事の段位試験、高校受験、就職活動……。もしかしたら、プロポーズやカミングアウト等も、貴方にとっては挑戦の一つかも知れませんが、今回は試験の物語。
未だ挑戦したことのない貴方も、もう遥か昔の事になってしまった貴方も、どうか『彼女』の挑戦を応援して差し上げてください――
◆
商店街が未だに正月の名残を感じさせている。全国共通テストが迫る中、明日香は模擬試験の結果を見ながらため息を吐いていた。
「はぁ~…またC判定か…」
華やかな飾りが場違いに見える程どんよりとした表情の明日香に、隣を歩く和彦が顔を覗き込んできた。
「どしたん、宇佐美? また模試の結果悪かったのか?」
「うーん……ギリC判定……」
和彦に結果を見せると、彼は明日香と真逆の反応を見せた。
「うぉ!? 東医C判定って凄くね! この前の模試じゃあF判定くらってたじゃん」
「あ、あの時は緊張し過ぎてお腹壊して……今回も、なんか色々考えすぎちゃって……うぅ」
明日香が更に肩を落とす。落ち込み続ける彼女に対して、和彦は冬の空を見上げて笑った。
「宇佐美は本当に勿体ないよな。学校テストの成績はほぼ満点なのに。東医より上の、東法だって目じゃないのに」
「それ……さっき先生にも言われた」
商店街を横断するより更に前。明日香は高校で、模擬試験の結果を担任の教師から受け取っていた。
『なあ宇佐美……ここまで来て言いたくは無いが、やっぱり大学のランク下げてみないか? 医者になる為の知識や実力があるのは、先生も分かってる……でもな、本番で実力が発揮できないんじゃ……』
教師の言葉を頭の中で反芻して、更に重たい溜息が明日香の口から零れる。
「はぁ~……今回の結果、家族に見せるのヤダなぁ」
「そう落ち込むなよ。周りを見てみなって」
和彦に言われて顔を上げると、明日香の視界にはめでたい正月飾りや干支の兎が映り込む。
「この国には『西暦』と『和暦』と『干支』があるって、うちの一番上の大兄ちゃんが言ってたんだ。中でも、干支は……なんだっけ? とにかく、縁起が良いんだってさ!」
「……そう言えば、兄弟多いんだっけ?」
受験の話題が剃れたことに少し安堵した明日香は、頭の軽い言動ばかりが続く和彦に話を合わせる。
「おう。兄ちゃん二人と姉ちゃん一人。大兄ちゃんとは14も歳が離れてるから、あんま実家に来ないんだけどな……その兄ちゃんが、正月ん時、珍しくオレに言ったんだ『今年は卯年だから、縁起が良い』って。卯ってアレ、ウサギじゃん。歌、あったじゃん?」
「ああ……うーさぎ、うさぎ、何見て跳ねる?」
「そうそう。ウサギってさ、まん丸お月様見て跳ねるんだろ? 『ツキ』を掴みにぴょーんって!」
「縁起、ツキ……大和君、そんな非現実的なこと、信じるの?」
怪訝そうな明日香に、和彦は恥ずかしそうに笑って答えた。
「オレは勉強出来ないからさ、そう言うのに縋るっきゃねえのよ。でも、大兄ちゃんが言ってくれなきゃ、オレも宇佐美みたく下向いてたかも知れねえからさ。お裾分け」
「……うん、ありがとう」
明日香は和彦の眩しい笑顔に、再び足元に視線を移した。彼の言葉が響いた訳でも、納得したわけでもない。
(大和君の言ってることも分かるんだけど……そうじゃないんだよ)
足取りは、和彦と別れてからも徐々に重くなっていく。
(今回の模擬テストだって、試験範囲全部……丸暗記したんだ。ミスした箇所だって、落ち着いて見直したら全然分かる問題だったのに……なんで)
「なんで、何十回やっても出来ないんだろう……」
もう一度模擬テストの結果を眺める。決して安泰とは言えない『C』の文字に、もう何度目か分からない溜息を吐いた。
◆
明日香の家族は四人、単身赴任で不在の父親と、元教師の母親の香、そして、明日香が目指している東医の薬学部に大学院生として所属している姉の遥香だ。
「……ただいまあー」
あからさまに落胆した声で帰宅した明日香に、前のめりで出向かえたのは遥香の方だった。
「明日香! 結果、どうだった?」
「……びみょーだった」
リビングに移った姉妹は、たった一枚の紙きれで意気消沈していた。香は台所でおやつを用意しながら、穏やかな表情で姉妹を見守っている。
「Cかぁ~……あ~あ……今回はA判定まで行けるって思ったんだけどな~……」
「私だって、お姉ちゃんが考えてくれた対策テストで満点取れたから、A取れると思ったよ……」
静かにお通夜が始まるのかと匂わせた瞬間、姉妹はリビングにあったぬいぐるみやソファのクッションを掴んで小動物の様に振り回し始めた。
「もぉー‼ あんなに対策したのにぃー‼ なんで明日香はやれば出来る子なのにそんなにアガリ症なのー!?」
「知らないよぉー‼ お姉ちゃんだって私くらいの頃から心配性だったじゃん‼ 治ってないのはお互い様だよぉー‼」
ぺしょぺしょと綿の塊をぶつけ合いながら口喧嘩をするのは、この家では日常茶飯事だ。
「お姉ちゃんが受験した時だって、ずっと『D-B』判定だったじゃん! だから医学部諦めて薬学部に入ったんじゃん!」
「私は……医学部に入りたいって思った時には手遅れだったんだよ! だから、明日香には春休みから勉強教えてあげたんじゃん」
「勉強しか教えてくれないじゃん‼ どうやっても緊張が解れないの。無理なの‼」
彼女達は無自覚だが、その実、明日香は遥香の受験時期の様子を見てきたからこそ、全国共通試験に対して過度な緊張を抱いてしまうようになったのだ。
「じゃあ諦めるの? 私よりも早く受験勉強始めて、私よりも頭が良いのに、私が入れなかった医学部諦めるの?」
「諦めたくないから進路変えないんじゃん‼ でも……もう、どうすれば良いか分からないの‼ お姉ちゃん受験経験者じゃん、もっと実践的なの教えてよ‼」
相手を直接殴らないだけまだマシだが、言葉の鋭利さは中々直球である。姉妹の喧嘩を止めたのは、お歳暮の残りのリンゴを飾り切りして持って来た香だった。
「まあまあ、二人とも落ち着いて。せっかく明日香ちゃんが模擬試験『C』まで伸ばしたんだもの、先ずはお疲れ様しましょう」
母親の説得に、姉妹は一時休戦してぬいぐるみとクッションを置いた。ウサギ型に切られたリンゴを眺めながら、遥香は明日香よりも重い溜息を吐いた。
「っはぁ~……私だって、明日香を応援したいよ……でも、私は結局……勉強しかしなかったから」
「……お姉ちゃんは、なんとなくでも勉強出来ちゃうんだもん。試験だって、気付いたら終わってたって……天才肌過ぎ」
明日香がリンゴに容赦なく齧りつく。旬を過ぎた果物は少し皮に渋みがあったが、リンゴ本来の甘酸っぱい味が口いっぱいに広がって、不思議と心が落ち着いて行く。
「違うよ明日香。私は、なんとなくしか勉強してなかったから、医学部に入るの諦めたんだ。明日香には、私の二の舞になって欲しくない。だから、精いっぱいフォローしてるつもりだよ」
「……」
黙って咀嚼を続ける明日香に倣って、遥香もリンゴを食べながら本音を呟く。遥香の想いが強く言葉になればなる程、明日香にかかるプレッシャーが重くのしかかる事を、この姉はまだ分からないでいる。
「本番の大学共通テストまでもう二週間ちょっとしかない……もう一回赤本の問題解く? でも、持ってる問題集は全部暗記しちゃったし……」
姉妹がブツブツと考え事をしていると、香が何かを閃いた様に両手を合わせた。
「そうだわ。本番直前に緊張してたんじゃ、当日疲れちゃうのよ。今週末は息抜きしましょ」
「……へ?」
呆けた顔でリンゴを落とした明日香と「またか~」と言った顔でリンゴを頬張った遥香に向かって、香は変わらない笑顔でもう一度提案する。
「お出かけ、ショッピングしましょ!」
◆
次の週末、休日開放している高校へ自首勉強をしに行こうとしていた明日香は、家族の中で一番頑なな性格の香に腕を引かれ、遥香と共に駅の近くに聳え立つショッピングセンターに来ていた。
制服姿のまま引っ張り出された明日香は溜息が多いが、私服で駆り出された遥香も同時に浮かない顔をしている。
「お母さん、私も論文があるから大学行くって言った筈だけど……」
「遥香ちゃんのセンター試験前だって、お父さんにお願いして遊園地に行ったじゃない。こう言う時こそ、息抜きしてリラックスしなきゃ」
「お母さん……たまに私やお姉ちゃんより陽キャ学生みたくなるよね……」
明日香の呟きは、はしゃぐ母親には届かない。
「明日香ちゃんは、いっそお化粧デビューしちゃう? 遥香ちゃんはそろそろ新しいアイシャドウ買わない? あ、ほらあそこ! 限定チークお試しできるって」
「ちょ、お母さ……!?」
まだ動揺している遥香の手を取って、香は化粧品コーナーへ行ってしまった。鮮やかでキラキラした店内の雰囲気は、年始のキャンペーンもあってか、人も集まり賑わいを見せている。
「遥香ちゃん、このファンデとかどう?」
「うーん……お母さんならこっちの色の方が合うと思うけど……私はこのグロスとか好きかな? パッケージが可愛い」
「確かに! デザインがウサギ柄で可愛いわ。宇佐美の姓になってから、ウサギ柄が良く目に留まるのよね~」
店内の雰囲気と香のノリに当てられ、遥香も徐々にこの空間を楽しみ始めている。
(お姉ちゃんもお母さんも、こういう場所で楽しめたりとか、ストレスで爆買いする癖とか似てるから、なんやかんや楽しんじゃうよね。でも、私は……)
楽しそうな親子を遠くで俯瞰して見ながら、明日香だけは店内に取り残されていた。ふらりと歩けば、これ幸いと店員が福袋の売れ残りやセール品を紹介して来る。
「いらっしゃいませ! 只今値引きセール中ですよ!」
「冬服タイムセール中です。如何ですかー?」
「あ、えっと……大丈夫です。はは……」
絶え間なく降りかかる声に、明日香は愛想笑いで返して、足早に出口へ向かった。
(ダメだ。このままじゃ、私だけ空気重くて、折角気遣ってくれたお母さんや付き合ってくれたお姉ちゃんに申し訳ない!)
しかし、外へ出ても人混みが減る訳でもなく、移動している人の波にのまれそうになった明日香は、かろうじてビルの壁に背中を押し付ける様にしてスマホを取り出した。
(お姉ちゃんたちには、メッセで一人で楽しんでるよって送って……適当に喫茶店に入って落ち着こう。ああ……なんで受験勉強用のアイパッド持ってこなかったんだろう……)
小さい後悔を胸に、スマホをポケットに仕舞って顔を上げると、改めて人の多さに目が追い付けなくなる。
「うわ……こんな状態じゃ、多分喫茶店も人が多そうだな……いっそ帰っちゃおうか……」
帰り道の方向へ目を向けた瞬間、明日香の視界に広がる人の動きがゆっくりと感じた。
「な……んで!?」
映画やドラマで良くある現象だ。人混みの中で一際目立つ存在を見付けると、他の人の動きが気にならなくなっていく。明日香は、初めて見る『彼』に釘付けになっていた。
『彼』と感じたのは直感的で、服装は異国情緒溢れた民族衣装。髪は腰まで伸ばしてあり、肩くらいの位置で緩くまとめてある。広がる布の柄は成人式に女性が羽織るものに似ていて、晴天を現す様な青と白のグラデーションに縁起物の鶴と亀、そして、干支の兎がこちらを振り返っている様にあしらわれている。
ちらりと見えた横顔は中性的で、レトロな丸眼鏡をかけていた。
(着物……じゃ、ない? けど、柄は和柄だ。なんであんなに目立つ格好しているのに、誰もあの人を見ようとしないの? お正月の中継みたく、みんな隠し撮りしてSNSに取り上げるレベルでしょ……いや、ダメだけどさ、そんなことしちゃ)
明日香は生唾を飲み込んで『彼』の背を追う。吸い込まれるように人の波に消えていきそうになって、遂に明日香の足が動いた。
「あっ……」
(居なくなっちゃう……なんでこんなに気になるんだろう? そうだ……私、分からない事は納得するまで知りたい性格だった……‼)
反射的に動いた足に力を込めて、人の波に入り込んでゆく。追いかけてみて尚分かる、『彼』の背の高さと華やかな洋装に、知識欲が揺さぶられて鳥肌が立つ。
(どんな人なんだろう? なんでこんなに目立つ人、みんなスルーしているの? だめだ、気になる……なんで誰もあの人を見ないの? 気にならないの?)
明日香の歩く足が軽やかに跳ねていく。不思議と胸が高鳴っていくのを自覚していた頃には、彼女は夢中で『彼』を追いかけていた。
◆
明日香が息を切らしながら辿り着いた先は、駅から離れた路地裏の、人気のない一軒の店だった。
「……なに?」
『解通易堂』と書かれた看板を睨みつけて、明日香の眉間に皺が寄る。無理もない。受験勉強真っ只中の彼女にとって、読めない漢字の存在がどうにも気になる様子だった。
(解く……通る……易い……何? なんて読むの? 体がウズウズする……知りたい。あの人も、この看板がなんて読むのかも全部、知りたい!)
覚悟を決めて暖簾をくぐると、直ぐに木製の香りが鼻を刺激して来る。知らない刺激臭に表情が歪んだが、直ぐにシトラスミントの香りが明日香を包み込んだ。
(ここは……櫛の店? なんで、専門店っぽいけど……じゃあなんであんな名前の看板掲げているの?)
混乱する明日香は、恐る恐る店内を巡りながら、陳列された櫛に目を通していく。
「これは、花柄……椿、牡丹、紫陽花……あ、これは和柄だ。七宝、麻の葉、青海波に千鳥……」
(この櫛は……『解』って焼き印がある。これは焼き印じゃなくて達磨が彫られた櫛だし、これは猫と……なに、河童に一つ目……妖怪柄? なんか不思議なお店だ)
見た事のない生き物の柄を眺めていると、不意に目が合った気がして慌てて視線を逸らす。
「わっ‼ と……じゃなくて、あの人を探さないと……」
明日香が気になっていた『彼』の姿はどこにも無い。そう彼女が認識した刹那、真後ろから柔らかな低音の声が聞こえた。
「いらっしゃいませ、ようこそ……解通易堂へ」
「うわぁ!?」
脊髄反射で飛び上がった明日香の後ろに居たのは、間違いなく『彼』だった。羽織は防寒用だったのか、今はシルエットの目立たない緩い衣装を着ている。眼鏡越しの笑顔はとても穏やかで、正面から見るといよいよ性別が分からなくなる。
(女? でも、声は男の人だから、男の人で当たってるよね? 良かった……)
「あ、あの『ととやすどう』って、看板の名前ですか?」
「ええ、解通易堂は……この、櫛の店の……名前です。私は、店長の……泉、と……申します」
「あ、えと……どうも、宇佐美です。宇佐美……明日香……」
(あれ、なんか上手く喋れない。泉さんの喋り方がゆっくりで、なんかペースに飲まれてる気がする)
自覚した途端に、明日香の身体が徐々に強張っていく。鼓動が早くなり、息が上手く出来ない。
「あっ……かっ、かえりっ……」
(ダメだ……緊張して、顔が熱くなって……)
吃音気味に言葉を絞り出しながらぎこちなくなっていく体を無理矢理動かそうとして、バネの様に跳ね上がった手が棚の端にあった櫛を弾き飛ばしてしまった。
「あっ! すみませ……商品が……‼」
床に落ちる前に慌てて掬い取れたそれは、明日香の掌程のサイズで、シンプルなウサギと桜が焼き付けられていた。
「あ、ウサギ……」
「はい……当店の、解通易櫛……名を『桜兎』と、申します……」
泉の紹介にハッと目を見開いた明日香は、この店に入った最大の謎を思い出した。
「そうだ、名前……あの、名前!」
「はい、私は泉ですが……」
「じゃなくて、あの、なんで『ととやすどう』は、この『ととやすくし』は……なんで、あの漢字を使っているんですか?」
(専門店にしては変な名前…漢字検定一級にだって、こんな漢字の読み方は出てこない…分からないことは知りたくなっちゃうけど……本当に聞いて良いのかな?)
勢いよく、だが徐々に声が小さくなりながら問いかけてきた明日香に、泉は「ほう……」と顎に指を当てると、彼女の手から自然な所作で櫛を受け取った。
「漢字……ですか。ふふ……面白い、質問ですね……」
「あ、いや……えっと、すみません。あの……最初見た時、全然櫛屋さんって分からなくて、その……専門店なら尚更、櫛の店って分かる様な名前にするんじゃないかなって、思ったんです」
素直に思ったことを伝えた明日香は、ようやく体の力が抜けたのか、どっと噴き出た冷や汗を拭った。
(分からない事を質問するのは慣れてる……良かった。ちょっとだけ、アガリ症止まった……あれ? 持ってた櫛、どうしたっけ?)
ようやく空いた手に気付くが、その手を泉に握られて再び心拍数が上がった。
「ひょえっ!?」
「立ち話をするには、少し長く……なりますので、どうぞ……こちらへ」
泉に誘われ、帳場の奥に足を踏み入れた明日香は、アジアン風のテーブルクロスが敷かれた机の前に座って固まっていた。
(な、なんだろう……面接みたいで、緊張する……)
硬直する彼女の視界に置かれたのは、先程拾い上げた『桜兎』と、名前は分からないが花のような香りがするお茶。
(テーブルクロスに湯飲みに、ジャスミンティ? と、統一性が無くてモヤモヤする)
居心地が悪そうな明日香の向かいに座った泉は、どこか懐かしそうな、それでいて昨日の夕飯でも思い出すような笑顔を宿しながら、彼女と櫛を交互に見つめた。
「お客様の、お問い合わせには……真摯に対応させて、いただくのが……私の務め、です。どうぞ、楽な姿勢で……お聞き、ください……」
◆
――いつの時代も、この国では年明けになると何かしらの祈願守りや、縁起物を求める若者が増えます。当店の近くには無人神社がある為、社務所と間違えて訪れるお客様が少なからずおりました。
そんなお客様の為に、当店ではキーホルダーサイズの『守り櫛』をご紹介しておりました。櫛その物に力は有りませんが、せめて『髪を梳かすことで、問題が解きやすくなりますように』と言う韻を踏ませて。
その日は、珍しく吹雪が街を覆っておりました。雪を凌ぐ為に駆け込んできた一人の少女は、今の明日香様の様に制服を着て、如何にもお参りを済ませた後だと言う様に、お守りの入った紙袋を握りしめておりました。
「ごめんなさい。折りたたみ傘が壊れちゃって……少しの間だけ、お店に居ても良いですか?」
少女は出入口の近くで丁寧に雪を落として、店内で暖を取りながら櫛を眺め、巡り始めました。櫛の店に初めて来店したと言う彼女は、私に櫛の使い方や、柄の由来等を聞きながら店内を楽しんでおられました。
「こちらの櫛は、梨の木から……作られております……『苦と死を無しに』と言う思いを込めて、御婚礼の贈り物としてご購入される方が多いですね」
「なんかそれ……オヤジギャグっぽい売り文句ですね! ウケる! 他にもそう言うのあるんですか?」
彼女はあけすけのない物言いをする方でしたが、その表情は好奇心に満ち溢れており、悪意が無い事は明らかでした。
「それでは、こちらの『守り櫛』は……如何でしょうか? 髪を梳かすことで『問題が解きやすくなる』と言う思いを込めて、合格祈願用に……ご用意いたしました」
「わあ! ちっちゃい。筆箱に付けても違和感ない! でも、なんでこのサイズしか無いんですか?」
「……と、言いますと?」
私は彼女の問い合わせの意図が分からず、無礼を承知で重ねて問いかけました。すると、彼女は黒目がちの大きな瞳で真っ直ぐに私を見つめて、当たり前の様にこう答えました。
「だって、髪が梳きやすいってことは、問題が解きやすいだけじゃなくて『試験に通りやすい』って事でもあるじゃないですか? だったら私、こっちの小さいのじゃなくて、フツーの大きさの櫛を買って、フツーに試験直前まで使ってみたいなって!」
「……ほう」
私は初めて、商い側の意図とお客様側の想いの大きさの違いに気付かされました。文字通り、目から鱗が零れる様な体験をさせていただいたのです。
「お客様のご希望に、全身全霊でお応えするのが……私の役目です。差し支えなければ、今……この場で、貴方のご要望に……沿った櫛を、見繕っても……よろしいでしょうか?」
「え、マジですか⁉ ヤッター‼」
少女は店内にも関わらず、私の目線の高さまで飛び上がって喜んでおりました。まるで、満月に向かって跳ねる兎の様に、それはそれは高く見えたのです。
そこから天来の妙想を得た私は、満月の中に兎と、未来で咲き誇る桜をあしらい、彼女のお言葉をいただいて『問いが解きやすく、試験に通りやすい櫛』と言う思いを込めて『解通易堂櫛・桜兎』を完成するに至りました――
◆
「……以上が、私が『解通易櫛』を……商品化するにあたった、経緯です。現在は『桜兎』以外の柄も……ご用意しております。ですが……こちらの柄は、今年も人気商品の一つ……で、ございます」
一通り話し終えた泉は、当時の少女を思い出したのか、ふっと笑みを残しながらお茶を口に含んだ。
「そうか……安いだと、お店の方の縁起が悪いから……『容易』の方の易いを使って『解通易櫛』になったんですね」
(それにしても『インスピレーション』を『天来の妙想』って言う人、初めて見た……勉強してなかったら、意味分かんなくてまた質問する所だった……)
櫛を見つめながら、ようやく謎が解けたと納得した明日香は、無意識に櫛の縁を手でなぞっていた。和柄にしか見えなかった兎と桜も、今では泉を初めて見た時の豪華な羽織の様に、特別な模様の様に感じる。
「この店が『解通易堂』なのも、その時が切掛けなんですか?」
「はい……ですが、明日香様のおっしゃった通り……未だに、誰一人……この店の看板を、正確に読む事ができた……お客様は、おりません」
「で、ですよね……あ! もしかしたら、その時櫛を買ってくれた人だったら、またこの店に来た時に喜んでくれるかも知れないですね」
明日香がフォローしたつもりで発した言葉に、泉は何故か、初めて悲し気に瞳を伏せた。
「……本当に、そんな未来が訪れたら……改めて、感謝の意を……贈りたいものです」
「……?」
(あれ? 私、なんか変な事言ったかな……? うう、気になるけど……流石に突っ込んだ質問は出来ないな)
首を傾げる明日香だったが、直ぐに穏やかな微笑みに戻った泉にそれ以上言及することなく、冷めたお茶を飲んで誤魔化した。
「如何でしょう? ご納得、いただけましたでしょうか?」
「あ、はい! 大丈夫です。詳しく教えてくださって、ありがとうございました!」
改めて感謝した明日香が深々と頭を下げると、机に置かれた櫛の兎と目が合った。
(そう言えば……年が明けてから兎と縁があるな。お母さんも『宇佐美とウサギは似てる』って言ってるし……私にもなんかご利益あるかも?)
「あの……この櫛、買って行っても良いですか? えっと、実は私も受験生で……さっきの話聞いたら、なんか、私もこの櫛に応援されているんじゃないかって、思えてきて……」
そう言って、明日香がおずおずと顔を上げると、彼女の視線の先には、なんとも嬉しそうな泉の優しい笑顔があった。
「……っ!」
(わあ、この人、喜怒哀楽を全部笑顔で表現出来る人なんだ……! 思わずドキッとしちゃった。ほんっとにこのアガリ症どうにかなんないかな、もう……)
火照った顔を擦りながら反応に困っていると、泉はゆっくりと席を離れ、帳場の方からちりめん柄の櫛入れを用意して戻ってきた。
「お買い上げ、誠にありがとう……ございます。こちらの入れ物は、付属品でございます……」
「あ、はい……あ‼ 待ってください、二つ……違う、三枚ください」
(お姉ちゃんと、お母さんの分……お買い物すっぽかしちゃったから、二人の分も買ってあげよう)
「はい、只今……ご用意させて、いただきます……」
泉から櫛を受け取った明日香は、何度も頭を下げて解通易堂を後にした。ショッピングセンターに向かって駆け出した足が、ふっと一歩立ち止まる。
(そうだ、最後にもう一回、あの漢字の並びを覚えて……)
「あれ……?」
振り返った明日香の表情が固まる。まだ曲がり角すら移動していない道の先に『解通易堂』の店は何処にも無かった。
◆
休日が過ぎ、いよいよ全国共通テストが間近に迫ってきた。模擬試験の直前ですら緊張が爆発して挙動不審になっていた明日香は、今までより明らかに落ち着いている自分に驚いていた。
「明日香、大丈夫? お腹壊したりしてない?」
「大丈夫だよお姉ちゃん。なんか、模試の時よりも全然平気」
家では遥香に心配されっぱなしだが、寝る前と起きた後に解通易櫛で髪を梳かすと、不思議と肩の荷が下りる様な解放感を抱けるようになったのだ。
(そう言えば、去年の冬から髪を伸ばし続けているのも、お姉ちゃんが言っていた『験担ぎ』だったな……勉強一本で現実主義なお姉ちゃんも、不確定な迷信に縋る事が有るんだって気付いたら、なんか、なんだろう……なんとなく、ホッとする)
初めて木製の櫛を使った影響か、櫛から微かに香る、あの店内に広がっていたシトラスミントがリラックス効果を生んでいるのか。理屈は定かでは無いが、明日香には願ってもない現象だった。
「うん……この調子なら、テスト本番も上手くいきそう……!」
自信を取り戻しつつある明日香を見て、遥香はまだ何か言いたそうな表情をしていたが、夕飯を作りながら我が子の様子を見ていた香は変わらない笑顔で明日香の後押しをした。
「元々、明日香ちゃんはやれば出来る子なんだから、大丈夫よ。試験が終わる頃にはパパも一旦帰ってくるみたいだから、家族皆でお疲れ様会しましょ!」
「お母さんは気が早すぎ!」
「お母さん、気が早いよ!」
絶妙に合わない台詞を同時に吐いた姉妹に、香は面白そうに笑うだけだった。
明日香の雰囲気の変わり様は家族以外にも伝わっていく。翌日、学校の最終面談で明日香を見た顧問が、珍しく落ち着いて受け答えしている彼女を見て首を傾げる。
「宇佐美……先生は今日、お前に今からでも受験先を増やしてみないか聞こうとしていたんだが……」
「いえ、大丈夫です! 根拠は無いんですけど……この調子なら、受かりそうな気がするんです」
「お、おう……宇佐美がこんなにハッキリ言い切るなんて、初めてじゃないか?」
「そうですかね……でも、最近本当に頭が軽いと言うか、なんかスッキリしてるんです。だから、大丈夫です」
進路指導室を出て教室に戻ると、隣の席に座っている和彦が明日香に声をかけてきた。
「なあ宇佐美、最近なんか変わったよな? もしかして、模試より緊張しすぎてバーストした?」
「なんでそうなるの?」
「だって、模試の前なんかこの世の終わりみたいな顔で、ひたすら独り言ブツブツ言ってたじゃん。今はなんか……吹っ切れて明るくなったみてえ」
和彦の言葉に、明日香はちらりと櫛が仕舞ってある鞄を見てから、少し得意げに笑って見せた。
「そうかな……大和君がそう見えるんなら、そうなのかも」
「えー‼ 宇佐美がテンパってるから、オレみたいな勉強出来ない組がちょっと安心してたのに。お前が自信満々だと、逆に緊張するわ」
「あっはは! なにそれ、ウケる」
試験本番前にも関わらず、明日香は声を出して笑う。学校のカリキュラムはとっくに試験対策用の自習が主体になっている為、始業のチャイムが鳴れば受験生のスイッチが瞬時に切り替わる。
(うん。ちゃんと勉強にも集中出来てるから、気が緩んでる訳じゃない……もしかしたら、毎日櫛で髪を梳かしている時間が、私にとってのリフレッシュになってるのかも……?)
根拠は無い。信憑性も無い。しかし、明日香にとって解通易櫛はお守りの様な存在になっていた。
(今日も一日、リラックスして過ごせた……明日も落ち着いて試験勉強が出来ますように。泉さんが言っていた女の子も、こんな気持ちで櫛を使っていたのかな?)
願いながら髪に櫛を通す。不安になりそうな時、緊張しそうな時、明日香は鏡の前の自分と向き合って髪が解きほぐされていく様子を見ては、解通易堂で聞いた物語を反芻するのだった。
(試験が終わったら、またあの店に行こう。髪を解き通り易くする櫛の店……『解通易堂』に!)
果たして、明日香の願いはどこまで叶うのだろうか。桜が咲く頃まで、未来は誰にも分からない。
◆
正月の雰囲気が消え去り、商店街や大型ビルのモニター、SNS等が全国共通テストの話題で持ちきりになる。電車の中で、見知らぬ先人からのアドバイスを必死に読む男子学生もいれば、ギリギリまで単語帳を確かめる女子学生もいる。当日の試験会場前ともなれば、例年通り若人とマスコミでごった返しになる事だろう。
ヤマネコ運輸の制服を着た和寿は、出勤前に突然振動してきたスマホをタップして耳に当てた。
『大兄ちゃん、オレの受験料出してくれたってホント!? ちぃ兄ちゃんから聞いてビックリしたんだけど!』
「……おう、うん……俺ぁ受験してねえから、これぐらいしか手伝えねぇが……頑張れ、和彦」
『へへ、ありがとう大兄ちゃん。オレ、絶対に大学受かって、大兄ちゃんにも恩返しするからね!』
「要らん。そう言うのは親父とお袋に言ってやれ。切るぞ」
短い電話を終えた和寿は、今朝も荷物をトラックへ積み、配達先の解通易堂へ向かう。到着すると、変わらず何処から仕入れたのか分からない民族衣装を身に着けた泉が店を開ける。
「おはようございます。和寿、荷物は……いつもの、場所に……」
「わぁってらあ! 二階だろ‼」
「それと、本日は二件……ご依頼が、ございまして」
「あぁ? 今日は直配しねえぞ!?」
あれよあれよと用事を押し付けてくる泉と和寿のやりとりは、顧客と配達人のそれではなく、旧友の様にも、相棒の様なやり取りにも見える。
世間の事など気にならないとでも言わんばかりに、解通易堂は変わらず櫛を並べ、暖簾を掲げて通常通りの営業を始める。
そうすると、ほら。今日も暖簾をくぐって訪れたお客様がまた一人。
「あの……ここって、櫛の店ですか?」
帳場からふわりと現れた泉は、お客様に向かって眼鏡越しに笑顔を向ける。
「いらっしゃいませ。ようこそ、解通易堂へ……当店では髪を解し、通り易い櫛を……数多く、取り寄せております。どうぞ、ゆっくりと……ご覧くださいませ」
【完】